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[1] なぜ「愚禿」といふ名を選んだのですか。

[2] 「愚禿釋親鸞」は、「愚禿釋・親鸞」ですか、「愚禿・釋親鸞」ですか。
「ここに愚禿釋の親鸞、よろこばしきかな西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釋、あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり。」
(親鸞『教行信証』金子大栄校訂 岩波文庫 24ページ 序)
と書いてあるので、「愚禿釋・親鸞」だとずつと思つてゐたのですが、ネット上では「愚禿・釋親鸞」もあるやうです。
http://ryoukakuji.net/04butuji/okamisori_index.h …

質問者からの補足コメント

  • 御専門の方には不要と存じますが、いちおう引用文の原文を示しておきます。訓読の写本の状況はまつたくわからないのですが、もしかすると、「愚禿・釋親鸞」とするものもあるのかもしれません。

    爰愚禿釋親鸞。慶哉。西蕃月支聖典。東夏日域師釋。難遇今得遇。難聞已得聞。
    http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T2646_,83,0589a …

      補足日時:2015/04/22 08:48
  • このたびは、baka-hageさんのIDについての質問でしたので、ベストアンサーは自動的に決定です。詳細に御教示くださり、ありがたうございました。肝に銘じておきます。

    mits0709さんからも「愚禿釋親鸞」の区分けをきちんと指摘していただき、私の誤認がわかりました。今後とも御指導くださいませ。

      補足日時:2015/04/23 20:58

A 回答 (2件)

こないだはどうも。

真宗のボーズと呼ばれているものです。

>>[1] なぜ「愚禿」といふ名を選んだのですか。
 この愚禿の「禿」の字ですが、今は髪の毛がない事ですが、ここでは禿は「かむろ・かぶろ」という事で、剃髪したあと伸びてきたから剃るでもなく、伸ばして髷を結うわけでもない、ぼさぼさ頭を指します。この「禿」という言葉の根拠を経典から調べますと、『涅槃経』(いわゆる大乗の『涅槃経』です)の中に、

戒を破り法を護らざる者を禿居士と名づく。
爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是の如き之人を名づけて禿人と為す。

とあり、禿とはいわば「偽物の坊さん」という意味で説かれます。また、日本仏教においても伝教大師最澄は「入山発願文」の中で、自身の事を

愚中の極愚、狂中の極狂、塵秃の有情、低下の最澄

と述べ、この文中から「愚」「禿」双方の文字を読み取ることができます。こういった、自己反省は浄土教の流れの中には強く受け継がれ、 恵心僧都源信は『往生要集』序に自身の事を「予がごとき頑魯のもの」と述べていますし、法然聖人も自身の事を「愚痴の法然房」と述べています。
 特に愚禿という言葉は、親鸞聖人を法然聖人のもとへ導いた兄弟子聖覚法印が『十六門記』の中で

愚禿。此篇を記するに身毛爲竪て雙眼に涙を浮ぶ。

とあって、自身の事を愚禿と呼び、法然聖人の事を思い起こしながらその時のことを書いている最中に涙が浮かんでいると記しています。この聖覚法印は『唯心鈔』の著者であり親鸞聖人に大きな影響を受けた人物としても知られます。
 また、親鸞聖人は『教行信証』化身土巻に

僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。

として、愚禿とは「非僧非俗」の名乗りとしておられますが、この非僧非俗の語は『徒然草』に影響を与えたといわれる『一言芳談抄』の中で

賀古の教信は、西には垣もせず、極楽との間をあけあはせて、本尊をも安ぜず、聖教も持せず、僧にもあらず俗にもあらぬ形にて、つねに西に向かいて念仏して、其餘は忘れたるが如し

とあります。この書物は1297年から1350年ごろ成立と考えられますので、1263年に亡くなっている親鸞聖人が御生前『一言芳談抄』自体を見たとは考えられませんが、『一言芳談抄』の中に登場している教信沙弥に親鸞聖人はあこがれていたようです。それは、三代目覚如上人は『改邪抄』の中で親鸞聖人が「我は是加古教信沙弥の定なり(私は加古の教信沙弥みたいになりたい)」と常におっしゃっていたとあります。きっと、この『一言芳談抄』に収録されている言葉をどこかで目にしておられたと考えられます。
 このように親鸞聖人の「愚禿」という名乗りは数多くの方から影響を受けて成立したお考えであることが分かります。そして、この愚禿という言葉を流罪より亡くなる直前まで使い続けたの親鸞聖人のお考えの根幹に通底てしているのは、浄土教的な自分自身への反省であると考えます。親鸞聖人の師法然聖人は『往生大要抄』の中で

初めには我が身のほどを信じ 後には仏の願を信ずるなり

と御示しになり、お念仏の教えの始まりはまず自分自身の愚かさを知ることとしています。そして愚かさを知るからこそ、そんな愚かな自分を仏にしてやりたいという阿弥陀仏の本願のありがたさを本当の意味でいただけるとしています。この深い自己反省こそがお念仏の教えにおいては大変重要になります。
 しかしながら、親鸞聖人のひひ孫存覚上人は『六要鈔』の中で

「 愚禿」というは、「愚」はこれ憃なり。智に対し、賢に対す。聖人の徳は智なり、賢なり。実には愚憃にあらず。今「愚」というは、これ卑謙の詞なり。「禿」は称して姓と為す。

として、いわば謙遜の詞としておっしゃったとし、また『歎徳文』のなかでは親鸞聖人自らが末法の世に住まう凡夫の状態を示して阿弥陀仏がそんな凡夫を救いたいという心を示すために「愚禿」と名乗られたのだともしています。しかし、この存覚上人の説には私は賛同しかねます。
 私は愚禿の名乗りはそういった謙遜や教化のための言葉ではなく、やはり親鸞聖人自身の深い自己反省からなる語であると思います。この愚禿が表す非僧非俗と似た言葉に半僧半俗という言葉がありますが親鸞聖人はお使いになりません。そう考えるとき非僧非俗という言葉の中には、現実の自己への否定と、他者への肯定が内在しているように感じます。
 まず「僧」とはどのような人々を指すかといえば、「親鸞聖人御消息」の中において

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

と説いて、親鸞聖人は他宗の自力の修行者たちの事を否定していません。他宗の修行者たちは人々に仏教とはこれほど厳しいものであると教えてくださる仏たちであると考えておいでです。そして、心の底から人々のため修行に励む人たちを尊敬し、「僧」としていると考えられます。
 そして、「俗」に関しては直接あらわした言葉を見出すことはできませんが、親鸞聖人は『一念多念文意』の中で

「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」といふは、「恒」は、つねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。

として、お念仏の教えにおいて「つね」という時は、「常」ではなく「恒」という意味で、「恒」とは俗事に追われながらも、朝晩のお勤めや法要等の何かのおりに思い出して、お念仏を称えて極楽往生をねがう事とされています。まさにこれは俗人の姿です。このように世俗にまみれながらもお念仏に励む姿を「俗」していると考えられます。
 しかし、自分に目を向けてみれば、人々のために修行に励む僧にもなりきれず、俗事に追われながらもお念仏を称え素朴に生活を送る人にもなりきれない。そんな僧にも俗にもなりきれない自分を非僧非俗とし、「愚禿」と称しておられると考えます。


>>[2] 「愚禿釋親鸞」は、「愚禿釋・親鸞」ですか、「愚禿・釋親鸞」ですか。
 これはですね、いろいろ分類の仕方もあると思いますが、細かく分けるとしたら「愚禿・釋・親鸞」となるかと思います。愚禿に関しては上述の通りです。
 では、「釋」はどのようなものかといえば、これは中国の訳経家釋道安に由来する釈号と呼ばれるものです。釋道安には多くの功績がありますが、この方は四世紀頃の人なのですがこの当時の僧侶は安とか支とか竺とか康という姓を名乗っている人が多いのですが、釋道安は「すべての僧侶はお釈迦様の弟子(釋子)なのであるから、釋を姓とすべきである」として自らも釋道安と名乗っています。これは、釋道安独自の見解ではなく、経典によるもので『増一阿含経』の中に

四河は海に入りて、本の名字なく、同一鹹味の海水となる。四姓亦如来所において出家学道せば本姓なく、沙門釋子と称すべし

とあって、当時のインドはカースト制という身分制度に区切られておりましたが、名前を聞くだけでその身分が分かってしまったようです。ですが、お釈迦様は『スッタニパータ』第三章の中で

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

とあって、人は生まれによってバラモン(ここでは聖者というぐらいにとらえてください。)になるのではなく、行いによってバラモンになるとおっしゃっているように、真理を求めるのに身分は関係ないという立場でした。ですので、出家者となったならば、身分制度の名前を捨てて、仏弟子(釋子)であると名乗りなさいとしたようです。しかし、この経典が中国に輸入された際、仏弟子という意味であった釋子という言葉が釋道安によって姓として解釈されできたのが釋号という事になります。
 親鸞聖人が「親鸞」と名乗る前のお名前に関しては「綽空」「善信」という名前であったことが知られますが、元久元年(1204年)親鸞聖人が法然聖人から『選択本願念仏集』の書写を許された際、その書写を終えて法然聖人に提出すると、法然聖人がの冒頭に

「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釋綽空」

と直々に内題を書いてくださったと『教行信証』化身土巻の後序に記しておいでです。またここには、次の年法然聖人の真影(姿を描いたもの)を制作し法然聖人に提出するときに名前を善信と改めたとあります。また、そのことについて親鸞聖人の門下である性真上人の『親鸞聖人血脈文集』の中で、その真影に法然聖人が

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現 在成仏 当知本誓 重願不虚 衆生称念 必得往生 南無阿弥陀仏 釈善信

と書いてくださったとありますので、綽空の時代も善信(こちらの名前は晩年も使っています)の時代も親鸞と御名乗りになっても釋号は変わらず使っておられます。
 上述のように、「釋」の字は釋号というもので、わたくし個人的には「愚禿・釋・親鸞」と分解した方がわかりやすいように思います。

急ごしらえの為、誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

家の宗教が何もわからない、ばちあたりなplapotiでございます。詳細な解説をいただき、感謝してをります。

「禿」(hage)のお話は、初見です。ネットでは、未熟な子供といふやうな解説もありますが、『涅槃経』による解釈のほうが説得力があります。あとで探して読んでみます。列挙していただいたマイナーな書物には目を通したことがないのですが、『教行信証』は、末尾の後鳥羽院がでてくるところですね。ここだけは読んだことがあります。

>数多くの方から影響を受けて成立したお考えであることが分かります。
>浄土教的な自分自身への反省であると考えます。
はい、おかげさまで多くの意味合ひがあることに気づきました。

>愚禿の名乗りはそういった謙遜や教化のための言葉ではなく
私どもも、さう思ひます。謙遜のやうなことを考へてゐると、自分では「baka」と言へても、他人から「baka」と言はれると、腹が立ちます。これはホンモノではありません。

>自分に目を向けてみれば、人々のために修行に励む僧にもなりきれず、俗事に追われながらもお念仏を称え素朴に生活を送る人にもなりきれない。
このやうな貴重なお話は、はじめてうかがひました。家の宗教も大切にするものです、baka-hageさんのおかげで、そのやうに感じました。

>親鸞聖人は他宗の自力の修行者たちの事を否定していません。
baka-hageさんも、『スッタニパータ』をはじめとして、さまざまな経典を引用なさつて、視野の広さの重要性を教へられます。先日講談社学術文庫で発売されたので、岩波文庫本と比較しながら読んでゐます。

>この経典が中国に輸入された際、仏弟子という意味であった釋子という言葉が釋道安によって姓として解釈されできたのが釋号という事になります。
これまた初めての知識です。

>「愚禿・釋・親鸞」と分解した方がわかりやすいように思います。
これは回答番号1の方からも教はりました。私の読み方が誤りでした。

>急ごしらえの為、誤字脱字乱文ご容赦ください。
私は自分に甘いだけですので、容赦しないつもりでしたが、誤字脱字乱文がみあたりませんでした。先回にひきつづき、心に響く御回答をたまはり、まことにありがたうございました。

お礼日時:2015/04/22 18:01

[1]「私は僧侶なんて立派なものではなく、ただ禿げ頭にしているだけの愚か者ですよ」


  という自戒を込めてそんな風に名乗った、というのが通説です。

[2]「釋」は「釈尊の一族」であるとして法名につける姓ですから、現代文に直すなら
  「釋・親鸞」と表記するのが適当でしょう。
  「愚禿釋親鸞」を分解するならば、「愚禿 釋・親鸞」という感じに「異名」と
  「姓・名」を分けたほうが良いかと思います。
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この回答へのお礼

御回答ありがたうございます。事件をきつかけに、たい僧な者ではない、といふ意味で名乗つたとの話を聞きます。ソクラテスの考へる無知とは違ひがあるのでせうか。ギリシャ哲学においては、自分なりに無知のあり方について思ふところがあるのですが、浄土真宗における愚の意味するところが何なのか、つかめてゐません。

「愚禿釋親鸞」につきましては、「愚禿」と「釋親鸞」が分かれ、さらに「釋」と「親鸞」に分解されるといふことなのですか。ややこしいものです。ちなみに私は、先天的に「愚」ですが、まだ「禿」には至つてをりません。なりかけです。

お礼日時:2015/04/22 12:58

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