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仏陀さんは何もかも悟られて30年から50年生きていたとされる。
生きていることは苦である。どうして悟って生きていたのか。
伝承では直弟子が教えを学んでそれを忘れないうちに瞑想に深く落ちて死にいたる。それを仏陀さんは許された。
仏陀さんが生きているのが苦であるならば生きてはいない。悟ったならば生きてはいない。
仏陀さんは伝承ではこの悟りは誰にも理解できないと知った。
生きているのは苦であるというのは後世の馬鹿坊主が考えたことなのでは。

A 回答 (4件)

釈迦の本意は


生老病死と言う人生の根本的な苦しみを、無常を解決する事のみに終始する事なく。「我に使えようとする者は病者を看護せよ」「苦楽を共にせよ」と言う事なのです、慈悲を実践する事なのです。
馬鹿坊主には慈悲がねえから、そんなの無関心。
更に、
苦悩と無常の世界を、衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)幸福で平和な
世界にする事でした、現世安穏の実現です。来世安穏じゃねえんよ。

生きているのは苦で、死んで極楽へ、と言うのは
後世の馬鹿坊主が考えた事に間違いはありません。
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この回答へのお礼

正解かどうかは知らないが、そうかもしれない。

お礼日時:2022/10/14 05:15

経典の史実については詳しくない。


ブッダの死後、生存していた直弟子達がブッダの言葉を記憶を頼りに集めたと聞きます。それが原始経典の元になっている。その原始経典に、ブッダの肯定する生き方については書いてある。
彼の死生観を語る上では、生や死の否定云々というより、卒業と言う言い回しが当てはまる様に私は思う。

既存の大宗教が隆盛するのは、大体、開祖の死後、幾ばくか経った後のことだから、残る教えは、どうしても聞く側に都合の良い脚色が着きやすいとは思う。
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この回答へのお礼

弟子たちの結集によってまとめられた経典は弟子たちの捉えかたが反映されたものだから仏陀さんの教えとは違っているかもしれない。
仏陀さんは凡人の生き方を卒業したのかもしれない。仏陀の言葉を読むとなるほどという教えが書かれているが具体的なことになると自分は理解していないと分かる。

お礼日時:2022/10/11 08:39

当時、生は不浄なるものだと考え、それは苦しみによって浄められると考えた者たちがいた。

それで、苦行が修行になると考えられ、また実行されていた。
釈迦もそれにのり、何年かの苦行の末、それは無意味だと知る。
なので、釈迦は当時の修行者界隈の死生観を否定したことになる。
そもそも論、生が不浄なものなのではなく、浄か不浄かはその生き方、在り方によって定まる。

では、釈迦はどの様な死生観を肯定したのか?
それは諸々の原始経典に見る通り、徳厚く、智慧に照らされた生き方を完遂した生を肯定した。
それを、経典には、ブッダは生存するものの内に数えられない、死王に見られないと表現されている。
何故なら死の恐怖を克服しているから。生きている内になすべきことを成し遂げたので恐怖しない。
釈迦の覚後の数十年は彼にとっては余生に過ぎない。
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この回答へのお礼

仏陀さんはのちに私ほど苦行に没頭した者はいないと述懐をしたらしい。当時は深い深い瞑想によって悟りを開くことがメインだった。苦行がなぜ必要だったのかは知らない。
徳厚く、智慧に照らされた生き方をされた仏陀さんと記録に残したのは仏陀さんの直弟子ですか。それとも後々の仏弟子ですか。

お礼日時:2022/10/10 04:09

生きていることが苦であるのは、我執があるから。



仏陀さんは、我執から“離れた”から生きたのです。

悟りとは、我執から“離れる”こと、とも云えるのです。
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この回答へのお礼

我執が無くなったら生きていることは苦でないとなる。それでは生きていることは苦である、とするのは間違い。

お礼日時:2022/10/10 04:10

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