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神や仏の本質はその意志にあります。
決してその姿形ではございませぬ。
それゆえ神や仏に姿形を求めてはならないのです。
とりわけ人の姿形を神や仏に求めるなどは愚の骨頂でございまする。
それゆえ仏像を彫ってはこれを仏のごとく拝んだり、イエス・キリストの絵を壁に貼って賛美歌を歌うなどはおよそ知能ある人間のやることではございません。
古来よりこれらの行為は偶像崇拝と申しまして、およそ人間がやる行いの中で最も卑しむべき行為とみなされておるのです。
大仏様だの、イエス様だのと言うものは、全てこの偶像なのでございます。
これらが神や仏と無縁のものであることは、知能ある人間であれば少し頭を冷やして考えれば直ぐに判ることなのでございます。
神や仏に姿形を求めてはなりませぬ。
神や仏の本質はその意志、御心にあるからです。

A 回答 (16件中1~10件)

神や仏の姿形を見たいと言う人がいました。

その人が絵を書き仏像を作ったのです。

まあ、人間って意思が弱いですからね。

人類の絵画力や創造力も向上し、石を砕いて染料にしたり、銅を溶かす事が出来たのも影響したのでしょうね。

字の読め無い人達に、仏の教えを教えるのに、仏像は有効だったのですよ。
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この回答へのお礼

それは大昔の話ではありませんか。
昔のことは昔のこと。
いつまでも昔の話をしてもしょーがないではないですか。
21世紀の現代人は大昔の人とは何から何まで全て違うでしょーに。

お礼日時:2017/07/31 22:17

お礼ありがとうございます。


つまり、ゴーダマ・シッダールダは仏では無いと言う事で良いのでしょうか?
仏教の仏は、教えと真理(仏教では、法と言うと思います)だけと言う事だと、人間は仏にはなれないと言う事ですね。
ところで、そのような教義を持つ仏教と言うのは存在するのでしょうか?
仏と言う言葉の意味が、上座部仏教や大乗仏教諸派とは違うようですが、誰にそれを教えてもらったんですか?(仏(法)が教えてくれたんですか?)
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この回答へのお礼

>仏教の仏は、教えと真理(仏教では、法と言うと思います)だけと言う事だと、人間は仏にはなれないと言う事ですね。

昔、今から20年ほど前の頃、自らを最終解脱者であるなどとと名乗り、巷で空中浮揚などのパフォーマンスを行って見世物にしていた者がおりました。
その者はその後殺人罪その他の罪で死刑宣告を受け、今は刑務所の中でクサイ飯を食っていると言えば誰のことか判るのではないでしょーか。
人間が悟り解脱して仏になるなどといった話はおよそこの類で御座います。
全て形にこだわるが故の愚業なのでございまする。

お礼日時:2017/07/29 16:33

お礼ありがとうございます。


イエス・キリストが「神」でないのであれば、キリスト教が成り立たないことになりますが、ゴーダマ・シッダールダに関しては、現実の仏教の教義の問題となると、ゴーダマ・シッダールタが仏と無縁なのかどうかはわからないです。
人が仏になれると言うのは、仏教に共通の教義だと思いますが、これはどうなんでしょうか?
これが、成り立たないのならば、全ての仏教の教義は誤りとなります。
これについては、どうお考えですか?
質問文では、形の無い物をかたどる事が、「偶像」の意味だと思いますが、その場合、少なくともイエス・キリスト、ゴーダマ・シッダールダの単なる像は、似ていなくても、人間である事は確かですから、「偶像」では無いと思います。
イエス・キリストが「神」で無く、ゴーダマ・シッダールダが仏と無縁であれば、それぞれを「神」、仏として扱うならば、それは「偶像」(それぞれ、「神」、仏として扱う行為自体です)と言えるかもしれません。
意味としては、どちらを想定されていますか?
ちなみに、上座部仏教と大乗仏教諸派では、仏に対する考えが違いますが、こちらはどちらを想定されているのでしょうか?(仏を解脱者の最上位と考えるか、法身と考えるかで、解釈は異なると思います)
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この回答へのお礼

仏教における仏とは教えであり、真理であって、姿形を備えたものではございません。
それゆえ解脱者のことでもなく、法身でもないです。
そもそも姿形にこだわること自体が仏教の教えに反しておるのです。

お礼日時:2017/07/29 15:54

お礼ありがとうございます。


釈迦牟尼は、ゴーダマ・シッダールタと呼ばれる人物のつもりで書いたんですが、仏とは無縁なんでしょうか?(この場合の仏は、解脱した人と言う意味です)
仏が何を成すのかはわからないですが、ゴーダマ・シッダールタは仏や如来では無い、偶像と言う意味ですか?
仏ってのは、人間がなれるものでは無いのでしょうか?(そう言う事であれば、仏教自体が成り立たないと思います)
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この回答へのお礼

>そう言う事であれば、仏教自体が成り立たないと思います)

仏教が教えとして成り立つか否かは、その教えの中身と現実の仏教文化の有り様、実態にかかっています。
ご存知のよーに現実の仏教は葬式仏教に成り下がっておりまして、そこでは本来の仏教徒というのは皆無であり、肉食妻帯坊主が仏像などを作ってこれを拝ませたり、戒名ビジネスを営んでいるのみで、いわゆる教えなどというものはもはや存在しません。
そもそも教えを説くのに仏像などを拝ませる必要はないはずです。
実質的には仏教は既に成立しておりません。

お礼日時:2017/07/29 15:15

釈迦牟尼が仏と無縁だったり、イエス・キリストが「神」と無縁だったら、仏教やキリスト教は偶像崇拝と言う事ですかね?(これは、彫刻された物と言う意味じゃなくて、存在そのものが偶像と言う事だったらと言う事です)


釈迦牟尼やイエス・キリストは、実在したとしても、仏や「神」とは無縁と言う事ですか?(「神」は、アブラハムの宗教の信仰対象を意味します)
神や仏の意志や御心ってのは、どうやってわかるんですか?
補足をお願いします。
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この回答へのお礼

>釈迦牟尼が仏と無縁だったり、イエス・キリストが「神」と無縁だったら、仏教やキリスト教は偶像崇拝と言う事ですかね?

神が人の姿形をして地上に降りてくるはずはありません。
ましてや神が奇跡を披露したり、奇跡を説いたりは決していたしません。
これだけ考えてもイエス・キリストが「神」と無縁なものであることは明らかです。
釈迦牟尼はコレ↓であり、仏とは無縁のただの仏像です。
http://seihou8.sakura.ne.jp/art/jiinn-butu/syaka …

お礼日時:2017/07/29 12:36

こんにちは。



揚げ足取りをおこなって ツッコミとします。

★ 神や仏の本質はその意志にあります。
☆ 神は 経験事象を超えていますから 現象と本質といった認識の
仕方には ほんとうには なじみません。

本質は 存在として形而上のことを意味し得るかも分かりませんが
ふつうは 現象の奥にひそむ抽象的な意味内容を言うはずです。

意志も 一般には 本質と同じく経験事象(人間の意志行為を含む自
然および社会の現象)にかかわる問題です。

もし本質も意志も 抽象化した概念であることを超えて 形而上の場
のことを言っているとすれば それは――つまり《神あるいは法身と
してのブッダ》は―― 非経験の場でありそういったナゾです。


★ 決してその姿形ではございませぬ。
☆ じつは――詭弁を弄すると見られかねない話をしますが―― ナ
ゾなる非経験の場は 経験事象としての有る無いや因果関係をも超え
ています。超えているからには 経験し得るような姿かたちを持つか
どうか これは 分かりません。

分かるか分からないかが分かりません。姿形からは自由なナゾなんで
す。

つまり 姿形――経験現象であること――から自由だということは
神は 姿を現わすかも知れないし現わさないかも知れないということ
です。 ブッダも 形を成さないかも知れないが それと同時に形を
採り得るのかも分からない。

つねに 両方のコトが あり得ます。


★ それゆえ神や仏に姿形を求めてはならないのです。
☆ 非経験の場なのですから 人間がこれをその能力と努力とで知ろ
うとしても 無理です。人知を超えているというのが 非経験のナゾ
という意味です。

ということは 問題は 神のほうからわれわれ人間にやって来ること
があるか? になります。

姿形をとり得るという場合を考えれば その場合の神を人間は見るこ
とが出来るかも知れない。

つまりは 誰かが おれは神を見たぞと言った場合 そのことの成否
は これも人間一般には分からない。

分からないナゾであるからには その人の神体験について 否定も肯
定も成し得ない。こう成ります。

《神や仏に姿形を求め》ることは 無理筋であるが ただし神や仏の
ほうから われへのおとづれが ひょっとしてあるかも知れない。と
は言えます。その人ひとりの内面だけの体験としてですが。


★ それゆえ仏像を彫ってはこれを仏のごとく拝んだり、イエス・キ
リストの絵を壁に貼って賛美歌を歌うなどはおよそ知能ある人間のや
ることではございません。
☆ ひとりの人間たるわれにあっては 仏がおとづれて来たかも分か
らない。そして そうでなくても――人間は想像力がゆたかなのです
から 芸術としてでも―― 仏の絵や像を思い描きこれを 表現する
ことは あり得ます。

讃美歌というのも ひとりのわれなる神体験にもとづき――そうでな
くても自由に―― わが思いを表現することはあり得ます。


★ 古来よりこれらの行為は偶像崇拝と申しまして、およそ人間がや
る行いの中で最も卑しむべき行為とみなされておるのです。
☆ つまり 《われなる心の内面》を超えて外に出かけてしまっては
もうその神体験は 生きない。外に出かけるということは 非経験の
ナゾが 経験事象になるということですから。

言いかえると おっしゃるようなこの偶像崇拝というのは 外に出か
けて形而下のものごととなってしまったものを そのまま神や仏だと
見なしてしまうことです。

偶像は 仮りの姿形だということになります。そして この場合の姿
形というのは 或るひとりのわれにおとづれた神や仏を おそらく記
念としてみづからが表現したものなのでしょう。

メモつまり備忘録のようなものです。メモとして表現されたその姿形
が 神や仏なのではないわけです。仮りの姿形です。

しかも 非経験のナゾたる神は 姿形を現わすかも知れないと同時に
――同時にです―― 現わさないかも知れない。

つまり われに現われたからと言って ほかの人にも現われたとは限
らない。わたしに現われないからと言って 別の人にも現われないと
は限らない。

それはつねに同時に ふたつの異なる可能性が 成り立っているとい
うことです。

したがって――神のおとづれがまだ無い場合も――神の仮りの姿とし
ての偶像をほかの人がつくったからと言って それを否定する謂われ
もない。

言うなれば 神などいるもんかと思っている場合にも 偶像というの
は 神に到る道としての補助線であると捉えておけばよいわけです。

むろん おっしゃるように 補助線を崇拝せよというのなら それは
ナンセンスです。

しかも 補助線と言えば いわゆる聖典とよばれる教義についても
それは 神や仏についての――或る人たちそれぞれが思い描いたとこ
ろの――仮りの姿であることになります。つまり オシヘは これも
偶像なのです。

オシヘは 偶像です。

★ 大仏様だの、イエス様だのと言うものは、全てこの偶像なのでご
ざいます。
☆ まぁ そうなのかも。



★ これらが神や仏と無縁のものであることは、知能ある人間であれ
ば少し頭を冷やして考えれば直ぐに判ることなのでございます。
☆ 偶像ないし補助線(あるいは 依り代とも言います)が 神や仏
と《無縁》であるとは 言えないでしょうね。

★ 神や仏に姿形を求めてはなりませぬ。
☆ 偶像はあくまで偶像なのだと心得てそれらを扱いましょう。

★ 神や仏の本質はその意志、御心にあるからです。
☆ その《みこころ》が われわれそれぞれに おとづれるのをじっ
と俟ちましょう。

《無い神》を心に受け容れている場合には すでにその《無神論》が
神のおとづれた結果であると捉えるとよいでしょう。姿形を現わさな
い場合もあるのですから。

神のこころは おそらく何にしても その何かにかんする人間の見方
や描いた姿が一方的・一面的であるという事態には おさまり切らな
いでしょうね。

神は――普遍神は―― 《有る神》派と《無い神》派との両方を受け
留めていると そのみこころを忖度しますが どうでしょうか。


長々と言いたい放題でしたが あしからず。
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「大仏様だの、イエス様だのと言うものは、全てこの偶像なのでございます」


⇒その通りです。

「これらが神や仏と無縁のものであることは、知能ある人間であれば少し頭を冷やして考えれば直ぐに判ることなのでございます。・・・・神や仏の本質はその意志、御心にあるからです」
⇒まったく、その通りです。
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この回答へのお礼

パチ、パチ、パチ

お礼日時:2017/07/28 09:09

ま 質問じゃないみたいけど



その通りだと思う 

仏像等も 芸術品としての価値しかないと思う 

聖書 仏教経典 その精神は絶対正しい

もし 人類文明にこの二つの宗教が無かったら、
人間の知恵はいかにも底の浅いものに
なっていただろうと思います

大くは語れませんが
「科学がどんなに発展しても 人類は繁栄しない
そこに宗教がなければならい」
アインシュタインを始め 多くの化学者の一致した意見です

特に 生命科学 また最新の量子論など学ぶと
又 ミクロ マクロを学ぶと
宗教を感ぜざるを得ません
神を否定する事などできないのです

化学の分からない人ほど 宗教を否定します

神や仏の本質はその意志に・・
  その通りだと思う

 内村鑑三は
 経済の背後に政治がある 政治の背後に社会がある 
社会の背後に道徳がある 道徳の背後に宗教がある
と述べていますが

好き嫌い 損得 で判断する 宗教に無知な人達の
無節操な意見 行動を うれいます 



仏教 キリスト http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm
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善悪知る木の実が何か分かっているのですか。


リンゴです。
リンゴ食って善悪が判るっておめでたい話だな。」←そうですね・・

でも 聖書は比喩と喩えの書物・・比喩を正確に知ればリンゴには ならない・・

唯 それだけ・・
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神や仏が何か全く分かってませんね。


まず神や仏が何か理解しましょう。」←解かって無いのは あなたの方です・・

善悪知る木の実を食べなかったら 神は食べてもイイ時期に食べさせる様に していました・・

それを最初の人間アダムとエバは 待たずに食べたので 待った人間「キリスト」を使命したのです・・

既に そのキリストに依り 全ては整っています・・・
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この回答へのお礼

善悪知る木の実が何か分かっているのですか。
リンゴです。
リンゴ食って善悪が判るっておめでたい話だな。

お礼日時:2017/07/28 00:13

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