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高校倫理を学習していて、ヘーゲルの「絶対精神」と「世界精神」という言葉が出てきたのですが、この二つはどういったものなのでしょうか?ざっくりとした概論(一般的な解釈)で構いませんので、教えて下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

ヘーゲルは神のごとくの哲学者ですから理解にはそれなりの覚悟が必要ですね。


一般的とはいえないかも知れませんが参考程度に

「絶対精神」
世界を統べる精神、キリスト教的には神といってもいいが、キリスト教的な論では説明に窮する部分があるのであえて東洋的に仏といえば、世界を統べる仏の精神で、個人個人はその仏の精神(仏性)を内在するものであり、その仏の精神に向かって努力する存在でもある。つまり、神、仏の精神が「絶対精神」ということですね。
神の子、仏の子という表現をすれば、神、仏の精神が絶対精神で、子はそれに向かって努力する存在とわけるとわかりやすいかもしれません。

「世界精神」
「1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンがナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。ヘーゲルはこの時の事を「世界精神が馬に乗って通る」。と表現している。」
こういった表現から、ヘーゲルの説く世界精神とは世界がある方向に向かうように意図された精神(計画)が存在しそれを世界精神と言ってるのです。
もっとわかりやすく言えば、国際的な大企業であればある期間ごとに世界戦略というものを立てます。そのような世界戦略ともいえるのが世界精神ですね。
個々の精神の集合が未来を決めているのではなく予め計画された世界精神というものがありそれに向かって努力している存在が個々の精神であるということですね。ナポレオンの出現はその世界精神に合致したものということでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり難しいんですね。大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/06/30 19:29

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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qニーチェの有名な言葉「神は死んだ」について

「神は死んだ」についてです。

何故にこの言葉が広まった?のでしょうか?ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人がいるのでしょうか?

自分で「ツァラトゥストラのかく語りき」を読んだのですが、その言葉はさほど重要な点ではないと感じましたが…

Aベストアンサー

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つルサンチマン(怨念、ねたみ)が隠れていると指摘したのです。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったものですし、キリスト教はさかのぼればユダヤ教を母胎として発展したもので、そのユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものですので、そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれているとしたのです。

 ですから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者・病人・苦悩する者)が強者(能力のある者・健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ですから、こうしたことからニーチェはキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げるとしたのです。言い換えれば、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」へのたくましい欲求(支配欲・権力欲・性欲・我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。

 また、彼が否定したのは、キリスト教の「神」だけではありません。自己よりも崇高なものを認める価値観すべてを否定していったのです。ですから例えばそれは、イデア世界に永遠なる真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属していますし、その他、自己より崇高な価値観である「真理」「理想」「理念」もすべて否定していったのです。つまりそれらは、弱い人間が、自己から逃避した結果であり、自己の生を意味づけるためにねつ造したものであり、虚構であると暴露したのでした。そして真の価値基準は、「神」や「天国」「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地」に置くべきとしたのです。

 またニーチェは、キリスト教は「畜群本能」にとらわれた道徳であるとしています。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し没個性的に生きることで安心しあう心理によって支えられているとしたのです。そのためニーチェは、民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪したのでした。

 なお、ご質問の「ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人」は、特にいません。「ツァラトゥストラ」も当初、40部を自費出版しただけで、晩年は彼を敬愛する妹に見守られながら、次第に高まる名声を知ることなく静かに息を引き取っていきました。

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な...続きを読む

Qカントの「理性」

カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

Aベストアンサー

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え...続きを読む

Qキルケゴールの思想について教えてください。

キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

Aベストアンサー

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書...続きを読む

Qアメリカの国連納付金の滞納について

アメリカ合衆国は国連の納付金を滞納しているということらしいですが、

(1)それはどういう理由で(表向きの理由で構いません)
(2)何年前から
(3)累計で幾ら位の額を
(4)発言権を失うとが具体的なペナルティは無いのか?
(5)他の常任理事国や当の国連はこの事について何も言えずにいるのか?

といったことが知りたいのです。関連サイトでも構いません。回答及びご意見お願いします。ちなみにお礼のコメントは100%保障します(笑)

Aベストアンサー

加盟各国の分担率は、3年に一度国連総会で見直すこととなっており、2000年12月には2001年~2003年までの分担率が決りました。日本は、2001年19.629%、2002年19.669%、2003年19.516%となっており、アメリカの25%に次いで第2位です。

国連分担率は、基本的には各国の経済力に基づいて決定されます。1956年の国連加盟以来、日本の経済力が成長し続けてきたことにより、日本の分担率は上昇してきましたが、2000年にはついに20%を越えました。(20.5%)
しかし困難な財政状況にある中で2割を越える負担をしているのは公平ではいという日本の主張が通り、わずかながらも分担率を引き下げることが受け入れられたわけです。

それでも常任理事国であるフランスは6.5%、イギリスは5%、ロシアは1%、中国は0.9%です。
つまり、日本の分担率はアメリカを除く常任理事国の合計額を上回っています。これだけの高負担を強いられているにもかかわらず、国連における日本の地位は不当なほどに低いです。率直に言って、日本にとって国連とは負担ばかり大きく、見返りが少ない組織であると言えるのではないでしょうか。

加盟各国の分担率は、3年に一度国連総会で見直すこととなっており、2000年12月には2001年~2003年までの分担率が決りました。日本は、2001年19.629%、2002年19.669%、2003年19.516%となっており、アメリカの25%に次いで第2位です。

国連分担率は、基本的には各国の経済力に基づいて決定されます。1956年の国連加盟以来、日本の経済力が成長し続けてきたことにより、日本の分担率は上昇してきましたが、2000年にはついに20%を越えました。(20.5%)
しかし困難な財政状況にある中で2割を越える負担をしてい...続きを読む

Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Q「仏に逢うては仏を殺せ」の意味

「仏に逢うては仏を殺せ」というこの言葉を画家の岡本太郎さんの著書の中でみつけました。
大変ショックに思い、少し調べてみたところ、もとの文章は、臨済宗の開祖・臨済のことばで、
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」
というのが全文のようです。

この文章、意味があまり理解できません。 自分なりに無理矢理解釈すると「既成の概念や権威にとらわれるな」という意味なのでしょうか? でも、それで「父母を殺せ」だと、家族までも否定したクメール・ルージュ的臭いがします(たぶん、私だけだと思いますが)。結局、あまりわかりません。

この言葉の正しい意味は、どのようなものなのでしょうか? また、手に入りやすい参考文献などありましたらおしえてください。 お願いします。

Aベストアンサー

この言葉は有名ですね。「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、善について考えることは悪を考えることと不可分ですし、美を論じることは醜を論じることに他なりません。

言いかえれば、我々の行う認識という作業は、そのままでは混沌である世界にかりそめの線を引いて、枠組みを与えるということに他ならないのです。我々人間が普通に生きていくうえでは、こういう二項対立を通じた認識を拒否することはほとんどできません。

実際に臨済の言葉のなかの「仏」という概念も、「衆生」つまり悟りを得ていない一般人との間に線を引いて生み出された概念です。悟りを求める僧侶にとってみれば、ひとまずこの「仏」はありがたい目標ですし、これがなければ修行もおぼつかない最重要の概念に違いありません。

けれども、特に大乗仏教では法界一如などといって、世界の全ての存在や現象に等しい価値があるのであって、人間が勝手に線を引いて区別する善悪や美醜、上下といった区分に価値を置かないのです。野に咲く名もなき一輪の雑草も、美しくあでやかな大輪の花も仏の世界にあっては優劣をつけられないものだし、世界をそのように見られる存在こそ真の仏である、とするのです。

従って、「仏を殺せ」というのは文字通り殺人を勧めるものではなくて、仏や衆生といった所詮はかりそめの区分にとらわれてはいけない、ということを強調したものなのです。そういう認識をすることが人間の常ではあるけれども、それを当り前と受け止めてはいけない、その認識そのものに安住することなく超える努力をすることこそが仏への道である、というのが臨済義玄の本意でしょう。

この言葉もそうですが、公案のように全く理論を外れていたり殊更に耳目を集めるような奇矯な言葉を弄するのは禅宗の特徴でもあります。少し難しくなるので詳しくは書きませんが、禅宗は、我々が当然だと思っている二項対立による世界把握が言語というものと密接に関わっていることに十分意識的だったので、言語による認識に疑問を起こさせるような言葉による指導を行ったのです。健康であることに意識を向けさせるために敢えて傷をつける指導を行ったようなものです。

「父母を殺す」という点は確かに心情のうえで引っかかりが大きいと思いますが、しかしこれも実際に殺すわけではありません(実際の「殺父母(=せつぶも)」は仏教ではもちろん大罪です)。言わんとするところは、法界一如の観点にたって血縁によって親・疎を分ける二項対立の生き方をやめよ、ということです。つまり、肉親を特別視することをやめ、父母から受けた恩愛を広く世界から受けたものと受けとめよ、という意味ですから、むしろ殺されるべきは自分の側の認識なのです。

臨済義玄から五代さかのぼる大鑑慧能(中国での禅宗の第六祖)はもともと薪を売って細々と老母を養っていたのですが、薪売りに訪れた町でふと金剛般若経の講義を耳にし、即座に出家してしまいます。今の感覚で言えば母を捨てたわけで誠に薄情なはなしですが、そこには仏教に対する揺るぎない信頼があったわけで、たとえ世間の価値観で不義理とされたとしても必ず自分の出家がより意味のある報恩になる、という確信があったのでしょう。この慧能の出家のエピソードは大変よく知られていましたから、臨済が「父母を殺す」と言った時にこれを踏まえていたことは間違いないでしょう。

曹洞宗の開祖である道元も、弟子から「出家は父母の供養をどのようにすべきか」と尋ねられた際、出家は父母からの恩を父母に限定せずに広く世間に返すことを心掛けるべきで、父母に限定した供養はするものでない、という意味の答えをしています。これなどは「父母を殺す」という臨済の言葉の意味をわかりやすく伝えるものだと思います。

この言葉は有名ですね。「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、...続きを読む

Qシンドラーのリストの赤い服の女の子

この間、BSでシンドラーのリストというのがやっていて父に怖いよと言われながら、見ていたところついついハマって見入ってしまいました。後半ぐらいでしょうか?白黒映像なのに赤い服の女の子が現れたのです。しかも、その後チョコチョコと出てきて最後の方では亡くなって燃やされようとしているシーンで、たぶんその女の子のシーンはそれで終わりだと思うんですが、父に聞いたところはじめの方でもチョコチョコ出ていたと言っていました。あの女はなんなんでしょう????気になって気になって仕方がありません。

Aベストアンサー

私個人の若干情緒的な解釈ですが、ナチスに荷担し、ユダヤ人を家畜や物のように見ていたシンドラーに「彼らが人間である」ことを理解させる役目を持つ存在だと思います。無垢で無力で取るに足らない存在であるために少女の姿で描かれたのではないでしょうか。強制収容所に向かう流れから見を翻して建物に逃げ込む=流されない存在。ある意味で、シンドラーの良心の欠片あるいは投影と見ても良いと思います。後半で出てくる彼女の亡骸は、事態がのっぴきならない状態になっていることと、シンドラーが本気で1人でも多くのユダヤ人(つまり少女の分身)を救おうとするきっかけとして描かれているのだと解釈していました。

Qヘーゲル弁証法なんですが

「ヘーゲルの弁証法とはある意見(正 テーゼ)に対して、それの反対意見(反 アンチテーゼ)とが対立するなかで、それぞれのいい点を合わせたもの(合 ジュンテーゼ)を考えだす論理」なんですか??学校でこう習ったのですが納得いかないんで・・・。わかりやすく教えてください。

Aベストアンサー

思想の例がいいんじゃないかと思って、参考程度に
自由は追求するととてつもない差別が生まれます。
一般的に貧しいものはより貧しく富めるものはより豊かになりますね。富の差が生じますね。
一方、平等は追求すると一切の自由を束縛します。
自由は制限され一番多い貧しいものにあわせると貧しくなりますね。貧しさの平等ですね。
そういう意味で自由と平等は。正と反ですね。
この正と反の壮大な文明実験が自由主義国家アメリカと共産主義国家旧ソ連の例と考えてよいでしょう。
この自由と平等を正と反とすると合とはいかなるものかということですが、自由で平等な足して二で割ったような国家は現実的に存在出来るかといえば、それはないでしょう。自由と平等の矛盾を内在し、それを乗り越える第三の道、それが合というものでしょう。
でも200年の文明実験でもいまだに解が無いところをみると合はわりと難しいことなんですよね。東洋的には中道とか中庸ですね。簡単にいいとこどりしたものが合というものでは無いということですね。


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