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 お世話になります。
 仏教各宗派の教義に関する質問ですが、浄土系といわれる宗派は死後「極楽浄土」に往生するという教義をはっきり打ち出していますが、他の宗派はどうなんでしょうか??
 真言宗さんは「密厳浄土」なんでしょうか??それとも弘法大師が弥勒菩薩と修行していらっしゃるはずの「兜率天」なんでしょうか??
 天台宗さんは?曹洞宗さんは?臨済宗さんは?日蓮宗さんは?南都六宗は?どうなんでしょうか??ご存知のかたどうぞ教えてください。

 私はまだまだお他宗のことは勉強し始めたばかりで分かりませんので、できればどのような祖師がどのように説かれているかなども教えていただければ幸いです。また、お通夜のときに何々宗のお坊様がこのように説いておられたというのでも大歓迎です。どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (4件)

またどーも!



ご希望通りの回答がつきませんね。

baka-hageさんほどの方ならココで質問する必要はないと思いますが・・・
それともツリの質問ですか(笑)
もしかしてM-Bauerさんの突っ込みにご自身の信仰に自信がもてなくなったとか・・・(笑笑笑)



他宗のことはわかりませんが、教義の中に「浄土」のある宗派は現世で浄土を実現できなければ、来世では必ず浄土に往生することになっているのではないでしょうか。明確に打ち出しているかどうかはともかく。輪廻という方便も用いながら。
もっとも、教義に浄土が無い宗派なんてあるわけありませんが。

薬師瑠璃光浄土、伽羅陀浄土、普陀落浄土、妙喜国浄土……思い浮かぶ浄土をチョットあげてみました。仏の数だけ浄土があることになってますが、みんなつながっているような気がします。もちろん、娑婆世界も。

日本の浄土思想を確立したお坊さん(よくご存知だと思いますが)の所属した宗派の根本経典でも来世に仏と作ることを得るとなっています。当然、そこは浄土のはずです。

南都は基本的に宗教では無い(はず!)ので、死後について教義をはっきり打ち出しているとは思えません。

当方も法華経を所依としている浄土系(あまり浄土系という意識はありませんが)ですが、この世が浄土であることを確認するために念仏しています(厳密に言えば念仏させられています)。極楽浄土に往生しようなんて念じませんね。



って、とこです!
それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>ご希望通りの回答がつきませんね。
 私の質問が悪いんですかねぇ?(下)(下)
>>baka-hageさんほどの方ならココで質問する必要はないと思いますが
 いやいや、私もまだまだ勉強中の身ですから。分からないことだらけですよ。
>>M-Bauerさんの突っ込みにご自身の信仰に自信がもてなくなったとか・・・(笑笑笑)
 そうかもしれませんね(笑)お返事待ってるんですが、いただけないようです。これも私の不徳のいたす所で、凡夫である事を思い知らされます。
>>教義の中に「浄土」のある宗派は現世で浄土を実現できなければ、来世では必ず浄土に往生することになっている
 聖道門の解釈ですねぇ。天台宗さんで言えば「娑婆即寂光浄土」ってとこですかね。そのへん浄土門は現世で浄土を実現(体現といい変えても良いのかな?)できない者を、阿弥陀仏は救うために極楽浄土を建立されたと解釈します。この点は異なりますね。
>>教義に浄土が無い宗派なんてあるわけありませんが。
 確かに明恵上人は『摧邪輪』のなかで、浄土教はすべての宗派に天台宗の中の浄土教・真言宗の中の浄土教と各宗派の中に存在する二義的な宗派であって、一宗を立てる必要のないと述べていますね。
>>みんなつながっているような気がします。
 『華厳経』に説かれる「蓮華蔵世界」や、密教の説く所の「密厳浄土」の思想なんかがそうですね。
>>南都は基本的に宗教では無い(はず!)ので、死後について教義をはっきり打ち出しているとは思えません。
 私もそのような認識ではありますが、輪廻説をどのように受容ているかが気になる所です。
>>法華経を所依としている浄土系(あまり浄土系という意識はありませんが)ですが、この世が浄土であることを確認するために念仏しています(厳密に言えば念仏させられています)。極楽浄土に往生しようなんて念じませんね。
 『法華経』を所依の経典としながらも「念仏」なさるということは天台宗さんとお見受けいたしますが(間違ってたらごめんなさい)、天台宗さんでは通夜葬儀等はどのようなものと受け止められているのでしょう?天台宗さんでは通夜式で『阿弥陀経』を漢音で読まれますが、通夜葬儀式を行うことで故人はどのようになるのでしょうか?ご存知でしたら教えていただければ助かります。
 ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/06 09:52

あの~


専門家の方が色々いらっしゃる中で、偉そうなことを言える物ではないのですが、そもそも仏教とはインドを発祥とするものですよね。

起源から言えば、「死後」というようなチャチナ考えでなく、「輪廻」をどう断ち切るかという哲学的な問題の考察が仏教の始まりでしょう。
今のインドでも、ガンジス川で死者を弔う人は、「死後」のあんねいを願うわけではありません。

まず、仏教とはどういうものかを根本からお勉強した方がいいかと思います。
日本人の「仏教観」は、非常に功利的です。そうした功利的な考え方から解脱することが本当の仏教の教えであると言うことを、まず理解した方がいいと思いますね。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>起源から言えば、「死後」というようなチャチナ考えでなく、「輪廻」をどう断ち切るかという哲学的な問題の考察が仏教の始まりでしょう。
 「輪廻」という思想自体が死後を想定したものと考えます。死と向かい合うことは生の問題に直結するものであり、それはお釈迦様は「生老病死」という問題と向き合っていたからこそ解脱を目指したわけですし。その死との向き合い方を仏教はいくつか提出しています。その中に、「極楽浄土」「六道輪廻」「閻魔王をはじめとした冥土の裁判」「三途の川」等の思想が挙げられるでしょう。ですから、死後の考察もまた輪廻をどう断ち切るかという哲学的考察といえると思いますよ。
 お釈迦様以来、約二千五百年間人間が死と向き合うことで生み出してきた思想体系ですから、なんらかの意味があると考えていますから私は死後をちゃちと無視するは出来ません。
>>今のインドでも、ガンジス川で死者を弔う人は、「死後」のあんねいを願うわけではありません。
 そうともいいきれません。ヒンドゥー教では、死後荼毘にふしてガンジス川に流してもらうと輪廻転生を繰り返す祖道から解き放たれて、梵我一如の天道に向かうことができるとされています。私はこれを死者の安寧を願っていないとは言い切れません。
>>まず、仏教とはどういうものかを根本からお勉強した方がいいかと思います。
 がんばらせていただきます。
>>日本人の「仏教観」は、非常に功利的です。そうした功利的な考え方から解脱することが本当の仏教の教えであると言うことを、まず理解した方がいいと思いますね。
 どのような意味で功利的という言葉をお使いかは分かりませんが、仏教は輪廻からの解脱いう結果を得るためには功利的視点も必要だと思いますよ。功利的に解脱の利益を得させるために靴をそろえることをさせた(掃除とされることもあります)シュリハンドクの物語なんかがいい例だと思いますよ。
 どうもありがとうございました。

お礼日時:2008/07/05 09:38

仏教はもとは釈尊の教えに始まっているわけですから、


派に分かれているからといって、死後の話が違うことは
ないでしょう。それなら、仏教ではありませんから。


※私の場合、ポイントは要りません。他の方にあげて
ください。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>仏教はもとは釈尊の教えに始まっているわけですから、派に分かれているからといって、死後の話が違うことはないでしょう。
 なるほど、確かにその通りですね。仏教の死後に関して基本的なスタンスはお釈迦様がそうであったように「無記」です。私の個人的な意訳としては「誰もが納得できる答えはありえない」というような立場ではないかと思います。
 ただ、基本的なスタンスは同じであっても仏教は「極楽浄土」「六道輪廻」「閻魔王をはじめとした裁判」「三途の川」など多くの死後の世界観を多くの文化や思想と交じり合いながら生み出していきます。個人的にはまたそういったことについて仏教教義のどのような部分に関連して吸収されて仏教の一部となっていったかという思想史的な解体がすんでいませんので、
>>それなら、仏教ではありませんから。
と切り捨てることもできません。(「不妄語戒」≒「うそつきは閻魔様にしたを抜かれるよ」というようなことですかね。)
 そこで、現在各宗派ではどのような教義に基づいて、どのような説を採用しているのかが気になったもので質問させていただきました。
 どうもありがとうございました。

お礼日時:2008/07/04 09:21

浄土真宗サイトからの引用です。

宗派の公式見解かどうかは不明です。

「ということで、仏教の正統からいうと、「生まれ変わる事もないのでしょうか」とか、「地獄も無ければ天国もないのでしょうか」といったご質問に対しては答えないのが正しいと思いますが、あえて危険を承知でお答えしてみましょう。

 そもそも、わたしたちが死後のことを語るとき、しょせん分からないことなので、何でも好きなことがいえます。しかし、逆にいうと、何を言ったところで「独断」にすぎません。われわれには、死や死後について有意味に語ることは不可能なのです。たとえば、「地獄にいく」というにしろ、「天国にいく」というにしろ、それらはいずれも、死への恐怖心や死後への願望の投影にすぎません。もっと言えば、「死んだらそれっきり」という言葉でさえ、「考え」にすぎないのです。実際はそれっきりかどうか分からないわけですから。もしかすると生まれ変わりは実際にあるかもしれませんし、要するに、これは死んでみなければ分からないことなのです。といっても、死んだらわかるという保証もないのですが。」

「ちなみに、浄土真宗では、「死ぬ」とは言わず、「浄土に生まれる」と表現しています。それが「生まれ変わり」と違うのは、わたしたちが死後に、よい世界もしくは悪い世界、いづれにしてもわたしたちが考えているような世界に行くという考え方の否定の上に成立しているからです。ということは、たとえば、死後よい所に生まれるために、この世でよい行いをしておこうというふうに、死後に向かって、この世の生活を律していくような生き方をやめようということでもあります。」
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html

「「往生」は本質的には「今・この現実」の問題です。『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」とあり、また親鸞聖人は「本願を信受するは、前念命終なり・・・即得往生は、後念即生なり」とあり、死後や臨終に往生を願うのは「不定聚・邪定聚の菩薩」つまり信心が開いていない未熟な信で、今ここでの往生こそ「必定の菩薩」つまり正定聚・不退転の菩薩として真実信心が開いた念仏者の信です。真実は「今ここ」での往生ですが、未信の人も排除しないので「死後」の往生を願う心も仮に受け入れているのです。しかしあくまで仮ですから、ここから早く真実の浄土に往生できるように導くのが如来の真意です。即得往生が真実の往生で、臨終往生は仮の往生なのです。」

「往生とは人生観が定まることをいい、諸仏の境地である覚りの世界が見聞きできるのです。行動はまだ未熟であっても、覚りの響きが聞こえた人が正定聚・不退転の菩薩なのであり、これを即得往生といいます。
「覚り」というと、私たちとは縁遠い高貴な世界、という観念が一般に広まっていますが、日本語に直せば「まごころがわかる」ということです。浄土とは、このまごころを通して見た世界の真の姿なのです。人が社会にあるまごころの響きを聞きわけ、「まごころのある人間に成りたい」と願う、そのことが即ち「往生する」という意味です。

 ですから、往生は個人の能力に関係なく誰でもかなうのですが、人間はまごころが徹底せず、偽りを喜ぶ性質が抜け切りません。また、深いまごころを汲む活動を怠ると、浅はかな心や、硬直した価値観や、自己保身の理屈に縛られてしまいます。そこで、「往生した菩薩が、往生を願う」というのです。つまり「信じたら往生する」とか「願ったから往生する」という取引があるのではなく、願いと往生は即であり一体なのです。
 願いは「場所的自覚」と申しまして、そうなった者がそう成りたいとまごころを起こす、例えば親であるから真の親に成りたい、教師であるから真の教師に成りたい、総じて言えば、人間であるから真の人間に成りたいと願う、その場所的自覚が往生なのです。

 しかし、願いというのは実際には「これで成就した」ということはできません。もし「私は完成した人間だ」とか「私は親として間違っていない、悪いのは子どもだ」と言えば、それは傲慢な言葉であり、願いが朽ちた頑固者の態度に過ぎません。
「いつか本当の人間らしい人間に成りたい」とか「いつか本当に人を導ける教師に成りたい」という願いは、永遠に完成することは無いのですが、まごころの願いは取り下げることもできません。ですから「せめて死ぬ時までに」とか「せめて最期は先祖や有縁の人達に褒められて死ねるようになりたい」というまごころの言葉が出るのです。自分の身を恥じれば「往生は死後」と言わざるを得ないのです。
 これは、願いの深さを「死後」と表現するのであって、本当に死後に往生するのではありません。言葉を丸のみして「往生は死後である」などと理屈で言ったのでは、言葉が抜け殻になってしまいます。経典はまごころ言葉であり、理屈だけで解釈してはならないのです。」
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/04_06_22.html
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 おぉ!!気持ちいいくらいの近代教学ですねぇ(これを書いた方は、大谷派さん系なんですかねぇ?)。私自身浄土真宗の人間ですから、清沢満之先生なんかの著作もずいぶん読ませていただきました。私も近代教学的な学問的解体は好みですねぇ。
 ただ、この近代教学というものも問題点というものも感じます。それは、当時の親鸞聖人やその教えをいただいた方が、そのような現代的な解釈をしていたかどうか疑問を覚えることもあります。
 有名な『歎異抄』の第九条には「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、また、いそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらん(念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土へまいりたいという心もおこりません。これはいったいどうしたことでしょうか)」と唯円が質問したところ、親鸞聖人は「浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか 所労のこともあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。(はやく浄土へまいりたいという心がおこらず、少し病気などすると、もしや死ぬのではあるまいかと心細く思うのも、煩悩のしわざです。)」と答えていることからも、結果的に「この世を生きていくため教え」であったとしても、先ほどの会話の中に出てくる「浄土」は普通に読めば死後であると思います。
 ゆうなれば、親鸞聖人の教学における「往生」ということについては「現世における現生不退現生正定聚」と「後生における極楽往生」の二つの側面から見ていく必要があるのではないかと感じています。(個人的にどっちかじゃつまらないと思っているだけですが・・・)

 ですから、他の宗派のかたがたはどのような教義に基付いて、通夜や葬儀の場でお話しているのかが気になり質問させていただきました。
 どうもありがとうございました。

お礼日時:2008/07/04 09:02

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