何歳が一番楽しかった?

「悟りたい、解脱したい」も執着?

仏教の話です。
これは嫌味でも皮肉でもなく仏教を勉強していて素直に感じたことです。

人が僧侶になる動機というか原動力の大きなひとつに「悟りたい、解脱したい」というものがあると思います。

しかし突き詰めて考えると、「悟りたい」も「解脱したい」もやはり欲望のひとつに過ぎないのではないか?と疑問に思うようになりました。

であれば、悟りを求めて一心に修行に励むのはしょせん欲望への執着ではないでしょうか?
では、いったい僧侶は何をしているのだろう?

これは長年の疑念でした。

しかし最近はこうも思うようになりました。

「修行は何事も段階的。修行を始める動機としては欲望も執着もまたアリ。修行が進んで行けば『悟りたい』という執着を捨てることが悟りへの道に続く」ということが自ずと腹落ちしてくるのではないだろうか。

もとより、悟ってしまえば悟りたいなどという欲も消えるハズ。
つまりは、すべての修行は段階的な方便の積み重ねであり、最終解脱に近づく過程で、すべての矛盾は真理に収斂されていくと考えていいのではないか?

…と、このように思うのですが、このような考え方は、修行の過程としては間違っていますか?

A 回答 (9件)

ブッダが捨てられなかった欲は「教化欲」であったと推論されています。



悟りを開けない段階の仏僧や仏教徒には「向上欲」も捨てられないことが多いでしょう。
「悟りたい、解脱したい」も執着というか「向上欲」であることには変わりません。

お説の通りであると思います。
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最高峰の経典は「法華経」です


今(末法)私達が、何を目指すべきか
「従地涌出品第十五」に明確に解き明かされております
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この回答へのお礼

ああ、そちら系統の方でしたか。おそらくそうだろうと思っておりました。

お礼日時:2021/07/01 13:12

「悟りたい、解脱したい」とは、自由に生きたいってことですね。


人は、生老病死など「自分の思うようにならない」と苦しむ。
どうしたらいいのか?
自分で考えて行動すればいいんだよ。
人はそうする事ができるのだから。
全ては、あなたの思い込みなのだから。
この世界は、空(有と無がある)でできているんだ。
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欲望そのものには善悪の両面があります。


 人間は、食欲などの欲望がないと生きて
いけないことも事実です。
 また、欲望が人間を進歩、向上させるエネルギー
となる場合もあります。
しかし、
欲望を創造的な方向に使えず、
際限なき欲望に振り回されて
欲望の奴隷となって苦しむのが
仏教で言う餓鬼界ですね
 「貪るは餓鬼」とあります

美への欲求、人間的な 愛や慈悲等も、
欲望の例に挙げられるのでないでしょうか。
 更に深く考察すると、
美への欲求、知識欲なども欲求に分類できるのです
 欲望とは人を悪へ走らせることもある反面、
文化や技術 の進歩を促す働きもしているのです

仏法では「煩悩即菩提」と説きます、わかりやすく言うと、
 煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。
菩提とは「幸福」であり、悟りを開くことです。
 ふつう、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。
しかし最高峰の仏法では、そうではない。
 悩みという「薪」を燃やして、初めて幸福の「炎」が得られる
と説くのです

だから、欲望を「薪」のように燃やす事が大事であり
欲望を断つのが悟りへの道とは思えませんが、ね

悟って、なんだろうね
先ず、汝自身を知る事だと思うけど
何のために。が分かった瞬間だと思うけど
仏教の最高峰の経典に出ていますね
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

よろしければその最高峰の経典を教えていただけませんか?

お礼日時:2021/06/30 19:29

もう、現代では悟る必要もないのです。



何故なら、『仏になる法』が明確に明かされているからです。

だから、現代の人間は手を上げてタクシーに乗れば良いだけの世の中になっているのです。そして、『仏』という目的地に行けば良いだけ、、、。

でも、多くの人は、見知らぬタクシーに乗ってぼったくられる、、、とか、お金を払う時に偽札を掴まされるのではないか、、、とか、疑い乗る事を拒否しているに過ぎない。

まして、出家の必要もない。
僧侶にならなければ悟れない、、、というのは大きな間違い。
何故なら、僧侶になって修学しても、生涯のうちに正しい法に巡り合う、、、もしくは、自らが正しい法を正しいと認識できなければそれまでである。
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解脱や悟りをもとめる宗派なら


何の為に修行をしてるのか?

欲を捨てるとは確かに聞きますもんね

欲を捨てたい欲にまみれてなにやってんだか?

てな感じで声を掛けてみたら
人それぞれの答えがありそうですもんね

俗世間から離れてまで
欲を捨てたいってなると

残るのって生存欲求くらいかなぁ~
( ̄~ ̄;)

生存欲求って生きたいってな気持ちであって
生きるべきみたいな思いや本能などなど
様々な事柄が考えられるけど

生きたいってな気持ちより
生かされてるって気持ちを心底悟りたいのかも?

捨てる欲すらなくなれば
欲を捨てたい欲すら無くなりそうですもんね

でも、捨てるってな気持ち
悟って気持ちすら

どこか自発的な、自主的な自我や自己が感じられるから

自発的な自主的ななにかと向き合ってるのかも知れないですね

( ̄~ ̄;)適当に答えてみたけど

こんな回答でもOKかな?
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「解脱」が目標ならば、性欲も極度に抑えなければならないのかも知れません。


でも、一般としては、おしどり夫婦という言葉が表すような関係が、好ましい状態と受け止めて良い、のではないでしょうか。

その中に有っても、過ぎたるは及ばざるがごとし、と云った生き方が出来れば、仏教的には“合格”であるように思います。

他にも意見を述べてみたいとは思うのですが、何分ひ弱な頭なのでhisakataさんと同等のレベルでは無理ですね。
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欲望もいろいろ。



好ましい欲望も有れば、好ましくない欲望もあります。

向上心故の欲望は必須、です。
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この回答へのお礼

まあ、私も当然、おっしゃることはここに至るまでに考えた時期があります。

でも、「よい欲望ってなに? 悪い欲望ってなに? たとえば性欲は僧侶には不要だけど誰もが捨てたら人類が滅んでしまう。
およそ人の持つ欲望に本来上下はないはず。あるとしたらそれは人が便宜上識別しただけのものであすはず、すなわちその上下とは実態のない空」と思うようになりました。私はね。

そもそも向上心とは「上」という方向、つまり価値観があって成立する概念でしょう。

であれば、その上下の価値観に執着するのも本来は無意味。もちろん修行の段階である程度のレベルまでは必要な方便だけど、やはり上下に囚われてしまっては最終的には執着以外の何者でもない。

「そんなことを言ったら身も蓋もなくなり議論にならない」という結論に至るのはまだ方便を超えられない修行段階だからであって、「ああ、そうか」と気づいてしまえば、やはり執着以外の何物でもなかったことが見えてくる。…ハズ。

…ということを私は説明したかったのです。

お礼日時:2021/06/29 22:50

ものすごく考えていますねー



間違っていないとおもいますΣd(・∀・´)
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