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浄土教は仏教と言えるのか?ということは誰もが一度は頭に浮かぶ疑問だと思うのですけど、ここで知識をお借りしたいと思います。

やはり釈尊が説いた元祖仏教とは異質な物であることは否めないと思うのですが、私自身が釈尊が好き、法然・親鸞が好きですので、どうしても浄土教は仏教であって欲しいと思っています。
加えて、少し前に読んだ本に「浄土教はキリスト教と似ている」という文言があったのでショックを受けてしまいました(仏教は非科学的な聖書に頼らず合理的であるという点でキリスト教に優越していると思い、誇りに思っていたので)。

そこで、釈尊の元祖仏教と浄土教との間にこういう思想的・行動的共通点があるよというような例がありましたら教えていただきたいと思います。

文献的・学問的な面からの具体的共通点が欲しいと思っていますので、「救われるならいいじゃないか」くらいの回答は申し訳ありませんが御遠慮ください。

よろしくお願い致します。

A 回答 (15件中1~10件)

岩波新書 「仏教」      渡辺照宏著  仏陀の慈悲を求めて-信仰の道


  〃    「日本の仏教」   〃       アミダ信仰
  〃     「お経の話」    〃      浄土教経典
講談社   原始仏典 第八巻 ブッダの詩II 信仰
  〃       〃     第六巻 ブッダのことばIV 在家者の戒めと清き信仰

渡辺照宏氏の著書が分かり易くていいと思います。
原始仏典の内容は一部の抜粋となっています、全編を通して、ほぼ出家者向き・研究者向きと言ってもいい内容です。
なので その くどくどとした記述のすべてを読破することは困難です(私もリタイアした)
在家者に信仰を勧めていることは確かだと思いますので、その中から汲み取ってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます! 全部買おうと思います。

お礼日時:2012/09/14 17:58

釈尊は 出家もできず、厳しい修行もできない者のために


信仰の道を説いたと言われています。
入滅の後も 仏に帰依し、仏跡を巡拝するように説かれたようです。
そのへんの事は 渡辺宏照氏の著書や原始仏教の経典の随所に見られます。
凡夫に残された最後の道として 仏の慈悲を信じる信仰を勧めたようです。
その事が長い時を経だてて 浄土教として結実したのは偶然ではなかったと思います。
元をただせば 釈尊が信仰を勧めたことによるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

心強いお答えをありがとうございます。

もしよろしければ、渡辺氏の著書や原始仏教の経典の中でも、この本・経典のこんな所に書いてあるよと教えていただければなお助かります。ぜひ買い求めたいと思いますので。

よろしくお願いします。

お礼日時:2012/09/13 09:14

釈迦が無明と称していたかはわかりませんが、


覚りの内容とされる十二支縁起説の中に無明が出てきます。
昨日、無について考えるためにインド思想史の本を
読んでいたところ、覚りの内容に無明がでてくるのが奇妙だと思ったので
回答してみました。
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この回答へのお礼

無明もまた覚りの一つなのですか!? それは浄土教によく似ていますね。ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/13 09:11

ただの思いつきですが。



釈迦 無明

法然 愚痴の法然房

親鸞 愚禿釋親鸞
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ところで釈尊は自らを「無明」と称していたんですか? 今まで読んだ仏教書や釈迦伝にはそういう記述は無かったのですが。

お礼日時:2012/09/12 09:17

禅と浄土は一つではないし、


表裏の関係にある訳でもないけれど、
坐禅して見性すれば浄土が解り、
念仏して迷転開悟すれば禅が解る。

自分の掃いた石ころが竹にあたって音を発し、
道を悟ったという「香巌撃竹」の話がありますが、
果たして香巌禅師は「自力」で悟ったのか、
それとも石と竹の「おかげ」で悟ったのか。


成仏は 異国本朝 もろともに

 宗にはよらず 心にぞよる


物事は見方(心)によって答えが変わる。
何故なら、全ての物事に実体は無い(空)から。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

非常に詩的な、綺麗な文で惚れ惚れしてしまいました(笑)。

>坐禅して見性すれば浄土が解り、
念仏して迷転開悟すれば禅が解る。

これ、とても共感できます。

最後の段落は唯識論ですね。ちょっと齧ったことがあります。

お礼日時:2012/09/12 09:21

お礼、ありがとうございます。




☆☆☆
~~~~~~
ただ、仏教で説く『法界』を擬人化するのにヤハウェやアフラマズダの概念が便利だからそれにヒントを得て阿弥陀仏にしたという解釈なら私も受け入れることができます。
~~~~~~
『法界』を擬人化というのは別としまして、
岩本さんが言っているのは、そういうことですよ。キリスト教を仏教にしたのが浄土教という意味ではないです。
しかし、「《他力本願》という仏教非本来的な思想はキリスト教の影響をうけて成立した」と言っているだけです。それが仏教でないとはまったく言っていません。ただ、仏教非本来的な『他力本願』の思想はキリスト教の影響を受けていると言っているに過ぎません。

『法界』の擬人化、ん。。。どうかな。
『阿弥陀経』を見る限り、浄土信仰はもっとプリミティブ。『大無量寿経』や『観無量寿経』にならないとそうした色彩は出てこないのではないですか。



☆☆☆
~~~~~
でも後の仏教徒が礼拝対象としてパーソナリティーが欲しくなり、法界というものを擬人化する試みの時に、かつて話に聞いたヤハウェやアフラマズダを参考にしてみた結果が阿弥陀仏。
~~~~~
おろ、これは、また、随分と大胆な発言。
な~んだ、もう結論が出ているのではないですか。
浄土教は仏教だと確信なさっているのではないですか。

この《パーソナリティー》が何を意味しているのか、聞いてみたい気もするのですけれど、法界の擬人化とありますので、たぶん、親しみやすさ程度の意味なのでしょう。
まさか、《人間的性格》という意味ではないですよね。ならば、《法界》という概念と相容れません。



☆☆☆
質問者の考える《他力本願》がいかなるものなのか、それによって、浄土教が仏教であるか、そして、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの教えと合致するのかが決まるのではないですか。
外野がどれくらい騒ごうが、関係ないと思います。
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この回答へのお礼

>な~んだ、もう結論が出ているのではないですか。

はい、書いているうちに考えがまとまってきた感じです(笑)。

もちろん、「パーソナリティ」の意味も人間的性格という意味では断じてないです。

一休禅師や良寛和尚などの禅の巨人が最後に阿弥陀仏に帰依していることから自分なりにあれこれ考えてみたんですが、禅の悟りとは法界に自らが帰入することなのではないか。そして、その法界を阿弥陀仏と呼んで、(細かいメカニズムはわからなくても構わないから)そこに浸り切れというのが浄土教なのではないかと。
要するに同じことをしろと言っているのであって、禅と浄土教は実は一つなのではないかと思います。

お礼日時:2012/09/11 17:28

出典がいまいちわからないので


トンデモ話として受け止めてください。

この島の伝説が極楽浄土スクハーヴァティと
関係があるのではないか、という説があるそうです。

ソコトラ島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B3% …
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この回答へのお礼

興味深いですね。ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/11 17:21

>自灯明については以前に私が質問した項がありますのでよければ目を通してみてください。



○「念仏は親鸞一人のため」についてはその通りだと思いますよ。なぜなら、親鸞その人が破戒僧であると認めていたからですね。つまり、外道であることを認めていたのですね。
法然はそこまで追いつめて考えてはないと思いますが、
外道であるから阿弥陀仏にすがったのですね。これは、仏教形式ではなく間違いなくキリスト教形式ですね。

私は、「出家とその弟子」を読んで仏教やキリスト教に興味を持った世代ですから、双方を学べば学ぶほど違うと思いますよ。だだ、仏教は懐が広いので許容しているだけのように思いますね。


>そういう理由で、観想念仏と称名念仏の違いはさほど考慮しなくていいと思いますがどうでしょうか?
法華お題目は何やらわかりませんが、確かに、観想念仏と阿弥陀念佛自体は大きな違いはありませんね。
釈迦大如来は、久遠実情の仏陀ですから、阿弥陀如来も盧遮那仏も役割の違いでしかありませんから。
ただね、釈迦仏教の教えの根本の旗印は「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」なのですね。これに「光明荘厳」の法が加わるのですね。つまり、自らの心を磨き、仏の知恵を学び、衆生を救うということなのですね。
前半の法門が「上求菩提」にあたり、「光明荘厳」の法門が「下化衆生」にあたりますね。
確かに、法然も、親鸞も叡山で学んだ優秀な学生だったのでしょう。当時の世情を考えに考えた末の行動だったと思います。これは、最後の、「下化衆生」つまり「光明荘厳」の法の実践ですね。自灯明と言っても良いかもしれません。灯台のように人々を照らせという教えですね。
自らが灯台にならず、阿弥陀仏の光にただすがるだけを自灯明とはちょっと考えづらいですが、阿弥陀仏の光を取り込んで自らが灯台になると考えれば阿弥陀念佛もありうるという解釈でね。
でもね、最後の法だけをもって良しとするわけにはいかないということなのですね。
釈迦仏教は「上求菩提・下化衆生」の教えだからですね。
どちらに偏っても仏教の本道から外れるのですね。釈尊は菩提樹下で悟りを開き、その足で伝道を始めていますね。わずかのあいだに千名を越す弟子をつくっています。「上求菩提・下化衆生」が釈迦仏教ということを実践しているのですね。ベクトルのことなる、相反する命題を内在するゆえに仏教と思いますよ。切り離すと別の宗教ですよ。となるわけです。このあたりが理解されればと思います。

追伸:法然、親鸞・・念仏の僧たちの過去世がわかると良いですね。やはりナザレのイエスに縁の深い方たちなのですよ。信じるかどうかは別にしてね。
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この回答へのお礼

法然上人の流れを組む浄土教には下化衆生だけがあり、上求菩提がないという趣旨でしょうか?

弥陀に帰依しきることは親鸞聖人も「難中至難無過斯」と言っているように、決して簡単な行いではなく、菩提を求めていないとは言い切れないと思うのですが。

お礼日時:2012/09/11 17:20

>その事件の記述は涅槃経にもありますので史実でしょうけど、観経を論拠にするのは如何なものでしょうか?



○法然「念仏」の浄土宗派は、無量寿経を基本経典としており、このお経はアジャセの事件のおりのイダイケ夫人への説法に基づいたお経であることが明らからだからですね。
釈尊が涅槃に入るときの教えが本来の涅槃経ですが、涅槃経にこの事件が入っている方がおかしいのですね。
釈尊は50年に渡っていろんな説法をしていますが、存命中の在家にまつわる事件における説法は時系列的にはっきりしている説法ということですね。
涅槃経の趣旨は、「汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように」
このようですね。法に依拠して自灯明で生きろと言っているのですね。他力が入る余地のないお経ですね。
だから、鎌倉念仏の根拠にはならないのです。
唯一曲解すればというのが「観無量寿経」ですね。中国あたりで曲解した僧がおり、「称名念仏」はあったようですがはやらなかったのですね。この流れを受けたのが法然ですね。、「称名念仏」は法然の発明品でもないのですね。元が間違っていたということですが間違いを掴めばやはり、外道ですね。
釈迦仏教はなんでもアリの宗教ではなかったのですね。やはり、少なくとも心の修行形態、例えば、反省瞑想などがはいっていないと釈迦仏教にはならないと思いますよ。

参考:浄土教wiki
善導(613年 - 681年) 道綽に『観無量寿経』を授かり、師事する。 主著『観無量寿経疏』(『観経疏』)は、『観無量寿経』は観想念仏を勧めているのではなく、称名念仏を勧めている教典と解釈した。 この称名念仏重視の流れは、法照らに継承されるも、中国では発展しなかった。日本の法然により『観経疏』は再発見・評価され、日本の浄土教に多大な影響を与える。
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この回答へのお礼

自灯明については以前に私が質問した項がありますのでよければ目を通してみてください。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6993538.html?pg=0

観想念仏と称名念仏の関係は、固定電話と携帯電話の関係と同じだと思っています。
固定電話の方が正式なものだし、固定電話が無い会社は社会的な信用もされづらいでしょうが、通話という目的だけに絞るなら携帯電話だけ持っていればいい。独り暮らしの若者など大半はそのスタイルではないでしょうか。

瞑想を凝らして阿弥陀仏の姿を思い浮かべることができたら最高級だけど、口で阿弥陀仏を褒め称えていれば意識の中に阿弥陀仏が自然に出てくる。「シュークリーム」という言葉を聞いたらシュークリームの姿が反射的に脳裏に浮かぶのと同じことでしょう。
そういう理由で、観想念仏と称名念仏の違いはさほど考慮しなくていいと思いますがどうでしょうか?

お礼日時:2012/09/10 14:27

仏教もキリスト教も、『魂の救い』を目的にしています。

この意味は『有限の自分自身』が『永遠の自分自身』と出会う体験によって成就されるという、体験を通しての実践が眼目です。

内在する『神や仏』と『自分自身が出会う』体験です。この体験を宗教体験、或いは『救われた』と表現しています。

是は科学的に表現するなら、左脳に存在する『自我意識』と『右脳に存在する、命の働きの意志、又は意識』が脳梁(意識の根底で)の中で出会う事を意味します。

右脳と左脳に其々違う人格が存在している事を科学的に証明した成果です。ウイキペデアからです。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”


次に載せるものは、脳の障害(脳卒中)によって、二つの意識が交互に、『一人の人間を』支配している様子です。右脳に存在する意識が仏性です。そうして、右脳に支配されている体験が『如何に至福に満ちた体験であるのかが示されています。』


URL:


この体験後は、『心の矛盾』は解消されています。いつも心は『平和に満ちた、静かな心持になっています。』或る哲学者の言葉を借りるなら『絶対矛盾の自己同一』と言う体験です。

右脳と左脳は脳梁で繋がっていますが、『没交渉』と言う関係です。見性した人の言葉では『お前は誰かと、聞く必要などなかった。』と云う事ですが、これもわかった後の言葉です。

この体験は『没交渉』の相手が、相手の為に『自力』で出会う努力の人には『自力本願』となっていて、向こうから『救いがやってきた』と言う努力の人には『向こうからの救いの手』と映るのかも知れません。

向こうから救いがやってきたという意味からするなら、キリスト教的な救いになると思います。

どちらにしたところで『自分には出来なかった』と言う、全てを諦めた、という、自己放下の後でないと、救いは成就しないと言う、矛盾が存在します。

博士の場合も、一旦自分の人生を諦める体験が、この体験の要になっています。全てを諦めた時に『救いが成就される』と言う皮肉さが人生や人間には付いて回っています。

もっと言うなら『救われる事さえ放棄』しないと、救いの体験を得る事が出来ない事を意味するからです。

神経症の完治を望むなら、もう治らない事を受け入れる事を意味します。
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この回答へのお礼

脳科学の観点からのお答え、ありがとうございます。
最後の部分は非常に浄土教的ですね。

お礼日時:2012/09/10 14:29

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