何を質問するというよりも、少し、自殺について知りたいのです。なんでもいいですので。そのとき人には何が起こっているのでしょう?生物に書き込むか迷ったくらいなので、科学的な見方でもどんどん書いてください。お願いします。

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A 回答 (26件中1~10件)

うつ病期に生じる自殺衝動というのは、体験者でないとなかなか分かりにくいものです。

中には、餓死してしまう人がいるくらい生命力が低下します。うつ病の最中には、気力も萎えていますので、実行に移されるのは、治りかけて元気が出てきたときが多いものです。自殺念慮が薬などによってなかなか取れないときは、電気ショックも有効とされています。死ぬ勇気があるくらないならと表現されますが、勇気などではありません。現実意識が希薄になるため、ふらっと、落ちてしまうのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>ふらっと、落ちてしまうのです。
いかにもそのような感じがしますね。興味深いことです。

お礼日時:2001/02/03 00:06

>なぜ「死」がでてくるのか?「生きる」の反対は「生きない」であって、


>「死ぬ」ではありません。何故、「死ぬ」という行為が、
>決まって脳裏に浮かんでくるのでしょうか?

実にそのとおりであり、死ぬ必要などないのです。
先の回答にも書きましたが、結局、「視野が狭まる」のでそれしかないように
思えてくるのです。
人間追い詰められると、とんでもない発想をしたりしますが、その方向が、
「死」のみに向いた人が自殺するとも云えるでしょう。

この回答への補足

とても、私には価値のあるたくさんの回答、全てのコミュニケーションでした。皆さん本当に感謝しています。まだ、話半ばですが、回答を締め切らせていただきます。皆さん本当にありがとうございました。

追申:nekoucchaliさん、ここに総じたお礼を書かせていただき感謝してます。

補足日時:2001/05/21 04:47
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この回答へのお礼

すいません。御礼が遅くなりました。実はお礼をすぐには思いつかなかったのです。申し訳ありません。
>人間追い詰められると、とんでもない発想をしたりしますが、その方向が、
「死」のみに向いた人が自殺するとも云えるでしょう。
なるほど・・・死のう!という・・・・いやいや、やはりもう少し考えさせてください。すみません。

お礼日時:2001/04/23 05:33

 「経験者は語る」的に言えば、「死」のみが最後の道として、一筋の光明のように見えてきます。

冷静に考えれば他にも方法はあるのに、視野が狭まって「死ぬこと」だけが唯一の方法に見えてしまいます。

 私がどうして生きてるのかって?それでも死ぬのが嫌だったからです(爆)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
御礼が遅くなって申し訳ありません。最近帰ってきたので、、。
生きることにやる気がなくなる、これは分かりますが、なぜ「死」がでてくるのか?「生きる」の反対は「生きない」であって、「死ぬ」ではありません。何故、「死ぬ」という行為が、決まって脳裏に浮かんでくるのでしょうか?

お礼日時:2001/04/13 01:44

G○O って漫画でも書いてあったけどたんぱく質の塊になるだけかな


これはとても私にとって怖いことです そうなると自分の存在はあってもなくてもよかったみたいになるし
嫌ですね(×_×
生命が雷とか海の中でいろんなことが会ったとかで出来たって言われてるんですがこの考えは嫌いです。
そうすると 愛だって性欲を美しく言っただけやし
神様~ いてくださ~い 幽霊はごめんやけど~(笑)

この回答への補足

みなさん、ご回答ありがとうございました。今から、4/9まで留守にしますので、御礼が大幅に遅れる事を、ご容赦下さい。

補足日時:2001/03/09 00:19
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。御礼が遅くなり申し訳ありません。
私は、今でもたんぱく質のかたましに違いないとは思います。それが、とても複雑で、特殊な集まり方をしているので。でも、だから、ややこしくなっているのかと言えば、それだけではないように思います。私が不思議に思うのは、「なぜこのたんぱく質のかたましが、『私』なのかという点です。他の人体でもなければ、他のかたましでもなく、「このたんぱく質のかたまし」が『私』になっているわけです。私は、「神様~いてくださ~い」よりも、「自分~あってくださ~い」って感じですね。なんて、ハハハ、

お礼日時:2001/02/26 02:24

三度目です。

ここの板、なんだか面白いですね。今回は少しアポトーシスApoptosisについて。

>「アポトーシス」とは少し聞いたことがあります。
>細胞自殺という現象でしょう。興味深い事です。
>元気な細胞が突如消滅するのですから。

と言うことでしたが、少しだけニュアンスが違うようです。「細胞の突然消滅」というよりは、「プログラムされた細胞死」というイメージです。「細胞の能動的な自殺死」と表現されたりします。具体的にはカエルの尻尾ですね。おたまじゃくしから、カエルになるとき、あの尻尾はプログラムされたように消えますが、あれがアポトーシスです。また、熱や傷、毒、飢えなどの外的環境変化が原因で細胞が死ぬことを「ネクローシスNecrosis」、日本語だと「壊死(えし)」という言葉が相当します。この場合、細胞死の跡は細胞の中身をまわりに撒き散らすため、それが原因で炎症が起きたりします。火傷や凍傷がいい例でしょう。この点、アポトーシスの場合は、細胞が断片化されアポトーシス小体となったものをマクロファージが食べてしまうため炎症は起きません。さらに「アポビオーシスApobiosis」というのもあって、こちらも「プログラム死」の類いなのですが、一回生まれたら、二度と再生しない細胞(心筋細胞や神経細胞など)の死を、特にアポビオーシスと呼ぶそうです。これは個体の寿命に関係します。

にわか知識なので自身はないですがご報告まで。
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この回答へのお礼

オー、そうゆうニュアンスだったんですか。なるほど、参考になります。「アポビオーシス」というのもあるんですね?考えさせられます。細胞には、再生できる限界回数があると聞きましたが、二度と再生しない細胞も、寿命を決定付ける要因としてあるのですね。参考にさせていただきます。3度目のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/02/12 07:11

『ウィトゲンシュタイン』で、検索かけました。

まだ、読んでる途中です。ここであなたがおっしゃっている『無意味』とはあそこでかかれている『無意味』という意味なんだったんですね?そうだったのなら、おっしゃってることが少しわかります。引き続き読んできます。
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この回答へのお礼

そうですか、分かってもらえてうれしいです。お手数をおかけします。

お礼日時:2001/02/11 10:29

再度のお邪魔をします。


自殺に限定せず、勝手ながら「死」というエリアにまで若干足を広げて。

アメリカの精神科医、エリザベス・ロス(だったかな?)という人が、病気で死の宣告を受けた人の精神状態の移り変わりを調査したところ、そこに五つのステップがあることを見付けたそうです。

【否認】「クソ医者め、最近流行の誤診でもしとるんやろ。余命何ヶ月なんて、
     間違いに決まっとるわい」と、自分の死を否認します。

【怒り】「なんでオレが死ななあかんねん! オレよりも先に死ななあかん奴
     がぎょうさんおるんと違うんかい!」と、激しい怒りがこみ上げてき
     ます。

【取引】「先生、何とか一年は保たせてくれよ。お金をたんまり包むから」。
     これは先生だけではなく、神頼みをしたりして、生の引き延ばしを図
     ろうとします。

【鬱】 「やっぱり、あかんのか……」と、深い悲しみに打ちひしがれ、鬱に
     陥ります。

【変容】「しゃあない」と、自分の運命を受け入れ、ポジティブなほうへと精
     神状態が変容します。

否認→怒り→取引→鬱→変容という五つのステップを経て死を迎えるそうですが、六つめのステップとして、死後の世界を信じる人の場合には「期待・希望」もあるそうです。

「死」というものを真剣に考えることは、すなわち、「生」というものをよりよく輝かせようとすることだと、私は思っています。そういう意味では、自殺とは何ぞやということを考えることも、案外、可なのかとも思います。

ところで、この論議を読ませていただいて、ふと、「自由」があまりにも無頓着に拡大解釈されているような感じがしました。人間は本来自由なんだ、だから生きることも自由なら、死を選ぶことも自由だろう、何を思ったって、何を行なったって自由なんだよ、みたいな。でも、生まれてきたこと、それ自体は自由意思の結果ではありませんよね。「私は私の自由意思によってこの世に生まれてきた。よって、その生を終わらせるのも私の自由だ」というのなら、何となくわかるような気がしますが。
「自由」という言葉を、この場合「権利」と置き換えてみてもいいかと思いますが、権利というものは義務の上に────。これは強引に結び付けてしまうことになるのでやめておきます。要するに、生きていることは当たり前なんだということから、すべてがスタートしているのではないでしょうか。

また、「動機と行為の一致に至上の喜びを感ずる」という文言がありましたが、これは誰しもそうだと思います。「動機と行為の一致」のあとに「目的の達成」という言葉を加えればということですが。「行為」とは「目的」を達成せんがための「手段」と考えることができますよね。

「“これをするには、あれがいる、あれがいるから、それをしないと”というのは面倒くさい事には変わりありません(それをしている間は、満たされていません)」

とありましたが、「あれがいる、あれがいるからそれをしないと」ということ、それがまさしく「行為」であり「手段」なのではないでしょうか。しかし、それで得られるという至上の喜びも、すべて生きているからこそなのだと思いますよ。もちろん、私は死んだことがありませんので、死んだ後にその喜びが得られるかどうかはわかりませんから。

ただ、浅学な私には一向わからないのは、「アッ、気が付いたら死んどった」という自殺の場合です。ま、それも死んだあとのことですから、気が付くかどうかもわかりませんが。

この回答への補足

お礼の補足です。目的が何らかの「結果」であれば、それに到達するまでの過程(行為)は、「手段」となり「意味」を持ちますが、目的が過程を含まない「行為」そのものであれば、「行為」はあくまで「目的」自体であり、それには「意味」はありません。分かりにくくてごめんなさい。

補足日時:2001/02/11 08:38
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この回答へのお礼

再びご回答ありがとうございます。死へのステップですか、知りませんでした。
>でも、生まれてきたこと、それ自体は自由意思の結果ではありませんよね。
私もそう思います。生まれたのは偶然だと。だから、自殺をしても次は選べないと思っております。「生まれる」の反対は「生まれない」だと(「死ぬ」じゃない)多くの人が語られてきたように、私もそう考えております。
>「行為」とは「目的」を達成せんがための「手段」と考えることができますよね。
書き方が悪かったです。ごめんなさい。『目的と行為が一致すること』が至上だという事です。その行為そのものが目的である場合です。非常に単純なことで、多くの人が経験しておられると思いますが、例をあげると以下です。(あくまで例えです)

一致していない場合:サッカーにおいて優勝(勝利)することを至上の目的として、サッカーの試合に臨むとき、試合をするのは勝利を得るための「手段」である。
一致している場合:サッカーをすること自体を至上の目的として、「サッカー」をする場合、試合をするのはそれが「目的」だからである。

 両者の違いは明白です。前者は勝てなかったらがっかりするわけで、後者の場合は「敗北」も「サッカー」の一部なので、結果としての「勝ち負け」に左右されず、サッカーをしている間はずっと楽しい(満足している)状態なのです。彼らの場合、試合が終了すると、がっかりします。

>ただ、浅学な私には一向わからないのは、「アッ、気が付いたら死んどった」という自殺の場合です。
私も不思議に思います。ふらっと落ちるのです。「やっっちゃった!?」みたいな。私も高い所に行った時に、好奇心?で落ちそうになる10%くらいにはなります。これが、100%になってもおかしくないという(考えうる)のがおそろしい所だと思うのです。私の場合は、他にやりたい事がたくさんあるので、落ちない自信はありますが、考えるとぞっとします。

>それで得られるという至上の喜びも、すべて生きているからこそなのだと思いますよ
そうです。「喜び」に限定しませんが、だからこそ、「自殺」できるのは生きているうちで、「自殺」すること自体が目的になっている人が仮に(あくまで例えです)いるとしたら、彼らには生きている間が、望みをかなえるチャンスなのです。


自殺から少しはなれたついでに言いたいのは、『やりたい(好きな)事は選べない』という事実です。わさびを好きになろうとしてもなれません。嫌なものは嫌なのです。しかしある時から、わさびが好きになっていました。勝手に、いつの間にか『好き』になっているのです(例えば)。「お前こんなん好きなん?」というようなシーンはよくあることです。
ついでに言えば、『好きになる人』も同じく選べません。

お礼日時:2001/02/11 08:19

つけ足しです。


ということで、マイナスの存在も私には「意味がある」ということなのではないですか?

この回答への補足

お礼の補足です
『目的と行為が一致する』といったほうが良いかもしれません。

補足日時:2001/02/11 06:59
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この回答へのお礼

ほんとはこっちを読んでほしい!ニ段落目です。意図が分かりにくいお礼でごめんなさい。
大切なのは、『動機と行為が一致する』ことを至上とする人がいることです。

>マイナスの存在も私には「意味がある」ということなのではないですか?
 マイナスという意味があるのです。「あいつ引っ越したらええのに」と言う理由です。シンプルな話です。
 「何でBeatlesきくん?」と尋ねられたら、「気分いいから」と答える。
「何の意味があるん?」と訊かれたら、「別に、聴きたいだけ」と答えるのが普通でしょう?
よく、映画や小説を観ていて(読んでいて)「これにはこういう意味がある。」とか、「この映画意味分からん。」など言う人もいますが、私のような者は、「ここが特に面白かって、、、」というようになります(たとえソレが戦争映画でも)。どっちも、当の本人がしたいように体験しています。作り手も「なんでそこがそうなん?」と訊かれたら、「こっちのほうがなんかいい感じやん?」と言う人もいれば、「こういうコンセプトを表現しとうねん。」と言う人もいるでしょう。両方の人もいますね?
「こうだから死にたい」という人も「なんか死にたい」という人も、両方いてもおかしくないと思うのです。ここで大事なのは、後者の自殺をとめるのは、その人のためにならないことです。さらには、「死ぬ事ができんのは生きとううちだけやん?(「死んだ」とは違う、自主性において)」という人までいるかも。
 両段落とも意図が伝わらなかったらごめんなさい。しかし、やはり私の場合には「考えたいから考える。」「知りたいから知る」「これをするのはしたいから」。でも、「これをするには、あれがいる、あれがいるから、それをしないと、、、」というのは面倒くさい事には変わりありません(それをしている間だは、満たされていません)。私が確認できるのは、『動機と行為が一致する』ことが至上だということなのです。ですから、「生きたいから生きとうねん」という人は、生きてる間はずっと満たされています。
ありがとうございました。

追申:一段落目が気になるようであれば「言語ゲーム」または「ウィトゲンシュタイン」について、質問などして調べてみるといいかと思います。
 

お礼日時:2001/02/10 11:38

前言撤回して、4回目しゃしゃりでました。

このでしゃばりが!とでも言ってくださっても結構です。でも書きたくて・・・・(続きを話したくて、、、)おゆるしあれ~

>たとえある他者がわたしにとってマイナスの存在で、価値がなくても、その存在は、私には「意味がある」ということ分かってもらえますか?

はい、それはわかります。自分の考えを「正・善・真」とした場合、かならずその一方にまた他者の考え(マイナスの存在)「誤・悪・疑」と自分の考えの相反するものが同時に存在するのですから、それを否定してしまう(意味がない)ということは自分の存在自体も意味がないということになる。というふうに理解していますが、違いましたでしょうか?
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この回答へのお礼

書き方が悪かったです。すいません。マイナスというのはじぶんにとって不利益なものだということです。あるマイナスの存在の意味を消し去っても(無視する)、他のいろいろなプラス存在の意味は消えません。マイナス自体の概念を否定するのではないのです。
自殺から離れてしまいますが、以下の文は非常に分かりにくい事と思います(めちゃめちゃ考えましたが自信はありません)。私の表現力ではこれがイッパイ、イッパイなのでご勘弁を。2段落に分けるので、わかりやすいほうを読んでください。ここで言いたいのは、プラス、マイナスではなく「ある」か「ない」かです。「0」か「1」です。
 ある存在をマイナスであると認識している時点で、そのある存在は私の中で意味を持っていると言えます。ある存在(マイナスでもプラスでも)を否定するというのは、できません。存在を否定するには、その存在を認識しなければならないからです。考えられる状態は、その存在を無視してる時です(誰?って感じの瞬間前)。そして、誰?って感じの時、ある存在は、私にとって意味がない(その名(ある存在を示す言葉)と実存在(ある存在)が、結びつかない状態)といえます。
ある存在=マイナス(プラス)の存在   ⇒ 意味あり
ある存在=どうでもいい存在       ⇒ 意味あり
ある存在=何?ソレ           ⇒ 存在あり(どういう意味かは分からない、意味があるかどうかも分からない、が、言葉(名)のみ存在している。実存在があるかどうかはこの時点では不明、あるかもしれんし、ないかもしれん。)
ある存在というものを知らない時     ⇒ 意味も存在も、ない
自殺しないためには何が必要か?それは、意味ではなく理由だと思います。意味があっても、それがマイナスの意味であれば、生きる理由にはなりません。

 ニ段落目は次のお礼に書くことにします。4回目のご登場ありがとうございました。
     

  

お礼日時:2001/02/10 10:08

ピラニアです。


補足と…
続けて考えると…

交尾後のカマキリの雄。

産卵後のオケラの雌。

も関わってくるのかも知れません。ちょっとずれるかな。

ついでにあんまり関係ありませんが、ちょっと読んでみても無駄じゃないとおもいます。都内在住独身30前後の野郎同士の固い約束です。
 ちなみに俺が死んだ場合、本当は【鳥葬】を理想としているのですが、
現実問題無理なので、【火葬】後、骨の一部を友達が受け取ります。
生命保険の一部がその友人に渡されます。俺の意思は虫や草木の肥料になり土へ帰ることなので、富士の樹海へばらまきに行く手筈が全て現時点で整っています。
逆も了解を経ているので、俺がハワイ沖に出て太平洋の自然のイルカの群れに
投げ込みます。彼は生まれ変わりをイルカになると決めているので。
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この回答へのお礼

蟷螂ですか、それは生きる理由を失ったというよりも、死ぬ理由があるのではないでしょうか?メスに栄養をつけるなど、、、
 イルカはいいですね。イルカと泳ぐと古い友達に会ったような気分になります。楽しいですよ。行く事をオススメします。わたしもイルカには憧れがありますが、(というより海にあこがれています)次は、鯨に会いたいですね。私も十代のときに離脱しましたが、時間があるというのは有益なことです。(お金はないですが)
三回目のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/02/09 07:32

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Q自殺することは悪いことですか? また、自殺と他殺の相違点は何ですか? せっかくの命を無駄にしてはい

自殺することは悪いことですか?
また、自殺と他殺の相違点は何ですか?

せっかくの命を無駄にしてはいけない、などの意見をよく耳にしますが、誰にも迷惑をかけずに死ぬのなら、個人の自由な気もしますし、、

わたしの意見は、「悪とは言えない」です。

例えば、この世を1つの学校だとして、
入学=誕生 卒業=80歳まで生きて死ぬ
いじめで不登校=他殺 自主退学=自殺
転校=火星へ移住(冗談です!)

などと定義して妄想してたのですが、
自主退学することを、いけないことだ、とは誰も言えないと思います。「いってしまったな」と、残された人達全体が、さみしい気持ちになったりするのは確かですが、
本人が、学校の外に何かを見出してやめていくことや、学校が嫌いだから行かないことは、本人の自由な気がします。

わかりづらい例えですみません。。わたしのなかの、自殺のイメージです。

こんな感じで、みなさんの自殺に対するイメージとか、ご意見などを聞きたいです。どうぞよろしくお願いします!

※ちなみに、私が自殺願望があるとかでは全くありません。

Aベストアンサー

ふたたびこんばんは。

回答とは言えない意見を述べさせてください。聞き流してください(苦笑)

「自殺」は「悪いこと」であるか?という設問の立て方よりも、「自殺」についての個々の考えを問うた方が、より広い意見を聞くことが出来ると思います。というのも、既に古代から、自分の意志による「自死」というものは存在しているのですから、人間存在と自死とは不可分のものと言っていいはずです。であるならば、「悪」とか「善」といった「価値判断」は後に何らかの理由で事後的に付けられたものでしかありません。

また先にも書きましたが、「自殺」という「緊急避難」の場があるという意識が人を救っているという事実があり、「いつでも死ねるのだ」という「自由の意識」が「生かしている」というパラドクスが存在する以上、自殺を悪であると断ずることは誤りでしょう。

「自殺」というのは、この一回限りの自己の存在を永遠に放擲してしまうという判断ですから、何故人はそのような判断をするのか?どのような時にそのような思いに立ち至るのか?という、自殺者の内面を推し量ることなしに、「公共の迷惑」であるかないかという、「自殺」の本質から外れた議論は無意味だと思います。

極端なことを言えば、その人がこれまで生きてきたために使われた人の労力・時間、或いは自殺で蒙った様々な損害・被害をすべて金額に換算して、その分を充分な補償金として支払えば何の問題もない。という結果が生まれそうです。しかしそれでは「自死」の問題をすべて「ぜにかね」というような、世俗的な価値に還元・回収して事足れりとしてしまうことになる。

哲学であれば、何故人は自ら死を選ぶのかを考えなければならないし、身近な人の死であれば、その死を悼みつつ、何故彼は、彼女は、死を選んだのかをそれぞれの胸の内で、われもまた、病むこと、悩むこと、貧すること、窮することを避け得ない、自死し得る存在として深く身に引き受けること、を思うべきではないのかと考えます。

ふたたびこんばんは。

回答とは言えない意見を述べさせてください。聞き流してください(苦笑)

「自殺」は「悪いこと」であるか?という設問の立て方よりも、「自殺」についての個々の考えを問うた方が、より広い意見を聞くことが出来ると思います。というのも、既に古代から、自分の意志による「自死」というものは存在しているのですから、人間存在と自死とは不可分のものと言っていいはずです。であるならば、「悪」とか「善」といった「価値判断」は後に何らかの理由で事後的に付けられたものでしかありま...続きを読む

Q不摂生な生活や病気の検診治療拒否で命を縮めた場合、これも自殺なのでしよ

不摂生な生活や病気の検診治療拒否で命を縮めた場合、これも自殺なのでしようか。

Aベストアンサー

病気になって死ぬことを目的として不摂な生活をしたり、身体の調子が悪くて何か悪い病気にかかっているかもしれない、治療しないと悪化すれば死ぬ可能性も出てくるかもしれない思っても、早く死にたいからと受診しない場合は、自殺行為に当たると思います。


先日テレビで見たのですが、白血病の人がもう薬代を支払えないからと、病院に行かなくなったそうです。
特殊な薬なので保険の対象外。
その薬代のせいで、夫婦の生活は破綻しかかったそうです。
白血病の治療で、財産を使いきり、収入を上回る薬代を請求されて、とうとう払えなくなったそうです。

それで夫婦は決断したそうです。
もう 薬は飲まない と。 薬を飲まないでやっていこうと。

奥さんが白血病で、ご主人は苦渋の選択だったでしょうし、奥さん自身も辛かったと思います。

自殺行為ですが、どうやっても払えない額。
薬を買えないので、飲めないわけです。

医療だってそうですよね。
高度医療を受ければ助かるのものだとしても、保険の対象外で払えなければ、その治療は受けられず、余命宣告をされても、何もできないわけです。

ただ思うんですね。
規則正しい生活、運動、定期健診をやってきた人でも、突然悪性のガンが発見されて、あっという間に死ぬこともある。

ほとんどの生活を健康管理に捧げたあげくに平均寿命よりずっと早く死亡し、不摂生な生活をし人生を謳歌してきた人の方が平均受容をはるかに上回っても元気に暮らしている人もいる。

生活習慣病ってありますよね。
病気に因子を持っていない人が、長年の不摂生な生活のせいで、因子を持っている人と同じ身体状態になる というもの。

どれだけの確率か今調べたんですけど、糖尿病の場合、「因子を持っていて 生活習慣がからみあって発病する人が9割」って。
残り1割が因子を持っていない人が、糖尿病になるってことでしょうか。
そうだとして、何故なるのかは明らかにされていない。


原因となる因子を持っていなければ、ならないわけで。。。
DNAを調べれば因子を持っているかどうかわかるらしいです。

で、質問者は不摂生な生活をしたり、検診を受けないと、早死にすると思ってるわけですよね。
そうじゃなくて、因子を持っていれば、不摂生な生活をしていれば、発病率をアップさせるでしょうし、因子を持っているので発病するわけで、因子を持っている人は定期健診を受けることで、早めに発見できて、治療を受けることができるってことだと思います。


「食べてすぐ横になると牛になるぞ。牛になりたいのか」と警告を受けたとする。
だけど牛になる因子を持っていなければ、どんなに食べてすぐ横になっても牛にはならない。

病気になって死ぬことを目的として不摂な生活をしたり、身体の調子が悪くて何か悪い病気にかかっているかもしれない、治療しないと悪化すれば死ぬ可能性も出てくるかもしれない思っても、早く死にたいからと受診しない場合は、自殺行為に当たると思います。


先日テレビで見たのですが、白血病の人がもう薬代を支払えないからと、病院に行かなくなったそうです。
特殊な薬なので保険の対象外。
その薬代のせいで、夫婦の生活は破綻しかかったそうです。
白血病の治療で、財産を使いきり、収入を上回る薬代を請求...続きを読む

Q例えば仕事の面接などで 「今よりも成長したい」 という人が多くいますが。 その「成長」とは何でしょ

例えば仕事の面接などで
「今よりも成長したい」
という人が多くいますが。

その「成長」とは何でしょうか?

ちなみに私の中の「成長」の解釈は、

「知識、技術を向上させて、いま、自分が感じる限界の幅を広ること」

だと思っています。

人により様々な解釈があると思いますが、
あなたにとっての成長は何でしょうか?

教えて下さい。

Aベストアンサー

「成長」っていう良さでな言葉を使っているだけですね。
特に内容はないでしょう。

これこれこうゆことを通して成長したいというのなら筋が通ってますね
私なら「先輩たちの考え方や、社会人としてどのような判断をされるか教えていただき、今までの価値観をないものを得て成長したいと思っています。」とか言いますかね?

Q哲学の人文科学及び社会科学の中の位置づけについて

哲学を学ぶということは、人文科学の諸分野を支える根幹的な思想を学ぶということに等しいですか?
例えば、自然科学の中で数学を学ぶというように。数学のあらたなる真理の扉を開けるのは、至難の技にしても、数学は数学以外の自然科学の諸分野の基盤や基盤以上の物を提供しているように。つまり数学が自然科学の諸分野・土台を支えてるいるのとイコールのように、哲学を人文科学・社会科学の研究の諸分野を支える根幹的なものと認識についての是非を教えてください。私のこの議論が全くもって的外れなら、どれ位的外れかまたどのように的外れで実際はどうなのかをご教授ください。

もう一つだけ追加でお願いします。自然科学において真理の扉を開けるということは、その当該分野のフロンティアをまた一つ新しく開拓したと言えると思うのですが、哲学におけるそれは何をもってそれ(学問分野のフロンティアを開拓するという事象)を定義付けるのでしょうか?また、フロンティアの開拓ということ自体、哲学の学問分野にとってはさほど重要度は高くないものですか?

よろしくお願いします・

Aベストアンサー

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大学を出たのはいいやつだ とかと
いうことをいいだし

 「いい加減=適正ということは=俺に従うことである」 を 基準として持ち出してきます。 

学の基準が その担当者の主観のみに左右されるということです。

つまり 質問者様の述べる 根拠 が 老人中心の身勝手な根拠 と なっていることに 問題があるのです。

本題に入ります。

科学の諸分野を支えているのは ひとです。

2000年に入ってからこの方、序文に掲げた理由で、著しく信頼関係という大事なものが破壊され続けています。

しかしそのすきを見て蔓延している害毒があります。 

『科学の諸分野の根幹をなしているのは思想であり、 
根幹的思想とは 「哲学的経済学である」 という 迷信』です。

まさに はびこっています。

たとえば 日本の哲学は 哲学学である と えらそうに いうひとがいますが、 

その根幹をなす思想は、 (学)は経済学が根幹でありその根幹は 哲学であり 
その根幹が わたくし である 

という 刹那的・唯物論的 部分意識です。匿名キリスト教の「論理的・間接的」布教です。

究極的には 学問は俺よりバカである 俺のほうが偉いという理論です。

唯一絶対の神のまえでは どんぐりの背比べである みんな馬鹿だ
という 傲慢です。

底に横たわっているのは キリスト教的 物質論=燃料資源 と 言語論理=ivGotです。

あたまのわるいおれさまも iGotをおさえていれば 基本をおさえている
どうだ!
もってるか? という のが 

基本として ひつようとされる 行動だ というわけです。

つまり 数学・哲学の素養がない人間の それでも俺様は偉い といいたいがための 言い逃れが

「(アカウントの)所有」である

という現状です。

(布教が失敗した例として セカンドライフ を あげると 
日本人はそこまで馬鹿ではなかった ということもできましょうが・・・)

つまり 簡単に表現するとすれば、

所属と思想 という 中世的思考が 今の世の中では 所有と偶像崇拝 に とってかわられたのです。

書面としては ドグマが 神学から 情報科学 へと移りました。

そういう意味で 質問者様が感じ取った 他人を弾圧し、加害者側となって阻害されないための教義
そして
その根本はどこにあるか という 点では 的を射ているということができるでしょう。

しかし その数学は 情報科学としての 数学 であり

哲学も 情報科学としての 哲学です。

中世では 1教会 2キリスト教 3聖書(神学) であったものが
形を変えて 存在し続け
現状としては
1 SNS 2 端末教 3 WIKIぺ
(情報科学 別しては自然=数学/人文=哲学/社会=経済学) に 変化しました。

新たな真理とは いまでいうと
表現的焼き直しです。

馬が車に 書物がデータに 変わった というだけの 言語的・論理的修正です。

忘れてはならないこととしては
支えているのが「底辺」であり、
上記IT三学
(情報工学としての数学・
ネットオントロジーとしての哲学・
社畜管理のための経営学)を修めているのは

WASPシンパの指導者たちです。

なにも支えてはいません。

「B層には なるな」ということだけが最低限の教訓として存在します。

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大...続きを読む

Q【幸福の科学って創価学会の教えのパクリでは?】 創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよ

【幸福の科学って創価学会の教えのパクリでは?】

創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよね?

両方、幸福はどのように実現するのか?という人生の問いに答えを出すための宗教ですよね。

Aベストアンサー

「創価学会の教えを参考にして幸福の科学は出来てますよね?」
→それは、あなたの勉強不足でしょう。
ご質問には、具体的な内容が書かれていませんが、それらのほとんどは幸福の科学、創価学会でなくても一般常識として当たり前のことなのです。


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