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大乗仏教の経典類の大部分は、直接釈迦の言行を記録したものでないのは明らかだと思うのですが、どういう成り立ちであるという建前で流通していたのでしょうか?

あるいは著者や編纂者、編纂年月日が明記された大乗経典というものも存在するのでしょうか?

A 回答 (6件)

宇井伯尋先生→中村元先生は釈尊をひとりの人類史上稀有な思想家と捉える立場だと思いますが、大乗非仏説の立場に立ちつつ大乗経典の存在意義を論じたものとして、竹村牧男著「仏教は本当に意味があるのか」(大東出版社)、平川彰先生は釈尊の覚について「インド仏教史上」、「インド仏教史下」(春秋社)も参考になさるのもいいかと思います。


日本仏教学における新カント主義の立場は梅原猛先生が角川ソフィア文庫「仏教の思想 1智慧と慈悲 <仏陀>」の中で語っていますが、釈尊の覚りを一個の思想と見る立場ですので、大乗仏教も思想の発展と捉えることになります。上記の書は全く別の仏教を垣間見ることができると思います。


大乗仏教徒が大乗経典をどのように捉えていたかは、『大乗荘厳経論』に見られます。
1.(間違った仏教が出ると)予言していないから。
2.(小乗と大乗とは)同時に存在したから。
3.(大乗は、劣慧者の)対象ではなかったから。
4.(どの覚者でも、その覚者が説いたものは仏説と)成立しているから。
5.(仏の出世を保証する大乗が)存在するからであり、存在しないと(声聞乗も)ありえないから。
6.(大乗は実際に煩悩を)退治するから。
7.(大乗の義は)言葉どおりでないから(言葉の表面のみによって仏説でないといってはならない)。

この内、2番目の(小乗と大乗とは)同時に存在したからとは、釈尊の覚りとは空であること。そして空の覚は般若-法華思想で説かれた阿耨多羅三藐三菩提の覚りです。この大乗仏教の究極の覚りである阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚はパーリ上座部、説一切有部等でも早い頃から説かれたことがあったそうです(平川彰著作集『初期大乗と法華思想』65頁以下)。空の覚り、および空性については、『マッジマニカーヤ』の「聖求経」、『スッタニパーッタ』、『アングラッタニカーヤ』に説かれる通りですが、このことから、大乗仏教の根本義は釈尊によって説かれたことであり、したがって仏説でないわけがないという主張です。また、角川ソフィア文庫「仏教の思想 1智慧と慈悲 <仏陀>」には、増谷文雄先生の見解として、釈尊は対機説法として宗教的深遠な真理はもっぱらシャーリプトラに行なっていたが、今日の阿含部経典には、ほとんど含まれていない。実際は、シャーリプトラに行なった説法の方が、今の阿含部経典より相当多かったに違いないと述べておられます。この見解が真実とすると、ここにも同時に存在した大乗経典があったかもしれません。

4番目の(どの覚者でも、その覚者が説いたものは仏説と)成立しているからということですが、下田正弘先生の『涅槃経-大乗経典の研究方法試論』(春秋者)の中で、マックイーンの見解を紹介しています。マックイーンは、「阿含経においてもすでに仏説と言えないものが含まれているが、そのように厳密な意味でブッダ自身のことばでないものが、経典とされている基準に

1,弟子が説いたものを後に「仏」が承認したもの。
2,説法する前に「仏」が承認してとかせたもの。
3,その説法に「霊感」が認められるもの。

の三がある。」としています。阿含やニカーヤでも、仏以外の説が、経典つまりは仏説になったわけです。すでに、『大乗荘厳経論』の作者が4番目に見られる言表をすることは、釈尊の金口であるはずの直説が、部派仏教が四部五裂する間に変質してしまっているという認識があったのだと思います。

ここに、見られるのはその是非はともかく、大乗こそ釈尊がお覚りになった真実の教えであるという強い
自負であったかと思います。

大乗仏教徒にとっての大乗経典とは、1.歴史上に現れた釈尊の覚の追求、2.歴史上に現れた釈尊の本性の追求の2点になると思います。

釈尊以外にも仏が存在するという大乗仏教の教えは、部派仏教が捨ててしまった原始経典に説かれたところの仏性の思想-自性清浄心-光り輝くこころを宣揚するところから生まれたものですが、すべての存在に仏性-仏になる可能性-があると言表する以上、宇宙法界には歴史上の釈尊しか仏がいないということですと理論的に整合性がとれなくなります。その意味で多仏説を採りますが、当時の仏教徒にとっては歴史上の釈尊は永遠の思慕の対象でもありましたので、自らを釈尊とは別の仏とすることはなかったと思います。やはり、釈尊の覚りとはなんであったのか、その釈尊の覚の追求の結果生まれたのが大乗経典ではないかと思います。

平川彰先生は『法華学報・第四号』の中で「大乗経典が経の劈頭に「如是我聞」の語を置いたのは、無批判に阿含経を真似たというのではなく、彼等自身がその経の内容を仏陀から聞いたと信じていたからと考えるのである。それは大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。」と述べられています。深い禅定体験における見仏体験のことだと思いますが、平川彰先生の見解の真偽はともかく、かりに釈尊と同じ宗教体験をしたとしても、ただ歓喜に震える敬虔な信仰の姿があったのみであると思います。そのような釈尊に対する熱い信仰が、その人を歴史の表舞台に出すことをさせなかったのだと思われます。

ニ番目の釈尊の本性の追求ということですが、大乗仏教徒は釈尊のあり方を、生老病死の四苦の輪廻の解脱を目的とする仏から、『スッタニパータ』に説かれるように生きとし生けるもの、全人類、全鳥獣類の幸福を目指す大悲の仏に180度転換させたことです。『スッタニパータ』には当時の部派仏教には、ほとんど省みられませんでしたが、大乗仏教にあっては、大乗の百科全書といわれる『瑜伽師地論』には頻繁に現れる経典です。釈尊は雨安居(うあんご)の期間(六月末から九月末)だけ、むらがって発生する虫を踏み殺さないために集団生活をしていましたが、それ以外の日はひとりひとりに法を説く遊行生活を送っていました。釈尊滅後、部派仏教は遊行生活をやめ僧院に定住し、ひたすら高尚な学問の探求、修行にはげむ日々を送っていたわけですが、このような仏教のあり方から、ひとりひとりの幸福を願ってやまない本来の仏教のあり方への転換を求めるものであったと思います。般若経に見られる菩薩の姿は、歴史上に現れた釈尊のこころの内面における真実の姿の追求によるものと思います。歴史上の釈尊の本性(大悲)とはいったい何であったか。この追求が法身仏という永遠の仏を生んだものと言えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私が質問しました内容について、明確にご回答頂いたと思っております。

あげて頂いた著作のうち、「仏教の思想 1智慧と慈悲 <仏陀>」のみ読んだことがあります。私にとって大変新鮮な内容の本でした。

回答を拝見しまして、大乗教徒も経典の製作にあたっては、その位置づけについてそれなりの配慮や苦慮のあることがよく分かりました。

そして、どうしても私の関心は実際の経典作成風景に移ってしまいます。
つまり、回答頂いたような深い宗教体験をベースにして製作された、本物の大乗経典が全体のどれほどの割合を占めるのかということです。すべてとは思えないのです。

大乗教団も発展と共に様々に分派、肥大化、世俗化したのは間違いないと思います。中には職業的宗教者みたいな人も居たかと思います。
そういう中から発生した膨大な経典群のすべてが作成者の宗教的自覚のうえに製作されたとは思えません。組織的な製作の場合、尚更かと思います。

「大乗こそ釈尊がお覚りになった真実の教えである」という大乗教徒の心情は理解できますが、釈迦の思想を発展させたり、自分なりの解釈を発表するのであれば注釈書や論書で足りるわけで、そうではなく、「匿名で」「経典として」流布させる場合、ある意味確信犯的、宗派政策的で、場合によっては大変に不遜な行為であるともいえると思うんです。
この部分に関しては、聖書やコーランと比べても、節操が無いように思えます。

たとえそれが教説を説く側も説かれる側も合意事項になって慣習化しているとしても、そこに「本物」が埋没してしまっている懸念はあるかと思います。

お礼日時:2007/09/20 16:45

#1・3です。


 ご丁寧な御礼有り難うございました。たびたびにすみません。不勉強なもので、本当にネタが切れてきてますし、お詳しい方もおられるので気が引けますが・・・御礼に記していただいた点について。

 「私の中では経典の製作者としては、学者的な、あるいは官僚的、書記官的なプロフェッショナルの方がイメージしやすいというのも本音ではあります。」
 とされておられますが、自分も「製作集団」のイメージはほぼ同じです。たぶん(おそらく確実に)編集者や執筆者みたいな人達がいただろうと思います。加えてその集団の「核」に高次の宗教的実践者がいる、というイメージでしょうか。
 宗教的実践者が経典の文言を記した、というよりも、実践者の内的体験を手がかりに、その周囲の学者や教養人たちが実際の文言を記し、推敲されていった、という感じでしょうか。
 実際、代表的な経典は、まず中核になる部分ができ、その後徐々に整えられたと考えられています。
 大乗仏教興隆時には、そういう聖俗複合で、多彩な人材が集まるグループがいくつもあったのだろうと想像しています。

 お釈迦さまと同じ境地に至った実践者が複数いた、という旨の前回の回答内容は、あるいはそういう複数の教養人達が寄り集まったことによって見える「幻影」である可能性は確かにあるとは思ってはいます。
 「釈尊と同じ境地に至った人物がいる」ということこそ大乗仏教のタテマエかもしれません。(それはそれでオチがついて良いですが。)
 ただ、そうなると経典を製作した教養人たちの「熱情」や「動機」はどこから来たのか?という話になります。
 上座部系仏教徒への不満、という動機は強いようでいて、それだけではちと弱いように思うわけです。もう一つ何か必要だと。仏教の普遍性・真理性を強く確信できる何か。それはやはり宗教的な確信だったのかな、と思うわけです。
 
 論書に関して、自分はほんの数冊、現代語訳や訓読文にされたものを拾い読みした程度ですが、上座部系部派にしても、そして大乗仏教になるとさらに、この論述に対する強烈な熱情はいったいどこから湧いてくるのか??と不思議でした。
 大乗経典は、論書以上のエネルギーを持って作成されたと思いますし、経典の持つ表現・世界観を考えると、何らかの宗教的体験がベースになっているように思えたわけです。

 常に釈尊を通じた形で「法」を見ていた上座部系部派とは異なる図式(釈尊と法を分けた)となった大乗仏教も、常に釈尊を念頭においていたことは、仏滅後1000年ほどたって成立した密教経典「大日経」の有名な「三句の法門」を含む第一章「住心品」を知った時に感じました。
 悟りを得た者の智慧とは何かという問いに「菩提心を因となし、悲(慈悲)を根本となし、方便を究竟となす」という答えが挙げられています。
 大日経は、とうとう釈尊が説いた形にもなっておらず、法身大日如来が説いたという形になっており、本来人格のない「真理」大日如来が法を説くという、普遍性と方便性を強く意識した経典になっています。
 そこで説かれる「覚者の智慧の内実」(三句の法門)は釈尊の求道と成道・転法輪の決意・説法の方法を下敷きにしたものになっており、その智慧のその内実は「実の如く自心を知る(如実知自心)」ことだとされていて、「自らを拠り所とせよ」「法を拠り所とせよ」と説かれている最初期の経典を思わせます。

 常にお釈迦さまを意識しつつも、悟りの内実とその真理性・普遍性を探求し、ある時は「方便」と割り切り、ある時は真剣に「方便」たるべきものを目指して本来表現を超えた世界をそれでも表現しようとした熱情の結晶。
 是非や評価はどうあれ、大乗経典とはそういうものだと思っています。
 
 たびたびにごめんなさい。お邪魔しました。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

週末に『バウッダ』読みました。
大変興味深く、No.2の方、les-minさんお二人が推薦して下さった理由がよく分かりました。

もともとは私の関心は主に仏教の思想にあります。
明確な思想発表の場が無かった近代以前のインド、アジア地域では、仏教は優れた思想家達が知力を競い合う、今日の大学や学会に近いような、そういう学問所的側面があったかと思います。もともとお釈迦様も実践的思想家のひとりであったわけですし…。
大乗経典の作成がそういう学問的エネルギー・情熱の発散場所となったという側面はないでしょうか?

一方で、仏教と単なる学問所の相違点は当然、宗教的実践と聖域(釈迦)の有無だと思います。仮に教団に思想的天才が出現したとしても、宗教的体験を得られなかった場合は、それでも盲目的に信じるか、思想的に妥協するか、教団を辞するしか選択肢がないと、そういうことはあったのではないでしょうか?

それと、回答者さんも書かれているように、方便の必要性ということもあると思います。
教義を分かりやすく説くというだけでなく、現世利益や加持祈祷、組織としての現実問題からくる社会的、政治的要請への対応というのも時代が下るほど大きな問題となったかと思います。

それで、結局何が言いたいのかというと、経典というのは絶対なもの(というたてまえ)であるだけに教団内外からのすべての働きかけに対する拠り所とされる可能性があり、それだけに仏教を取り巻く二重構造や矛盾それぞれを飲み込んだ内容でなければならず、個人の責任で個別事情に即して書ける論書とは性質も重要性も全く異なり、いくら偉いお坊さんでも単独で、個人的見解のみで作成するようなことはやはり許されなかったのかなあと、そういう認識を持ちました。

宗教体験の実際については勿論分かりませんが、私の考えはやや懐疑的な傾向であるように自覚はしています。
それは必ずしも信仰の純粋さが損なわれるような形ではなく、les-minさんもあげていらっしゃるような共同幻影や、あくまで「理想」としての覚りであっても大乗仏教は成立しうると思います。

しかし、いずれにしても大乗仏教がある意味無節操な器量の大きさで聖俗・清濁受け入れたことが深みのある魅力と普遍性の獲得に寄与した側面はあるのではないかと思います。

お礼日時:2007/09/27 11:58

お礼ありがとうございます。

Ano.4のbonbonnierです。

お礼内に示されている内容については、正直なところ私の手には負えないのですが、私なりに思うところを述べたいと思います。

まず、般若経、法華経等の大乗仏教興起の経典については、それまでの部派仏教の教えを完全否定するものですので、釈尊が説いた経として流布する必要はあったかと思います。もちろん、自分達の立場を鮮明にさせるだけの目的ならば、論、釈でもかまわない訳ですが、大乗仏教の場合では、すべての衆生とともに仏道を成ずることにより、自他共に絶対に崩れることなき幸福を築くことが、本来の目的でありますので、大衆の側にも働きかける必要があります。その目的のために難しい術語を使った論書を作ったとしても本来の目的は達せられないと思います。ゆえに、大乗仏教では、衆生を教化する目的で、最初にやさしい言葉で書かれた文学的要素をも含む大乗経典が作成され、後に論理的な経典、あるいは龍樹の『中論』のような論書が現れるという歴史になっています。自分たちの教義を宣揚するのは、ひとえに衆生のためであるという大乗仏教の観点を見落としてはならないと思います。いきなり、般若経典群を説かずに、龍樹の『中論』が現れたとしても、衆生にはまったく理解ができず、空の教えそのものが廃れることにもなるかと思います。

まず、最初に今までの教えを全否定するところの般若経典群が説かれたわけですが、それは釈尊が説かれてけれども部派仏教に省みられることなく捨て置かれた釈尊の真実の教えを宣揚するためです。私は平川彰先生の『初期大乗と法華思想』は竹村牧男先生の著書に紹介されていたので実際には読んでいないのですが、竹村先生によると、そこで平川先生は、般若経、法華経等の初期大乗経典とは部派仏教が打ち捨てた釈尊の本懐の教えである阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚の教えを取り出して宣揚した教えであると述べておられるようです。平川先生はインド仏教史、初期大乗仏教の専門家ですが、決して釈尊の教えを発展させたものではなく、釈尊の真実の教えを歴史上はじめて説いた教えであるわけです。

では、阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚の覚りとは何であるかということですが、ひとつは空の思想であり、もうひとつは仏性の教えです。

最初に、仏性の教えですが、阿耨多羅三藐三菩提の覚りにおいては、不生不滅の戯論寂滅の中道を覚知するわけですが、これは、生命が一切の煩悩の働きに汚されない真実の主体が現成するところです。これは原始経典の中では自性清浄心-光り輝くこころと説かれるものですが、この自性清浄心-光り輝くこころは角川ソフィア文庫の「仏教の思想 4認識と超越 <唯識」の中で服部正明先生が述べていますが、釈尊滅後、経典が結集される以前から、釈尊の権威ある教えとして信じられていたようです。服部先生も龍樹により、空の思想とともに忘れられた自性清浄心-光り輝くこころが龍樹により初めて宣揚されたという平川先生と同じ見解をとっていますが、すべての衆生が仏になる可能性があるというのが釈尊真実の教えです。

ところが部派仏教は、釈尊以外の人は最高の位は阿羅漢までで決して仏にはなれないと釈尊の教えを自分勝手に変えてしまったのです。この阿羅漢については間違った回答が過去のQ&Aにありますが、原始仏教においては、釈尊や釈尊と同じさとりをさとった仏弟子はみな等しく阿羅漢と呼ばれていたのですが、部派仏教ではこの言葉は、仏陀の異名でゃなく、仏弟子の至りうる最高の聖者の位の意味で用いられるようになってしまい、仏への道と阿羅漢への道とははっきり区別されるようになってしまったのです。僧院に閉じこもって煩悩を絶つことに専念する人は声聞と呼ばれたが、彼らはどんなに修行しても仏にはなれない。凡人から修行を始めて仏の教えの流れに預かったもの(預流よる)、もう一度この世に生まれてから悟りを開くもの(一来)、死後天に生まれてそこで悟りを開くもの(不還)というような階位を経て後に、煩悩を断ち切った聖者の位が阿羅漢ですが、これは仏とは違い知恵の限られた低い位の聖者であったのです。しかし、在家の信者はその阿羅漢にもなれず、せいぜい不還までしか至りえないとしていたのです。

法華経には阿耨多羅三藐三菩提は諸法実相として、すべての衆生に備わると説かれています。この阿耨多羅三藐三菩提の教えが、部派仏教の設立の当初は説かれていたといことは、釈尊の真実の教えもここにあったわけです。このような仏教の歴史の流れを見れば、大乗仏教の興起から釈尊の教えが始まったともいえるわけで、その意味で釈尊の説いた経ということになるのは当然だと思います。

次に大乗経典には、勝義諦の真理(経)と世俗諦の真理(経)があります。勝義諦の真理とは自らの悟りの内容をそのまま経文としたもの。世俗諦の真理とは、その教えを広めるための修行のあり方、訓戒の教え、あるいは機根(法門への衆生の理解度)の劣った者へのその法への誘引のための教え等、その国の世間事情により広範な内容が考えられると思います。それらも、釈尊が説いた経するのは節操が無いといえばそれまでですが、目的はあくまで衆生に広く法を広めるためであると思います。
華厳の教えや密教の教えは文献的に釈尊が説いたということは確かめられませんので、私からは何ともいえません。しかし、釈尊がシャーリプトラの説いた可能性も前回の回答にあるように考えられるわけで、一即無限、無限即一、および空、如来蔵の教えを説いた華厳の思想はシャーリプトラに説いたかもしれません。もっとも華厳経の法理で釈尊が説いていることを学術的に証明できないのは、一即無限、無限即一の法理のみということになります。

また、大乗経典が増広の問題は、そこ国の世間事情、時代状況を考えたものと思います。たとえば『八千頌般若経』が中国で翻訳されるような場合、中国は仏教伝来とともに仏像信仰も広まったものですから、仏が仏像の中にいるかどうかという問題について『道行般若経』に説かれた仏像信仰の章を訳者が勝手に
『八千頌般若経』に追加しています。さまざまな国に伝播するについては、このような増広は広く行なわれていたと思います。

仏典編纂については、般若経典は梶山雄一先生が『仏教の思想 3空の論理<中観>』の中で、それぞれ別個に説かれたものがある段階でまとまったものであるという見解を説いています。それぞれの修行者がある覚りを説いて、他の修行者の何人かが全く同じ覚りが生じたなら、あるいは、そのグループの中で理論の検証があってた正しいと認めら荒れれば、それは仏説として一時保存され、それらがたまった段階でひとつの経にしたようです。ひとつの経典を組織的な形で製作したのは、全体の章の連続性という点では、法華経ぐらいではないかと思います。

また、私は数日前、石飛道子先生のホームページで、ブッダの縁起と大乗の縁起ということについて、長らく疑問に思っていたので思い余って質問したことがあります。その際、石飛先生が、経の流布と時代の変化の問題について語ってくれました。石飛先生の回答も参考になるかと思います。URLを参照してみて下さい。

参考URL:http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbsnew/wforum.c …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ご丁寧な解説を頂き感謝しています。

大乗経典作成の背景として、
・衆生のため
・お釈迦様の教えを歪めて経典化した部派仏教への批判
・内容的にお釈迦様の真の教えであることを確信している

そういうベースがあるということは理解しました。
しかし、「だからお釈迦様の経典を自分たちで作っちゃおう」というのは聖職者の発想としてはなお疑問が残ります。

私も少し勉強しました。
大乗仏教というのは、在俗信者を中心に勃興した面があるそうですね。
そういう成り立ちを持つ大乗教団は、勿論高い理念と情熱を持った集団ではあったんでしょうが、やや人間集団的というか、世俗的というか、柔軟である反面少し節操に欠け、革新的であるが故に最後は密教に至るモラルハザード的な要素の芽みたいなものも持ち合わせていたのかなあと、勝手な感想ですが…。失礼しました。

お礼日時:2007/09/25 18:15

#1です。



 御礼有り難うございます。
 
 御礼内に記されている事柄ですが、旧来より指摘があった事柄だったと思います。ある種のマッチポンプのように、名の知れた論師たち(龍樹や世親)が経典の製作に関わっていたのではないかという着眼は、あるにはあるのですが、いかんせん証明することができないわけです。

 大乗経典の製作は(おそらく)一人で行われたわけではない、という点は留意すべきかと思います。
 代表的な大乗経典類を見ると、大般若経は、現存する600巻の形で成立するまでには数百年かかったと考えられていますし、華厳経はあきらかにいろんな経典の寄せ集めという感じです。終始一貫とした文学作品のような法華経も、全文が一度に成立したとは考えられていません。
 対して論書・注釈書は一人の著作者に帰せられます。

 個人的な心証なのですが、経典の製作者と論書の著作者は分けられていたのではないかと思っています。
 論師が、ある種のスーパーバイザー的な立場から影響を与えた可能性はなくはないと思うのですが、年代や経典と論書の成立の仕方の違いからして、まったくの同一人物が経典も書き、注釈もしていたとは考え難いかと思うのです。

 大乗経典の製作者というのは、自分も非常に興味惹かれるところではあるのですけど、自らを「仏」とした人々は、表に出ることなくむしろ積極的に埋没することを選んだのだろうと思います。ですので、どういう人たちだったのかは想像するしかないです。
 お釈迦さまと同じ境地に達したとされた「仏」たちは、何人いても達した境地は同一の一つなわけで、「複数いるが同一」という意識があったはずです。けっして、悟ってこの経典を説いたのは、どこどこの誰々ですと明かそうなどとは考えなかったと思いますし、そういう顕示欲や名誉欲はなかったと思います。
 論師は解説者として、そして外向けの対論者やスポークスマンとして、経典の製作者とは別の任務(?)がありましたから、名前を出して著述・論説活動を行ったのかと。

 たくさんある大乗経典がすべて同じ過程を経て製作されたわけではないでしょうが、基本的にはこういうところかと思います。
 #2の方が紹介されている『バウッダ』はとても良い本です。もし未読であれば探していただければと思います。

 たびたびにすみません。(そろそろネタ切れです・・・)では。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大変興味深いお話です。

>大乗経典の制作は(おそらく)一人で行われたわけではない、という点は留意すべきかと思います。

なるほど、代表的な経典は組織的に、もしかしたら教団の事業として製作されたのかもしれませんね。
それで今日までその経典製作の風景が明らかにされず、論書等に比べると経典類がはるかに神聖視されていることからすれば、教団のそういう政策は大いに成功だったということですね。

>自らを「仏」とした人々は、表に出ることなくむしろ積極的に埋没することを選んだのだろうと思います。ですので、どういう人たちだったのかは想像するしかないです。
 お釈迦さまと同じ境地に達したとされた「仏」たちは、何人いても達した境地は同一の一つなわけで、「複数いるが同一」という意識があったはずです。けっして、悟ってこの経典を説いたのは、どこどこの誰々ですと明かそうなどとは考えなかったと思いますし、そういう顕示欲や名誉欲はなかったと思います。

大変魅力的なお考えで、私もそうであれば素晴らしいと思います。
ただ、不勉強なのに反論めいたことを言うのも申し訳ないですが、私の中では経典の製作者としては、学者的な、あるいは官僚的、書記官的なプロフェッショナルの方がイメージしやすいというのも本音ではあります。
歴史に名を残す高僧達以外で、お釈迦さまと同じ境地に達して経典を説く存在というのは、ちょっとかっこ良過ぎるような気がして、そんなにゴロゴロはいなかったのではないかとも思えます。
それでも何人かはそういう存在が居て、大乗経典のいくらかは、そういう「仏」の説かれた教えであると、是非そうであってほしいと思います。

お礼日時:2007/09/19 12:27

大乗経典の成り立ちについては、


中村元・三枝充悳「バウッダ」小学館に詳しく書かれています。

この本は、出版社では、絶版になっていますが、古本屋、ネット、ジュンク堂などで入手できます。

参考URL:http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094600809.h …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

探してみます。

お礼日時:2007/09/19 12:10

こんばんは。



 概説書をいくらか読んだ程度の者ですので、すべて確認したわけではもちろんないのですけど・・・
 成立した年月日までわかっている経典はないはずです。

 インドでは歴史を記録するという意識が希薄で、仏教に限らず書物や事跡の年代が記されたり記録されたりすることはなかったようです。

 大乗仏教の興隆の過程は詳細にはわかっていません。上座部系の僧侶とは離れた形で仏塔崇拝に関わっていた僧や信者たちが主になったという説、上座部系でも保守的な層と、社会や在家信者に近い層があり、対立がや離反があったのではないかという説等、実際のところはまだよくわかっていません。

 大乗経典を製作した人物というのは、普通の一般人とは考え難く、相当な実践経験と知識を有する僧侶たちを核にして、その信者や支援者たちを含めた僧俗混成のグループが形成され、その中で経典の製作が行われていたのではないかと考えられています。

 経典の「成り立ちの建前」ですが、大乗経典が製作され始めたのは仏滅後数百年たっていましたし、インドでは当然ながら、お釈迦さまがいないことは皆が承知していましたから、タテマエも何もなかったと思います。
 「仏説」に仮託し、さもお釈迦さまが説いたという体裁をとっていますが(そして中国や日本ではそのことが話をややこしくするのですが)、それはある種の「お約束」であって、誰も(少なくともある程度知識を持つ僧俗は)それを「お釈迦さま」が説いたものと信じてはいなかったと思います。

 大乗仏教徒は「ブッダ(仏・如来)」をお釈迦さま1人とは考えていませんでした。(この点が従来の上座部系仏教と異なる点)
 お釈迦さまと同じ境地に到達することは他の人間にも可能だと考えていた大乗仏教徒は、おそらく意図的に「仏」が「誰」であるかをぼやかしたのだろうと思います。
 そして、お釈迦さまが説いた事柄の記録のみが経典であることがむしろおかしいと感じるぐらいだったのかと。
 数多くの「仏」が皆「仏説」としていろいろな経典を説くことを推進し、その方が自然だと考えていたのかと思います。

 大乗仏教が、その仏陀観や真理観から新たに経典を創作したというのは、確かに特色と言えると思いますが、お釈迦さまの前世物語の創作や経典の整備増補は大乗仏教以前から行われていましたから、そう突飛なことをいきなり始めたというわけでもないと思います。
 また大乗仏教興隆に関わった僧侶たちの中には、「仏陀が複数いてもいい」と誰がどうみても納得できるような修行完成者がいたのかもしれません。

 長々と失礼しました。では。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
よく分かりました。

もしかして偉いお坊さんの代表的な著作に「○○経の注釈書」というのが多いのは、暗に本人がその○○経の制作に関わったことをアピールしつつ、経典と自著の相乗宣伝効果なんかも狙ってたりするような場合もあるんでしょうか?

お礼日時:2007/09/19 00:25

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