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仏教で悟るには何が必要ですか?

A 回答 (13件中1~10件)

パーリ語の仏典を学んでいる


僕なりに書いてみますね^^

理性的に物事を観ることは必須だと思います。

理性的とは何か、証拠・根拠・論拠を大事にし、知らないのに知っているという態度・想いは抱かないように注意深く、自己の見解を柔軟に事実に基づき、構築・再構築を繰り返していくこと。決め付けたり、根拠なく批判したり、われこそ正しいほかは間違っているとしないことだと思います。

このような態度はカーラーマ経により詳しく書いてあるので一読をお勧めします。
正見を得るための態度がわかると思います。

師とて信じるなかれ。
自らが、その法が善法であると納得するなら実践しなさい。

と言うような態度ですからね^^
宗教ともいいがたい、ブッダの教えとしか言いようのないものと思います。

次いで、心の落ち着き、集中力・観察力が必要になるでしょう。
これらを現すための道と言ってもいいかもしれません。

想い・体・言葉の三つの行為を、心が落ち着く形で調整していくこと。
集中(サマタ)冥想や、ヴィパッサナー冥想によって直接、集中力観察力を養うこと。

は重要な実践とおもいます。

これは戒律や、十善十悪、八正道などを調べるとよくわかると思います。

悟るために必要な実践を一つだけあげろと言われれば、

『気付き』=『不放逸』といえましょう。

気付きはそれだけで八正道を順次満たしていくものと思ってます。
気付きなきところに煩悩が生まれますからね^^

気付きは在家でも出家でもどこでもいつでも必要なもの。
俗世で成功するためにも、生命として成功(悟る)ためにも必要なもの。

ブッダの最後の言葉も「不放逸」であるようにという言葉でしたしね^^b

何かお役に立てれば幸いです


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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この回答へのお礼

大変参考になりました。
私もいろいろと勉強しないといけませんね。
詳しい説明によるご回答どうもありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:59

師を得る事です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:31

すいません、言葉の補足です。


直伝と言ったのですが、縁ある人々や仏から方便なども用いて教えたり教えてもらうこともあるでしょうから、善知識は方便とは異なるのであろうけれど、それだけが直接的なものではないとしてください。
直接にせよ、間接にせよ、といったところですが、仏典と、現場?実際、といえばいいでしょうか、喩えばですが、そのようにも言えるのじゃないかと思います。仏語では如実と言います。
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この回答へのお礼

補足説明どうもありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:36

もとい、再考します。

何かいい回答ないかなぁ。

オーソドックスに言われるのは、直き心というものです。直き心というのは菩薩の浄土でして、菩薩というのは、心に何のわだかまりもない人、ないしもうほとんどない人です。

こだわりがないのでへつらわない、へつらわないのでおそれない、おそれないので自然と覚りの境地を目指して歩いている人ですね。

そういう人を菩薩といいまして、障碍のない人とも言います。

仏の教えというのは、教本、つまり仏典にあるものと、いわば直伝の教え、法の句と言うのがありまして、仏典にあるものは、方便と、正法、ジャータカなど。このうち正法というものが、法ですが、その法の世における顕れを、法の句と言います。
法の句は善知識と呼ばれる人の口から世に現れて、縁ある人々を成仏させます。
ちなみに、この法の句を善知識とも言います。

それでですね、仏の教えというのは、経典もそうなのですが、全編に渡って、やさしいとは何か、ということが綴られているみたいです。

えー、後はですね、どうしたら素直になれるのか、なんてのも語るべきでしょうか。一応。

すなおになればいい、ですか。素直になろうと思ったことがそもそも素直であるというか。
基本心配ないですからね。

このようでどうでしょうか。
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この回答へのお礼

詳しい説明によるご回答どうもありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:38

こういう質問をして痛い目にあった人がいたそうですよ。


「不立文字」です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:41

耳じゃない?

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:34

『真理のことば』(ダンマパダ?)の邦訳の中に、


「一切の形成されたもの」は「無常である」(諸行無常)、また「苦しみである」(一切皆苦)、
そして、「一切の事物は我ならざるものである」
という表現を見つけました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:43

 恋をしたことはありますか。



 恋をすると、それこそ四六時中恋人のことが心から離れません。

 仏様をそのように思える心を持つことが、基本、土台となるのではないでしょうか。

 釈尊は四六時中、仏様を念じ、完全なる悟りの世界に入られたということのようです。

 仏様を思う気持ち(欲望)、以外の心に沸き起こる欲望はとことん無視して、仏様ばかりを“恋”しく想い憶念したからこそ、悟りの世界にたどり着けたのではないでしょうか。

 でも釈尊の偉大なところは、理の面でも優れていたので、法を説くことが出来たのだと思います。

 法を説くことが出来るほど理の面が優秀でなくても、悟りの世界へ入ることは出来ると思います。

 また、悟りにも、内容的にピンからキリまであるのではないでしょうか。

 

 
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この回答へのお礼

分かりやすい説明によるご回答どうもありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:48

 私は全てが仮象だと、仏教的精進を通してはっきりと分る事だと存じます。


 自分も。そして自分も全ても、どんな人も、自分であり、みんなであり、全てだと思うのだと存じます。
 徹底した、すべてを蹴っ飛ばした謙遜、謙虚だと存じます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:51

正しい成仏法を修行することです。



まずはしっかり仏教の基礎知識を身につけて、それから成仏法に挑んでください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/03 19:50

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