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こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。

それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます)
そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。

この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。

 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。

長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

A 回答 (8件)

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。


>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。
1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ
2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ
3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ
4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ
というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。

>>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。
 私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。
 この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。
 しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。

 確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。

>>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。
 「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。

>>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。
 この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。
 個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。
 また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には
「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。
 お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。

 思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

詳しく回答して頂き、真に有難うございます。
回答から察するところ、浄土真宗系の御方とお見受けいたします。私は仏教に興味を持ち始めたばかりですので、大乗仏教に対して正しい解釈が出来ていないと感じています。曲がった解釈に対して忠告してくだされば、幸いです。

>ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??
「修行中の身であることが菩薩の条件」と考えて質問致しましたし、又仏であっても下化衆生を行っていた釈迦は菩薩とは言えないのか?(逆に考えると菩薩は仏になれるのに敢えてならないだけで、それなら仏と変わらないのでは?)それならばなぜ仏になる必要があるのか?
という風に考えて質問致しました。
「釈迦は菩薩の仕事はしていた」「釈迦はもともと仏だった」(mmkyさんの回答より)と「菩薩は参考修行を続ける向上心と衆生の間に交わる親近性がその特徴」「菩薩は機動性に富んだ仏」(ANo5のneil2112さんの回答より http://oshiete1.goo.ne.jp/qa651066.html )からなんとなく解釈出来ました。

>大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。
>他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。
成る程、仏教にも大乗部と上座部の両方の考えを取り入れた宗派が生まれても当然ですよね。そういう柔軟性も仏教の魅力の一つでしょうか。

>梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。
>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 (中略)この言葉は成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。
この二文、相互的に考えても論理的で非常に分かり易かったです。参考になります。

私もbaka-hageさんに習い、柔軟に考えてみようと思います。

お礼日時:2007/10/10 20:19

 お礼の中に少し質問を含んでいたので簡単に私の意見を述べさせていた出来ます。


>>回答から察するところ、浄土真宗系の御方とお見受けいたします。
ご高察の通りです。まぁ、真宗ではありますが私はどちらかといえば法然上人が専門です。

>>「修行中の身であることが菩薩の条件」と考えて質問致しましたし、又仏であっても下化衆生を行っていた釈迦は菩薩とは言えないのか?
 そうですね。すでに、ANo.7のles-minさんの解答の中にご指摘があるように、菩薩のサンスクリット語bodhi-sattvaの意味としては「悟りを備え、他者を利する者」のいみもあり、大乗仏教では後者を強調するようになります。ですから、成道後のお釈迦様を菩薩と呼ぶことが出来るかと思います。ただ、bodhi-sattvaには「悟りを求める者」という意味合いも強いので、どうしても修行中ということになってしまうのでしょう。つまり大乗において菩薩は「自分自身は悟りを求め修行し、その修行で得た功徳や智慧をもって全ての人をともに悟りへと導く者。」ということになりますかね。「全ての人とともに悟りを目指す者」というニュアンスで言えばわかりやすいですかね?


>>逆に考えると菩薩は仏になれるのに敢えてならないだけで、それなら仏と変わらないのでは?それならばなぜ仏になる必要があるのか?
 聖意(仏や上位の菩薩の心は)測りがたし。私のようなものが考察するのはおこがましいことではありますが、少し意見を述べさせていただきますと、菩薩の姿で衆生救済がしやすい者は菩薩に止まり、仏の姿のほうが衆生救済しやすいものは仏になると考えればよろしいのではないでしょうかね。
 阿弥陀様と観音様を例に出しますと、若かりし頃の阿弥陀様である法蔵菩薩は仏を目指すに当って「全ての生きとしいけるものを救える身にならなければ仏にはなりません」と誓い、観音様は仏を目指すに当って「全ての生きとしいける者が救われるまで仏にはならない」誓われます。こうした時、法蔵菩薩は修行中も衆生救済ももちろんしていたでしょうが、全ての衆生を救済する力の本領を発揮するのは阿弥陀仏になって後ということになります。けれども観音様の場合は、仏になることを前提条件にしない衆生救済の道を選びます。どちらが優れていてどちらが劣っているかという問題ではなく、どちらの救済法が自分にはあっているかということになるのではないでしょうかね。しかも、この二つの道は矛盾するものではありません。お互いにお互いを助成しあうことが出来ます。だからこそ、観音様は阿弥陀様の脇に立っておられるわけです。
 

>>仏教にも大乗部と上座部の両方の考えを取り入れた宗派が生まれても当然ですよね。
 両方を取り入れたというよりは、そうなっていったと言うほうがいいと思います。日本に伝わってきたのは大乗仏教ですから、当時の日本おいてはどうしても上座部は小乗という1ランクしたにおかれていたはずです。あくまで日本浄土教は結果的に、「悟り」と「慈悲」二重構造を持ったというほうが良いかと思いますよ。
>>そういう柔軟性も仏教の魅力の一つでしょうか。
 そうですね。しかし、柔軟に考えるには基礎は必要ですよ。ただ柔軟なだけでは自分勝手になりかねませんよ。私自身もなかなか出来ていませんけどね。

どうも長々失礼いたしました。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

詳しく説明して頂き真に有難うございました。
皆様のアドバイスから得ることが出来た知識は一つや二つではありません。おかげさまで、今自分が考えれる質問はほぼ出尽くしてしまった(多分・・・)と思います。
質問の内容からかなり幅を広めてしまいましたが、それにも皆さんが丁寧に説明をして下さり本当に助かりました。
この欄をお借りして、この質問に回答して下さった皆様に心からお礼申し上げます。

お礼日時:2007/10/11 18:47

こんにちは。



 すでにたいへんに詳細なご回答が上っているので、出る幕ではないのですが、感じたことがありまして、お邪魔します。

 ご質問者さんがお感じになっているように、出家後成道前のお釈迦さまは、少なくとも「大乗的な菩薩」ではないと思います。
 #5のご回答者さんもご説明されているように菩薩には「悟りを求める者」という意味と「悟りを備え、他者を利する者」の両方の意味合いがあります。大乗仏教では後者を強調するようになりますが、前者も非常に重要だと思っています。

 そういう考え方を持つためか、ご質問者さんの感じ方や思考の流れを拝見しある程度はおっしゃる意味合いを含めることはできると思うのですが、どうも「お釈迦さまが菩薩と言えるかどうか」がさほどかように重要だろうか・・・という思いが抜けないです。(新しい視点に接することができたな、と興味深く思いましたが・・・)

 大乗仏教の用い方とは少々異なるものの、「菩薩」という用語は、大乗仏教以前から、お釈迦さまや「将来悟りを開くことを約束された者」を指して使われていました。(ご回答の方々が触れているお釈迦さまの前世物語や、授記物語などです。)
 そういう物語は、要は創作でしょうが、お釈迦さまは「菩薩」だったと認識されていたということかと思います。
 大乗仏教の菩薩のモデルとしても、成道前のお釈迦さまが(かなり美化されているかもしれませんが)想定されているのではないかと思います。

 悟りを備えつつ他者を利する者という意味合いでは、成道後の説法を決意したお釈迦さまは、大乗菩薩のモデルということになるでしょう。悟りを開くことと、それを伝えることはまったく別問題ですし。
 そういう意味合いで、成道後説法を決意されるまでは、阿羅漢的だというご質問者さんのお考えは、確かにそうだと思います。(既にご指摘が挙がっているように、語句の意味合い的な問題もあって、難しいところですが・・・大乗仏教以前では「阿羅漢」は「如来」と同意併記されることもあるので。)

 説法を決意されてから以降のお釈迦さまの心情というのは、非常に興味のあるところですが、法を説く事に「使命感」を抱いていた・・・というのは、少々引っかかりました。
 自分はこうだと言える訳ではありませんし、単に表現上の問題かもしれませんが、何か違うような感じだなと思いました。説法を決意した当座はどうだったかわかりませんが、長い後半生、ずっと「使命感」というようなある種肩に力が入った状態のままだったとは思わないです。

 なんだか、まとまりなく申し訳ないです。
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この回答へのお礼

回答して下さり真に有難うございます。おっしゃるところの意味、良く分かります。

>どうも「お釈迦さまが菩薩と言えるかどうか」がさほどかように重要だろうか・・・という思いが抜けないです。

自分も無意味さを感じつつも質問致しました。私は昔から物事を理論的に解釈しなくては(出来なくては)我慢出来ない性質なのです。周りの人からも度々そう言われてきました。そこが自分の短所であり、長所でもあると思っております。
はっきり言えます。「さほど重要ではありません。」

>法を説く事に「使命感」を抱いていた・・・というのは、少々引っかかりました。

実は私も「使命感を抱いていたという風に表現するのは、違っているな」と感じながらも、もっと良い表現が見つからなかったのです。しかし、使命感無くして下化衆生をする気にはならなかったはずとは今でも感じております。又、下化衆生を決意するまでに所謂心の葛藤があったとすれば、「梵天」とはすなわち釈迦の使命感でもあったのではと考えてそう表現致しました。

お礼日時:2007/10/10 20:39

#4追伸


「仏教の外面」で書籍「人間・釈迦」三宝出版を参考程度であげましたが、本当の仏教的「上求菩提」の外面にふさわしい書籍は鎌倉時代前期の華厳宗の僧、明恵上人が残した書籍「明恵 夢を生きる」 がいいかもしれませんね。仏教の悟りが単なる哲学ではなく深遠なものであるということがわかるかもしれません。参考ていどに、
同時代に「下化衆生」を追求したのが法然・親鸞ですね。同時代にどちらかを主に追求した僧はいたということですね。明恵上人は大衆救済をしていないので一般的に有名ではありませんが立派な僧ですね。
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この回答へのお礼

mmkyさん、度々お手を煩わせして真に申し訳ありません。
回答、非常に参考となりました。まずは挙げてくださった書籍を読んでみようと思います。
有難うございました。

お礼日時:2007/10/10 19:01

追伸


「「生まれた時に天上天下~とおっしゃった」というのは当然作り話で
す。」
これは常識的に作り話でしょう。生まれてすぐの子がしゃべるわけないですから。この手の作り話は釈尊がマヤ婦人のわきの下から生まれたとかね。キリストが処女受胎で生まれたとかね。楽しい逸話ですね。冗談と本質がごちゃ混ぜですが、「天上天下~」は仏陀になってから語ったものだと思いますよ。法華経の久遠実情の仏陀に通じるものですね。むしろ私の仏教的気づきに基づいているといったほうがいいのかな。

「釈迦はもとから弟子に上求菩提・下化衆生を課しているからどちらかを否定するのは筋違いということでしょうか?」
筋違いですね。仏教を学ぶなら小乗的修行であれ大乗的修行であれどちらも心にとめなければいけないということですね。仏の道はどの道から入るのも自由なんですけどね。仏教ではどちらかの否定はすなわち自己否定になりますね。「仏は肝要ではありますが修行者が道を外れると外道と言われますね。・・・そのように私には聞こえます。」

「仏教の外面」ですか、あまり深入りしないで読み物程度としてなら、
客観的に見た釈尊が描かれているのは書籍「人間・釈迦」三宝出版ですね。釈尊の内面が描かれていませんので仏教とはいえませんが外面のお話程度「参考までぐらいですね」にはなるでしょう。この本は仙人が遠眼鏡で釈尊を見ている感じの本ですね。現代語で書かれた本が本屋には山ほどありますので選定には仏陀の指針「上求菩提・下化衆生」をフィルターにされるといいかもしれません。
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ジャータカは、大乗仏教でも参照されるけど、どちらかというと部派仏教のものでは?


部派仏教後期の成立ではなかったかと。

上座部仏教で説いています。
http://www.j-theravada.net/jataka/index.html

大乗仏教では、「菩薩」は高位の修行者への尊称みたいに使います。
世尊も元は凡夫だったので、世尊と同様に仏陀の境地を目指す修行者を菩薩と呼びます。

我流で仏教やるのは危険です。
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この回答へのお礼

回答して下さり真に有難うございます。
参考とさせて頂きます。
>我流で仏教やるのは危険です。
危険とは一概に言えないのではないでしょうか。危険では無く、無謀だ、無茶だという感じを私は抱いております。でも私はなにも仏教徒になろうとかそういう理由で学ぼうとしている訳ではなく、日本人として馴染み深い仏教とはなんであろうかと興味を持ち、まずインターネットで色々と調べてみている段階です。
ですけど、どれもこれも正しいように思えて、何が嘘か真か判らなくなってしまいまして。周りに仏教に詳しい人などもいないのでここで質問をさせて頂いています。(しかし、他の宗教にも興味を持ってしまい・・・無謀・・・)

皆様のご助言、真に感謝しております。

お礼日時:2007/10/10 18:52

[うーん、私は釈迦はもともと一人の人間であったと考えていた(そう考えたい)のですが・・]


釈尊も一人の人間として生まれたんですよ。イエスもモーゼもみんな同じです。その心、魂が本来高貴だったということですね。高貴な使命をもって生まれ成長していくうちに人間としての苦しみやこの世の不条理に目覚め、静かに自らを見つめるときをもって大悟する、そのことが仏陀再誕と呼ばれるのですね。人間は誰しも仏性がありますから修行により仏性を光らせば阿羅漢や菩薩になれます。そう仏陀は教えているでしょう。菩薩の上には如来や大如来(仏陀)がいます。上を目指して修行することが上求菩提(じょうぐぼだい)ですね。でも仏は自らの悟りのみをよしとはしていないでしょ。その悟りを広く衆生に広めることで苦しみを取り去ろうとしてますね。これが下化衆生(げけしゅじょう)ですね。弟子にはこの両方を課してますね。修行しつつ托鉢を持ち遊行に出て衆生の苦を取り除くことを修行課題としていたということですね。釈尊はまず心の医者や看護師を養成して衆生救済にあたらせたということですね。釈尊の教えでは、「泳げないものがおぼれるものを救うことはできない」ということですね。
以上で小乗と大乗の意味がつかめるでしょうか、自らを高めることを小乗とよび大衆救済を大乗というのですね。上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)はベクトルが違っていますがこの双方を釈尊は弟子に課してますね。この異なるベクトルが現在の上座部仏教と大乗仏教でしょうね。どちらも釈尊の教えですが、ばらばらにしてはいけないものですね。後世の僧も、上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)のどちらかに分類されますから双方で有名になることは至難の業なのでしょうね。法然・親鸞・日蓮にせよまずはしっかり修行はされてますから、まずはしっかり修行されることが良いと思いますね。
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この回答へのお礼

回答して下さり真に有難うございます。
おっしゃっていること、分かります。参考にさせて頂きます。私は良い質問が出来る程仏教の知恵を持っていません。しかし、一つmmkyさんの回答に疑惑を抱いています。

>本来の仏が肉体を持ってその使命に目覚めたのですから「天上天下唯我独尊」であってますね。仏(釈尊)はあの世でも一番偉い仏なのですからね。・・この点見落とすとおかしな解釈になるね。・・

釈迦が一人の人間として生まれたことにするなら、「生まれた時に天上天下~とおっしゃった」というのは当然作り話です。この話は下化衆生を使命とした釈迦を崇高なものにするために、大乗仏教が作り出した話に思えてなりません。私がけちを付ける立場で無いことは重々承知ですが、「おかしな解釈」とはいったいどういう事ですか?釈迦はもとから弟子に上求菩提・下化衆生を課しているからどちらかを否定するのは筋違いということでしょうか?

ところで、
実のところ私の仏教についての知識はほぼインターネットで得たものなのです。ですから、知識の基盤が危ういと言いますか、溢れている情報の中で真を述べているものを見つけるのは、もともと無知である故非常に困難であるように私には思えるのです。だからまずは、仏教の外面を把握することに努めております。しかし、今の私はそれ程時間に余裕が無いので、あまり重たい本などは読めません・・・。もし、mmkyさんがなにか手頃でお薦めな仏教書などを知っておりましたら、お教え下さいませんか?

お礼日時:2007/10/10 01:22

「・・・それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。


その通りですね。本来の仏が地上で肉体を持って、本来の自分を取り戻す過程ですね。無師独悟といいますね。だから最初から仏ですから阿羅漢でも菩薩でもありません。ただ後世の弟子に修行の道を示すために多少の教えは残してます。それが苦楽中道ですね。悟りの道は遥かに遠いが苦楽中道を守らないと道を外すよということですね。2500年経っても荒修行している外れ者(外道)が絶えないことを見通していたのでしょう。
本来の仏が肉体を持ってその使命に目覚めたのですから「天上天下唯我独尊」であってますね。仏(釈尊)はあの世でも一番偉い仏なのですからね。・・この点見落とすとおかしな解釈になるね。・・
釈尊は梵天勧請の後、短期間に2000人近くを弟子にしています。したがって菩薩の仕事はしてますね。その後、その弟子を教化して伝道にあたらせてますね。阿羅漢とか菩薩はその弟子に対する修行の過程、目標のことですね。釈尊自身のことではありません。弟子に対する方便として話したことはあるかもしれませんがね。晩年、弟子たちにはあなたたちも菩薩になれるといってますね。でも仏陀になれるとはいってませんね。菩薩は仏陀の足元程度なんですね。
参考になるかな?

この回答への補足

↓解答欄に質問の補足を兼ねてお礼を述させて頂きました。

補足日時:2007/10/09 17:24
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この回答へのお礼

回答して下さり真に有難うございます。非常に参考になります。私も釈迦が菩薩とか阿羅漢といったイメージには実は捉えておりません。ただ、仏教的にはどうなのかなぁと思って質問致しました。

>本来の仏が地上で肉体を持って、本来の自分を取り戻す過程ですね。無師独悟といいますね。

うーん、私は釈迦はもともと一人の人間であったと考えていた(そう考えたい)のですが・・。そこの解釈は上座部仏教と大乗仏教とで相違ないのでしょうか?それに、その考えでいくと四門出遊で自らの出家を決意、難行苦行を捨てて悟りを開いたなどの件もその過程のうちに入るという事ですか?又、生まれたときからその使命を知っていたなら、なぜ苦悩し、梵天勧請(そのまま無余涅槃に至ろうとしたのに)という話が生まれたのでしょうか?

私はどの宗教が良い悪いという感覚を持ちません。又、神(仏)として誰かを崇拝する気にはなりませんので、実際に存在した人間である釈迦の人間臭さを多分に残している部分に(少なくとも私はそう感じます)仏教の魅力を感じております。
仏の教えをただ守るのが上座部仏教の考えなら、私はより上座部仏教に共感していると自分でも感じてるのです。比べて、崇拝の色を濃くして、心を込め祈りを捧げた衆生全てが救われるという大乗仏教はなんとなく好きにはなれません(衆生を救おうとする菩薩を尊ぶという点では良いのですが)。キリスト教などに似ているなあ、という感じです。

ですから、私の質問には上座部仏教と大乗仏教との考えの相違という点にも配慮してお答えして欲しいのです。どうか、時間の許す限りで構いませんので宜しくお願いします。

お礼日時:2007/10/09 17:23

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