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私の母は親鸞会に30年以上入信しています。先日、私は、東本願寺でおかみそりを受けたいと母に話しました。ところが、「母は本願寺は死んだら助けるけれど親鸞会は、生きている間に幸せになれるので、(信心決定、絶対の幸福というそうですが)本願寺なんかでおかみそりを受けるな。」といいます。「親鸞会の考え方こそ親鸞聖人の教えを正確に教えている」といいます。さらに古くからの母の友達という親鸞会の先生は、「本願寺はおかみそりという形だけの儀式によって仏門に入ったように見せかける。」などといっているそうです。私としては生きている間におかみそりを東本願寺で受けて法名を手に入れ、大谷派の門徒として教えを聞いていきたいと思っています。どのようにすれば、母に理解してもらえるのでしょうか。
 また、母曰くおかみそりを受けた人は100万円単位の出資を本願寺にしなければいけないとか、お寺の行事に全部出なくてはいけないとか言っています。また、初詣も行ってはだめだと言っています。実際におかみそりを受けたことのある方や大谷派の僧侶の方のご意見を伺いたいです。
 同じ浄土真宗なのにこんなに考え方が違うなんて不思議でなりません。どちらが正しいのか私にはわかりません。教えてください
 

A 回答 (6件)

 再び失礼します


>>善因善果、悪因悪果、自因自果
>>前世、現世、来世の三世にまたがるものらしいのですが
>>大谷派の教えでもこのようなことが説かれているのでしょうか。
 これは仏教の基本的な理論ですからね。親鸞会さんでなくとも仏教であれば、因果応報、自業自得、自因自果という考えは存在しているはずです。

>>なんだかこれでは、自分のしたことは仏教的に良いことなのか悪いことなのかということで心配になってしまい気分が沈みがちになってしまいます。
 親鸞聖人は『歎異抄』のなかで「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに云々」と説いておられます。仏教的に善い行いを完全に出来るようなれるくらいなら、阿弥陀仏など必要ありません。自分で自力の修行をすればよいではないですか??阿弥陀仏はどうにか仏教的な善い事をしようとしてもなかなか出来ない悪凡夫だからこそ、救いたいとおっしゃってくださっています。
 しかし、それは「悪をじゃんじゃん犯しなさい」という意味ではありません。法然上人は『念仏往生義』に

たとえば母の愛というものは、よい子でも悪い子でも分け隔てなく愛し育てます。けれども、子供たちがよいことをすれば嬉しく思い、悪いことをすれば悲しむでしょう。阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます。けれども、善人を見れば喜び、悪人を見れば悲しむことでしょう

と、お説きになられます。私はこの言葉を聴いたとき、阿弥陀仏の私のような愚か者でも救おうという思いを知ったからには、愚かであることには変わりはないし、煩悩が無くなって仏教的な善を完全に行えるわけではないけれども、阿弥陀様が悲しむようなことはできるだけしないようになりたいと思いました。私のような愚かな人間は仏教的な完成者にはなれるはずもなく、仏教的な悪を造り続けています。けれども、そんな私を阿弥陀様はお念仏によって極楽へ往生させ仏に仕立ててくださるとお誓いくださった。その本願信じていれば、常に「仏教的な悪を犯すのではないか」とびくびくしながら生きる必要はなくなります。けれども、悪を犯せば阿弥陀仏が悲しまれるのならば、出来るだけ悪を犯さないようにしようと思える。それが、浄土教的な「因果応報、自業自得、自因自果」の理解のしかたではないでしょうか。

>>また、一向専念無量寿仏ということで親鸞会(高森氏)のみを信じよ。とおっしゃっています。(ほかの真宗の考え方は排除せよということです。)
 私は教団を信じているわけではありません。阿弥陀様を信じているのです。そして、浄土宗であろうと親鸞会であろうと大谷派であろうと、わけ隔てなく阿弥陀仏の大悲の心は包んでくださると考えています。愚かな私が阿弥陀様のお心を拝察するのはおこがましいことでありますが、「誰かが往生できて、誰かが往生できない」というのが阿弥陀様の御本意であるとは私は思えません。

>>親鸞会で不思議なのは先祖の墓参りも手を合わせてはいけない(南無阿弥陀仏と書いてあればいいらしいです)初詣なんかもってのほかという考え方のようです。
 原理主義的なことを言えばそういう解釈も出来るでしょうね。
 けれども、私はお墓参りのときは手を合わせますよ。その理由の一つは、墓石に南無阿弥陀仏と刻まれているのですから、そこに御名号があるということは阿弥陀様がいらっしゃるわけです。また私の亡くなったご先祖様は極楽浄土で仏様となって、愚かな私をどうにか仏に仕立ててやろうと阿弥陀様のお手伝いをしてくださっているはずです。そういったご苦労を思うと、思わず手を合わせお念仏してしまいます。しかもそれは、私が普段の忙しさにかませてお念仏を忘れているからと、阿弥陀様がお墓の前まで連れ出すことでお念仏の貴さを思い出させて下さったのだと思うのです。
 また、初詣に関しましても、神社に行こうが浄土真宗以外の仏閣に行こうが、親鸞聖人の御和讃の中に「天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」と説いておられます。また、「五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたえてぞ 恒沙の諸仏すすめたる」と説いておられます。初詣に行ったって、全ての神々、全ての仏は、私たちに念仏させようとしてくださっているのですから、そういった方を敬いお念仏しに行って何が悪いんでしょうかね??ただ、私はどこへ行ってもお念仏を称えますけどね(笑)
>>こういうことになると親鸞会は、厳しすぎて現実離れし、理解できないのですが、
正しいか間違っているかはさておき、こんな風にも考えられるわけです。どうですか??こんな考え方も面白いでしょ。私の理解が浅い正かもしれませんが、親鸞聖人や法然上人の言葉を読むと「愚かな凡夫は阿弥陀仏を信じてお念仏しなさい」としかおっしゃっておられないように思います。「あれが駄目これが駄目と」あまり難しいことを言われても疲れちゃいますよねぇ。

>>大谷派でも真宗のみを信じよ。初詣や墓参りなんかしてはだめだといっているのでしょうか。たぶんそんなことを大谷派で説くことはないと思いますが。教えてください。
 大谷派さんでもといていないと思いますよ。私は今の大谷派には詳しくないので直接聞くといいのではないでしょうか。

また長々お邪魔しましたが、まとまりきらず申し訳ないです。参考にしていただければ幸いです。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

大変参考になるご意見ありがとうございます。
>そんな私を阿弥陀様はお念仏によって極楽へ往生させ仏に仕立ててくださるとお誓いくださった。その本願信じていれば、常に「仏教的な悪を犯すのではないか」とびくびくしながら生きる必要はなくなります。けれども、悪を犯せば阿弥陀仏が悲しまれるのならば、出来るだけ悪を犯さないようにしようと思える。それが、浄土教的な「因果応報、自業自得、自因自果」の理解のしかたではないでしょうか。
 そういうことだったんですね。親鸞会の教えにはこういった阿弥陀仏が悲しむということは、説いていなかったのでわかりにくかったです。毎日お念仏を称えて阿弥陀仏を信じて、阿弥陀仏が悲しまれるということを念頭においていれば、そんなに、日々恐れながら暮らすこともないんですね。先祖のお墓や神社や真宗以外の仏閣にいくのもお念仏を称えさせていただくためと思えば行くのに躊躇することもないなあと思いました。
本当に親鸞会の教えばかり信じてしまうとなんだか本当に疲れてしまいそうですね。それに比べて、baka-hageさんの教えてくださった親鸞聖人や法然上人の教えは、おおらかでわかりやすいなあと思いました。本当にありがとうございます。

お礼日時:2007/10/07 18:01

そもそも何故あなたは、出家したいと考えるのですか?


出家とは家族の縁や諸々の欲を断ち切って、
仏道に精進することにあります。
何故、出家するのに母と同じ宗派に属すことを考えるのか理解に苦しみます。

私も一時、本気で出家を考えたことがある以上、
本当にすべてを仏様に託そうという気持ちに欠けておられるかと思います。

私はお寺の為に全てを投げ打つ覚悟ができて、
はじめて出家しようと時期を見送りました。
それだけ重い覚悟や使命を持って挑まれる方も多い中、
私はあなたの幸せがそこにないと今は思います。

阿弥陀様はどんな生き方をしていてもその方を見守って下さります。
「十方無量光寿仏」様ですから。
後は、あなたが甘えや私欲を捨て、
何かに向けて前向きに努力する姿勢だと思います。

以上、失礼を承知で回答させて頂きました。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。自分は少しすべてを仏様にささげるという気持ちに欠けているのかなあと思います。ganesha_meさんのご意見を聞いて、もう少ししっかり考えてからでも遅くはないかなあと考えるようになりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/10/08 16:07

 たびたびすいません。

少し補足をしますと、
>>親鸞会の教えにはこういった阿弥陀仏が悲しむということは、説いていなかったのでわかりにくかったです
これは浄土真宗系全体に言えることですが、「私たちを救ってくださるはたらきを阿弥陀仏と呼ぶ」というニュアンスが強いようです。
 その理由としては、善導法然の流れにおいては、法蔵菩薩が四十八願を立てて修行し阿弥陀仏となったわけですが、親鸞聖人はそこに曇鸞大師の『往生論註』を基に阿弥陀仏の姿を「法性法身」と「方便法身」とにわけて考えます。真理そのものを「法性法身」と名づけ、法蔵菩薩が四十八願を成就し成仏した阿弥陀仏を「方便法身」と名づけて、「法性法身」から「方便法身」が現れたと考えます。つまり真理そのものから阿弥陀仏は現れたとするため、人格を持った「方便法身」よりも、人格を持たない真理の法そのものである「方便法身」を重視する傾向が強いことからだと思います。
 ですから、真理そのものは法則なわけですから「悲しむ」とか「喜ぶ」という感情は持ち合わせていません。ですから、浄土真宗の中では阿弥陀仏を人格のある仏様としてよりも、「私たちを救ってくださるはたらきを阿弥陀仏と呼ぶ」という傾向にあるようです。

 私は浄土真宗を信仰していますが、この説はあまり好きではありません。私は「法蔵菩薩が末法の凡夫を哀れみ、四十八願を成就して阿弥陀仏となり、末法の凡夫を救ってくださる」というほうが好みです。人格のない私を救う法則よりも、愚かな私を悲しみ救おうと決意してくださった人格のある仏様に救われたいと思っています。これは法然上人の立場か強い意見かと思います。まぁ、だからといって浄土宗になれというのではありません。浄土真宗の立場からもう一度法然上人の教えを再検討すべきなのではないかと思うのです。それが今私の課題の一つです。
 もし法然上人の教えに興味があるのでしたら、
『響流十方(こうるじっぽう)』法然上人鑽仰委員会 袖山榮輝・林田康順・小村正孝(著)
 この本は最初は浄土宗をお開きになった法然上人から私たちへのお手紙という企画だったそうです。まず、法然上人の言葉やお釈迦様の言葉を提示して、それに対して浄土宗のお坊様方がご自身の体験や最近思うことを交えながらエッセイ風に解説してくださっています。浄土真宗の私であっても非常に共感できる一冊でした。親鸞聖人とはまた違った雰囲気を感じていただけると思います。浄土真宗に批判的な文章も出てきますが、私はそれは浄土真宗が持っている問題点を指摘してくださっているとかんがえています。

 また長々書き連ねました。申し訳ない。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

いつもありがとうございます。
>浄土真宗の中では阿弥陀仏を人格のある仏様としてよりも、「私たちを救ってくださるはたらきを阿弥陀仏と呼ぶ」という傾向にあるようです。
私は浄土真宗を信仰していますが、この説はあまり好きではありません。私は「法蔵菩薩が末法の凡夫を哀れみ、四十八願を成就して阿弥陀仏となり、末法の凡夫を救ってくださる」というほうが好みです。
人格のない私を救う法則よりも、愚かな私を悲しみ救おうと決意してくださった人格のある仏様に救われたいと思っています。これは法然上人の立場か強い意見かと思います。まぁ、だからといって浄土宗になれというのではありません。浄土真宗の立場からもう一度法然上人の教えを再検討すべきなのではないかと思うのです。
 このご意見には共感しました。ぜひ法然上人の考えにも触れてみたいなあと思いました。真宗の問題点を知ることにより、真宗の教えに中立的な考えができるのではないかと思います。ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/08 12:59

私は大谷派を離脱したものですが、少しお話させていただきます。

まずは浄土真宗の教えについてですが、
>>「母は本願寺は死んだら助けるけれど親鸞会は、生きている間に幸せになれるので、(信心決定、絶対の幸福というそうですが)本願寺なんかでおかみそりを受けるな。」といいます。
といって、親鸞会さんは現世主義的なところが強いように思います。だからといって、死んだら助かるという来世主義こそ浄土真宗だという気もさらさらありません。両方持ち合わせて浄土真宗なのですから、どちらかに偏ってしまっては、その味わいをそいでしまうように思います。
 また、親鸞会さんは日蓮系新興宗教にコンプレックスがあるのか、布教と称した勧誘も熱心です。しかし、私は浄土真宗の布教法は「自信教人信(じしんきょうにんしん)」、自らが阿弥陀仏を信じ、そして他の人々にその自分自身が信じる姿をもって阿弥陀仏の教えて信じていただこうという、善導大師のお言葉にある布教法であると思っています。先にホームページを提示していらっしゃる人がいらっしゃいますが、親鸞会さんの過激な勧誘によって被害を受けた方もなかりいらっしゃるようです。浄土真宗の布教法は勧誘ではなく共感という優しい布教法のはずです。勧誘という布教法は親鸞聖人の教えからは外れてしまうように思います。


>>親鸞会の先生は、「本願寺はおかみそりという形だけの儀式によって仏門に入ったように見せかける。」などといっているそうです。
 そうはいうものの、阿弥陀仏の救いの対象は愚鈍下智の凡夫であり、悪人です。私も含めて、知識のないもの、愚かなものは、どうしても見せ掛けでも良いから形にとらわれてしまいます。形にとらわれないものになれというのであれば、自力聖道門の教えになってしまうように思います。阿弥陀仏は形にとらわれてしまう愚かな凡夫であることを見抜き本願を成就して救って下さろうとしているのに、形にとらわれない者になれるくらいなら阿弥陀仏は必要ありません。浄土真宗を信仰している人間がどのような意味があろうと「形にこだわるな」などと言えたのかが私には分かりません。


>>どのようにすれば、母に理解してもらえるのでしょうか。
これについては、親鸞聖人のお師匠様である法然上人は『禅勝房伝説の詞』に

現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくは、なになりともよろずをいといすてて、こえおをとどむべし。いわく、ひじりで申されずば、めをもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、聖にて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。自力衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずば、自力衣食にて申すべし。一人にて申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居してもうすべし。衣食住の三は念仏の助業なり。これすなわち、自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。

意訳
この世を生きていくのは、念仏を称えながら過ごしていくべきです。お念仏の妨げであれば、たとえどんなことであっても厭い捨てて、それをやめなさい。たとえば、出家して世俗を離れた聖者として念仏が称えられないのであれば、妻をめとって念仏しなさい。それでは念仏できないというのであれば、世俗と離れ聖者として念仏しなさい。定住しては称えられないというのなら、各地を遊行して称えなさい。遊行して称えられないというのなら、家にいながら称えなさい。自分の力で衣食をまかなっていてはお念仏できないというのであれば、他の人に助けてもらいながら念仏を称えなさい。他の人に助けてもらっては念仏できないというのであれば、自身の力で衣食をまかないながら称えなさい。一人では称えられないというのであれば、お念仏の仲間たちと称えなさい。仲間と一緒に念仏できないのであれば、一人で籠って称えなさい。衣食住の三つは念仏を助けるためのものです。つまり、この自分が平穏にお念仏を称えて往生するためのことは、どのようなことでも全て念仏を助けるためのものになりえるのです。

と説いて、日常の衣食住を含める遊行・独処・籠居、そして妻帯にいたる一切の行為が念仏を助成するためにあると説いています。このことは念仏によって日常生活の行為の統括しようとするものであり、阿弥陀仏の他力に浴して生活するということになります。「現世をすぐべき様は念仏の申されんようにすぐべし。」とあるように、現世において念仏するという生き方が価値あるものとする考えにおいて、社会人として行う道徳的社会的な行為も、仏教徒としての持戒や布施等の行為も、さらには浄土教の信者として行う経典読誦等の念仏以外の正行もすべて念仏する人を助けるものとして価値づけるのです。ただし、法然は「念仏の助業と思わずして身を貪求するは、三悪道の業となる。」と説いて、念仏をするためと偽ってまったく念仏をするためでない行為を、自分勝手な解釈を持って悪行を追求することは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に落ちる原因になりかねないものと強く誡めておられます。
 けれども、bisisowazuさんのおかみそりの目的は
>>私としては生きている間におかみそりを東本願寺で受けて法名を手に入れ、大谷派の門徒として教えを聞いていきたいと思っています。
ということですから、聞法し、信心決定して、一生お念仏を称えて生きていくための行いです。ですから、まずこの法然上人の言葉を例に出して「私にどうかおかみそりを受けさせてください。愚かな私はおかみそりをするという願いかなわなければ、信心決定どころかお念仏称えることすらままなりません。このままでは無間地獄におつるご縁をいただくのを待つのみでございます。重ねてお願いします。愚かな私のため思うなら、おかみそりを受けさせてください。」と頼んでみてはいかかでしょうか。ちょっと芝居がかっていますかね(笑)
 確かにこの言葉は法然上人のお言葉です。しかし、親鸞聖人は高僧和讃のなかで、「智慧光のちからより 本師源空(法然)あらわれて 浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ」と法然上人が浄土真宗をひらいたといっている以上、法然上人の言葉を無視することはできないでしょう。また、この法然上人の言葉は親鸞聖人が妻帯を決意される一つの要因になった言葉とも考えられます。そうなると、やはり浄土真宗の人間であれば、無視は出来ないと思いますよ。



>>母曰くおかみそりを受けた人は100万円単位の出資を本願寺にしなければいけないとか、お寺の行事に全部出なくてはいけないとか言っています。また、初詣も行ってはだめだと言っています。実際におかみそりを受けたことのある方や大谷派の僧侶の方のご意見を伺いたいです。
 こういったことはないとは思いますが、真宗本廟に直接問い合わせてはいかがですか?ちなみに、現在東本願寺は京都には存在しません。京都にあるのは「真宗本廟」というお墓です。現在東本願寺を名乗っているのは、東京の浅草にある東本願寺です。
 現在の大谷派も問題はないとは言いきれません。教学においても「清沢満之先生や曽我量深先生・金子大栄先生が親鸞聖人の言葉をこう解釈しているから、これが正しい解釈だ。」というような、近代教学が強すぎます。近代教学を勉強したり参考にするのはいいんですけど、それだけになってしまうのは問題ありだと思います。それに、蓮如聖人などの祖師方の教学を軽視する傾向も強いですしね。また、大谷家を追い出しておいて、必要になったらまた大谷家の者をひっぱりだしてくるという根性も気に入りません。
 まぁ、私は大谷派を離脱した人間の愚痴とたわごとでしたね。申し訳ない。悪しからず。

 ながなが書かせていただきましたが、まとまらない駄文のため文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

親鸞会の高森氏の説法では、たびたび因果の道理という話が演題になります。これは、善因善果、悪因悪果、自因自果ということらしいですが、簡単に言えば、良いことをするといいことが帰ってくる。悪いことをすれば悪いことが帰ってくる。自分のしたことは自分に帰ってくるということらしいです。また、この因果の道理というのは、前世、現世、来世の三世にまたがるものらしいのですが(これを親鸞会では三世因果と言っています)、なんだかこれでは、自分のしたことは仏教的に良いことなのか悪いことなのかということで心配になってしまい気分が沈みがちになってしまいます。大谷派の教えでもこのようなことが説かれているのでしょうか。
 また、一向専念無量寿仏ということで親鸞会(高森氏)のみを信じよ。とおっしゃっています。(ほかの真宗の考え方は排除せよということです。)また、親鸞会で不思議なのは先祖の墓参りも手を合わせてはいけない(南無阿弥陀仏と書いてあればいいらしいです)初詣なんかもってのほかという考え方のようです。こういうことになると親鸞会は、厳しすぎて現実離れし、理解できないのですが、大谷派でも真宗のみを信じよ。初詣や墓参りなんかしてはだめだといっているのでしょうか。たぶんそんなことを大谷派で説くことはないと思いますが。教えてください。

補足日時:2007/10/06 22:49
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この回答へのお礼

貴重なお返事どうもありがとうございます。親鸞会も大谷派も現世にとらわれがちということがよくわかりました。大谷派も少し問題があるようですね。やはり先生が違うと親鸞聖人や法然上人の書かれたことの見かたが異なってくるのでしょうか。
>そうはいうものの、阿弥陀仏の救いの対象は愚鈍下智の凡夫であり、悪人です。私も含めて、知識のないもの、愚かなものは、どうしても見せ掛けでも良いから形にとらわれてしまいます。形にとらわれないものになれというのであれば、自力聖道門の教えになってしまうように思います。
 もっともなご意見だと思います。私も愚かな存在ですから何かにつけて形式にこだわってしまいますが、それを基にして一生念仏を称えていけるのであれば、おかみそりを受けるのもいいことなのではないかと思います。本当にありがとうございます。

お礼日時:2007/10/06 22:45

bisisowazuさまのお母様に対してはたいへん失礼な言い方になりますが、本願寺に対して「死んだら助けてくれる(≒本願寺では生きている間のことは関係ない)」などと言われる方は、お念仏の本当のところが分かっていらっしゃらない方だと思います。



また、100万円単位の寄付が必要だとか、行事にすべて参加しなければならないなどということは、どちらかと言えば、親鸞会の方が強要される可能性が高いのではないかと思います。

私は浄土真宗の門徒ではありませんし、親鸞会についても、ざっとしたことしか知らないので確信はないのですが、真宗を初め、各宗派のお坊さんの知り合いはたくさんいますので、そういう方々から聞く限りは、得度したからといって寄付を強要されるという話は聞いたことがありません。

別に、親の許可がなければ得度を受けられないというわけでもないでしょうから、ご自分の意志で、得度を受けられてはいかがですか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。まったくそのとおりです。私は年数回富山の本部へ連れて行かれますが、新しくできた正本堂という建物を建てるときにも結構な金額を寄進するように言われましたし、高森会長の話を聞きにいくときや、各支部でビデオ法話と称して高森会長の説法を写したビデオを見るときでも1人最低でも3000円くらいは出さなければならないので、ちょっとおかしいのではないかと思います。行事でも、年数回の富山説法や、各支部での法話など、東本願寺とは比にならないくらいスケジュールが過密になっています。
講師陣は本願寺に近寄るなといっていますが、よほど本願寺に対して恨みがあるのでしょうか。また親鸞会は先祖の墓に手を合わせるななどといっているようですが、それこそかえって罰当たりな話だと思います。本願寺のほうが本当の浄土真宗の考え方に近いのではないかと思います。本願寺のおかみそりによって、寄付の強要を聞いたことがないと聞き安心しました。私は私の考え方でおかみそりを受けたいなあと思っています。ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/06 07:36

「親鸞会」初めて聞きました。



 取りあえず理論武装から。

参考URL:http://homepage2.nifty.com/nonsect/shinrankai/in …
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。参考URL見ました。親鸞会は「高森氏のみを信じなさい。高森氏の言うことを信じれば幸せになれるのだ。」というような感じで教えを説いているようですね。東西本願寺の教えは邪教であるのでそれは信じるな高森氏のみを信じろというのはひどいと思います。それ以外にもいろいろな考え方があってもいいと思うのですが。しかも、大学での勧誘はすさまじいものがありますね。健全なサークルを装って、親鸞会に入会させる。ひどいやり方だと思います。親鸞会のことがよくわかりました。もっとこのサイトやほかのサイトを読んで参考にしていきたいと思います。本当にありがとうございます。

お礼日時:2007/10/05 22:18

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