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浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が説かれた生きる意味とはどういったことなのでしょうか?
辞書を引きながら教行信証を読んだのですが難しくて解りません。
無明の闇、死んだらどうなるか解れば、おのずと生きる意味、人生の目的を
見出せるということでしょうか?
私はいい年した大人なのですが子供でもわかるレベルで教えてください。
回答よろしくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • 親鸞聖人は、人は死んだらどうなるかも説かれていませんか?

      補足日時:2015/04/29 15:53

A 回答 (4件)

こないだはどうも、真宗のボーズです。



>>浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が説かれた生きる意味とはどういったことなのでしょうか?

 この「生きる意味」ってのはどういう意味ですかね?「私は○○のために生まれてきたんだ」「私は○○するために生きているんだ」みたいなことでいえば、そういうことは説かれていません。

 まず、大きく仏教の目的という事で考えますと、もちろんたくさんのものの見方がありますので絶対的にこれだとは言えないのですが、一つの視点から誤解を恐れずに言えば「ちゃんと死ぬ」ということであると思います。仏教最初期の経典である『スッタニパータ』第五章の中においても

1123 (略)ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。
(中村元先生訳)

とあって、「迷いの生存にもどらないようにせよ」とあって、これは二度と輪廻しないで「ちゃんと死ぬ」ってことです。浄土往生の思想も、浄土は六道の外にあるわけですから「迷いの生存にもどらない」ということがその基本にあると考えられます。
 では「ちゃんと死ぬ」ためにはどうしたらよいか?これは、ただいまの文章を読めば「怠ることなくはげみ」「妄執を捨て」なさいとあって、大変簡単な言い方をすれば「ちゃんと生きなさい」ということです。
 このように、仏教では「ちゃんと生きて、ちゃんと死になさい」と教えているわけです。例えば、お釈迦様の死を仏教では涅槃と呼びますが、お釈迦様の悟りについても涅槃と呼びます。つまり、涅槃という生き方をした人には涅槃という死に方があるわけです。浄土往生の思想ににおいてもこれは同じです。往生という生き方をするから、往生という死に方があるのです。仏教ではこれを「生死不二」と教えます。生と死とは別々にあるのではなく、複雑に絡みあって別々に論ずることはできないのです。

 ですから、

>>死んだらどうなるか解れば、おのずと生きる意味、人生の目的を
>>見出せるということでしょうか?

というのは、間違った見解ではありません。死を見つめるからこそ、生が意味を持ってくるということはあります。この、「死を見つめ直し、生を考える」という時には大きく分けると私たちには二つの考え方があるように思います。
 一つ目は、「どうせ死ぬんだったら、生きてる間をめいいっぱい楽しんじゃおう」という考え方です。なかなかポジティブな考え方です。私もこんな生き方もいいかなと思っちゃいます。しかし、こういう人は存外ちゃんとは死ねないかもしれません。なぜなら、生きてる間を楽しむために作った楽しみが気になってしまうことがあるからです。いわゆる「心残り」というやつです。お金を楽しみにした人はお金に、趣味を楽しみにした人は趣味にと、いろいろあげられますが、なかなかちゃんと死ぬのは難しいようです。
 二つ目は、「どうせ死ぬんだったら、もう死んで楽になっちゃおう」という考え方です。これは、ネガティブな考え方ですが、人間だれしもふと思ってしまう事です。例えば、交際相手に振られたり、仕事がうまくいかなかったり、こっちもいろいろありますが、しかしそれって、結局生きている間のあれこれがを気にした、死への過度の期待があります。これではちゃんと生きるとはいえません。

 こんな中、仏教はどのように説くかといえば、『スッタニパータ』一章では「この世とかの世とをともに捨て去る。」とあり、第三章においても

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。

とあります。仏教は上の二つどちらでもない、三つ目の考え方を提示してくれます。ちゃんと死ぬために「どうせ死ぬんだったら、生きてる間めいいっぱい楽しんじゃおう」と生への期待は説かず、ちゃんと生きるために「どうせ死ぬなら、死んで楽になっちゃおう」と死への期待も説かない。その双方を捨て去って、生きてる間はちゃんと生きて、死ぬ時にはちゃんと死しになさいという考え方です。こう書くと「浄土往生の思想においては、死後の往生を説いて死への期待があるじゃないか。」という声が聞こえてきそうですが、そうではありません。これは、親鸞聖人の師法然聖人御言葉ですが、

生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。

とあって、生きてる間はお念仏の教えに生きて、死して後はお浄土に参らせていただく、生きる死ぬいずれの事においても思い悩むことがないとおっしゃっています。この「生死ともにわずらいなし」というところは、上述の『スッタニパータ』516「この世とかの世とを厭(いと)い離れ」に通じる境地であると考えます。

 「ちゃんと生きて、ちゃんと死ぬ」っていうのは結構難しいことです。しかし、お念仏の教えにおいては、往生すべき浄土という世界があるからこそ、往生のための生き方をしなければならないと説いて、すべての人を生と死ともに思い悩むことがない心に導こうとしています。これは初期の仏教とも充分通じ合える部分であると私は考えます。ですから、生きる意味とか生きる目的というよりも、生き方を説くのが仏教なんだと思うんですよね。
 あえて、生きる意味、生きる目的という言い方をするとしたら、『三帰依文』というものがありますが

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。

この言葉は『法句経』や『華厳経』等の言葉を集めて作られたものですが、意味は「人間に生まれてくるのは大変まれなことであるが、私たちは人間としてすでに生きている。その人間の中でも仏教に出会うことができるというのも大変まれなことであるが、私たちはすでに仏教との出会いを果たしている。だからこそこのチャンスを生かして、救われなかったら、いったいいつ救われるのか?」と言っている言葉ですが、「いつ救われるの?」「今でしょ。」(もう古いですか?)て話です。つまり、人間には本来生きる意味や目的なんてものはないんです。「ただ生まれてただ死んでいく」だけです。けれども仏教とであったからには「ただ生まれてただ死んでいく」んじゃもったいない。仏教と出会うことが生きる意味だと自分自身で決めて「ちゃんと生きて、ちゃんと死のう」というのが、ある意味『三帰依文』の意味だと思うんですよね。

 あぁ、なんかまとまらずすみません。ほんと参考程度にしてください。五月六月ってお寺のめぼしい行事がないので、逆に研修会とかが多くて忙しいんですよね。時間の関係でかなりかいつまんでしまいました。ニュアンスを受け取ってください。
 あと、『教行信証』お読みになるんだったら最初は解説書の方がいいかもしれません。私も十年以上仏教の勉強をしておりますが、ある意味解説書なしで『教行信証』を読めるようになってきたなと思ったのはつい最近です。解説書としては、私は賛同しかねるところも多いのですが信楽峻麿先生の『真宗学シリーズ8 教行証文類』なんかが、親鸞聖人のほかの著作との関係性などもわかるような構成になっていると思います。『教行信証』を横において読んでみてください。

 急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

こちらこそ先日は大変お世話になりました。
いただいた回答を何度か読み返したのですが難しいですね^^;
私の知りたいことはだいたい解ったのですが仏教は難しいです・・
ちゃんと生きて、ちゃんと死ぬも、では日々の生活にどう取り入れて
どのようなに生きていけばよいのか分かりませんし・・
回答者さまは10年以上も仏教の勉強をされてるとのことなので
昨日今日はじめた私に簡単に理解できるほうがおかしいですよね^^;
あと5回は読み返します。そしてコツコツとやっていきます。
仏教を知ることは何を知るということなんでしょう^^;
頭がこんがらがってきました。
でもなんとなくでも疑問が解けたのでうれしいです。
回答ありがとうございました!

お礼日時:2015/05/01 07:31

はじめまして。

アンケートカテゴリでも、きはめて率直な御投稿を拝見して好感を抱いてをります。

プラトンの話が出てゐますので。少しだけ。欲望についての内容は『国家』をはじめ、あちこちに出てきますから、どの著作のことをおつしやつてゐるのか判断しかねるのですが、ひとつだけ挙げておきます。

「正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておきべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮とをもって、充分に奉仕できる者とならなければならない。」
(プラトン『ゴルギアス』492A 加来彰俊訳 岩波文庫162ページ)

このカッリクレスの主張に対してソクラテスがあの手この手で論駁しようとして、話がつづきます。もし、欲望が有害だとお感じになりましたら、現金、有価証券、貴金属などは私が引き受けますので、御連絡ください。私にできることは、そのくらゐです。


さて本題の『教行信証』ですが、現代語訳がありますので、書籍でもネットでも見ることができます。以下のサイトの「yakk01_02sojo.zip」のテキストファイルに、質問文の「無明の闇」についての訳と解説があります。いちばん初めの文章ですね。
http://www.biwa.ne.jp/~takahara/yakk_01.html

くはしい内容は、お坊さまがしてくださるのではないかと存じます。私も最近2度にわたり、心にのこる回答をいただきました。
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この回答へのお礼

アンケも人生相談も、もはやオチャラケですよ^^;悩んでることに嘘はないのですが。。
プラトンそれです!
教行信証はサイトがあるのですね。紹介ありがとうございます。
しかし、難しい・・^^;
検索しながらやっていきます。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/01 07:39

No.1 gouzigです。


「プラトンの本の中に欲望のままに工夫と努力でできるだけ多くの欲を手にいれることが
本来の人間のあるべき姿と書かれています」
→それは多分読み違いだと思います。
欲はどんなに追いかけても幸せや満足を得られませんから。
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この回答へのお礼

その本が実家にあるので確認できません。
プラトンが言ったのではなく対話の相手だったかもしれません。
欲を追いかけるだけでは幸せになれませんよ^^;
より多く掴むという結果が伴わなければ・・
再度ありがとうございました。

お礼日時:2015/04/29 16:29

残念ながら、仏教にもキリスト教にも人生の目的は明確にされていません。


生きるための考え方はいろいろとありますが。
人生の目的は幸せを求めて生きるという以外にはないと思いますよ。
少なくても、お金や名誉などの欲望を追いかけても、その先に幸せはないと思います。
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この回答へのお礼

プラトンの本の中に欲望のままに工夫と努力でできるだけ多くの欲を手にいれることが
本来の人間のあるべき姿と書かれています。
僕はこちら派です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2015/04/29 16:02

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