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法華経は釈迦が説いたと言われていますが、原始仏教からすると100%違うようです。
日蓮も、その法華経を自分の都合の良いようにアレンジしており、創価を始め日蓮関係の信者たちが、信用している法華経は更に釈迦の真意とは懸け離れた内容となっているのは間違いないようです。

私も数十年に渡り法華経を根幹とした信者の方々の経緯や末路を見て来ましたが、多くの不幸に見舞われ、お布施などに大切なお金を奪われ悲惨な生活をされていました。

釈迦は「自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、
法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

と言われています。

間違った経典や御経を読むと本来、幸せな生活を送れるはずなのに、敢えて不幸を呼び込むような作用があると思えてなりません。

皆様はどのように思われますか?貴重な御意見を聞かせて下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

わたしの知っている範囲では、法華経とは、釈迦在世中に晩年に説かれた教えだと思います。



お経とは釈迦と、弟子との質疑応答です。

その頃には紙はなく、テープレコーダーもありませんから、弟子は口伝でそれを伝えたのですから、大した記憶力です。

経として記されたのは、釈迦没後500年後当たりで、その後今の中国に渡り、竜樹によってお法華経として編纂されました。 漢文でしょうが、日本にきて日本読みになったんでしょう。
言葉として美しいので大変流行ったそうです。

釈迦が言ったのは、私がいなくなったら、残された法を拠りどころにしなさいと言ったと思います。 それが法灯明ですね。
そして、弟子たちに、わたしはこの次は、東の国の都会で法を説くから、その時にお前たちは
一緒に生まれて、わたしを手伝いなさいと言ったそうです。

最後の時、さすがに声も出ず、霊眼を開いた弟子がその言葉を受けたのでしょう。

鎌倉時代に日蓮上人が現れ、その頃に堕落した念仏系の坊さんに怒り、法華経が正しいと言って法を説きました。

彼は、預言者の側面があり、蒙古襲来を預言しましたが、あまり早く言いすぎ、時の政府に弾圧されました。
鎌倉で処刑されそうになりましたが、すんでの所で取りやめなり島流しになりました。

日蓮さんは、情熱的な戦いの人でしたが、法華経だけが正しいと他をいい、他を誹謗したので
反感を買いました。 あっこうが多く、今の創価系に受け継がれています。

でも正しいから弾圧されるのではなく、排他的であったり、あっこうを言うから非難されるのですね。 おかしいから言われるのですね。 それに犯罪者が多い。 五戒を守ってませんね。

それに他の宗派も正しいことを言ってます。寛容性が必要です。 何妙法蓮華経の意味知らないんではないっでしょうか?

何万回、唱えても意味なく、調和されてない、イライラした心のまま精神統一して祈ると、阿修羅霊界に通じ、憑依されています。

何妙法蓮華経の意味を知り、それを実践しなさいと釈迦は言っています。
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この回答へのお礼

素晴らしいご回答ありがとうございます。
自身の心の状態で変化するのは非常に怖いですね。
やはり、祈りは心が安定した状態でないと絶対に祈ってはいけないと分かりました。

お礼日時:2018/11/06 15:23

法華経(妙法蓮華経)は釈尊の説かれたものです。


弟子の間で口伝として残され、サンスクリットの文字として弟子により結集されたのは
釈尊滅後の事です。

さらに、ネパールから西に進み中国の西側から入り漢訳されました。それが中国天台を経て平安時代に
日本に渡り、日本天台宗が開かれました。

何も日蓮が勝手に法華経を解釈したわけでは御座いません。
そもそも『南無妙法蓮華経』の御題目というものは、インドでもそして漢訳されて中国でも唱えられています。
要するに、釈尊は法華経の中で『法』の存在は明らかにしたものの、『法』その物が何かは明かされませんでした。

何故でしょう?

釈尊の時代から、題目として唱えていたからですよ。

>釈迦は「自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、
法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

あなたが仰っている『法』こそが『南無妙法蓮華経』ですよ。
でなければ、質問者様は何を『法』として捉えているのでしょうか?
この『法』を質問者様が確定できなければ、上記の文は書いてはいけませんよ。絶対に。
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> 間違った経典や御経を読むと本来、幸せな生活を送れるはずなのに、敢えて不幸を呼び込むような作用があると思えてなりません。



「……と思えてならない」というのは、精神障害や妄想、幻覚でも起きることです。ある程度他人と意見交換のようなことを期待している場合には、推論の根拠、判断基準、判断に至った方法などを示すようなことが必要です。 そうしたことが示されれば、納得や疑念、誤解などに関して、他人から意見をもらうことが出来ます。 「本来、幸せな生活を送れるはずなのに」⇒どうしてそのようにお考えなのでしょうか。 「幸せな生活を送れる」ということそのものも、若干やっかいです。 もしも、生誕から30年間40年間と生きて生活している場合には、いろいろの経験をするでしょう。生後3年未満で死亡するのとは違います。 釈迦にしても、王子としての生活やその後の変転はいろいろです。 この生涯は幸せな生活をしたことになるのでしょうか。 アホやねん888さんも「数十年に渡り法華経を根幹とした信者の方々の経緯や末路を見て来ました」と書かれるからには、数十年は生きてきているのでしょう。その数十年間は、幸せな生活ですか。 「末路を見て来ましたが、多くの不幸に見舞われ、お布施などに大切なお金を奪われ悲惨な生活をされていました」と書かれているのをみると、人生の後半の状態、あるいは一時期の状態をみれば、《全人生が幸せばかりではなかった・一時期は幸せではない生活を送った》&《本来、幸せな生活を送れるはずなのに》というようなロジックですか。
「自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」という表現は、この下のURLの第二章9旅に病む ベールヴァ村にて26 にあるのと似ています。 http://www.intweb.co.jp/buda/buda_saigonotabi_2- … このURLではその後に、第4章16 鍛冶工チュンダ20に「鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、激しい病が起こり、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい痛みが生じた。その苦痛を耐え忍んでいた。ついに死に至る激しい病に罹られた。菌を食べられたので、師に激しい病が起こった。下痢をしながらも」と書かれています。苦痛を耐えなくてはならない中毒性の下痢になるのは、《本来、幸せな生活を送れるはずなのに》との関係でどうお考えですか。

> 私も数十年に渡り法華経を根幹とした信者の方々の経緯や末路を見て来ましたが、多くの不幸に見舞われ、お布施などに大切なお金を奪われ悲惨な生活をされていました。

どのような交際範囲あるいは調査をされているのかが分かりませんが、最近問題にされている老人のオレオレ詐欺被害者、名義貸し解決詐欺被害者、家族に殺される被害者などの中で、[法華経を根幹とした信者]が統計的に有意に多いというようなことでもあるのでしょうか。過労死をした人の中で[法華経を根幹とした信者]が統計的に有意に多いというようなことでもあるのでしょうか。最近、自然災害が多いですが、被災者はどういうわけか[法華経を根幹とした信者]が統計的に有意に多いというようなことでもあるのでしょうか。 そのような検討もしてないのであれば、単に思い込みで、信じたいことにあう事例を自説に都合のよいように見ているだけということという見方をするのが妥当です。

> 間違った経典や御経を読むと

なにをもって「間違った経典や御経」と見なすのかが、不明です。

> 法華経は釈迦が説いたと言われていますが、原始仏教からすると100%違うようです。

シャカの生誕死亡の時期ははっきりしてませんが、法華経はシャカの死亡推定時期よりは100年以上遅れていると言われています。 ただ、法華経は釈迦が説いたと思いこんだり、説いたりする人が生きていた時代には、そうした検証はなされていなかったので、当人が思いこんだり、その説で十分に説得力を発揮できると考えたことはあるでしょうし、当時、確かにそれで効果を発揮したということもあるはずです。 天体や地球に関しても、現時点での知見をベースにして、300年前の説を評論し見下すようなことをするのは、見当違いの行為です。 また「原始仏教」という言葉自体が、20世紀になって仏教研究が進む中で出てくるものだということも分かってください。 原始仏教・初期仏教として区分しているのですから、後世の仏教とは違っていて当然です。 「原始仏教・初期仏教とは違っているから……である」というような論述には意味がないです。 まして 「原始仏教・初期仏教とは違っているから、『法華経は間違った経典や御経』である」などは、寝ぼけているか、知性をまともには働かせないられないと思われてもしかたないです。

> 法華経を実践すれば、何故、不幸が連続的に起こるのでしょうか?その一番の原因は釈迦の真意とは懸け離れたものになってしまったしか思えてなりません。

「法華経を実践」は具体的になんのことです。
天台:http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=58
日蓮:http://honmonji.jp/read/kanju201606.html
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
私には、どちらにしても、「法華経を実践すれば、不幸が連続的に起こる」という事実が顕著にあるとは思えません。 釈迦の真意がなんであるにしろ、釈迦の真意とはかけ離れたことをしたら不幸が起きやすくなるというような、めちゃくちゃな推定がでるのが分かりません。

直接は関係ないですが、の最後に次のようなのがあります。
ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 十六学生の質問の結語
1146(師ブッダが現われていった)「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギャよ」
この文の中の「信仰を捨て去った」「信仰を捨て去れ」の部分は、「信仰している・信仰しなくては・信仰に基づいてという自意識を離れて、自づから存分にやっていることがそのまま信仰と一致している」というような意味らしいです。 どの経典が良いとか悪いとかそういうことをぐだぐだ言っているのではないようにしろというのが、大パリニッバーナ、スッタニパータなのでしょう。 しかし、それはその当時のその付近での見解ということでしょう。 時代や社会が変わり、技術もシステムも、人心のありようも、当時のあの場所とは全く違えば、見解は変わるでしょう。

ニュートン力学がいつでもどこでも唯一の正解を出せる方策ではないのです。
もちろん、法華経や日蓮宗あるいは創価学会系が、現状で正解の出せる有力な方法であるということはないです。 しかし、「法華経を実践すれば、何故、不幸が連続的に起こるのでしょうか?その一番の原因は釈迦の真意とは懸け離れたものになってしまった」は論外のめちゃくちゃです。
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法華経を原始仏教からの批判とは


、あきれた

ナーガールジュナを初め
正法像法時代の仏の所説、天台や伝教の釈や論
近代の法華経研究の諸機関、学者の説まで
否定することになりますね

無知無学無能は仕方ありませんが
偏見は、いかんともし難い
誰も相手にしないでしょう

同じ低レベルの方々となら、意見が合うかな
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法華経に限らず、大乗仏教の経典は


みんなそうですよね…

特に法華経は
「今までいろいろ言ってたこと
あれ
釣りだからね!
ほんとのことを今から言うから!」
って内容らしくて…
そういう内容だからか、他の宗派を否定するところも多いですよね、法華経のところは

ただ
「信じてる」という、そのことは自由ですし
人様が信じているものを
わざわざ否定するのはよろしくないと思うので
法華経で救われる方がいるなら
それはそれでいい


とは、思いますが

日蓮系のところの方に
初対面で
「あなたの家の宗派は
邪教だからやめなさい」
と言われてびっくりしたことがあります

まあ、そういう教え(日蓮さまのとこだけが正しくて他は間違ってるから
折伏しなきゃいけない)だから
仕方ないな、とは思うんですけど
好きにはなれないですね…

折伏しなきゃならない、っていうのがネックなんじゃないかな
それがなければ、そんなに嫌じゃないかな、と
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/11/06 15:26

何百年も時間がたって


何千人何万人の耳と口で伝わってきて
5人ぐらいでも正しく伝わらないわけですから
根本が時間とともにどうなるかって考えただけでもわわかりますけど

教えは人の心の中にありますからね
生身の人間が生きていて
その人を神と敬うということ自体がおかしいと思わないんですかね
ほかの宗教でもそうですけど
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教えは信じる人だけ信じればいい

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そのとおりだと思います。

が、創価学会のインテリに聞いてみたことがあります。法華経は釈迦が亡くなった後作られたものについては、釈迦が生きていたら、より分かりやすく時代に合わせて話していたであろう内容ですと言われました。釈迦の逝去年を誤った末法思想を根底に日蓮は書物を書いていますが誤りではなく説がいろいろあるだけで、末法というのは間違いはない。その他いろいろ聞きましたが、「それは本意(本来そういうのは必要ではない)ではない」という言い方で片付けられました。例えば寺がない、坊主がいない、墓がないのことです。
何言ってももうだめですね
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この回答へのお礼

ほんまにおっしゃる通りだと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2018/11/06 15:28

ブッダが聞いたら嘆き悲しむだろう。



ブッダ自身が「対機説法」といい「その人の機根に合わせた法の説き方」をしてきた。

後世の人間も自燈明・法燈明に基づいて自ら法を会得し、自らのやり方で説いた。
現在で言う「宗派」のことである。

なぜブッダは良くて後継者は良くないのか?

ブッダはこうも言った。
「いずれ私の教えは捻じ曲げられ、違ったものになるだろう」
それはまさに
>間違った経典や御経を読むと本来、幸せな生活を送れるはずなのに、敢えて不幸を呼び込むような作用があると思えてなりません。
こういうことだ。

ブッダは
「幸せとか不幸せとかは自分の心が決めることだ。だから自分の心を鍛えなければならない。」
自燈明・法燈明とはそういうことである。
そしてどの経でも原始仏教でも言っていることは変わらない。

自分の心で決めるべきことをお経などにゆだねているようでは仏教ではない。
いかにブッダと言えど「今どき私の教えはそこまでねじ曲がってしまったのか」と言って
嘆き悲しむだろう。

同時に「三車火宅の父」のように、法に気づくのを辛抱強く待つだろう。
(この言葉を知らずして法華経を批判する権利はない)
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この回答へのお礼

文証よりも理証であり、それより更に重要なのが、現証であるのであれば、法華経を実践すれば、何故、不幸が連続的に起こるのでしょうか?その一番の原因は釈迦の真意とは懸け離れたものになってしまったしか思えてなりません。人間の悩みを取り除き心を軽くしてあげるのが、釈迦の心です。真逆じゃないでしょうか?

お礼日時:2018/11/06 15:43

「わかりやすく」としたものは 多くの煩悩や欲に関わる。



例えば「幸せになりたい」でさえ 本当は欲なのだ。
「他の者より」「より多くの」「素晴らしい気持ちで」「開放」なども 本当は本質を見ないことであり 自分に向き合うことから外れたことだ。

それらは そういった「わかりやすく 多くの者に共感するように」という部分で 似て非なるものになってしまったもの。
目的も「信者通しが幸せに」となって 救いだか悟りだかは おそらく二の次。

そもそも ブッダが「幸せになれ」とは言ってはいないだろう。
「自分が自分自身であるように 世界を世界として認識するように」 と言ったはず。
であれば 間違った経典も経も またこの世界の迷いの姿であり 現れだろう。
その本質を掴むべきで 誰かが言う「ありがたいから やれば得だから」などといった煩悩じみた話を 鵜呑みにする必要はないはず。

苦界であり 無明であるこの世界で 僅かな灯りを探すしかないのが人類であれば いかなる場合でも本質を見ようとする目は閉じてはならないはず。
頼るのではなく 見出すのでなければ 正しい経であろうと真実に近づくことは叶うまい。

と思う。
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