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 山口県光市の母子殺害の裁判で被害者の遺族が被告人に死刑を望む発言をしているのを聞いて思ったことです。
 私は、よくTVで遺族は被告に対して死刑の判決を求めている会見を見ます。つまり、これは遺族は「被告が死んで欲しい」と思っているということ、極端に言うと「人の死を望んでいる」という事になりませんか?私が子供の頃、人に向かって「死ね」と言うと、両親は私を叱り「死ねということを人に言ってはならない」と教えられました。しかし、光市のような事件がTVで放送されると両親は、「死刑になって当然」と言います。これは、「死ね」と言っていることと同じではないかと私は思ってしまいます。被告人は確かに残虐な殺人を犯しましたが、人であることに変わりはありません。もし、遺族が死刑を望んでいた被告に対して裁判官が「遺族の無念さははかりしれない」等の言葉を言って、死刑判決を下し、死刑が執行されたら、遺族は間接的に殺人を犯したのではないかと考えています。みなさんはどのように考えますか?ご意見の方よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

>被告人は確かに残虐な殺人を犯しましたが、人であることに変わりはありません。



確かにその通りです。ネットでことさらに「死刑!死刑!」と騒ぐような人たちにはぜひ「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の意味を考えて欲しいと思います。
とはいえ、遺族の方にそれを強制するのは酷でしょう。「罪を憎んで人を憎まず」は一つの「教え」であり、そうあるように努力することに意味があるのだと思います。肉親を悲惨な犯罪で失って悲しみの底にある人に、何がなんでも人格者としての振る舞いを押しつけるというのは、あまりにも無理があります。
被告人が人であるというのも真理であれば、被告人が残虐な犯罪者であったということも(有罪なのであれば)また真理です。社会は冷静であるべきですが、被害者遺族にまでそれを求めることとなると、人間の自然な感情を抑えつけて特定の価値観を強制することにもなりかねないと思います。

>もし、遺族が死刑を望んでいた被告に対して裁判官が「遺族の無念さははかりしれない」等の言葉を言って、死刑判決を下し、死刑が執行されたら、遺族は間接的に殺人を犯したのではないかと考えています。

そうは思いません。遺族の心情はあくまで裁判官が自らの良心に照らして判断するものであり、罪の重さを判断する材料でしかありません。刑罰は復讐ではありませんから、あくまで罪の重さに対応して下されるべきものです。遺族の心情に対応させるものではありませんから。
検察が証人として遺族を出廷させるのも、本来的には罪の重さを主張するためのものでしょう。被害者保護の側面は重視されてしかるべきですが、有罪の判断、量刑の判断に直接影響を及ぼすものではないはずです。
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>人であることに変わりはありません。


人であっても、社会契約(他を害しない限りにおいて、何をやっても良い)を自ら放棄した者を完全な権利で保護する必要はありません。
たとえば誰もが持ってる完全な人権・権利をまん丸な満月とします。やってはならないこと(人を殺す)をやってしまった時点で、そいつの権利はもはやまん丸の満月ではないんですよ。自ら自分で権利を三日月に減らしちゃってるんです。残った三日月の部分というのは犯罪者にすらも保障される「正しい裁判を受ける権利」などですね。
殺人者のような、我々みんなの社会の安寧を脅かした者に対して、死刑を望むのは当然の心情だと思いますよ。自ら好んで社会契約を破った訳ですから。


>遺族は間接的に殺人を犯したのではないかと考えています。
そのとおりですよ。
それにわが国は私的報復・私刑を禁じています。(昔のイギリスでは決闘裁判とかありました)
そういう、自らが報復できない遺族に代わって国が(死刑などで)罰してくれるシステムだから遺族は死刑を望むんです。遺族自ら殺人犯を殺しても良いのなら、みんなそうしてるでしょう。

そもそも、人を殺す行為すべてが悪いのではありません。
やってもいい殺人(自衛戦争・死刑…正当業務行為)とやってはいけない殺人(一般的な殺人…刑法199条の構成要件に該当し違法・有責な行為)は峻別して考える必要があります。
やっていい殺人を望んだからといって、それのどこが悪いのでしょうか?
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>遺族は「被告が死んで欲しい」と思っているということ、極端に言うと「人の死を望んでいる」という事になりませんか?


・そのとおりです。もう少し正確に言うと、一般的な広い意味での「人の死」ではなく、「当該被告人の死」、しかも自殺ではなく刑死(刑罰による死)という、かなり限定された狭い意味の「人の死」を望んでいます。

>私が子供の頃、人に向かって「死ね」と言うと、両親は私を叱り「死ねということを人に言ってはならない」と教えられました。
・私も子供のころそう教わりましたし、今も同じように自分の子供に教えています。でもそれは友人や親兄弟、先生など周りの「何の罪もない人」に対して「死ね」というのは失礼である、という意味です。残虐な殺人の被害者家族という特殊な立場と、一般的な子供に対する言葉遣いに関する教育的指導とは同一には論じられません。
子供のころを思い出すと、「人を殺してはならない」とも教わりました。しかし、その場合の「人」に死刑囚は含まれません。「何の罪もない人」のことです。要するに「悪いことはするな」という意味であり、「死刑囚を殺すな」という意味ではありません。

>これは、「死ね」と言っていることと同じではないかと私は思ってしまいます。
・ですから、何の罪もない一般市民に対して「死ね」と言っているわけではなく、特定の死刑レベルの事件について、その被告人に対し「死ね」と言っているわけです。当然殺す手段は刑罰としてです。かなり狭い意味なのです。

>被告人は確かに残虐な殺人を犯しましたが、人であることに変わりはありません。
・もちろんです。人だから被告人になり得るのです。それが何か?「残虐な殺人犯でも人権はある」という趣旨ならば、「法令の範囲内で人権はある」というのが正解です。

>遺族は間接的に殺人を犯したのではないかと考えています。
・間接的にも直接的にも遺族は殺人を犯していません。死刑が確定したとしたら、その原因はすべて被告人(もうそのころには死刑囚)自身にあるわけです。そもそも事件を起こさなければ、死刑にならなかったわけです。

ご質問者様は、一般的な広い意味と、被害者遺族が特定被告人に対する狭い意味をごちゃまぜに考えていらっしゃいます。
一般論、教育論としてはご質問者様の「死ねということを人に言ってはならない」というお考えは正しいですし、もしご質問者様のご家族が残虐な殺人の被害者となったとしても、被告人に対し死刑を求めないとすれば、それはそれで殊勝な態度だと敬服しますが、死刑に値する特定の事件の被害者遺族が被告人に対し死刑を求める、というのは感情論としては極めて自然であり、遺族以外の人が遺族に対し「人に向かって死ねというな」というのは、ちょっと的外れな気がします。

>もし、遺族が死刑を望んでいた被告に対して裁判官が「遺族の無念さははかりしれない」等の言葉を言って、死刑判決を下し、死刑が執行されたら、
・遺族が被告人に関して感情論で話すのは自然なことですが、そこを冷静に中立的な立場から、あくまで証拠でもって判断するのが裁判官の仕事です。もし、判決の中で「遺族の無念さ」に言及したとしても、それは、有罪が立証された後の単なるコメントであり、遺族の無念さによって有罪になるわけではありません。
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「酷い事したもん勝ち」の世の中にしたくないのなら


死刑を要求した方が良いと思っています。
身勝手にレイプして傍に居た赤ちゃんまで殺す被告。
死刑は他の死を望む事だから、良くない。
間接的な人殺しをしたことになるから、望んではいけない。。。
じゃ、殺された人は黙ってろ!人の死を望むな!と
被害者家族を目の前にしても同じ事が言えるのか?どこまで他人事で考えてるのか?
声が大きい人、図々しい人、ズルイ人、人を騙す人、身勝手な人が
やったもん勝ちの世の中は嫌ですね。
2人以上殺すと死刑を考慮する場合が多いようですが、1人でも死刑は検討して欲しいです
遺族が死刑を訴えても採用されない時は採用されない。それが法治国家でしょう。
だから、死刑を望んで、死刑になっても殺人とは思えません。
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子供のころに叱られたこと、現実に起きている殺人事件への感情をごっちゃにしてはいけません。


まあ、遺族感情というものをリアルに想像できないからこんな質問をするのでしょうが・・・

>親は「死刑になって当然」と言います。これは、「死ね」と言っていることと同じではないかと私は思ってしまいます

はい、あなたが思っているだけです。
まったく違うものです。

>被告人は確かに残虐な殺人を犯しましたが、人であることに変わりはありません。

人ではありません。
近年では「モンスター」とも呼ばれています。
人として許しがたい、情状酌量の余地がない、矯正の見込みがないからこそ”死刑”にするわけです。

>遺族は間接的に殺人を犯したのではないかと考えています。

考えるのはあなたの自由です。
ただし、裁きを下したのは裁判官です。
”殺人”の定義をもう一度ご確認ください。

ただ、死刑反対派としての論法であるとしたらあまりにも陳腐です。
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国が殺人してるのだと思いますよ。


でも私はそれを否定しているわけではありません。
個人としての、復讐、あだ討ちを禁止する代わりに、国がそれを代行するのです。

あなたの言うことをもっと範囲を広げれば、
「人をいじめてはいけない」
にも関わらず、囚人は刑務所に閉じ込められているのです。
すべての人は自由だ!
といって、これらの人を野放しにする世の中がいいですか?
私は嫌です。
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確かに、仰る通りですね。

国は死刑の名の下に殺人を侵してますからね。

死刑ってのは、極刑です。つまりは、これ以上の刑罰はありません。つまり、日本の刑罰の極刑が終身刑であるならば、それが極刑となります。光市の被害者遺族の方は極刑を求めているだけであって、死刑を望んでいる訳ではありません。日本の極刑が死刑だから死刑を望むんです。死刑を廃止し、終身刑の導入を行うと様々な法規の変更が必要になります。死刑の次は無期懲役ですが、無期懲役ってのは、出て来れますからね。今は40年くらいって話ですけども、昔は20年位で出てきました。つまりは、人を殺しても、生きて居られる訳です。そこに被害者遺族は憤りを感じる訳です。セカンドレイプって言葉がありますが、それに似たような物です。家族を殺された上に、今度は法廷で加害者の身勝手な言い分を聞くわけです。これはやはり、動転しますよね。冷静になれと言うのが無理です。日本の法律は、仇討ちを禁止してます。仇討ちがあったらモラルが破壊されますからね。これをやったら、こういった罪になると決められていますから、それに従って、被害者遺族も加害者も観念して下さい。ってのが現状の法規範です。様々な状況証拠・供述調書などから、死刑以外有り得ない場合が死刑となります。でも、加害者が死刑になっても、遺族の気持ちは計り知れないですよ。当然に、次は加害者遺族の気持ちもね。そういった矛盾を孕んでいる問題でもありますね。なんでもそうですが、法ってのは、先人の積み上げた慣習を文章化し、守るようにしています。なので、どうしても細かい部分でこぼれ落ちます。最大公約数の人を助けるって事のみしか法はできませんからね。

因みにですが、間接的に殺人を侵しているのではと云うのは、ちょっと間違ってます。裁判は、法曹三者の間で行われ、被害者の意志と国民感情は介入する余地がありません。裁判官が従うのは、法のみです。様々な圧力に屈する必要がないように、最高法規で規定がされてます。給料が減額されないとかね。だから、感情と乖離があると言われます。しかも、判例と慣習とで雁字搦めになってますしね。まぁだから裁判制度が変わるんですけど、間接的に殺人を求めているというのは、そういった意味で違います。ただ、検事が被害者感情を代入する事があるんで、そういった意味では合ってますね。

陪審員導入で、凄いモラルハザードが起こると法曹界では戦々恐々としてるらしいですよ。
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こんにちは。


これは日本の法律形態による現象でしょうね。
無条件に殺人はいけない事、という上に立って死刑という制度がある、という事に由来するでしょう。

例えばアメリカインディアンの社会での慣習法では人を殺したら部族長が犯人を捕らえて殺された人の遺族が犯人を殺す、という裁きになるそうです。
日本でも昔は「あだ討ち」という制度がありました。
こういう「目には目を」的な慣習法や制度を持ってる文化圏は結構多いです。
妻・夫・子供等最愛の人を訳もなく殺された時、どう思いますか?

今の日本の法体系が、日本人の持っていた文化にうまく適合していないからこういう現象が起きると思います。
そういう点で、むやみに欧米化してしまった結果がそういう矛盾を起こすのでしょう。
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子供の頃に親御さんに言われたことと今回の事件のレベルを同一視してはいけません。


あなたは自分の欲望の為にまったく落ち度のない人を殺しますか?
その人達の明るい未来を奪いますか?
残された遺族の方も犯人に死んでもらうことが第一の希望ではありません。奥さん、子供に生き返ってもらいたいというのが第一の希望です。
でも、それは叶わないことです。
その一方で犯人はのうのうと生活していくなんて許せますか?

また、「死刑」によってでも人が死ぬのですから、コトバ遊びとして「殺人」と言えるのかもしれません。普通はそのような解釈はしないと思いますが。
ただ、「犯す」は違います。「犯す」について辞書で調べてみて下さい。

犯人は死刑になったくらいでは罪はまったく償えません。
殺されたお二人は戻りませんから。
でもそれ以上の償い方はないではないですか。そうであれば事実上可能な償い方法をとるしかないのです。
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死刑になる者はそれだけのことをしたのです。


遺族が犯人に死刑を望むのは人として当然の感情であり、
死刑執行にあたり遺族が間接的に殺したことにはならないと思います。
「死んでほしい」という気持ちと「殺す」というのは違うからです。
凶悪犯でも人であることに変わりはないというならば、殺された被害者はどうなるのでしょうか?
また残された遺族はどうなるのでしょうか?
犯人の命が重視され、遺族の気持ちが無視されるのならば、
そこら中で殺人が軽く起こってしまいます。
自分は死刑執行にあたり、もっと苦しみを与えるべきだと思います。
そしてよく殺害後責任逃れとして自殺する犯人がいますが、
その自殺予防策として犯人の家族などに責任をとらせるのも、酷な話ですが、必要になってくるのでないでしょうか。
誰かが責任をとらなければ、結局被疑者死亡送検という終わりでは何も解決したことにはならないのですから。

世の中に凶悪犯罪が存在する限り死刑は不可欠です。
国民はそんな凶悪犯に1秒だって生きていてもらいたくないのです。
凶悪犯人を生きさせるためにも我々の税金が使われているのですから。
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