
No.16
- 回答日時:
3回も登場して失礼かとは思ったのですが・・・・
日本語って難しいですね。ちゃんとつたえたくても上手く伝わらない・・・・
おっしゃられるように『生きること』に意味があるという前提で書いてある。と、いわれればそうですね。この表現上手くないですね。意味のところを価値とかけばよかったと思いました。その個(自己)自身の価値を見失ってしまうから「生きること」を放棄するのではないでしょうか?
少し疑問に思ったことが・・・
生きることの意味を前提にしないとおっしゃられていましたが、個としての価値をいだくことでおのずと意味は生れてくるのではないでしょうか?その存在(個)自体に価値があるのならば、意味のあることだと考えます。
失礼になってもいけないので、これ以上差し出てきて書くのはひかえます。ごめんなさい。
失礼なんてとんでもないです。私のほうこそ。遠慮はしないで下さい。
>生きることの意味を前提にしないとおっしゃられていましたが・・・
重要なのは、その「意味」があっても、それが生きる「理由」になるかという点です。「意味」がなくても、「価値」がなくても、「生きる」ことを望むことはできる(「生きる」を選択しようとする)。「生きている」ということとは違います。
『生きること』に『意味』というものがあることを前提にしていない。ということですが、難しい所ですね。私の場合、自身の存在は、「私」にとって価値のあるものですから、他者にとって価値がないと私自身が判断したとしても、生きる理由は失わないということです。もちろん他者の存在は、私にとっては価値のあるものですが、たとえ、ある他者が、わたしにとってマイナスの存在で、価値がなくても、その存在は、私にとっては「意味がある」と言えることは分かってもらえますか?
3回にもわたるご回答、ありがとうございました。
No.15
- 回答日時:
>日常では、エロスなるものがでっぱっており、
>エロスが引っ込んだ、あるいは我慢しとおした、
>ある非日常の瞬間にタナトスが訪れるということに
>なるのでしょうか?
ダイレクトに「死にたい」と思わなくても、人って「あれがしたい」とか「これがしたい」という、いわゆるエロス的な欲望を現実世界との折り合いでしばしば殺していますよね。「ご飯が食べたい。でも、会議中だから、そんなことを言い出すのは失礼だ」みたいに。あと、よく分からないけど「お金持ちは、心がすさんでいる」みたいな価値基準が勧善懲悪の時代劇にあったりしますが、あれなんかも欲望を殺している気がします。つまり「お金持ちに、なれるものならなりたい」でも「お金持ちになるのは難しい」「なれない」だから「お金持ちはズルイ」。ちょっと飛躍してますが、勧善懲悪の敵役って何らかの「力」を持っていますよね。「力」を持つ者は、必ず「悪」に走るかのような価値体系を捏造している気がします。「正義」を自称するものは、その力を妬んでいるかのようです。
つまり、「力」があるのなら、それを有効利用する方法があるのに、時々、人はそれをせず、妬んだり、羨んだりして「力」あるものの足を引っ張ろうとする。これがタナトスっぽいなと思うんです。建設的じゃないですよね。
ちなみにタナトスもエロスもギリシアの神様の名前です。エロスはキューピッド:愛の神(人格化)でタナトスはニュクス(夜)の子どもでヒュプノス(眠り)とは兄弟の関係にあるそうです。
なるほど、そういう解釈ですか。わかりやすいです。ところで、「タナトス」がギリシャ神話の『夜の子』なのですか。なかなか叙情的ですね。二回目のご登場ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
どんな意見でもよいことだったので、わたしが『自殺』というものに対して抱いている気持ちを書きました。
実際、自分自身がその立場にたったことがないので、『自殺』を考える当事者の気持ちは正直言ってまだわかりません。あくまでも推測の域の話で書かせてもらいます。>安易だからこそ、自殺しちゃったのではないでしょうか?普段は、生命維持を最も重要な活動の一つと捉えていても、状態によってあっさりと、それを自ら絶つことがある。不思議ですね?
その当事者でなければその心情はわかりませんね。それを他人から見れば(経験のない者からしてみれば)不思議にみえ、思えるのでしょうね。
状態によってあっさりと、自らの命を絶つときの当事者の心理状態を推測してみようと考えてみました。もしかしたら、普段見渡せているまわりがみえなくなっているのではないか?では、なぜ見えなくなっているのだろうか?・・・・・心の中に高い壁ができて自己と外界を遮断しているのではないか?四方を壁に囲まれその中心にポツンと一人置かれたような状態になっているのではないだろうか?もしかしたら、天井までふさがれその人のもとには光さえ差し込まない真っ暗。こん状態におかれたら、おのずと絶望感が怒涛のごとく押し寄せてきてそれによって『自殺』のスイッチをONしてしまう。人は、一人では生きていけないとよくいわれていますが、自殺者が自殺をはかるとき一人ぼっちとかんじているのではないでしょうか?生きる意味を見失ってしまう。絶望感・孤独感がその意味を見失わせている。自己の心の中に少しの明かりが差し込めば、人は、またそこから生きる意味をみいだせるのかもしれません。こう考えれば、不思議ではないような気がしました。自殺をはかる人を生まないためにもそんな気にさせないように人とのかかわりにおいて言葉に魂があるように『言霊』、元気が出る、温かい気持ちが伝わるような言葉を交わしていければいいのにな、他者の存在を認められる。人を傷つけ、他者の存在自体を否定し認めないような言葉は封印しておきたいです。なにか、支離滅裂な回答になってしまいました。ごめんなさい。
ごめんなさいなんてとんでもないです。
私は他者の存在によってもたらされる温かみは素晴らしいと思います。だからこそ友達など大切に思うのでしょう。ただ、人は様々に別々の個性をもつ事も事実です。今回の質問は、もっぱら興味本位ですが、そのことで、より多くの人の理解につながるのかも知れません。二回目のご登場ありがとうございました。
追申(漢字に自信がありませんが)
>生きる意味を見失ってしまう
個人的には、この文の解釈として、あたかも初めから「生きる」ことに意味があるということが前提としてあり、その上で語られているとします。それを前提としない私は、「意味」がなくても「価値」があれば「生きる」ことを放棄しません。「意味を失ってはいけない」という価値観もまた、人それぞれだと思うのです。
No.13
- 回答日時:
mamasです。
いわゆるうつ病による自殺とは他人との比較における劣等感にさいなまれて、といったものではないのです。
自分だけの世界に入ると楽になるのではなく、自分は社会にとって必要のない人間であるという感覚で「死」を選ぶことで楽になるのです。つまり生きていることに何の価値も感じなくなってしまうわけです。
なるほど、その人にとっては、その人のいる社会にとって必要とされることが、生きることの価値になるわけですね。その満たされない思いを消すために、社会から消えようとするのですか。少し分かったような気がします。二回目のご登場ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
自殺ですか……。
ふと不思議に思うのは、「すべてに落胆し、失敗した。もう死ぬしかない」と覚悟を決めて、いざナイフを手首に。そのとき、たとえば同居していた家族、または友人が、その人に向かって灰皿を思いっ切り投げつけたとします。瞬間、間違いなくその人は飛んできた灰皿を避けようとします。
あるいは、いざ手首を切ったけれども、失敗をした。気がついたら病院。今度こそは間違いなく、と思っているのに、あら不思議、傷口はどんどん塞がり、肉体はその意思に反し、どんどん治ろう、よくなろう、生き続けようとする。
もちろん、これは生理学か何かはわからないけれども、学問的にその行動(避けようとする)は説明できるのでしょう。しかし、その肉体は確実にキズ付けられるのを嫌がっているわけですよね。自分という存在は死にたいと思っているのに、肉体という存在はそれとは全く正反対の行動をする。不思議ですよね。
言い換えれば、キズ付けてほしくない、殺してほしくないと思っている肉体を、いや、必死に生きようとしている肉体を、どこから湧き出てきたのかしらん、わが意思によって殺そうとする。まるで、助けくださいと懇願している町人を、「無礼打ちじゃ」と斬り捨てる武士のようです。極端な言い方をすれば、殺人ですよね。過激な発言のように取られると困りますが。
話の方向性が少し違っていましたね。すみません。
すみませんなど、とんでもないことです。回答ありがとうございます。
難しい所ですね、あたかも肉体に自分とは別の人格が宿っているかのように書かれましたが、個人的には機械のように反応しているだけだと思います(誤作動もあると思いますが)。だから、我々の欲求、背をもっと高くしてと頼んでも聞き入れてくれないし、思うように走ってくれなかったり、あまつさえ「ミートボールを食え」だの「涼しい所に連れて行け」などと、ついには、頼んでもないのにガンになったりします(あとアレルギーもありますね)。ですから、「無礼うち」は、お互い様でしょう、なんていうのはありでしょうか?なんて、以上は冗談ですので、笑っておいてください。
No.11
- 回答日時:
カミュという文学者が『シジフォスの神話』の冒頭で、「本当に重大な哲学の問題は、自殺だ」と書いたらしいですね。
これは、「人生が本当に生きるに値するかどうか」を考えるのが哲学だってことのようです。そう言えば、タレスの昔から、「世界とは?」という問いや「存在とは?」という問いを哲学者は繰り返してきたけれど、結局は、人間の存在意義を見出そうとしていた気がします。19世紀の終わりにはニーチェという退職大学教授が、「神は死んだ」と宣言して、ヨーロッパの人々が必死に信じようとしていた、存在意義であるところの「神」を消してしまった…。その「ニーチェ」はドイツの片田舎の牧師館の生まれだそうで、哲学って、「自殺」の歴史なのかもしれないと、徒然に思います。ところで、精神分析の創始者で有名なフロイトが「死の本能(タナトス)」というのを提唱したのはご存知ですか? 僕も正確には知らないのですが、「有機体を本来の無機的状態に還元しようとする基本傾向」(「フロイト」小此木啓吾著、講談社学術文庫、78頁)なのだそうです。逆に「無機体を有機体に構成し、発展・成長させる基本傾向」は「性の本能(エロス)」の働きです。エロスの働きが行き詰まったとき、一度、その構成された有機的なものを解体しなければなりませんよね。人間の生き方って、結局、作っては壊し、作っては壊し、なんだってことなんですかね…。
「自殺」というと社会学者のエミール・デュルケムの自殺論が有名ですね。それから、生物学の「アポトーシス」とかもありますよね。僕は、この辺詳しくないので、詳しい方がいたら、書き込みしていただけると嬉しいです。(なんか便乗しているみたいですね。ごめんなさい)
ご回答ありがとうございます。参考になります。
タナトスですか、、、初めて聞きました。しかし、いつにも人間は本能にそぐわない行動をする事もあります。ほんとは食べたいけど我慢しよう等。タナトスは、おなか減ったとか、眠たい、といったような強大な力で我々を圧倒しようという類なのでしょうか?それなら、我慢する人もいると思いますが、きっとそうではないのでしょう。なぜなら、フロイトが新たに当時、提唱することがあったほどですから、一般の人たちが日常で意識する事がなかった証拠でしょう。ということは、日常では、エロスなるものがでっぱっており、エロスが引っ込んだ、あるいは我慢しとおした、ある非日常の瞬間にタナトスが訪れるということになるのでしょうか?
難解です。
「アポトーシス」とは少し聞いたことがあります。細胞自殺という現象でしょう。興味深い事です。元気な細胞が突如消滅するのですから。
No.10
- 回答日時:
自分では、健康的な普通の人間だと思います。
このスレッドの中では。自殺は何回も考えますが、行動に至ったことは1度もありません。
何故?
一番は【後悔】【嫉妬】【羨ましさ】です。16才でドロップアウトしたものの理想の自分に近づいていなく、このままではごく普通に日本社会生活を送ってしまう。電卓の上ではじかれた先の暗い経済、文化環境でしか夢がなくドラマティックな生き方ができていない、その為に何もしていない、だから“人は生まれ変われる”そう思って自殺すればいいのではないか。と考えます。
二番目に【深酒】です。飲み始めたら自分で抑制できません。その為何回も次の日会社に行けず遅刻、休みました。その為に会社をクビになってきました。
ダメ人間です。直そうとしない自分に諦めてしまいました。
三番目に【自殺】そのものの行動。
殺されるくらいなら自害する。自決。切腹。武士道と言ふと聞こえが良いですが、
憧れみたいなものでしょうか。
幼稚、甘えん坊、無責任、あまのじゃく、社会不適応主義、常識破壊、自己中心、
自意識過剰、目立ちたがりや、生意気、未熟者、快楽主義、夢想家、などなど
きりがないですが自分のことを嫌いなことが重なると嫌気が差します。
だから、リッセトボタンがいつも用意されてるのかもしれません。
ホントにそうかまだ疑問ですけど。
たまたま、ある社会が、自分に合わなかったというのは面倒くさい事ですネ。
古い話になりますが、ファミコンのリセットボタンは、押すとまたはじめから自動的にすぐに始まりますが、人生の場合、客観的にそれが新たに再開されるのを確認することはできないので、そういうリセットボタン的発想によって自殺する人は、よっぽどの自信と確信が必要になります。リセットと電源を切る(ファミコンの話)のではえらい違いですからね。人生の場合、自ら電源を切るとこまではいいのですが、つぎに電源を入れる人がいないとゲームを再開する事は無理です。自動と手動はえらい違いです。ご回答ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
うつ病の重傷者は何のためらいもなく突然自殺してしまうそうです。
たぶんその人に心の中は最後には死ぬことしか残っていないのでしょう。何でそんなことが言えるかというと、私もうつ病の療養中の身だからです。私はそれほど重症ではないので自殺を直接考えたりしたことはありませんが、そこに至る道は途中まで経験しました。だんだん自分の居場所というか世界が狭くなってくるのです。最初は他人と自分を比較して自分の方が劣っているように感じることから始まり、人の中にいることが怖くなってきます。自分以外の人間は赤ん坊から年寄りまで自分より優れており、幸福であり、何事にもうまくいっていると思う、というより確信になってきます。そうしてだんだんと自分だけの世界に入っていって自分がこの世にいなくてもいいような気持ちになってゆくのです。……その先にあるのは何の迷いもためらいもない自殺なのです。そこまでの変化は他の人からははっきりとわからないのです。だから突然何の前触れもなく自殺したように見えるのです。
鬱になるとなにか心の中が少なくなっていき、死ぬことしか残らなくなるという事でしょうか?不幸だったから、自殺しました。というのは理解の範囲ですが、他人との比較による劣等感等を超えて自分の世界に入ってしまうと、楽になるのじゃないのですか?難しい所ですね。ご回答ありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
自分が今おかれている状況から抜け出す近道と考えます。
(現実逃避)それが、個人にとって良いか悪いかは一概には言えないとおもいます。病魔の苦痛にもがき苦しむ患者(たとえば、ガン末期患者)がいるとしたら、その人が自分の意思で自らの命をどうするか選択すること(安楽死・尊厳死)は、私自身悪いことだとは考えていません。しかしながら、それとは別に現実の暮らしに悲観して安易に死・自殺を選んでしまうことは容認しがたいこととも考えております。生活しているなかで『どん底』を経験したことのあるものこそどんな人よりも強くまた人に優しくできる人になっていると考えるからです。本人は、気づいていなくとも自然と身に備わっているはずです。『災い転じて福となす』自分の身におこった不幸を不幸と思えば、暗く悲観的になります、しかし、その不幸を経験することによって人の優しさにふれることもあります。日頃気づかずにいたことを知るチャンスでもあるのです。人の一生なにがおこるかわかりません。時ににげだしたくなることもあるでしょ~、命を落として自殺するとそのあとにはなにがあるのでしょ-?残されたものに哀しみを与えるだけそれ以外になにもないようにおもえるのですが。
ご回答ありがとうございます。意見の分かれるところですが、様々な苦しみから逃れるための自殺ならば、倫理の許容範囲だと言う人もいますね。
>安易に死・自殺を選んでしまうことは容認しがたいこととも考えております。
安易だからこそ、自殺しちゃった、という場合があるのではないでしょうか。普段は、生命維持を最も重要な活動の一つとして捉えていても、状態によってあっさりと、それを自ら絶つことがある。不思議ですね。
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