お世話になります。
哲学のニッチでお騒がせしまして申し訳ありません。
また変な事が気になり、質問させていただきます。

今回は、文字のことです。

ご承知のように、文字には、表意文字と表音文字の二種類があるらしいです、
日本語は、表意文字と表音文字の両方を使用している事になります。

ところで、
        「犬」
と言う漢字を見て、直接、「犬」の概念に繋がりますか?
それとも
        「犬」
の漢字を見て、脳の中で「イヌ」と発話してから、理解するのでしょうか?

後者の場合、表意文字は存在しない事になりませんか?

宜しくお願いいたします。

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A 回答 (15件中11~15件)

「犬」という文字から「イヌそのものの姿」を想像できないので、「犬」≠「イヌ」ではないかという疑問だと思います。



幼児が『言葉』を獲得する過程を考察すると、物体の知覚から始まり、その現物を音声と結びつけることにより、そのものの「音:おん」をおぼえます。
しかし最初は、物体を識別・認識し、「言葉」を発する訳ではなく、条件反射的に、あるいは、親の発する言葉を反復、模倣する形で「音」を発するのです。
ですから、「猫」を見て、「INU」と言うこともあります。(犬と猫を識別できていない)
☆形状と音の結びつけから始まるのです。

その後、学校において、『文字』を獲得し、音と文字との結びつけが行なわれます。

ここまでは、発達心理学の分野で理解できると思います。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/le/psycho/member …

次に、「文字の変遷」というテーマになると思います。

『犬』という文字は、象形文字の「イヌ」を表す形とは異なることは分かるかと思いますが、これは、『記号化』といって、徐々に記(しるし)やすく形を変えてゆきます。略字を想像されると分かりやすいかと思います。

ですから、元の形とは全くかけ離れた形が、その”いみ”として結び付けられるのです。

イヌの形状から「犬」という漢字に至る過程のように、発展想像させるのではなく、「犬」というインクのしみ(形)に「INU」という音を結びつけ、その音と『イヌ』を結びつけるという作業が必要になるのです。
http://www.cosmo.bz/back/machi_16.html

「文字の変遷」と「文字の獲得」は、真逆の過程だといえると思います。

参考URL:http://www.psy.senshu-u.ac.jp/undergrad/syllabus …
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この回答へのお礼

我儘な質問にお付き合いいただき、有難うございます。
「魁」と言う意味では、同時に二つのご回答が戴けたようです。

>「犬」という文字から「イヌそのものの姿」を想像できないので、「犬」≠「イ ヌ」ではないかという疑問だと思います。
これは、微妙に違うのですが、視覚と聴覚を対比した場合、こういう視点も考えられますね。「犬のちんちん」ほのぼのしたページ面白かったです。
枝葉の些細な事ですが、万葉・古今の文字の草創期に、犬はまだ家禽ではなく、野生の犬だったらしいです「犬のちんちん」とは、別の見かたが有るかも。

発達心理学のページ見てまいりました。
生得説と学習説の双方が重要とのことですが、この辺りが不満ですね。
どこまでが「生得」でどこからが「学習」か判らない、
と表現した方が問題がハッキリしそうです。

最後の参考URLにある「脳のメカニズムと言語」この辺りに関心があります。

>ですから、元の形とは全くかけ離れた形が、その”いみ”として結び付けられるのです。
問題は、この意味の結びつきですね「内言語」と「メタ言語」の違いがもうひとつ判りませんが、文字が直接意味に結びつく可能性をどこまで排除できるのか。
#1・#7様のご指摘をどう理解するのか。

とにかく、
「文字」・「言語(音)」・「内言語、メタ言語、意識、意味」・「脳の中の信号」
この辺りを、混同しないよう、区別する必要がありますね。

参考にしてよく考えてみます、有難うございました。

お礼日時:2005/10/10 05:22

fishbowl66さんの疑問に答えられるかどうかわかりませんが、


まず、人類の初期には、お互いに意思を交換するために音も文字も無い状態があったのでは無いかと思われるのですね。人間にはテレパシー(振動に近いもの)のような能力がありそれで意思の交換には十分であった。その後、人間も増え、そのような能力を持たない者も出てきたので、音(耳)で意思を伝えるようになった。日本語本来の言葉は、殆ど音だけですね。人間社会が大きくなると、遠くの第三者に意思を伝える方法が必要になり、文字が作られたと考えられるのですね。そういう風に考えると全てが表音文字であり、それをどう表現するかだけの問題のように思います。音を分割して文字をつくりそれを並べるか、音そのものを表現する絵文字を使うかということですね。個人的な心の思考過程には文字ではなく音が支配してるはずですね。エジプトの絵文字なんかも絵文字を表すものの母音の羅列で言葉にしてますね。かえるやとんぼなどの音言葉はどう書き表そうとも音が優先しますね。長くなってしまいましたが、表意文字と表音文字というのは、単なる表現上の分類でしかないと思いますね。表意文字と表音文字で表現があるのではなく本来は音が意思交換の全てであったということですね。でも最近は、形態電話やPCなどシンボルがが新たな意味を作ってきているのも事実ですから、なんともいえないところもありますね。
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この回答へのお礼

kobarero 様の補足欄をお借りして、我儘ほうだい、
「質問」の為の「質問」という前代未聞(自画自賛or自己嫌悪)の計画に
魁を記していただき、感謝いたします。
正直、ひやひやと、最初にどなたが反応されるか、興味深く待っていました。
mmky様でしたか、やっぱり。

テレパシーと言うと、とんでもないように聞こえますが、結局「何かを得れば何かを失う」とすれば、言葉という道具のおかげで、それまで持っていた能力を無くすことも有り得ますね。霊長類を見てみると、臭覚に近いテレパシーかも。

言葉と文字の必要性も興味深いものです、ただ、表音文字を強調しても「同音異義語」の問題をコミュニケーションの範囲でどう解釈するか。
新しい「ことわざ」
ちょっと待て、お礼の前に、右左。
あれこれ考えていたら、#7様で指摘されてしまいました。
いつの間にやら「リュビダンのロバ」になってしまったようです(笑。

有難うございました。

お礼日時:2005/10/10 04:19

質問の意味があまりよくわからないかも知れませんので、間違っていたら済みません。



(^^; <----これは、発話しなくても意味がわかるけど、
「犬」<----これは、発話しないと意味がわからないとおっしゃっていますか?

そうだとすると、「犬」は実物の犬に似ていないということを言いたいのではないですか?

そうだとすると、表音文字と表意文字の話とは関係ないと思います。

表音文字は、一個一個の文字に意味がない。
表意文字は、一個一個の文字に意味がある。

というだけのことです。すなわち、「犬」という一文字は、(発話しようがしまいが)意味を持っていますが。英語の"d"には意味がありません。英語の場合、意味のない3文字"d","o","g"が集まり"dog"になって初めて意味を持ちます。

この回答への補足

高邁にして、きわめて尊敬すべく、並ぶものなき回答者の皆様へ

脳の中の言葉(信号)という、正直、私には手におえない、質問の為、
皆様のご回答に頼りながら、問題点を整理する、大変わがままな質問者ですが、
寛大なお志で、お許し戴きたいと、お願いいたします。

すでに、戴いた回答のおかげで、少しは、問題点を整理できましたが、
私が思うに、この質問の解決は無いのでは、
従いまして、この質問は、どこまでが判っていて、どこからが判らないのか、
つまり、「質問」を作る「質問」とご理解ください。

大変勝手なお願いですが、皆様、宜しくお願いいたします。

補足日時:2005/10/09 06:29
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

鋭いご指摘ですね、仰る通りでしょう。
>(^^; <----これは、発話しなくても意味がわかるけど、
と申しますか、発話のしようが有りませんね、ピクトと同じですね。
大変参考になります。

ただ、問題は、意味がどうして伝わるのか?
「犬」と言う文字、あるいは犬を表す絵文字等は
光を媒介して眼から網膜を通じて視覚神経へ伝わります。
「イヌ」と言う発話は、
空気の振動を媒介して耳から鼓膜の振動を通じて、聴覚神経へ伝わります。

この二つはおそらく違う物質あるいはエネルギーです。
これらが意味をもてるのはなぜだろうか?
この二つが同じ意味を持つと、理解されるのはなぜだろう?

これで、少しは哲学的になるでしょうか。
続きが有るように、補足欄をお借りしてお願いと、お詫びを致します。
有難うございました。

お礼日時:2005/10/09 06:28

表意文字とは、ある一文字を見るなり読むなりして意味が汲み取れる文字のグループだと思います。


直感的に意味を汲み取る場合も脳の中で発音して意味を汲み取る場合もあります。
ピクトログラムは直感的に意味を汲み取るという意味では、質問者の方の言う表意文字に近い文字だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

今回の質問は、最初から、質問の意図をご理解いただけるようにするためには、
相当の長文になりそうで、お礼をしながら、質問の焦点を、私自身も考えながら絞っていきたいと、計画しています。
要するに、私自身も問題が有りそうだが、どこに問題が有るのか良くわからない、
そこで、皆様の協力を仰ぎながら、哲学的な問題にできないかと考えています。

ピクトログラムの意味を脳の中でどのように理解するかは、参考になりました。
この質問は、まだこれからですので、続きをお楽しみください。

お礼日時:2005/10/09 06:01

漢字を習いたての子供を別にすれば、人は「犬」と言う表意文字を見て直接に「犬」の概念を思い浮かべます。

ですから、適当な割合で漢字が混じった文章は読みやすくて速読も容易です。仮名だけで書かれた文章は読みにくくて、とても速読はできません。
 表音文字を使っている外国人も、ひとつの単語をひとつの表意記号として読んでいる傾向があるようです。知り合いの留学生によれば、単語(とくに文字が五つ以上の長い単語)をみるとき、単語を構成する文字をすべて見ているのではなく、全体を一体として認識している、とのことでした。たとえば、単語は背の低い文字(a, e, n など)、背の高い文字(f, h, l, など)、中くらいの文字(i, t, y など)があるので、その配置具合は単語を瞬時に区別認識する助けになっているそうです。大文字だけで書かれた文章は文字の高さがすべて同じなので読みにくい、と言っていました。おそらく表意記号的な読み方ができないからでしょう。
 
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

>人は「犬」と言う表意文字を見て直接に「犬」の概念を思い浮かべます。
あれ~私は人でなくなってしまったのか・・・
先ほどから、「お礼1/2」のページのご回答の「犬」を眺めていますが、
漢字を見るたびに「頭の中でイヌ・イヌ・イヌ」ってやってます。
仮名だけの文章が読みにくいのは確かですね。

表音文字も表意的なところがあるのですか、興味深い事ですね。

あら、一転、表音文字など存在しない?奥が深いですね。

お礼日時:2005/10/08 14:02

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☆☆ (回答№1) (い) 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

 ★(№1お礼欄) (い)の“表現は自由”と言うのは、その人の思いのまま、好き勝手に表現できる、という意味の事だと受け止めていいですか。
 ☆ ええ。そうです。ひとつ注意すべきこととしては そのとき《好き勝手》が のっぺらぼうではないということです。

 好き勝手に自由に表現してもよいとき そこには 《心に合った内容 と 心にさからう内容》とがある。つまり《ホントウ と ウソ》とがあることです。ウソが好きな人もいますし ウソを嫌う人もいます。ここには おのづからチガイがあります。のっぺらぼうではありません。善は悪 悪は善 あるいは 善も悪 悪も悪というわけではありません。




 ☆☆ (回答№1) (え) こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。

 ★ (№1お礼欄) (え)のところでも自由と言う言葉を使ってますが、同じですか。“自由意志を擁護する”とはどう言う事なのでしょうか。
 ☆ 《自由》について (い)の場合と同じです。言いかえると ふつう一般におのづから心に逆らわない気持ちとしての自由と そして心に逆らって・早い話がウソをついたりイツハリをおこなったりする自由と 二種類があることになります。ウソをつく場合の自由には 一般にヤマシサ反応がついて来ますから 分かります。

 ★ “自由意志を擁護する”とは
 ☆ いま見て来たように 言ってみれば人間の自由意志は――つまりその自由度は―― ウソまみれの自由です。それぢゃ 自由と言っても 欲しいまま(恣)で我がままでしかないではないか? と言われたとき どうなるか? そのときにも それでもウソをウソとしっかりと見つめ見とめる心の真実は消えてはいないと考える人間がいます。その場合の心(思考ないし判断)のことを言います。

 その真実――むろん主観としての真実でしかありませんが――を証しするのは 《答責性を持つ》ということにあります。説明責任を負い ウソから出たマチガイについては そのチガイが起きていないもともとの状態(原状)にすべてを復帰させる責めをも負うところにあります。ツグナヒをおこないます。

 もっとも たとえば妹が買って来たショートケーキを兄がこっそり食べてしまったというとき ウソをついてそれを否定していたことがバレタ場合 むろん原状復帰と言っても もうそのケーキは無くなっていますから 現物で弁償することは出来ません。出来ないのですが 基本としては元の状態に責任をもって戻すということ。これが 答責性です。

 このようにして 自由意志を擁護する見解が 一般に見とめられ採用されています。
 ですから・つまり この意志の自由なる選択が認められていないとすれば 人びとは 飲めや歌えやの日々の生活を送るだけになります。
 なぜなら いくらウソをつこうが他人様のものをどれだけ盗もうが それは 《われ》の意志ではないと抗弁すれば それで済んで行くことになるからです。手が勝手に動いたのだとか あるいは 悪魔がわたしをそそのかしてその人殺しをさせたのだとかと弁解すれば それがとおることになってしまいます。意志の自由がないとすればです。《好き勝手の自由》が のっぺらぼうの欲しいままのことだとすればです。

 哲学は こういった問題が起きたらただちに駆けつけて交通整理をする役目をになっています。
 その実践には 大岡裁判やソロモンの裁判のような《知恵》があると なおよいことです。

☆☆ (回答№1) (い) 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

 ★(№1お礼欄) (い)の“表現は自由”と言うのは、その人の思いのまま、好き勝手に表現できる、という意味の事だと受け止めていいですか。
 ☆ ええ。そうです。ひとつ注意すべきこととしては そのとき《好...続きを読む

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結果、他所の子に暴力を振るい責任を問われるか、
心が病んで不登校や引きこもりで親子共倒れし易くなる。

親が躾けに成功したと思って満足しても、本当はただの虐待。
「理解させ納得させる事」ができない自堕落な愚か者の結論。

とりわけ無知で自堕落な者は
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http://ja.wikipedia.org/wiki/ペアノの公理

Aベストアンサー

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基本概念と派生概念の違いですね。
この公理論では「suc(n)」は基本概念(つまり定義なしに使われる言葉)ですけれども、加算は基本概念によって定義される派生概念です。基本概念は、集合に関するものと、論理的なもの、つまり「すべての」とか、「で」、「ではない」といったもの、また、個体変項、を除けば、「自然数である」「零」「次の数である」の三つだけです。ちなみに「1」や「2」もこの公理論では派生概念です。

Qお手本の意味を自分で調べる方法について

書道好きな30代の主婦です。
転勤族の夫に伴ってあちこち引っ越すので一つの教室にじっくり通う事にならず、
地元の先生にお願いして楷書と行書の通信教育してもらっています。
今は月2、3枚のお手本をもらって練習し、よく書けたものを
送って添削していただくというスタイルで、
お手本はずっと四文字熟語だったのですが、
ここ数ヶ月の間に段々難しくなってきて、意味を調べるのに
四苦八苦しています。
これまで折に触れてお手本の意味や調べ方を先生に訊いてみましたが
文章(手紙)でやり取りしている為、もどかしく、
意味がわからないままに時間だけが経ってしまいました。
ちなみに今まで調べられなかったのは「化民成俗」「欣然驚異」
「良辰美景」「釣石吟窓」などです。
意味をインターネットで調べてみたんですがわかるものが
見つけられませんでした。

漢詩の一部かな?と思うんですが、どうやって調べたらいいんでしょうか。
何か良い本やサイトがありましたら、すみませんが教えてください。

Aベストアンサー

↓のWEB漢文大系というものがあります
化民成俗については 書いてありますが

参考URL:http://kanbun.info/index.html

Q「聞く」「考える」「カンガエル」「考える」「発話」

言葉を通して考える事について。

「聞く」
誰かの発話を空気の振動を経由し聴覚神経を経て
(あるいは何かの本を読んで)
「考える」
発話された意味を言葉に翻訳して理解する、
「カンガエル」
発話による刺激と、脳の中の記憶により、信号に変換
01.01.01.・・・又は、同じ、違う、同じ、違う・・・
この繰り返しの結果
「考える」
脳の中の信号の結果を、言葉に再度翻訳して、
「発話」
『言語のない世界に生きた男』の話は本当ですか?

大変大雑把な図式ですが、
質問は、「カンガエル」と言う部分が、
カントの言葉を借りれば「物自体」にあたり、
感性的な理解は不可能であり、結果として、
思考に言語が必要かどうかを問う事は、断念せざるを得ない。

皆さん、どう思われますか。

Aベストアンサー

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所でカンッという、皿のふれあう音がすれば「条件反射」で駆け寄って
餌を催促するように吠え続けます。

この条件反射なるものが、実は「カンガエル」の原型であるかのように
思うのです。
記号論的に言えば、意味作用とでもいうのでしょうか、
事象やモノに意味を付与する(意味を選択する)行為が、
「思考」の実体であると思えます。

次に記憶ということがあげられます。
学習といいかえてもいいです。
条件反射は記憶による学習ですが、そこに言語は介在しません。
嗅覚と音などがおりなす気配が、次のおこりうる事象を予感させる
から、犬は吠えたり、そわそわしたりします。

ただ、そこに、いわゆる人間の言語は介在しないのは間違いない
けど、犬は犬なりに一連の気配を、グーとがガルルとか◎$)(’&%$
とか名前はないにしろ感性的に識別してる可能性はあるかもしれない

しかし、一方でそういう行動を観察する人間が「ゴン太。ごはんよ」
とか「ポチ。散歩だよ」と「発話」することで、音を聞き取って、この
僥倖は「ごはん」という発話でもって確定するという学習をしている
という可能性があります。
おそらく、感性的な思考はあると思います。
記憶と密接にむすびついていて瞬間的に一定の結論を導きだします。
それが未来の記憶(デジャヴュや潜在意識)であったりするから
不思議で楽しいのでしょうね。

なんか的外れで恥ずかしいなぁ(^^;

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
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