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学生のころ、「如来とは悟りを開いた人で、菩薩とはもうすぐ如来になる人だ」と習いましたが…
阿弥陀如来、大日如来、薬師如来…等、宗派やお寺によっていろいろなご本尊がいらっしゃいますよね。それぞれの宗派(という呼称が正しいのかわかりませんが)にとって、お釈迦様はどのように位置付けられているのですか?釈尊も「釈迦如来」という呼ばれ方をしますが、対等な立場でそれぞれ違った悟りを開いたということなのでしょうか?
過去の質問は読んだつもりですが同じような質問があったら申し訳ありません。

A 回答 (7件)

ご質問のポイントがはっきりしましたので、再度回答させてもらいます。



>「~宗にとっては釈迦如来よりも~如来のほうが上」とかあるのかな

およそ伝統的な宗派では釈迦如来を否定することはありませんが、“格下”に位置づけることが全くないとも言い切れません。幾つかのパターンがあると思います。

まず、阿弥陀如来を至上の存在とする浄土宗や浄土真宗では、釈迦如来は特に礼拝の対象とはなっておらず、あまり大した扱いを受けていませんが、それでも否定されているわけではありません。少し詳しく見れば、むしろ大変尊敬を受けていることがわかります。

例えば、これらの宗派が拠り所にする浄土三部経のひとつ、「無量寿経」には阿弥陀如来のいわば来歴が語られています。阿弥陀如来は遥か昔には宝蔵という菩薩だったこと、誓願をたててそれが果たされるまでは菩薩でいることを誓ったこと、今は西方十万億土の浄土にいること、などが阿難ら仏弟子に語られるのですが、その語り手が釈迦如来なのです。
つまり、遥か昔の阿弥陀仏の生誕から成道まですべて見てきた、言わば全智の語り手の立場にあるのが釈迦如来なのです。信仰の現場では阿弥陀如来一本槍ですが、釈迦如来はちゃんと然るべきポジションを得ている、と言えると思います。

一方、法身仏である大日如来を礼拝する密教では、少し複雑なのですが、ざっと言えば“大日如来の主たる化身として”釈迦如来を高く位置づけています。

実際に曼荼羅を見れば、五智如来といって大日如来の5つの智慧を5人の如来で表した部分があるのですが、その5人(大日如来、阿弥陀如来、多宝如来など)の中に釈迦如来も入っています(名前は不空成就如来となっていますが、釈迦如来と同じこと)。
要するに、宇宙の働きそのものである大日如来が表す真理をわかりやすく衆生に伝えるひとつの姿として釈迦如来が位置づけられていて、釈迦如来を通じて人は大日如来の真理に通じることができるのだ、というわけです。

こういった教義を厳密に適用すれば、釈迦如来よりも法そのものである大日如来のほうが格上、という理解や信仰もあり得るとは思います。先に書いたように、釈迦如来は法の部分集合ですから、お釈迦さんが釈迦如来となれたのも、それは法が万古不易で存在するからこそ、つまり大日如来の御蔭なのだ、と言い得るわけですから。

ただし、現実問題としてやはりその法を説いた歴史上のお釈迦さんの存在を全く意識しないというわけにはいられないのもまた自然ですし、その大日如来の先にまたお釈迦さん、あるいは釈迦如来を投影してみる感覚も否定できませんから、このあたりの意識は少し複雑ですね。お釈迦さんと法、釈迦如来の間の関係は入れ子構造になっているからです。
(例えば真言宗寺院で、大日如来を本尊としながら釈迦牟尼仏を脇や別院に祀っているところは割と存在していて、法であって人格性の薄い大日如来一本槍では済まされない、という信仰の現実が伺えます。)

結論としては、法身仏を頂くところでは、原理的に「こちらが釈迦如来より上」という言い方はできるのですが、実際には、必ずしもはっきり上下を打ち出さない場合の方が多い、ということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

はい、大変よくわかりました!質問の主旨をうまく表せずお手数をおかけしました。これですっきり納得です。
どうもありがとうございました。
neil2112様はじめ、ご回答いただいた皆様、ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2003/09/16 18:14

>たとえば大日如来を本尊としている寺にとって釈迦如来とはどういう存在なのか、ということを聞きたかったのです。


 
大日如来が化身して、釈迦や菩薩、その他の明王になって、衆生を救済する。
こんな感じだと思います。
つまり、みんな根本は大日如来ですよ。
これが、本尊の意味です。
 
釈迦は、仏教を開き、法を教えましたが、その法が何かというと、大日如来ですよと、こんな感じじゃないですか?
大日如来を本尊とするところは、そうなります。 
 
釈迦むにを本尊とするところは、
他の七界の仏は、皆釈迦の分身、だから、娑婆世界の教主である釈迦が、メインで、菩薩などはその子ども、弟子のようなものだと、こうなります。
 
ただ、
いや、釈迦は、法に帰依せよと言ったのだから、
大日如来でも釈迦如来でも、阿弥陀でも、法を現す尊者であり、菩薩は、法を守り伝えるもの。
つまり、この法が、本尊ですよという場合、
法供養などもあります。
 
その場合、開祖は釈迦でも、釈迦が開祖になったのは、法を見つけ、衆生を教化したからであって、釈迦の悟りの根本も、法にあります。
だから、釈迦より何より、法が大事。
こうなります。
 
こんな感じでいいですか?
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この回答へのお礼

なんとなくわかってきました…いや、もうほんとに頭が悪くてすみません。
何度もありがとうございました。

お礼日時:2003/09/16 18:06

いわゆる小乗仏教では「如来」といえばまずお釈迦さんを指すわけですが、大乗仏教ができると「三世十方の諸仏」などというように仏=如来の数が爆発的に増えることになり、結果としてご質問のような混乱が生み出されることになってしまいました。



大乗仏教がたくさんの仏を生み出した背景には、法というものの受け止め方が拡大したことがあります。小乗での「法」とはほぼ「お釈迦さんの教え」という意味でしたが、大乗では「世界の全てを成り立たせている真理」という風に説かれるようになっていきます。
つまり、その「法」によって一切の物事が起こるのだし、人間を含めた動物の生死も何もかもその原理の中にあると説かれるようになっていくのです。お釈迦さんという生身の人間も当然、その法によって生まれ、また亡くなったということになりますし、逆に言えばお釈迦さんが生まれる前から「法」は存在していたのだ、ということになります。

こういう考えから、お釈迦さんが悟りを開く遠い昔から実は仏が存在していたのではないか、という風にまずは考えられるようになり、お釈迦さん以前に6人の仏がいた、という「過去七仏」というものが信じられるようになっていきますし、これを皮切りに沢山の仏が生み出されるようになっていったのです。

この沢山の仏を分類するのに仏身論というものがあり、便宜的に仏を「法身(ほっしん)」、「応身(おうじん)」、「報身(ほうじん)」の3種に分けることが一般的です。

法身とは、法の姿という意味で、つまり法という形にできない宇宙の真理を擬人的に表現したものです。「華厳経」に説く大日如来(摩訶毘慮遮那仏;まかびるしゃなぶつ)などがその代表格です。
応身とは、真理そのものである法が、人々を救うために親しみやすくわかりやすい形をとって現れたとされるものです。お釈迦さんも、大乗では生身の人間としてよりもこの応身仏として信仰されていると考えるとわかりやすいでしょう。我々は釈迦如来という形を礼拝することを通じて、お釈迦さんが明らかに説いた真理を礼拝しているわけです。

報身とは、菩薩が修行によって報われた姿としての仏身をいいます。大乗は菩薩の修行を重視しますから、遠い昔に誓願をたてて、長い間の行の積み重ねでついに仏となった、という意味合いが特に強調されたもので、普遍的な法そのものである「法身」と具体的な人格を持った「応身」が統合されたもの、といってもいいでしょう。阿弥陀如来や薬師如来がこれにあたります。

結局のところ、お釈迦さんという一個人が歴史的に悟りを開き「釈迦如来」となったわけですが、その悟りの内容にどういう形でアプローチするか、という多様性がそのまま如来の多様性を生み出すことになっているわけです。ですから、いろいろな如来も決して釈迦如来を否定する立場のものではありません。

以下は余談です。
ご質問の中ではウェイトが低いのかもしれませんが、如来と菩薩の関係について。
一般には菩薩とは「仏になるべき存在、なれるのに敢えてならない存在」と説明されます。修行を続ける向上心と衆生の間に交わる親近性がその特徴だというわけです。

これは発生的には正しいのですが、場合によっては誤解を招きかねない説明でもあります。観音菩薩や地蔵菩薩が菩薩で如来ではない、といくら言ったところで、現場では如来とほとんど変わらない位置づけを受けているのが信仰の現実だからです。恐らく少なからぬ人が、「仏になるべき存在」という菩薩の定義に釈然としない思いを抱いていることでしょう。

結論的に言うと、「菩薩は如来の手前の存在」というだけでは教学の面から見たに過ぎず不充分で、むしろ信仰の現象面に軸足を置けば「菩薩とはある機能や条件に特化して信仰される“仏”」と言うべきだと思います。
例えば文殊菩薩を例にとると、多くの経典で文殊菩薩は釈尊の招きに応じて説法を行いますし、意外なことに釈尊に変現して説法する場合すらあります。そもそも文殊菩薩は前世の釈尊に仏法を教えた経緯を持つ「釈迦の先生」的存在として信仰されてきました。文殊菩薩は「智恵を授けることに長けた如来」と理解されているわけです。
弥勒菩薩も、兜率天で57億6千万年もの間説法を続けるわけで、その長大な期間を仏にならずに過ごすことが「衆生のかがみ」であるとして信仰が始まるのですが、すぐに「1ヶ所常住型の仏」としてちょうど浄土にいる阿弥陀仏と類似した信仰を生み出します(「弥勒上生経」など)。
同様に、観音菩薩なら三十三身に変化して人々の前に現れる「身軽な仏」として、地蔵菩薩は「代受苦の仏」として信仰されているわけです。

普遍性をもった、あるいは普遍性そのものの擬人化という側面の「如来」はどうしても必要なのですが、逆にその性格上、衆生の信仰の細かなニーズに応えられないという問題を持ちます。これを補完するために、菩薩という名前の言わば機動性に富んだ仏が生み出されたわけで、こういう信仰の二重性は大乗仏教全般に見られる現象です。この二重性が特に日本では神仏習合での神と仏の関係とパラレルになって一般化したことも重要だと思います。
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この回答へのお礼

大乗仏教では釈迦以前にも仏がいたと考えられている。しかしそういった概念が考えられるきっかけは釈迦が悟りを開いたから。つまり仏教の始まりはやっぱり釈迦ってことでいいんですよね?

>結局のところ、お釈迦さんという一個人が歴史的に悟りを開き「釈迦如来」となったわけですが、その悟りの内容にどういう形でアプローチするか

ということはやはりほかの如来を信仰していてもそれを通して釈迦を信仰しているととってよいのでしょうか?
「~宗にとっては釈迦如来よりも~如来のほうが上」
とかあるのかな、というのが知りたいのです。

菩薩のくだり(特に文殊菩薩の話)は初めて聞く内容もあり、とても勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2003/09/11 20:55

 


>学生のころ、「如来とは悟りを開いた人で、菩薩とはもうすぐ如来になる人だ」と習いましたが…

この理解が、もっとも一般的で分かりやすい説明です。仏教諸派・諸宗派の主張するところを比較したり説明したり論じていると、混乱状態になります。しかし、「仏教」である限りは、基本的に、「釈迦牟尼」仏陀の位置付けは、決まっているというか、どのような存在を指しているかは共通理解があります。

まず、「釈迦」というのは、元々、インドの北方、現在のネパールあたりに住んでいた部族の名前、「釈迦族」と云います。一般に「お釈迦様」と読んでいるのは、サンスクリット語で、「シャーキャムニ」、漢訳(音訳)して「釈迦牟尼」のことです。

釈迦牟尼とは、「シャーキャ族の聖者(ムニ)」「シャーキャ族出身の聖者」の意味で、釈迦族には、釈迦牟尼以外、聖者は知られていないようですが、人の名前ではなく、称号のようなものです。釈迦牟尼として知られる聖者は、シッダールタが名で、ガウタマ(ゴータマ)氏族に属するので、「ゴータマ・シッダールタ」が、人間個人としての名ということになります。

(釈迦族の聖者で、釈迦牟尼というのと似た言い方で、ゴータマ氏族の仏陀という意味で、「ゴータマ仏陀」とも呼びますが、これは西欧の学者などの呼び方で、伝統的には、こういう風には呼びません)。

釈迦牟尼は、歴史的な人間ではなく、「太陽の象徴」だとか、「架空の仏陀の名」だとかいう説も、西欧人が仏教を研究した初期の頃には考えられていましたが、研究が進むと、どうも、「実在の歴史的人物」がいたようだという主張が強くなり、「これは釈迦族の聖者の遺骨である」と、紀元前4世紀かそれ以前の文字書体で書かれた、遺骨壺が納められた墓も実際に見つかったりしたので、紀元前5世紀か6世紀に、釈迦族出身のかなり有名な聖者が存在し、これが仏教の開祖の釈迦牟尼(ゴータマ・シッダールタ)であるということが、ほぼ確認されました。

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釈迦牟尼は、釈迦族の王子として生まれたが、人生の苦しみや矛盾や、この世の理解し難い問題に対する答えを求め、出家し(修行者となり)、苦行修行を続けること十年近く、しかし、満足の行く答えが得られないので、苦行ではなく、瞑想で問題を考え、遂に、菩提樹の下での長い時間の瞑想の後、「答え」を見出し、こうして、「覚った人」となります。

「覚った人」を、サンスクリット語で、buddha と云います。これは「覚る」という動詞の過去分詞形に当たり、意味を訳すと「覚者」、音訳して「仏陀」と云います。仏陀は、シッダールタが覚者になった時代でも、過去に多くの覚った人=仏陀がいたという伝承があり、シッダールタも、過去の仏陀と並ぶ、「我々の時代(その当時の)覚者=仏陀」だと受け止められました。勿論、シッダールタの悟りなど偽だという人もいた訳ですが、釈迦牟尼の教えを聞いて、まさに、シッダールタこそ、現代の覚者だと納得し、その弟子となり、あるいは帰依者となる人が、どんどん増えて行きました。

特に、当時のインドの二大大国であった、コーサラとマガダにおいて、マガダ王国のビンビサーラ王がシッダールタに帰依したので、釈迦牟尼を覚者と認める人々の集団=仏教教団は、インド有数の大教団となります。

これが、「原始仏教」で、原始仏教の段階では、特別な意味を持つ「菩薩」とか、大日如来、阿弥陀如来、また観音菩薩などいませんでした(いなかったというより、考えられていませんでした)。勿論、先に述べたように、「仏陀」とは「覚った者」の意味で、実は「普通名詞」であり、釈迦牟尼仏陀以外にも、過去には仏陀が存在し、将来も仏陀が現れると云うことは、考えられていました。

「如来」は、サンスクリット語「タターガタ tathagata」の意訳で、元の意味は諸説ありますが、「修行を完成した者」の意味で、仏陀の「称号」として使われます。仏陀の称号は、如来以外にも、「応供、正等覚、世尊……」などがあり、十ぐらいあるので、「如来十号」とも呼びます。如来とは、仏陀と同じ意味だと考えてよいことになります。

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紀元前後に、「個人の心の救いを求め、覚りを求め修行」して、「覚った者(後の仏教では、釈迦牟尼仏陀の偉大さに敬意を表し、「釈迦の教えに従って覚った者」を、覚者・仏陀ではなく、アルハン(漢訳:阿羅漢)と呼びます)」になるよりも、多数の世の苦しむ人を、いかに救済するか、社会問題の解決が重要だという立場の人たちが、個人救済のため仏教修行する立場の人を、「小乗」と呼び、多数の人の救済を目指す自分たちの立場を「大乗」と呼んで、大乗仏教と小乗仏教の分裂が起こります。

「菩薩」は、サンスクリット語 bodhisattva(ボーディサットヴァ)の音訳で、これも解釈が分かれますが、「覚りを求める者」という意味と、「覚りを備える者」の意味があり、前者は、「修行者」という意味でよいですが、後者の意味解釈だと、大乗派では、独特な意味が与えられます。

つまり、すでに悟りを得て、本来、仏陀=如来となっている人だが、自分一人の覚りに留まっては、世の人の救済という理想がまだ課題として残っているので、あえて、仏陀とならず、修行者の立場で、世の大勢の迷える人を救済するため、活躍している「聖なる者」という意味です。本来仏陀であるが、あえて仏陀とならず、「菩薩行」という、世の衆生を救済する活動に自己を捧げる聖者の称号が、「菩薩」だということになります。

「菩薩」は、もう一つの用法があり、歴史的に実在する人物で、尊敬や崇拝に値する仏教修行者の尊称として使われます。例えば、紀元後の中観派(大乗仏教の派)の始祖で、偉大な思想家であった龍樹(ナーガルジュナ)を尊称して、「龍樹菩薩」と呼んだり、日本だと、「行基菩薩」などと尊称します

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釈迦牟尼仏陀と、大日如来や阿弥陀如来、弥勒菩薩などの関係は、「仏陀崇拝」という崇拝から展開します。釈迦牟尼は、「仏陀である私を崇拝せよ」などとは教えなかったのであり、「私の教え(ダルマー)」を守り尊重し、頼りにせよ、と教えたのですが、その「教え」は、釈迦牟尼仏陀を通じて説かれたので、人々は釈迦牟尼を当然崇拝しました。

釈迦牟尼入滅後、人々は、崇拝対象として、過去に仏陀がいたように、未来にもまた仏陀が現れる。この未来の仏陀を崇拝しようという考えと、釈迦牟尼仏陀とは、そもそも何であったのか、永遠の真理の体現である何かが、仮に地上で人の姿を取ったのではないのか、だとすれば、この「永遠の真理の体現」を崇拝しようという考えの主に二つに分かれます。

この二つの考えは、複雑に交錯しています。未来仏陀崇拝として、現在は菩薩であるが、やがて、36億7千万年後には、この世に仏陀として出現するはずの「弥勒菩薩」を信仰しようとか、別の世界の仏陀であるが、この世界にも関係する「阿弥陀仏陀」を崇拝しようという考えも起こります。無数の世界があって、それぞれの世界に仏陀が存在し、この世界の仏陀は、我々の時代では、釈迦牟尼仏陀であったという考えです。

他方、「永遠の真理の体現」とは何かというと、「三身仏」という考えにまとまって行きます。最初は、「二身仏」だったのですが、仏陀は、「法身」「報身」「応身」の三つの身体を持ち、「法身仏陀」とは、永遠の真理そのものの身体で、時間的空間的に遍在し、滅びることも死ぬこともないのです。この永遠の真理の仏陀が、地上で、人間の肉体をまとって出現したのが、歴史上の釈迦牟尼仏陀で、これは、仏陀の「応身」であり、それ故、寿命を持ち、「人格性」を持ち、また無常であるので、病にかかり、死んで行ったのだという考えです。

大日如来の「大日」は、サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の漢訳(意訳)で、「華厳経」では、十方諸仏を包括する「法身仏」ということになっています。

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「釈迦」とは、釈迦牟尼のことで、歴史的人物であり、苦行や瞑想を通じて「覚り」を開き、「覚った者=覚者=仏陀」となった人です。その釈迦牟尼の教えが、仏教という宗教となり、仏教が展開して行くにつれ、教義的に様々な思索が行われ、空想的なものも加わり、釈迦牟尼仏陀以外にも、仏陀はいるし、今後も出現すると考える人は、「未来仏」を考え、釈迦牟尼仏陀とは、永遠の真理の人間としての現れだと考える人は、「法身仏」を考え、また大乗仏教では、「菩薩」という本来覚者であるが、あえて覚者にならない聖者を考え、こうして、多数の仏陀や如来や菩薩がいるということになったのです。

参考URL>No.190778 質問:ブッダの教えと、仏教。菩薩。阿弥陀。>回答 No.7
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=190778
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=190778
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この回答へのお礼

仏教という宗教自体がよくわかりました。ありがとうございました。
私が聞きたいのは、「未来仏」を信仰することは釈迦を信仰することになるのか?ということなのですがご回答を読む限りではそんな感じですか?つまり、どの如来を信仰していようと「永遠の真理」を信仰するということに変わりはないと解釈してよいのでしょうか?

現在の宗派によっては、「うちの仏様のほうが釈迦牟尼よりもありがたい」とか言っている所もあるのかな?と思ったもので、その辺が聞きたくて立てた質問でした。

お礼日時:2003/09/11 20:29

釈迦は、如来といわれています。


また、対等な立場で、違った悟りというよりも、
悟りによって、平等の境地に達したということでしょうか。
成道といいます。
 
科学的に見れば、人が、法悦という経験を得、悟るということになりますが、人ですから、死にます。
歴史学的には、釈迦は如来というよりも、一人物としてとらえられます。
宗教的には、そうはとらえないでしょうし、観方によると言えば、そうです。
学生の頃聴いた話は、宗教的見方ではなく、現代の学問的見方なので、釈迦も菩薩も歴史的人物です。
 
しかし、大日如来や薬師如来、観音菩薩、などは、歴史的人物像としてはつかみきれておらず、その意味は宗教的なものです。
ですから、彼らは、歴史学的実在の人物では無いということになります。
 
釈迦の位置づけと、その他如来との違いは、歴史学的に実在していたかどうかの違いだろうと思います。
 
如来も菩薩も、人では無いでしょう。 
菩薩は、道を歩むもの。
人間は、道に迷うもの。
 
菩薩は、迷いの中にありて迷わず。
如来は、迷いにあらず。
人間は、迷いの中で、迷いに迷う。
 
菩薩などは、そうそういるものではないのかもしれません。
60億人の今の世界に、人としていても2,3人。
ともすれば0。
それくらいだと、私は思います。
知らないだけで、何百人もいるのかも知れませんが、菩薩がそんなにいたら、また別の世界になっているようにも思います。
菩薩のような人、というのは、たくさんいるでしょうが。

ですが、こういうことは、一概にこうだからどうとは言えないでしょうし、言う意味も、あまり無いようにも思います。
お地蔵さん。
あれも、地蔵菩薩という菩薩です。
 
仏教といっても色々らしく、
人間と菩薩の間にも、多くの階梯があり、
多聞など、他にも色々あったと思います。
 
また、釈迦が成道する前の遥か昔、オウケチク?なんとか如来という仏に仕えていたという話もあります。
その時、釈迦は如来ではなく菩薩だったという話です。
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この回答へのお礼

すみません、菩薩とは?如来とは?ということを聞いているのではなくて、たとえば大日如来を本尊としている寺にとって釈迦如来とはどういう存在なのか、ということを聞きたかったのです。大元、という風にとらえているのか他宗教の神のような存在なのか。ということです。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/09/11 19:19

私も学生の頃の記憶だけですが釈迦は悟りに達した人なので如来である。

如来とは悟りに達した仏である。
菩薩は悟りが何であるか、悟りへの道を知った人。。。という感じだったと思います。
釈迦は如来(仏)の位置にあり、菩薩は如来へ至る段階の途中。。。ということだと思うのですが。
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この回答へのお礼

まさにそういう内容の事を私の先生も言っていました。私の書き方が足りなかったのですね。
ですが今回の質問はそのことについてではありませんので…。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/09/11 19:11

菩薩様については、多少違う記述と思いましたので、書きます。


菩薩様は、将来絶対に仏になると誓いを立てた人のことを言うと先生は言っていました。そして何度も生まれ変わって仏になるのです。だから、お釈迦様も昔は菩薩だったのです。
菩薩様にはいろいろな方がいて、たとえば、出会った人には必ず挨拶することを決心しそれを一度も怠らないで仏になっていく人や、なんだかよく理解できなくても、とにかく人の話を真面目にたくさん聴こうという誓いを立てた人など。何か一つに打ち込んでいく人は、みんな菩薩といってよいのだと、昔仏教の先生が言っていました。
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この回答へのお礼

私にその話をした先生は単に社会の先生で専門家ではなかったので、詳しい話はしていませんでいた。
でも何度も生まれ変わって仏になるということはその先生も言っていたと思います。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/09/11 19:08

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