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よろしくお願いします。
ちょくちょく“仏性”というのを耳にしたり目にします。法話とかで「誰でも仏の子で、仏性を持っている」というふうに使われていると思うんですが、これって具体的にいうとどういうものなんでしょうか。
それから、みんな仏性があるんなら、殺人をするような悪人の仏性はどうなってるんでしょうか。あと、動物とか植物にもある、というのも聞いたおぼえがありますが、そういうことはどうなってるんでしょうか。
哲学しかカテゴリーが思いつかなかってのでここに投稿しましたが、できればあんまり難しくない回答をお願いします。

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A 回答 (13件中1~10件)

 「あんまり難しくない回答」ということなので、なるべくわかりやすく「仏性」について説明できればと思います。

あらかじめ言っておきますが、わたくしは特定の宗教・宗派に属するものでも、信仰を持つものではなく、宗教や仏教に関心を持って、ごそごそと学んでいるものに過ぎません。神社やお寺は大切にしたいと思いますし、人びとが信仰しているものには、それなりの敬意を払おうとも考えています。
 さて、「仏性」とは、Fine21さんが指摘しているように、「仏になれる可能性」である、と定義するのが、もっとも支持を得られるものだと思われます。わたくしは、また別の視角から説明したいと思います。
 「仏性」とは、「生命」と言い換えてもいいでしょう。ただしその「生命」は、自然科学が定義する生命現象とは異なり、「なんらかの意味を持った生命」、と言えるものだと思います。
 なんらかの意味を持った生命とは、自己の生命以外の生命にかかわりをもって、そのむすびつきのなかで存在している、ということです。自己の生命は、他者とかかわることでさまざまな意味を生じ、他者の生命は、自己とかかわることでまたさまざまな意味を生じる。このかかわりが無限に拡がっていくなかで、自己の生命は意味を持つのです。
 仏教では、人間だけではなく、動物や植物にまで「仏性」が備わっている、と考えます。あらゆる生命現象には「仏性」が備わっていると考えるのです。そうした生命は、人間や人間以外の生命とのかかわりのなかで、やはり意味を持って存在しているのです。遠い海で泳いでいる小さな一匹の魚でさえ、そのむすびつきの糸をたぐっていけば、地球に住んでいるすべての人にたどりつくのです。
 「殺人をするような悪人」の生命にも、なんらかの意味があるのです。たとえ殺人者ではあっても、やはりほかのすべての生命とのむすびつきのなかで、その生命は意味を持って存在しているのです。
 殺人という行為をすることは、その意味を見出すことができなかったとも解釈できるし、あるいは、殺人をすることそれ自体になんらかの意味があったとも解釈できるのです。この後者の解釈が自己展開していくことで、殺人を合理化する考えも生まれてきます。仏教もまた宗教であり、宗教には日常生活とは異なる視点での危険な考え方が必ずどこかに潜んでいます。
 「殺人をするような悪人の仏性」という問題は、たとえば日本の親鸞(1173-1262)の「悪人正機」の説に、たいへんおもしろく興味深い考え方が示されています。
 生命は、いま生きているこの世界だけではなく、生命として生まれる以前も、生命としての活動を終えた以後にも、意味を持って存在し続ける、と考えられます。
 生まれ出た生命は、かたちを得て自己以外のすべてのかたちある生命とのかかわりの世界のなかで活動し、「死」という大きな衝撃を自己以外の生命に与えて一旦そのかたちある生命としての活動を終えます。しかし、その「死」によって、そして「死」の以後も、自己の以外の生命活動に意味を与え続け、その自己以外の生命からまたあらたな生命がふたたび生まれてきます。そのあらたに生まれた生命にとって、自分の誕生以前に生命活動を終えた生命は、生まれ出る以前の生命として意味を持つ存在なのです。
 気が遠くなるような生命の循環と連鎖のなかで、意味のある生命としての「仏性」は、永遠に存在を続けるのです。
 「仏になる」とは、死んで死後の世界で成仏する、といったことではなく、生きているときにも他の生命に意味を与えること、死んだのちにも、他の生命に意味を与え続けること、そういった生命のむすびつきのなかでの「与える」ことを言うのではないかと思われます。
 以上のような意味の連鎖こそ、「仏性」というものの姿ではないか、と思われます。以上の説明を、具体的な生活のなかであてはめてみれば、またこれまでとは異なった見方・考え方で、世界を見ることが可能になるのではないでしょうか。
 わかりやすく説明できたかどうか自信がありませんが、とりあえずご参考までに。身近なところから具体的に上記の考え方をあてはめてなぞっていけば、あるいはご理解いただけるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教の教えで縁起というのがありますね。これって世界中のすべてが関係しあって成り立っているということでいいんですよね。そうすると、縁起=仏性ということになりますか。

>たとえ殺人者ではあっても、やはりほかのすべての生命とのむすびつきのなかで、その生命は意味を持って存在しているのです

意味があるとかないとかいうのは、誰が判断するんでしょうか。縁起はなんとなくわかりますが、ほかのものと関係しているからといって、殺人をするような悪人がなんで悟りを開けることになるんでしょうか。そこがよくわかりません。

お礼日時:2005/04/29 21:58

>これだと、別に仏性とか言わなくてもいいということですね。

ならなんで日本ではすぐに仏性仏性っていうんでしょうか?

再度失礼します。
えーと、前の文を読んでいただきたいのですが、仏教にも長い歴史があって、どこを取るかで全然内容が違ってきます。仏教と一口に言っても、2500年も歴史があって、おまけに仏教の経典は、長い時間をかけて、まとまりなく作成されてきました。この点、聖書とは比較になりません。同じ大乗仏教でも、取る部分によって全然違うんだ、ということを念頭に置いてほしいです。

おっしゃるように、インドにいた釈迦は、「言わなくても良い」ことは言ってないのです。でも、これは釈迦の文脈では、必要ない、ということです。どれが正しいとか、そういう意味は私は込めてませんが、歴史的に別のものが仏教に入り、いろいろに変化してきたということです。釈迦の説いた教えの文脈では確かに必要ないです。

日本で言うのは、大乗仏教という仏教を採用しているからです。スリランカや東南アジアには仏性をとく経典を知りませんから、言いません。日本の仏教では、仏性についての説を重く採用しているので、これを外すわけにはいきません。これは日本仏教の文脈がそうなっているというだけのことです。

日本人は、別にインドの歴史上の釈迦が何を言ったかには、さほど興味がないというのが本当のところだからでしょう。信仰の問題というのは、そういうものらしいです。


それに仏性自体についての話しも、いろいろ変遷と複雑な事情があります。普通、仏性というと、人間の平等性とか命の平等性を支えると思っているでしょうけど、そうとも決まってもいません。一闡提と言われる人は、仏性がないとも書かれています。つまり悟れない人がいると説く、仏性の話しもあります。どうですか? すべての人が悟るといつも言っているわけではないでしょう。仏性を説いた代表的経典には、あなたの言うように、人殺しは救われない(正しくは親を殺すなどの5つの大罪を犯したもの)とも書いてあります。すべての人がいつも救われるとも決まってもいません。でも、救われるという話しも書いています。経典が違えば内容が違い、同じ経典でも矛盾する内容があります。違う時代に、違う人が、しかも長い時代をかけていろいろな内容を造ったのが経典なので当たり前です。すべての人が悟るか、悟らないか、仏性があることといつか悟ることは等しいのか、どっちが正しいととるか、いろんな人がいます。それが解釈の違いになります。仏性の話しにも、いろいろ複雑な事情と歴史があるということです。でも日本の仏教は、仏性について、そういう複雑な面があることはもちろん認識してはいるでしょうが、基本を命の重さを宗教的に意味づけていく方向でとってきたわけですね。すぐに仏性というのはなぜか?と聞かれていますが、質問者さんはどういう文脈でそれを聞かれましたか? 「仏を信じること」が前提になってましたかでしょうか? あるいは、どう話を運ばれましたでしょうか? 自分にも仏の性質がある、他の生命にもあると、信じることから話が始まっていたのでしたら、それが仏性を言う理由でしょう。他の運び方もあるかもしれませんが、だいたいはこの運び方だと思います。歴史上の釈迦は、経験に則して話をするので、何か経験できないものや信じないと話が進まないものを前提にして教えを説くことは少ないとされていますが、大乗仏教であり、日本の仏教は基本的に信じることを重んじています。仏性がある、と信じることが、日本の仏教の世界観にとって重要だからでしょう。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。
いろいろ仏教が違うのはわかります。qwerasdさんの前の回答を読んで疑問に感じたのは、なんで大乗仏教では仏性をすごく説くようになったのかという意味です。大乗仏教では信じることが大事なのですか。ならその仏性のない一闡提という人たちは、信じないから仏性がないんでしょうか。仏性がないから信じないんでしょうか。いろいろ疑問が増えたので、また自分で整理して質問させてもらいたいと思っています。

お礼日時:2005/05/08 13:57

 No.3で回答した者です。

若干の簡単な補足を。
 「縁起=仏性ということになりますか」ということについて、それはちょっと違うのではないかと思います。「縁起」がすなわち「仏性」ということではなく、縁起によってむすびついている世界のなかで、生命はあらゆる生命とのかかわりを持ちながら意味を持つ存在として成り立っており、その生命をささえているものこそ「仏性」である、と言うべきでしょうか。
 「殺人をするような悪人がなんで悟りを開けることになるんでしょうか」という点について、たとえば前に言及した親鸞の考え方では、殺人のような罪を犯す人間こそ、阿弥陀さまは救ってくださる、自分の力では自分を救うことのできないような殺人者にこそ阿弥陀さまの救いの手が必要である、ということだと思います。「悟り」という観点からみれば、殺人など決して犯しようのない善人ならば、自力で悟りを開くことができるだろうが、殺人を犯してしまうような悪人は、自力で悟りを開くことなど不可能であり、仏さまという悪人にとっては他者の力すなわち他力によってでなければ悟りを開くことはできない、と説明できるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

補足して頂いてありがとうございます。
普通の人は自力で悟れるし、悪人でも最後は救われる。結局人間は誰でも悟れるということなんでしょうね。

お礼日時:2005/05/08 13:52

正しい知識ではないかもしれませんが、私が納得したお話を。



仏性とは分かりやすく言うと「まごころ」のことだそうです。
まごころは誰でも持っているものですが、人間のまごころは特定の人や物にしか働いていません。これがあらゆる人や物に向くようになると、「慈悲心」とか「菩提心」といわれる仏様のこころになるのです。
質問者さんがおっしゃる「殺人をするような悪人」でもまごころは持ち合わせていると思いますよ。映画や小説でしか知りませんが、そういう悪人の方が改心した時に優しくなったりしますよね。現実でもそうなるのではないでしょうか。
また、動物とか植物にもあると思います。こっちはかなり微妙ですが、可愛いがればそれに応じて反応してくれてるように思います。まあ、犬畜生とか、猫は三日で恩を忘れるとか言われるように、なかなか人間に向けてくれないのでわかりませんが・・・w

>できればあんまり難しくない回答をお願いします。
との事なので、こんな回答でよろしかったでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
まごころ、ですか。仏性はやさしい気持ちのことをわかりやすく言ったものなんでしょうか。

お礼日時:2005/05/05 08:27

縁起の思想と、仏性はもともと別のものです。



仏性というような、何か実体的なものは、釈迦は説いていません。

仏教にも歴史的な展開がいろいろあります。仏性というのは、大乗仏教という仏教の、しかも一部の経典で説かれるものです。日本は大乗仏教の国なので、仏性という語をよく聞きますが、すべての仏教国で聞くわけではないです。

仏性とか言い出すと、悪人にも仏性があるのか、あるいはないのか、とか、動物にはあるのかないのか、とか考え出しますし、実際そういう議論がありますが、もともと釈迦はそんな議論をしたことはありません。

悪い人でも反省すれば、悟ることが出来る、というただそれだけのことです。悪い人でも反省して良い人になるということは、普通にあることではないでしょうか。しかし、すべての悪人が、必ず反省するとか悟るとか、そんなことは言ってないのです。反対に、反省しないとも、言っていません。あくまでも、心の問題ですので、その悪人が、どう考えるかの問題なのです。

仏性の意味に関しては、他の人の言うとおりです。でも、仏教の話をいろいろ混ぜると、話が複雑化してしまいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>悪い人でも反省すれば、悟ることが出来る、というただそれだけのことです

これだと、別に仏性とか言わなくてもいいということですね。ならなんで日本ではすぐに仏性仏性っていうんでしょうか?

お礼日時:2005/05/05 08:26

参考に


仏性は、具体的にいうとどういうものなんでしょうか。
仏性というのは根本仏が作ったものという意味ですね。つまり仏性とは、「考える、あるいは考えられる」ということです。草花は草花として考え、動物は動物として考え、人間は人間として考える能力が備わっているということです。考える能力は全員同じですから良いことも悪いことも考えることができるということが善悪を分けているだけですね。作られたものですから、作られた最初のものは全て良きものということですね。心の奥の奥にあるこの良きものが特に仏性と呼ばれるものですね。これは変わらないものですね。だから誰しも心の奥の奥にある根本仏の考えを知ることができる、これが悟りへの道ですね。自分の心の中を見ればビッグバンが見えるということですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
つまり、考えるものには仏性があるということですね。なら人間は全員仏性があるんですね。考えた結果人殺しをしても仏性とは関係ないということですか。

お礼日時:2005/05/05 08:21

 例えば、「社会人」である前に「生きとし生けるもの」という立場から、その生命存在の尊さに目覚めさせたのが釈迦であり、これが仏教の根本精神であり、重要な所でしょう。

 
 こう言う意味で「仏性」というのは、生命の尊厳を最も重要視する立場からくる概念であり、釈迦の悟りの一つであり、これが現代に継承されて、我々にも「おぼろ」に理解可能なものなのでしょう(理解することは、実は相当に難しい事柄であり、仏教の仏教たる所以でしょう)。
 現代人の中には、他国の人間が空漠に遭遇していても見て見ぬふり」だったり、自己の利潤ばかりを追求している守銭奴が急増しています。(特に日本国)
 「列車事故」等は「仏性」の欠落した世相を反映してお
り、社会全体で憂慮すべき、極めつけの大問題ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>生命の尊厳を最も重要視する
それが仏性なら、人殺しには絶対仏性はないですね。

お礼日時:2005/05/05 08:18

 シッダールタがあまり具体的な指導をしなかったせいで、仏教というのは解釈が横行する体系になっています。

具体的に「豚を食べるな」とか「毎日何時にはメッカを礼拝せよ」などと言う指導が無いので、長い歴史を経る中で経典に疑問を抱いた人が新解釈を作るということが繰り返されて、「仏性」という語にすら異論がいろいろ出てきているという状況です。

 それでも、「仏になる可能性」というのは、最大公約数的な回答ですね。
 ただ、「仏」って、何? という疑問が出てきます。
 もちろんもともとは「仏陀」の略称であり「目覚めた人(悟りを開いた人)」という意味なんですが、大乗仏教ではまた違う、「人(=ホモ・サピエンス)」ではない解釈があったりします。

 という具合に、宗派の数だけ解釈がある状況ですので、優等生的な回答をすれば、「信じたい宗派の解釈を聞いてください」という所になります。

 個人的にお勧めする回答は、「悟りを開く可能性」です。

 で、「悟る」ということがどういうことかというと、これまた簡単ではないのですが、敢えて簡単に言うと、次のような状態になることです。
 「世の中のできごとは皆独立しているように見えるものでも繋がっていて、それぞれが大切なものなんだという気持ちを、自明のものとして感じられる心証になっている状態」

 ちなみに、そういう可能性を本当に人はみな持っているのか、という疑問に対し、平安時代に最澄と徳一が大議論したのですが、詳細は現存していません。残念なことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
簡単にすると、人殺しをしてもそれは悟りには関係なくて、心証しだいで悟る可能性があるということですね。

お礼日時:2005/05/03 14:29

「仏性とは」で検索をかければ分かりますが、色々な解釈があるようです。

ですから一概にこうだ!と説明するのはできないようですね。あくまでもそういう解釈もあるということになるようです。ですがだいたい共通しているのは誰もがみな「仏を持っている」ということです。

ここでいう仏を持っているというのが、場合によっては
「悟りを開く可能性を持っている」
「みんなの中に仏がいる(大日如来がいるという解釈もあるようです)」
「仏と同じ性質を持っている」
などなど解釈があるようです。

そして何にせよ、誰もが仏性を持っていてそれを磨く(この「磨く」ということの解釈も修行をするとか、善行を積むとか、座禅するとか、真言を唱えるとか色々です。)ことにより悟りを開くことができるということです。

なぜ悪人でも悟りが開けるのか?

これは別に「悪いことをすれば悟りが開ける」でもなく、「悪いことをしたら悟りを開くことは永遠に出来なくなる」でもないからです。悪行を重ねてもその人にも仏性があるのだからそれ以後の仏性の磨き方次第では悟りは開けるよってことです。

草や動物たちも悟りが開けるのか?

輪廻転生という考えがある以上、草も木も動物も虫も同じ生き物でしょう。ですから悟りは開けるということだと思います。ただ悟ってもそれを人間に主張できるかどうかは疑問なんで(言葉通じません)虫が悟りを開いたとしてもそれを認識できる人間がいるかどうかは疑問です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
悪いことをしても、仏性という可能性には傷はつかないということですね。

>輪廻転生という考えがある以上、草も木も動物も虫も同じ生き物

人間は草や木には生まれ変わらないのではないのですか。人間にありがたいのは仏の教えを聞けて仏になれる存在だから、とお経に書いてあるのを読んだことがあります。

お礼日時:2005/05/03 21:34

(1) 例えば史実として、殺人者ではないのに、その当時の裁判によって死刑がほぼ確定した状況下で、毒杯自殺した


人があるらしい。
(2)死刑囚の中にも、無実の人も全く無いわけではない。

 仏教はこういう人間社会の宿命を扱う超社会的存在です。 だから、仏教と法律と同じ土俵で考えると何か妙
なことになります。 
 とかく人間集団は集団(=社会)を半分以上重視します。 一方、仏教が問題にするのは「あなた一人」です。
つまり、発想の根底にある何かが異次元のものなのだろ
うと考えるわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
(1)も(2)も、実際には無実だけど処刑される人がいるっていう例ですよね。無実かどうかと仏性とはどう関係するんでしょうか?

お礼日時:2005/04/29 22:42

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1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

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煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
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  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q立正佼成会の彼女の裏の姿が気になります

結婚を考えている彼女から最近カミングアウトされたのですが、立正佼成会という新興宗教に実家ぐるみで加入?しているそうなのです。「宗教」と聞いただけでやや偏見を持ってしまうのはどうかと思いますが、やはり引っかかります。
このサイトでも同じような質問をされている方がたくさんいるようですが、とても参考になります。今回私が皆さんに教えていただきたいのは、立正佼成会の会員とそうでない無宗教の人との違いです。
具体的にどのような行事があり、どのような慣習ややらなければばらないことがあるのでしょうか。「団参」とはなんですか?また、宗教によっては禁止とされる行為もあると聞きます。
立正佼成会にそのような禁止事項があるものですか?
親切な方、ご回答願います。

Aベストアンサー

佼成会会員の娘です。
わたしは、信者ではありませんが、成人するまでは、親の監督下ですので、
教団と深く関わっていました。

まず、ひとつ言って置かなければならないのは、
たとえ宗教団体でも人の集まりです。仏様を敬っていても、ふつうの人間です。
諍いを起こしたり、間違いを起こしてしまう人もいれば、
思いやりを持って、誠実に仏に学ぼうという人もいます。

つまり、平たく言うと、佼成会は、「仏教サークル」です。
「カラオケ」が好きな人が集まれば、「カラオケサークル」ですが、
「仏教の教えと庭野さんの考えが良いと思う人のサークル」です。
サークルなので、合宿(団参)や勉強会もあれば、お茶会や座談会・お祭り・ボランティア活動(ユニセフ街頭募金など)もあります。

カラオケサークルには、ロックを狂信している人もいれば、ただ歌うのが好きな人もいるように、
「個人の解釈で、教えの受け取り方も、人への勧め方も様々です」

「ただ拝めば良いことがある」という人もいれば、「良いことをすれば、徳がつまれて良いことがある」と思う人もいれば、「人に会うことが好きだから通っている」という人もいるし、「悩みを聞いてくれる人がほしい」という人もいます。また、「本当に自分の成長を目的にしている人」もいます。そして、一部に「コレは絶対であるから、人に勧めることこそ善行である、と信じて疑わない人」も当然、巨大な教団には現れてしまうのは事実です。
でも、それを不快だと思った時には、話せば本人に戒めてくれる人も、
教団にはちゃんといます。
だから、ひとつの教団と言っても、多くの人の集まりであることは忘れないで下さい。
彼女がどのような人か、見極めるのは質問者様自身です。

それと、家族が誘われることがありますが、断ることは自由です。
ご自身が信仰されないかは、ご自身と彼女の問題です。
彼女が強要しない方なら、何の問題もありません。
もし、自宅で、彼女が他の方とお供養をしたいという時は、家に居なくてもよいのです。
ちなみにわたしは、人様に自分の先祖を供養してもらっているので、
せめて同席しようと、郷に入れば郷に従えで、その場だけ読経しますが、
普段は関わりはありませんし、会員の皆さんにも、
「わたしは、宇宙の壮大な力に敬意と信仰心は持ちますが、無宗教です」と宣言して、
その立場で、お話ししています。

この関係を築くにはわたしの場合、紆余曲折ありましたが、
時間をかければ、きっと相互理解も出来ます。

最後に、わたしが、この教団と関わりができたことで得たことは、
自分の考え方の前向きさです。
信者ではないですが、そういう教えを受けていた母に育てられたので、
考え方がシンプルで、他の考え方に柔軟になれた気がします。

佼成会会員の娘です。
わたしは、信者ではありませんが、成人するまでは、親の監督下ですので、
教団と深く関わっていました。

まず、ひとつ言って置かなければならないのは、
たとえ宗教団体でも人の集まりです。仏様を敬っていても、ふつうの人間です。
諍いを起こしたり、間違いを起こしてしまう人もいれば、
思いやりを持って、誠実に仏に学ぼうという人もいます。

つまり、平たく言うと、佼成会は、「仏教サークル」です。
「カラオケ」が好きな人が集まれば、「カラオケサークル」ですが、
「仏教の教えと...続きを読む

Q「禅」って何ですか?

「禅」って何のことですか?

外国にいて、たまに外国人に「ボク『禅』が好きなんだよ~」と話をふられます。
わたしが日本人だからいってるのでしょうか?
座禅の話ではないですよね?

老荘思想と関係していますか? 関係性もよくわかりません。


"Zen" は、好きな人の間ではけっこう流行ってるみたいです。
Zen House などというシェアハウスもチラホラあるようです。
なんかステキな感じの家の写真でした。どことなく和風というか。
でも高い! 高収入者の趣味なのでしょうか・・


お手数ですが、「禅」って何なのか、
基本のとこを
バカでもわかるように、やわらかくお願いします。

Aベストアンサー

外の物事に対して心の動揺が静まっていること、だったように記憶しています。
ですから、座って目をつむることが禅と言うわけではなく、禅は心の状態を表す語句と思われます。
ヨーロッパでは、ライフスタイルの一環のように思われている節があるようです。
日本で言うロハス?みたいに。原義を理解するのは難しいかもしれないですね。

Q大日如来様とはどんなお方なのですか?

私は浄土真宗ですがご説教の中に大日如来様の話が出て詳しくしりたいと思いました。

もしよければ教えてください。

Aベストアンサー

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一目見た中国真言宗の最高僧が、「遅し!我、汝を待つこと久し!」と叫んだという逸話があります。

 勉学に励んだ空海は真言宗のすぐに最高位に就き、奥義や仏典などを全部日本に持って帰ったために、以後、中国では真言宗は廃れました。数年前、中国に空海像が里帰りしたような記事を見た記憶があります。


 密教では当然、大日如来は宇宙(宇宙を描く曼荼羅)の中心であり、諸仏(如来その他)も大日如来から産まれるものとされています。それ故、諸仏の王とされて王冠を被って描かれたり、彫られたりします。場合によっては装身具も身につけます。

 大本の思想は、帝釈天と戦った阿修羅系の神だそうです。ゾロアスター教のアフラ・マズダ(全生命の根源)・・・ そのものではないようですが、思想的には同系だとのこと。

 一神教は、他宗教信徒に対して「受け入れ」を求めるだけ(拒否すれば死)ですが、仏教のように平和的な宗教では、相手の言い分を認めて受け入れなければなりません。

 有名なところでは、阿修羅は帝釈天と何度となく戦った後、仏教に帰依したことになっています。これなどは、阿修羅を信じる者に、「阿修羅でさえ帰依したんだから、おまえたちも」と言うための方便だったものと思います。

 そう説得するためには、まず阿修羅の存在を認め、次に仏教の中に受け入れなければなりません。

 つまり、平和宗教というのは、いろんな宗教からの影響を受けざるを得ないのです。で、その一つが、大日如来。

 大日如来は、万物の根源であり宇宙そのものですので、かくかくしかじかの容姿であった、こう考えた、というようなことはおそらく伝わっていないものと思います。

 その代わり、というわけではないのでしょうが、金剛界や胎蔵界のそれぞれで、さまざまな仏や菩薩、明王などに変身して人々を教え導くとされています。例えば、不動明王も大日如来の変身姿の一つ(教令輪身)です。

 従って、大日如来そのものを直接知るのではなく、それぞれの仏などの教えや特徴を知って積み上げていくしかないのではないかと思います。
  

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q山川草木悉皆成仏とは

仏教では山川草木悉皆成仏と説いていますが
これが難解で分かりません。

感情のあるものを有情、そうでないものを非情と
捉えて、人は有情ではあるが髪とか爪など感情の
ないところの非情と一体になっている。
人に仏性があるのは、有情非情ともに仏性がある
ことである。だから非情の山川草木にも仏性が
ある。こういうことを教わりましたが、その時は
なるほどそうなんだと思いましたが、いま思うと
有情非情が一体だからではないのかな。非情のみ
の山川草木になぜ仏性があるのだろう。

考えていますが答えが出ません。
ご解説ご回答をお願いいたします

Aベストアンサー

草木成仏という思想は、日本ではポピュラーですが、伝統的な仏教思想のうえからは少し逸脱して主観的な感覚にかたむいた部分があります。そこのあたりに少し落ち着きの悪さというか、論理の飛躍を感じられるのではないか、と思います。

遠回りのようですが、最初に日本での草木成仏の見解を整理しておきます。
まず、親鸞は『唯信鈔文意』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」と書いています。仏性が満ちているこの世界では、草木も成仏するはずだ、ということです。

また、空海はわが国で最初に草木成仏説を唱えた人物ですが、『吽字義』のなかで、「草木也成。何況有情」として、はっきりと草木でも成仏する、と名言しました。草木ですら成仏するのだから、心のある生きものが成仏しないわけはない、というわけです。

ほかにも、最澄は「木石仏性」といい、非情にも仏性があることを強調しましたし、道元は草木や瓦礫を含めたこの世界一切をまるごと仏性の表れと表現しています。

ただ、ここで仏教の伝統的な教学を確認しておいたほうがいいのではないか、と思います。というのは、一応正統とみなされる教学では、「仏性があること」と「成仏すること」は峻別して考えられていて、草木成仏は、いわばこのセオリーを無視ないし超越して、仏性をイコール成仏としてみなす見解にたっているからです。

少し説明します。
初めて「仏性」という言葉を使ったのは大乗の涅槃経で、「一切衆生 悉有仏性」という言葉はよく知られています。ここにおいて仏教の歴史上はじめて、すべての衆生には仏性がある、とうたわれたわけです。

しかし、この言葉にも制約があるのです。ひとつは、「衆生」というものの中身が、もっぱら「(心があると当時思われた)動物や昆虫のたぐい」だけであって、植物はもちろん、無機物は想定されていないことです。これは考えてみればあたり前のことで、仏性というもの自体が、人々を仏道修行へと誘引する目的で説かれたのですから、涅槃経では「修行しないと仏性は見えない」だとか、「悟りを求める気持ちがないと仏性が見えない」という立場をとっているのです。当然、仏性は心を持っている動物について限定的に語られることになるわけです。

意外と知られていませんが、涅槃経の終わり近くでは、「一切衆生即仏性」とも説かれます。「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は仏を見る。この仏とは仏性である。なぜなら、仏たちは仏性を本性としているからだ」(獅子吼菩薩品)とあって、仏性とは実は法のことで、法というのはすなわち縁起の理法のことである。とすれば、縁起の表れに他ならない存在である衆生は、実はそのまま仏性なのだ、と論が進められるわけです。

ただ、「衆生がそのまま仏性である」といっても、先に書いたように涅槃経の目的は衆生を仏道にいざなうことですから、その仏性はやはり八正道や六波羅蜜といった行をおこなわないと実感されない、という立場が強調されていました。つまり、仏性はあくまでも修行の結果として確認されることにすぎないし、仏性と成仏もあくまでも切り離して考えられていたわけです。

しかし、観念的な純粋化というのは思考のひとつの常であって、仏性は衆生だけについて説かれるのでなく、やがて、縁起そのものの表れである現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である、と観念されるようになっていきます。草木も山も川も石ころも、すべて仏性であるというわけです。
最澄(草木の仏性は力説したものの、その成仏は語っていない)や道元(世界はそのまま仏性だとしながらも草木の成仏までは書いていない)は、あくまで修行者のひとりとして、このような世界観を表現したと言えるでしょう。

詳説はしませんが、やがてさらに、仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である、と無条件に肯定されるようになり、この世界の存在はすべてそのままで円満具足した仏である、世界は本来過不足なく悟りのなかにある、という感覚を生みます。これが草木成仏思想の背景です。

こうやって眺めてみると、草木も成仏するという見解は、突き放して言えば認知上の観念的逸脱である、という言い方もできるかもしれません。「本来さとっている」という思想では、修行の価値を位置づけることがむずかしくなりますから、いきおい抽象的な言説に終始しがちで、そのあたりの主観性がわかりにくさと裏腹になっているのでしょう。
(逆に、現代のわが国で「草木成仏」がそれほど反発をまねかずに一定程度受け入れられるのは、曖昧な言説のままホンワカとした自然観に包まれてしまっているから、なのですが)

ただもちろん、主観的であることは必ずしも否定されるべきことではありません。宗教は結局、個々人がどのように目の前の世界を認識するか、という問題に帰着するのだから、です。

答えになっていませんけれども、涅槃経について書いたように、瑣末に気をとられすぎるとその本意を見失ってしまいがちです。「草木が成仏する(している)」という世界認識が、仏教という大枠のなかでどのようなポジションにあるのか、という点を考慮しながら、それがどのような体験を織り込んで成り立っているものか、自分の体でもって追体験しようとする努力をする、ということが大事なのではないかな、という気がします。涅槃経が修行を重視していることの重要性は、強調してもしすぎることはない、と思うからです。以上、僭越ながら・・・。

草木成仏という思想は、日本ではポピュラーですが、伝統的な仏教思想のうえからは少し逸脱して主観的な感覚にかたむいた部分があります。そこのあたりに少し落ち着きの悪さというか、論理の飛躍を感じられるのではないか、と思います。

遠回りのようですが、最初に日本での草木成仏の見解を整理しておきます。
まず、親鸞は『唯信鈔文意』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」...続きを読む

Q「充分」と「十分」の使い分け教えてください

題名のとおりですが、どう使い分けるのか知りたいです。

たとえば、「私はじゅうぶん満足した」のときは、十分でいいんですよね???

どちらをどう使い分けるのか教えてください。

Aベストアンサー

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
 ・漢字の学習の底が浅く安易になった、即ち本来の意味に注意を払わない。
☆この二つの文字の違いは何か?
【十】:1・2・・・・・・と来て数が満ちる。
  原意:古代に枝や縄の結節で数字を示した方法の延長が現在の字形。
     九が数の窮まった値として縁起よく、重視されてきた。
     更に9+1は十分大きい ⇒ 数が足りている状態。 
  ☆数詞、段階を踏むデジタルな思想です。
【充】:満ちる、満たす、余すところなく、担当する、埋める。
  原意:長い、高い から 成長した大人、肥満、肥大、振る舞う、 
     などを意味するようになり、現在に至っています ⇒ 充ちる(満ちる)。
  ☆基本は動詞、切れ目なく満ちる、満たす、果たす、アナログ的思想です。
【分】:実は、発音も意味も一意でないのです。
  【十分】の発音はshi2fen1   【分】fen1の意味は 部分、分割したもの など。
  【十分】の発音はchong1fen4 【分】fen4の意味は 成分、本分、職責 など。 

さて、お尋ねのこと「私はじゅうぶん満足した」はどう書くか。
 ・単純に量的に満たされたならば【十分】。
 ・心または腹が充足感を以って(徐々に内部から)満たされた場合は【充分】。
    としたいところです。
  
【充】については以下の用法で感覚をつかんで下さい。
 充電・充填・充足・充実・充溢・充血・充ちる(潮が、悪意に、月が、刑期がetc)
ついでに、
  「十分ご説明をいただいて、充分満足いたしました」のごとき用法も。

いまや、【十分】【充分】を使い分けるか否かは個人の好みです、読む人の感性に合わなければそれまでのこと、自己満足の域を出ません。いずれにせよ、公式文書や事務的文書では、好悪を捨てて、国語辞典を標準とするに越したことはありません。

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
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Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.


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