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寝殿造りと呼ばれている建物は廊下をはさんで部屋にすだれ(みす?)や屏風が
あるくらいで、特に戸になる物は無い様に思うのですが、
冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?
やはり着物を重ねる事でしのいだのでしょうか。

仮に火鉢などを部屋に置いてもかなりの寒さだったと思います。
さらに雨風が廊下から吹き付けば、濡れてしまったり....。

平安時代に限らず、現代から見ると昔の家は不思議ですね。

無知ゆえわかにくい質問ですが当時の暮らしぶりがとても気になります。
なにかお知りの事があったら教えてください。
宜しくお願い致します。

「平安時代の寝殿造り.....冬はどうやっ」の質問画像

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A 回答 (5件)

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。

冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」これは鎌倉時代の終わり1330年ごろに兼好法師が「徒然草」に書いた、日本の気候風土と住まいについて書いた有名な一説です。

寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の毛皮などもありました。

几帳、屏風、衝立、襖は寝殿造りの内部の調度品のなかにあって日本独自のものとして生まれ、これが工夫されて、間仕切りの少ない寝殿造りの防寒、機密性を保つ為に作られたものと考えられているそうです。

部屋は帳(とばり)を引きつめて、炭櫃(すびつ)や火桶(ひおけ)を部屋に集めてがんがん焚けば、それなりにしのげたようです。

火桶(ひおけ)・火櫃(ひびつ)・炭櫃(すびつ)
木をくり抜いて金属製のおとしを入れ、その中に灰を入れ、炭火を焚いて暖を取る暖房機具。主に桐の木で作られる。炭への灰のかけ具合で暖かさを調整する。本来は円筒形のものを火桶、方形のものを火櫃と呼んでいたが早くから混同していたらしい。炭櫃は方形で脚のあるもの。または、据え付けの大きな角火鉢のこと。

建物の風雨を防ぐ物としては、格子(こうし)、蔀(しとみ)妻戸(つまど)等がありました。

   http://www.iz2.or.jp/kizoku/chodo.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ご丁寧にお答え頂き感謝します。

>寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。
そうなんですね。私は冬の方が辛いと思うのですが....。
十二単もそうですが重ね着したら血行悪くなって運動不足に
なりそうですね。^^;

風雨を防ぐ物は防寒に使わなかったのですかね?
とてもおもしろいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/18 22:00

先ほどの回答への補足。



現代の「雨戸」に匹敵するものは
平安時代にもあったのです。雨風・雪のひどいとき
夜 などはそれをおろしていました。

枕草子にも
清少納言が簾をかかげる有名なエピソード
の際、まず下級女官達に「雨戸」にあたる(「格子」等)を
あげさせたりしている記述が出てきます。

あと長い「御簾」にも一定の風雨除けの効果は
あったようです。今でも京都の伝統的な町屋
(祇園のお茶屋さんとか・・)では、年中簾が
下がってます。夏の日除け効果の他、風雨(雪)除け、
プライバシー保護 などの効果もあるみたいですよ。
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この回答へのお礼

この雨戸も朝になればあげてしまうので
冬でも室内は外みたいなものだったんですよね、きっと...。
御簾ではないですが我が家も「すだれ」が活躍しています。
夏は気休めですがなんとなく涼しい気がします。

当時はこの御簾によって神秘性もあったんでしょうね、
女性の顔も簡単には見れないし....。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/25 15:43

冬はかなり寒かったみたいです・・



暖房は火桶(中に炭をいれて暖めた)くらいしかないのです。
しかも今の日本家屋のような天上が寝殿造にはないので、暖かい
空気は簡単に上に上がっていってしまっていたようですよ。

着物にはわた(木綿のわたがないので、おそらく繭(絹糸の原料・・かいこの繭)を綿状にした「真綿」でしょう)を端から端まで入れて
たくさん重ね着したと思うので、冬の貴族はきっと着ぶくれして
いたのではないでしょうか・・(特に女性)

当時も壁のある部屋はありました。
「塗込(ぬりごめ・・漢字が違うかもしれませんが)」と
いって、物置にしたり、稀に人の部屋としても使われていた
ようです。あと、現代でいう「ふすま」もちゃんと
存在していましたよ。ただ、「障子」はなかったので
明かり取りの効果もふくめて、空間の多い作りになったとも
考えられます。

間仕切だけの、プライバシーも保温効果も
ないだだっ広い空間に女官達は詰められていたようです。
このイメージが寝殿造りは強いですよねぇ。
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。
丁寧なご回答ありがとうございます。

最近寒くなってきましたが気密性の高い現代の家でも
寒いのに、この時代にタイムスリップしたら私到底
住めないと思います.....。
着物を厚くする前に家を変えようとしなかったのは
なぜでしょうね....。

お礼日時:2009/10/25 15:36

綿花の栽培が日本で本格的に始まったのが室町時代後期。

正倉院御物には綿がありますが、衣類としての需要に耐えられるほどの供給が為されるのはもっと後のこと。
上流貴族は「きぬた」といって「絹」を「たたい」て、毛羽立たせ、重ね着をしました。なお、「十二単」ということばは明治になってからです。主な繊維が麻と絹でしたから、綿入れの中身は麻の繊維をたたいて綿状にしたものや、「蒲(ガマ)」の穂(湿地に生えるフランクフルトみたいなイネ科の植物。ソーセージ部分が、ぎっしり詰まった綿毛)を綿にしていました。「蒲生(がもう)」とか「蒲郡(がまごおり)」という地名が全国各地にあるのはその名残です。

日本人の7割以上の農民は麻や稲ワラや麦わらなどをたたいて綿状にしており、農民以外のの庶民、たとえば漁民という一大勢力(半農半漁が多かったが)は、物々交換などで仕入れていました。農民の、冬の家内制手工業の主要産業です。

東北地方では、岩手県などの一部で、モンゴル方式の「馬糞を床下の地面に敷く」もありました。「ウンコ」と思うから汚いと思うので、「胆汁が混じった害虫よけ効果のある、ふわふわの草の繊維」と思ってください。テレビで朝赤龍が「モンゴルでは肉は塩茹でにする」と言いましたが、乾いた馬糞(草)を燃やす火力では、焼肉は出来ません。

 夏向きに作れ、を体感したければ、一度、夏に庭で野宿してみてください。庭がなければ公園で。夜は蚊に悩まされ、朝起きたとき顔中にナメクジがくっついています(あったかいから)。蚊のせいで日本脳炎になり、脳に障害ができます。平安時代は暖地性のマラリアもありました。いま、ロンドン空港付近で問題になっています。清盛もこれで死にました。戦後の沖縄や奄美でアメリカ軍が真っ先にやったことはDDTによるマラリアを媒介する蚊の駆除でした。足をねずみにかじられ、腕をイタチにかじられます。

 真冬、国家公務員であるところの貴族は午前4時過ぎに出勤し、日の出とともに天子の南面に向かって拝謁し、オフィスワークをして、正午くらいに勤務を終え、帰宅して、寝ます。夜、起きて「物語す」などと「枕草子」などにあるのは、寒いから夜起きて昼寝ているのです。また、大きな家では、外壁から遠いので、部屋や廊下が断熱材の役目をしており、一番奥の部屋などは、まだましです。清涼殿の構造を見ると、天皇の部屋が一番奥にあります(防犯の意味もあるが)。

 一般庶民や僧の冬の早起きは、寒さをしのぐためでもあります。一番寒いのは夜明け前だし。この間火事になった、座敷わらしで有名な、岩手県二戸郡金田一村の「緑風荘」などの、うまやと母屋をL字型につなぐ「南部曲り屋」も、防寒対策をかねています(私は2泊した事がある)。

 庶民の家は、天井が高く、屋根は吹き抜けに近い、換気性能を持ったええかげんな構造(だから雨漏りした)だったので、火種を保ったまま一晩寝ても、一酸化炭素中毒にはなりにくかったのです。第一、隙間風バリバリだし。
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この回答へのお礼

大変詳しいご回答ありがとうございます。
夏の野宿の例、鳥肌が立ちました^^;マラリアがいたのですか!
蚊帳はこの時代あったのでしょうか。現代の網戸は便利ですね。
たしかにこれらを思えば夏向けに作ったのは納得です。
当時の夏はどのくらい暑かったのかな、想像するのも楽しいです。

早起きは寒さ対策なのですね....。
確かにあの外にいるも同じ様な屋敷ではさも寒かっただろうな、と想像します.....。

話はそれますが緑風荘に泊まったのですか!
羨ましいです。けれどちょっと勇気がないですが....。
焼失してしまい残念です...。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/19 18:27

天井方向に跳ね上げて固定する、蔀戸(しとみど)があるのでは。



http://www.icoffice.co.jp/zukan/h_japan2.htm
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
日本人でありながら初めて蔀戸(しとみど)と言う
言葉自体を知りました。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/18 21:47

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Q昔の人は冬の寒さをどうやってしのいだのですか。

灯油ストーブが各部屋に普及するのはいつ頃なんでしょう

上流階級から庶民まで各時代の日本人はどのように寒さをしのいでいたのでしょうか。
素足で粗食、隙間風。
あるじ以下全員集合で囲炉裏ばた?
殿様もヌクヌクとはいかなかったのですかね。
日本人らしいですよね。何でですかね。日本人はケチ文化なんですかね。
私は暖房入れていないのですがこれでは冬に寿命が縮みます。昔をしのばれる状況です。
昔の人はどのくらい寒い思いをしていたのですか。平成の現代人には耐えられませんよね。


ご教授のほど宜しくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんわ。
bungetsuです。

お読みいただきありがとうございます。


>>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。

江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。

従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。

さて、話を戻しましょう。

以外と思われるかも知れませんが、江戸の周辺には「炭焼き」が非常に多かったのです。

武蔵(八王子、川越、秩父など)・・・・東京都および埼玉県
伊豆、駿河、遠江(とおとうみ)・・・静岡県
相模・・・・・・・・・・・・神奈川県
甲斐・・・・・・・・・・・・山梨県
常陸・・・・・・・・・・・・茨城県
上野(こうずけ)・・・・群馬県
下野(しもつけ)・・・・栃木県
上総(かずさ)、安房(あわ)・・・千葉県
下総(しもふさ)・・・・千葉県の一部と茨城県の一部

「享保通鑑」という史料によると、享保11年(1726)に船などを使って江戸へ運び込まれた炭は89万9710俵、薪は1829万9687束とありますが、薪は当然のことながら、主に煮炊き専用でした。

前回も述べた通り、江戸では囲炉裏などで大々的に火を焚くことは禁じられていましたので、必然的に暖をとるためには炭に頼らざるを得ませんでした。となると、値がどんどんと吊り上ってしまいます。

そこで、幕府もたびたび炭の値段については「御触れ」を出し、庶民でも気軽に購入できるよう「価格統一」などを行いました。

しかし、薪に関しては、なぜかこの「価格統一」がされませんでしたので、大量に出回るにもかかわらず、結構な価格となってしまいました。

従って、炭は割合安く購入できたようです。ただし、備長炭のように長持ちはしなかったようですね。

まあ、長屋暮らしなどでは家計費を圧迫はしたとは思いますが、寒さにかえられなかったのではないでしょうか。

ご存じ、赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介が隠れていたのが「炭小屋」でしたね。
武家は炭は安かったので、結構溜め込んでいたようです。



>>明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。


明治に入ってからは、近代化が進み、西欧諸国から工業技術を積極的に取り入れたため石炭の採掘に力を入れ始め、年間200万トン余りも生産されていた炭も火力が弱いために、10年も経たないうちに約6万トンの生産量・・・と言うよりも使用量に減ったと言われています。

そして、現在のように一般家庭で電気、ガス、石油が使われ始めたのは、何と、第二次世界大戦の後の1950年後半で、それまでの木炭(炭)、薪、石炭から電気、ガス、石油への転換が急速に進みました。
これを「燃料革命」と呼ぶ学者もいます。

こんばんわ。
bungetsuです。

お読みいただきありがとうございます。


>>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。

江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。

従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。

さて、話を戻しましょう。

以外と思われるかも知れませんが、江戸の周...続きを読む

Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む

Q平安時代の一般人について

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったの...続きを読む

Aベストアンサー

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・部落クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは...続きを読む

Q平安時代の貞操観念について・・・

源氏物語のあらすじを読んでみて、平安時代の「女性の貞操観念」にふと疑問を抱きました。(ちなみに、結構ネットで調べてみましたが、明瞭な答えを得れませんでした・・。)

例えば、源氏は父の女御である藤壺と契ったり、頭の中将の元愛人の夕顔のもとに通ったり、終盤の薫と匂宮と浮舟の関係などなどに関して、なんだか凄く性に関してフリーな感覚を抱きました。
当時の貴族の女性は滅多に人前に出ないし、親は今より娘を大事にする時代のはず。いったい、当時の貞操観念はどのようになっていたのでしょうか。下記三項目が現在の疑問点です。

(イ)そもそも貞操観念はだいたいいつ頃定着し始めたのか。(貞操観念というよりは処女性や穢れという考えでしょうか。)
(ロ)(当時の人々に「穢れ」という考えがあったのならば)男性は女性の貞操を気にしてなかったのか。
(ハ)もしも浮気関係が露呈してしまった場合、どうなるのか。

もしまた違う疑問点が出ましたら、補足質問するかもしれません。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

平安時代は「通い婚」ですから、男性が女性の家に通ってきてる間は結婚している事になるでしょうが、明日からはもう、通ってこなくなるかも知れないわけで、保証がないのなら、それに縛られる事もなかったんじゃないでしょうか?
男のほうも、毎日通っていても、毎日、家にあげてもらえる保証はないわけで、ある日突然「今日はダメ」となって、そのまま通っても通っても会ってもらえないという事も多々ありましたから、これまた何の保証もありませんから・・・

(イ)戦国時代に日本にやってきたルイス・フロイスが、その著書の中で「日本女性は処女の純潔を重んじない。それを欠いても名誉も失わないし、結婚も普通にできる」と書いていますし、大名のお姫様も、政略結婚などで、次から次へと、別の男性に嫁ぐという事もありましたから、少なくとも戦国時代までは、「一生ひとりの男性に・・・」という考えはなかったと思います。
江戸時代になって儒教の教えが浸透して、徐々に貞操観念なるものが生まれ始めた頃に、杉田玄白らが「ターヘルアナトミア」を翻訳した「解体新書」を発表して、その中に女性にのみ存在する「処女膜」なる物の存在が書かれていた事から、一気に純潔が重んじられるようになったようです。
もちろん処女膜という言葉も玄白が作った物です。
(ロ)上記のように、江戸中期頃までは、貞操を気にしないのが常識ですから、女性も男性も気にしてないと思います。
(ハ)源氏物語をご存知なら、宇治の浮舟の家の前で薫と匂宮がバッタリというのもご承知だと思いますが、あんな感じじゃないですか?
浮気した事を責めるのではなく、当人たちが、この先どうしたいか?という事だと思います。
「他の男が通って来てるなら、もういいや」とそのまま、どっちか(あるいは両方とも)が身をひくのか?
「いや、それでもモノにしたい」
と思ったて、何とか彼女の気をひこうとするか?

平安時代は「通い婚」ですから、男性が女性の家に通ってきてる間は結婚している事になるでしょうが、明日からはもう、通ってこなくなるかも知れないわけで、保証がないのなら、それに縛られる事もなかったんじゃないでしょうか?
男のほうも、毎日通っていても、毎日、家にあげてもらえる保証はないわけで、ある日突然「今日はダメ」となって、そのまま通っても通っても会ってもらえないという事も多々ありましたから、これまた何の保証もありませんから・・・

(イ)戦国時代に日本にやってきたルイス・フロ...続きを読む

Q昔の寝具についてー薄すぎませんかー

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられません。
そういうところに、タオルケットのような物一枚を敷いて、上にも、薄絹のようなものを掛けただけで休んだのでしょうか。
(もう少し時代が下がって、平安時代くらいの映像で、そのような寝具が良くでてきますので)
今より、ずっと冬は寒かっただろうと思うのですが。
夏以外は、とてもそういう状態では眠られないだろうと、他人事ながら気になっています。
高貴な人は畳一枚をベッドのように敷いて、その上に布を引いていたりしますが、それでも寒いと思いますし、寝苦しいと思います。
それとも、そういう形は時代劇の「お約束」のようなものでしょうか。
些事で、つまらない質問かもしれませんが、ご存知の方教えてください。

テレビなどで見る限りにおいてですが、かなり高貴な人の場合でも、寝具は季節に関りなくとても薄くて、特に敷布団が全く厚みのないものの上に寝ています。
あれでは暖房もない時代、絶対風邪を引いてしまうと思うのですが、実際のところ、どうなのでしょうか。
庶民の方が「わら布団」という言葉もあるくらいで、ずっと温かく眠れた様に思います。
となりの市に、律令時代の「県庁」に当る建物が復元されているのですが、それをみても、よくもこんな風通しの良すぎる建物に滞在できたものだなと、信じられませ...続きを読む

Aベストアンサー

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    そこで莚をたたんで重ねた畳が作られました。    いぐさ莚を表に萱を芯にした上等なものも作られました。      畳の上の褥(しとね)という敷物の上で寝ました。    始めは草を編んだものが、芯に真綿を入れた高級品も使われました。
平安時代から衾(ふすま)と呼ばれる掛け具が使われ始めました。  伏す裳(も)寝る時に着る意味です。     衣服と異なり長方形の布で中に真綿を入れるようになりました。
布団と夜着の寝具になるのは、木綿の生産が進んだ、室町以降と言われています。     もっとも戦国の武将たちは板敷きの床の上にそのまま寝ていたようです。     戦場では土の上のごろ寝ですから。
一方庶民の方は菰、莚、茣蓙の時代が永く続いたと云われています。    昔の人は貴賤とも寒さには鍛えられ、強かった事は確かです。    幼児の方は耐えられず、夭折が多かったのは止むを得ません。  

竪穴式住居では土の上に藁などを編んだ菰(こも)や莚(むしろ)を敷きその上で、着のみ着のままで寝ていました。     冬は焚き火を絶やさず、結構暖かったでしょう。
板張りの床の家ができると、その上に莚や茣蓙(ござ)など敷いて、昼間の着物を掛けて寝ました。     二人並んで寝るときは、お互いの着物の袖が重なるようにしたそうですが、寝相が悪いとどうなるか。   庶民は囲炉裏や温石などあり、そんなに寒くはなかったでしょう。
高位の人の方が家が広く寒さはこたえたでしょう。    ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q平安時代の庶民、貴族の暮らしなど

平安時代を舞台にした物語を書く上で、少なくとも最低限の歴史考証が必要かと思い、書籍を探してみたのですが、なかなかこの時代の生活が解るような書籍を見つけるのが意外と難しい。時代の流れや具体的な出来事などを題材としたのは多いようなのですが…。
平安時代の人々の生活や暮らし振り全般を網羅したような書物を御存知でしたら御紹介いただければと思います。
出来るだけ高価でない物だと嬉しいです。
本のジャンルは特に問いません(新書、小説等何でも)
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

新書でこんなのはいかがでしょうか。
昔から物見高い野次馬だった日本庶民の生活が垣間見えます(笑)

貴族と庶民の生活は離れていたわけでなくて、屋敷で何かイベント(?)があるときには庶民が見物に行ったりしていたらしい。

「絵巻物に見る日本庶民生活誌」中公新書
http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E5%B7%BB%E7%89%A9%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%B6%E6%B0%91%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%AA%8C-%E5%AE%AE%E6%9C%AC-%E5%B8%B8%E4%B8%80/dp/4121006054

Q平安時代の貴人(女性)は、どのように寝ていたのですか?

平安時代の貴人(女性)は、どのように寝ていたのですか?
源氏物語などを読むと、女性貴人は御帳台で寝ていますが、そのとき、布団のようなものはかけていたのでしょうか?
寝るときの服装も、昼間とは別にあったと思いますが、どうなのでしょうか?
れきはくに行って御帳台は見ましたが、具体的にどのように寝ていたのか分からなかったので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

この当時、布団はまだなかったはず。
「ふすま(衾)」とよばれる長方形の布が「かけぶとん」の
先祖のように存在してはいますが、今のかけぶとんのように
羽や綿がふんだんに入っていたわけでもありませんし、一般的でも
なかったよう(新婚初夜には使用したようですが・・・)。

ふだんは自分の着ていた 衣をそのままかぶって寝ていました。
眠る時の服装も・・・女性の場合は 白小袖(着ていた時代であれば)に長袴、
で、ようするに十二単の一番下に着ていたものを寝間着としていたようです。

そして長い髪はじゃまにならないよう、「髪はこ」という漆塗りの平たい箱を
頭元において、そのなかにとぐろをまいて入れて、寝ていたようです。

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む


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