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1. 次の神観について問い求めます。哲学としての神論に成り得るか?

▲(久遠元初の自受用報身如来) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
(くおんがんじょのじじゅゆうほうしんにょらい)
http://k-dic.sokanet.jp/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%85

(あ) 最も根源の法を覚知し、その功徳を自ら受け自在に用いている永遠
の仏。

(い) 久遠元初とは、ある特定の遠い過去ではなく、永遠の根源を示す。

(う) 自受用報身とは自受用身ともいい、「ほしいままに受け用いる身」
のこと。

(え) 覚知した法の功徳を自ら受け自在に用いる仏の身をいう。

(お) 生命にそなわる本源的な、慈悲と智慧にあふれる仏である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. (い) は 有限の経験事物ではなく 普遍神の属性たる《絶対・無
限・永遠》のことを言っています。つまり 自受用報身如来は 普遍神のこ
とを言っており そのひとつの呼び名であると捉えられます。

3. ただし (あ)や(う)以下では この普遍神が 《覚知・功徳 / 用
いる / 慈悲・智慧》にかかわってもいる。つまり 人知を超え経験世界を超
えた神である法身(ダルマ・カーヤ)としてのブッダが 相対存在である人
間に成るという。人間としても振る舞うという。



4. これは 個人によってその主観として持たれ得る特殊な神観である。
それが 理論化され体系化されるなら 神学である。

5. 《絶対たる普遍神》の一般的な絶対性から見て特殊なその性格は 神
が 人間の意志行為をも成すと言っていることにある。

6. つまり 神が人間に成ったと言う。これは 一般化して広い意味に採
った《現人神》の神観だ。

7. 神キリストが人間イエスに成ったという受肉の神観に似ている。





8. あらためて事態を分析しておくなら。これは 普遍神をめぐる人間た
る個人の主観にあって ヒラメキにおいてか想像や忖度においてか持たれた
ひとつの神観である。

9. 普遍神の一般および個別の絶対性にもとづきつつも 個人の主観にお
いて特殊に持たれる一種の絶対性である。特殊絶対性である。



10. これは 哲学としての神論ではなく 思想に近い神観またはその或
る種の体系化としては神学と呼んで 神論とは区別される。

11. 神観ないし神学として表現された特殊絶対性は 或る主観の内面に
おいて成り立つも その主観を超えて別の主観によって共有されるという気
遣いはない。

12. もし二人の主観のあいだで 同じ神が共有されたとしたら その共
有の対象は 人知の及ぶ経験事物であることになる。

13. 言葉≒概念として・またそれによる説明として共有したに過ぎない。
概念や説明が 神そのものなのではない。けれども 普遍神は 経験世界を
超えている。



14. 問題はまさにこれからですが この現人神の問題について ここま
でにおいて まづはみなさんのお考えをうかがいたい。《現人神》論をどう
ぞ。





15. 参考:キリスト・イエスなる現人神:
▼ (ヨハネ福音 1:1-14 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1: はじめに ことばがあった。
  ことばは かみとともにあった。
  ことばは かみであった。

2: このことばは はじめに かみとともにあった。

3: すべてのものは ことばによって成った。
  成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。

4: このことばに いのちがあった。
  このいのちは ひとを照らすひかりであった。

5: ひかりは やみのなかにかがやいている。
  やみは ひかりをとらえ得なかった。


6: ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネ
と言った。 7: この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし かれ
によってすべての人が信じるためである。 8: かれは光ではなく ただ 光
についてあかしをするために来たのである。

9: すべての人を照らすまことの光があって 世にきた。 10: かれは世に
いた。そして 世はかれによって出来たのであるが 世はかれを知らずにい
た。 11: かれは自分のところにきたのに 自分の民は彼を受けいれなかっ
た。

12: しかし かれを受けいれた者 すなわち その名を信じた人びとには
かれは神の子となる力を与えたのである。

13: それらの人は 血筋によらず 肉の意志によらず また 人間の意志に
もよらず ただ神によって生まれたのである。

14: そしてことばは肉となり わたしたちのうちに宿った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (4件)

何度も同じことを言うようで申し訳ないのですが、どうも納得できないので


投稿します。

仏教で説かれる「久遠元初自受用報身如来」という概念を、哲学としての神
論に当てはめることが出来るかどうか?という問いですよね?

その「自受用身」がキリスト教で説くところの「普遍神」と同一概念のもの
と言えるか、ということの根拠として、有限の経験事物ではないということ、
普遍神の属性たる、絶対性・無限性・永遠性を持つという点で結論付けてい
ますが、これが大変に浅はかだったと思います。

「自受用身」は一念三千の生命観に立脚した「仏」であるということ、また、
「南無妙法蓮華経」を所持した仏であるということ、「南無妙法蓮華経」には
「無明法性一体」また「因果一体」という生命観が含まれている。
また、「ほしいままにうけもちいる身」ということで、衆生を救うために凡夫
として生まれてきた、有限の経験事物という面を持つ。

一方、キリスト教の生命観は全く違うものです。三世の因果も説かれていない。
「仏」とは生命のことです。仏教の生命観はさらに詳細に論じられています。

つまり、「自受用身」と「普遍神」とは全く違う概念であり、わずかの共通点で
もって、同一のものとするということは出来なかったはずです。

従って、「自受用身」はキリスト教の神を研究した神学では把握できず、仏教哲
学によって把握されうるということになると思います。

そして、今回は、凡夫として生まれてくるということに目を付け、「現人神」と
いうことを言いだしたということですね。
さらに、「祭政一致」というところまで展開されるという予測もできますね(笑)。

長くなったので一旦切ります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

【Q:哲学とは理論の整頓方式】のほうに ダイジェスト版を投稿しました。

★ 仏教で説かれる「久遠元初自受用報身如来」という概念を、哲学とし
ての神論に当てはめることが出来るかどうか?という問いですよね?
☆ 当てはめられないのは当然だというそのあたらしい理論を 待望しま
す。

★ 「自受用身」は一念三千の生命観に立脚した「仏」であるということ、
☆ 仏と神とは どう違うのか? 《人知を超え経験世界を超えた場(ち
から)》であるという定義は 同じではないか? です。


★ 「南無妙法蓮華経」を所持した仏であるということ、「南無妙法蓮華
経」には 「無明法性一体」また「因果一体」という生命観が含まれてい
る。
☆ それは ブッダ論内部の説明です。

逆に言うと 《因果一体》に対しては 経験事象としての因果関係を超え
ているというのが神についての説明です。

《無明法性一体》に対しては 《すでに生まれたときから自然本性として
すくわれている(われがわれである。世界とのあいだに和解が成っている。
苦を基本的には見ない)》と説明します。梵我一如としては アートマン
のハタラキです。

★ 「ほしいままにうけもちいる身」ということで、衆生を救うために凡
夫として生まれてきた、有限の経験事物という面を持つ。
☆ に対しては いま触れた《すでにすくわれている》でお応えします。

(なお あたらしい質問の《本覚思想》が参考になると思います)。



★ 一方、キリスト教の生命観は全く違うものです。三世の因果も説かれ
ていない。「仏」とは生命のことです。
☆ 《わたしは 真理であり 道であり 生命である》と言ったそうです。
因果関係は すでに経験世界には自然に起きているものです。


★ 仏教の生命観はさらに詳細に論じられています。
☆ 予告編は 静々と恥づかしながら 申し上げますとでも言って伝える
ものです。

★ 「自受用身」と「普遍神」とは全く違う概念であり、
☆ 特殊性をふくむようですが 一般絶対性として 同一の範疇です。

★ 「自受用身」はキリスト教の神を研究した神学では把握できず、仏教
哲学によって把握されうるということになると思います。
☆ 差し詰め 上に述べた批判をクリアしてください。

お礼日時:2017/10/22 06:40

日蓮大聖人御在世当時、日本国は末法とされています。



末法の時代に、ひとの言葉に半信半疑なら、経文をよくよみ実践するほかない。法華経の経文のなかにそのようにあるので、そのように言われていると思います。

脅迫ではなくて、早く法華経を読み、良く持つように促している慈悲の行為だと思います。
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この回答へのお礼

脅迫した無法者も そう言います。相手のためを思ってのことだと。

お礼日時:2017/10/21 18:09

すこし、総勘文抄を眺めてみました。



眺めてみました、というのは不遜な言い方になりますが、拝してみましたと言うべきでしょうか。

わたしがまだ字面を追うばかりで、きちんと読めているのかわからないと思うのですが、

(自行)と(化他)のことが書いてあり、大聖人の仰せには法華経以外には化他しか書かれておらず、法華経にその仏の自行が書かれている、だから仏になるには法華経を信受し実践するしかないとあるようです。

法華経こそ学んでほしいということだとおもいます。

釈尊五十年の説法を学びたい、と思う方は是非、釈尊の肝要の法華経を読んでいただきたいと思います。


持つのが難しい、法華経を傷つけたら地獄である、と書かれているから、やはり信ずるのは難しいですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ざんねんながら 根拠の問題がクリアされていないと思います。

こう書かれている・こう言った。ゆえに そのとおり。それは 
ただしい。――というお話です。

それで通るなら すべての話は 通ります。そうぢゃありませんか?


たしかに 特殊絶対性をあつかっているので 独自の・特有の内容
が含まれるでしょう。ですが 理論立てることなく 羅列するのな
らば 哲学が交通整理する必要はありません。

普遍性を問い求めましょう。


★ 地獄に落ちる
☆ というのは ペテンを通り越して 脅しになります。不法者と
変わりありません。

日蓮の阿呆です。

お礼日時:2017/10/21 15:37

われわれはみな(如来の)使い



(法体)そのものを(わかりやすく、かつ、微妙繊細に)翻訳できるひとは稀有である。

ということでしょうか。

部分部分の、真理と慈悲と智慧を説く方々は恐らくたくさんいらっしゃるのでしょう。

その方々どうしがどうして語り合わないですか?どうして心を通わせ合わないですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ われわれはみな(如来の)使い
☆ というのは むしろ:
▼ (ヨハネ福音 1:12 ) しかし かれを受けいれた者 すなわち その
名を信じた人びとには かれは神の子となる力を与えたのである。
☆ の場合ですね。

問題は 《かれを受け容れた》というときの《かれ(=いのち・ひかり)》
が キリスト(神)=イエス(人)というふうにいわゆる現人神として捉え
られていることです。

▲ 久遠元初の自受用報身如来
☆ は では どうなのか? です。このあたりを明らかにして知りたい。
と思います。

★ その方々どうしがどうして語り合わないですか?どうして心を通わせ合
わないですか?
☆ 自受用報身如来を名乗った人間が ほかの宗派を貶め 自分の殻に閉じ
こもったのではないですか? だから この人間をあがめる人たちも 根本
的に排他的ですよね?

お礼日時:2017/10/21 13:31

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