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キリスト教に詳しい方に教えていただきたいことがあります。

私は旅先で教会を訪れることがたまにあるのですが、
日曜日のミサに出席すると、
出席者の皆で聖歌を歌う前か後に、
教会のスタッフの方が500円玉のような形状をした、
「白いお菓子のようなもの」を配り、
神父さん(又は牧師さん?)と共に皆で食べているのをよくみかけます。

あの「白いお菓子のようなもの」は「パンと水」の「パン」を
象徴していると思うのですが、
あの白い食べ物は実際にはどのようなものでできているのでしょうか?
ぱっと見た目には、「ラムネ菓子」のようにも見えるのですが、
甘いのでしょうか?
具体的に何を食べるのかは、
カトリック、プロテスタントで異なるのでしょうか?

また、「白いお菓子のようなもの」は、
その教会に属していない人や、洗礼を受けていない一般人は、
食べてはいけないのでしょうか?

正式なクリスチャンの方からみると失礼な質問かもしれませんが、
初心者の素朴な質問ですので、
できれば詳しく教えてください!

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A 回答 (4件)

カトリック信者です。

プロテスタントのことは一切わかりませんが

ご質問の白いモノの正式名称は先の回答者様がおっしゃっている通り
「ご聖体」というものです。
モノ自体は幼い頃両親に「ウエハース」だよ、と教えられましたが
所謂「ウエハース」ではなく食感はパサパサし、味は甘味すらありません。
匂いももちろん全くありませんし、口内にへばりつくだけのものですね。

さて
>その教会に属していない人や、洗礼を受けていない一般人は、
食べてはいけないのでしょうか?

ですが、「食べてはいけません」。
洗礼を受けていることが絶対条件で、さらに子供もダメだったはずです。
私の場合は小学校入学以降許されました。
教会に属している方のほとんどが信者であり洗礼を受けていますので
(洗礼を受けたから信者という考えもありますね)特に問題はありませんが、一般参列者さんが多いクリスマス等のイベント期に「まぎれて」ご聖体をいただいちゃったとしても特にペナルティはありません。
大体、判別がつきませんからね……。
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昔知人にプロテスタントの人がいて、一度だけミサに出たのですが、アチラではどうだったか忘れてしまった、なまぐさカトリック信者です。



白い菓子の様の物は聖体のことです。
イースト菌の入っていないパンが起源で、最後の晩餐に描かれているパンがモデルです。
味のない最中の皮みたいなものです。

キリストが「これは私の身体である」と言い、弟子に分け与えました。
キリストの人生そのものを身体に刻み付ける意味があります。
一部の式典やキリスト系のある宗派ではぶどう酒も頂く所があります。

神父様はぶどう酒と水を混ぜて飲んでます。大きな教会では神父様によって両者の割合が違ったりしますから、観察していると面白いかもしれません。(私達は割合を覚えるのに必死でしたが)
ぶどう酒は「これは私の契約の血である」と言ってキリストが弟子に分け与えました。(でも味は水割りのぶどう酒です)
信仰の再確認の意味があります。

昔、「パンが身体な訳ないじゃん」とパンをそっと持ち帰って割ってみたら、血が噴き出したという都市伝説のような話を聞いた事があります。

実際には象徴的な意味ですから、普通の人が食べてもどうって事ないです。(ただし、血が噴出しても責任は取れません。)
その教会の所属や常連でなくでも拝領するのは構わないので、信者でない人が頂いているかは判りません。
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 こんにちは。

同じくカトリック信者です。確かにあのパン気になりますよね(^o^)。私も洗礼を受けるまではあれは何味なんだろう??と興味津々でした。味はNo.2の回答者様が書かれているようにウェハースです。アイスクリームのコーンの味のないヤツといった感じです。パサパサしているので、聖体拝領の時には口の中を唾で湿らせておかないと口の上の方にピタっと張り付いてしまって、ありゃりゃ状態になったりします(^_^;)。あれはどこかの修道会で作っているという話も聞いた事がありますが、ちょっと分かりません。
 質問者様が体験されたのは、もしかしたらプロテスタントの礼拝かもしれません。お皿にのって配られる所があるらしいです。かといってプロテスタントの礼拝に参加した事がありませんし、教派も多岐に渡っていますので、一概には言えませんが。ちなみにプロテスタント諸派は礼拝で、牧師さんで、カトリックはミサで神父さんです。ややこしいですが(^_^;)。ここに正教会とか聖公会とか入ってくるとまた色々名称が違います。
 カトリックの場合は、多分並ぶと思います。最初に足の悪い方などのために配った後、信者が一列に並びます。司祭が「キリストの体」というと信者が「アーメン」といって手で貰います。以前は口で貰っていたようですが、現在は手で受け取るように指導されています(徹底はされていないので口の方もいらっしゃいますが)。
 お察しの通り、この御聖体は信者以外は食べてはいけません。というより、勉強会で司祭の方に食べても意味ないよと言われました。ですのでうっかり食べてもバチは当たりません(^_^;)。でもカトリック信者ではないので意味ないよという事です。ちなみにプロテスタント信者がカトリックのミサに参加しても聖体拝領は未信者と同じ扱いです。逆も同じ事だと思います。以前ブッシュ大統領(だったかな?)がカトリックのミサに参加して聖体拝領をしてちょっとした問題になったようです(ブッシュ自身はプロテスタント諸派です)。
 ですが、この時の行列に是非並んでください。手を併せて軽く頭を下げると祝福してもらえますので、躊躇わずに是非是非参加して下さい。司祭によっては軽く頭上で十字を切るだけの方もいらっしゃいますし、長く祈ってくれる方もいらっしゃいます。終わると軽くお礼されると良いと思います。この手をあわす時に右親指を左親指の上にクロスさせるのがカトリック流です。
 クリスマスが近づいてきましたので、是非お近くの教会でクリスマスミサ(または礼拝)に参加してみて下さい。

 ご参考までにm(__)m。
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「聖体」のことですね


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BD%93
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Qクリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか?

クリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか?

悩んでいます...(長文です。)
アメリカ在住なのですが、つい最近クリスチャンの友人が出来ました。(日本人の方です。)
とても優しく、尊敬できる良い方で仲良くさせて頂いています。
その方はクリスチャンのようで毎週教会に通っておられるのですが、
ひょんなことから教会の話になり「教会に興味がある」と伝えると
「もしよければ一度一緒に」と誘って頂きました。

先週早速連れて行ってもらい、教会のみなさんには歓迎して頂き、説教もわかりやすく
とても良い印象を受けました。無理やりな勧誘や献金等も特に無く、
「興味があればぜひまた行らしてください」というような雰囲気でした。
既に次の集まりにもお誘いを頂いています。

ここでふっと思ったのですが、クリスチャンではない人間が教会に行って説教を聞いたり、
礼拝をしたりするのは良くないことなのでしょうか...?
礼拝や賛美歌のときは下を向いて静かにしているか、周りの人に合わせて歌っています。

私自身は洗礼もなにも受けておらず、家族は仏教徒です。
私は自分はキリスト教徒だとも仏教徒だとも思っておりません。
どちらかというと思想的には無神論者に近いと思います。
しかし神様を信じる人を特におかしいとも思いませんし、信仰が人を救うことがあるのも
確かだと思います。

私は純粋にクリスチャンの方の考え、教会はどんなことをしているのか、聖書はどういうものなのか、
「せっかくアメリカにいるのだから教会に行ってみたい」「聖書を読んだり、説教を聞いたり、
教会で他の人と交流するのは英語の勉強にもなる」等という理由で教会に行ったのですが、
こういう理由は不純でしょうか?

私はどちらかというと宗教としてより学問や教養としてキリスト教に興味があります。
なので今のところ特にクリスチャンになりたいとも思っていません。当然聖書も持っていません。

皆様に質問なのですが上記のような理由で教会には行かない方がいいでしょうか?
それとも私がそう思っていないだけで、教会に行っている時点で既にクリスチャンなのでしょうか?

教会の方からは特に「キリスト教の信者か?」というようなことは聞かれなかったのですが、
「教会に来ている時点で信者だと思われているのでは?」という不安と、
実は自分はクリスチャンではないという申し訳なさで一杯です。
小さな韓国系の教会なので、みなさんに名前を覚えられ始めています。
友人からの紹介という形で行っているので、失礼があったらその友人にも迷惑になると思うと
心配でなりません。それにもしかしたら友人自体も私がクリスチャンではないということを
知らないかもしれません...

失礼にあたるようなら、友人には理由を話し教会に連れていってもらうことは次回からは
丁重にお断りしようと思います。

ぜひクリスチャンの方、そうでない方、両方からのご意見をお伺いしたいです。
回答よろしくお願い致します。長文失礼致しました。

クリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか?

悩んでいます...(長文です。)
アメリカ在住なのですが、つい最近クリスチャンの友人が出来ました。(日本人の方です。)
とても優しく、尊敬できる良い方で仲良くさせて頂いています。
その方はクリスチャンのようで毎週教会に通っておられるのですが、
ひょんなことから教会の話になり「教会に興味がある」と伝えると
「もしよければ一度一緒に」と誘って頂きました。

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Aベストアンサー

一般のキリスト教のお話はクリスチャンでなくても、とてもためになります。

自分がどういう立場にいるか、自分の寄って立つ所が分かっていれば気にすることはなく、教会に行けばよいと思います。クリスチャンになるのかならないかは、ずっと先のことです。ヨハネの福音書に書かれてあるように、クリスチャンは神に選ばれるものだという言葉がありますから、そういう時が来るか、来ないかは、自力の問題ではないようです。

一度教会に行ったとしても、気が進まない時には、自分の気持ちははっきり伝えるべきですね。私は、10代の頃に、統一教会の教会の説教を聞いたことがありますが、もう既に宗教教育は受けていたので、彼らの理屈をもう認めることは出来ませんでした。彼らの教えには、一般キリスト教にないものが多く含まれているからです。ただし、まだ霊感商法のない時代ですが、すでに社会問題には発展していました。

ご友人に、自分の気持ちをはっきり伝えて、その人が離れていくなら、それは、その人自身が宗教のために近づいたということだけにしかならないと思います。

私個人は、団体には、今は、どこにも属していないけれども、多少のキリスト教の知識は持っているつもりです。ただ、とても、一部の米国系のキリスト教とは考え方が一致するとは思えません。

だからといって、一般的なキリスト教のお話を聞けないわけではありません。また、私は、キリスト教の考え方は米国が主流だとは決して思っていません。私の知っているキリスト教の考え方とは、かなり開きがあります。私は、あるキリスト教学者を尊敬していますが、先生は日本の伝統的キリスト教の考え方ですが、ドイツにそれに近いもので、神秘主義を一切排除した所を出発点にしていらっしゃいますので、かなり違った印象を受けます。

また、一部、米国キリスト教は、日本バッシングや親イスラエルを聞かされることがありますが、とても、そのまま彼らの話を受け入れるわけにはいきません。日本人に対する無理解の中傷だけでは、その人たちを認めるはずがありません。彼らの中には、日本人は、偶像崇拝だとか、無神論だと、自分たちを中心にした概念の範疇で批判する人たちがいますが、それは、単に、日本の宗教史に詳しくないだけでなく、異文化圏に対する宗教についての接し方を知らない人たちです。

日本人のいう仏教を基盤とした「無神論」というものと、英語の"Atheism" とは、まったく異なるものぐらいの知識は必要です。日本の宗教が、アニミズムだと言われるもの、やはり無知によるものです。むしろ、密教の影響のせいか、汎神論(Pantheism)と言ったほうが、良いかもしれません。うかつに、"Atheism" や、"Irreligion"という言葉は、よほど思想体系を持たない限りは言わないほうがよいと思います。日本人でも、明確に神(仏)を否定するような人は、よほどの変わり者です。不思議なことに、日本では、仏が、概念とはまるで違うのに、神格化しているのです。キリスト教と大きく違うのは、全ての人に救いのチャンスを与えています。

日本人の宗教というのは、生まれながらのままで、自覚をしない宗教だと思います。生まれながらの宗教は、もう一度宗教に目覚めないと、本当の信者にはなれないのです。ほとんどは、一度も宗教に目覚めないままに、死んでいきます。宗教は、本来、その人自身の死生観の問題ですから、キリスト教であれ、仏教であれ、イスラム教にしろ、そういう問題は最期の最後に決めても遅くないような気がします。

日本人は、明治以降だけでも、本当に、宗教には、さんざんに翻弄されてきたわけですし、戦後の新宗教の問題にしろ、昭和・平成になってからでも、日本国民が無宗教・無信仰と言わざるを得ない気持ちに、一定の理解を示しても良いと思いますし、他の国の人たちに説明しても悪くはないと思います。

いろいろ経験してみるのは良いことだとは思います。

ただ、いずれにしても、どこの国でもありますが、カルト系の団体には気をつけたほうがよいと思います。

一般のキリスト教のお話はクリスチャンでなくても、とてもためになります。

自分がどういう立場にいるか、自分の寄って立つ所が分かっていれば気にすることはなく、教会に行けばよいと思います。クリスチャンになるのかならないかは、ずっと先のことです。ヨハネの福音書に書かれてあるように、クリスチャンは神に選ばれるものだという言葉がありますから、そういう時が来るか、来ないかは、自力の問題ではないようです。

一度教会に行ったとしても、気が進まない時には、自分の気持ちははっきり伝えるべきです...続きを読む

Qキリスト教の食事の前の祈り

キリスト教の食事の前の祈り…(十字架を書いて)なんですが、どういう意味を込めてなんでしょうか?
同時に祈りの文章を一緒に戴けたら幸いです☆

Aベストアンサー

カトリック信者です。

十字の意味は、イエスが十字架に貼り付けられ処刑されたのはクリスチャンでなくとも大抵の人が知っていますね。
よって、信者はイエスと同様に自分も十字架を背負って生きていく覚悟で洗礼を受けるのです。
ですから十字架を誇りに思っております。
また「十字を書く」ではなく「十字を切る」と言います。

●十字の切り方
まず自分の心を沈め、神を賛美し神への感謝を込める気持ちに満ちて、
(1)まず、ほぼ額の中央位置で右手中指で軽く触れ「父と」と言葉に出し、
(2)その手中指を胸の辺りに移動して止め「子と」と言葉に出し、(3)次にその手中指を左腕の付け根辺りに移動させて止め、「聖霊のみ名に」と言いながら
(4)右手中指を右腕付け根あたりにて止めた時には「よって」と言い、
(5)最後に両手を合わせ「アーメン」と言います。

続けて言いますと、
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン。」
また、声に出さなくてもよいのですが出せばベストですね。

「父と子と聖霊」は三位一体といって
神様=「父と子と聖霊」
ということを意味します。

●私の場合の食事のお祈り
(1)食事を頂くとき
両手を合わせた状態(いわゆる合掌)を保ち、
「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。
ここに用意された物(食物)を祝福し、私達の心と身体を支える糧としてください。」
ここで十字をきりながら、
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン。」

(2)食事を終えるとき
両手を合わせた状態(いわゆる合掌)を保ち、
「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。
あなたの慈しみを忘れず、全ての人の幸せを祈りながら。」
ここで十字をきりながら、
「父と、子と、聖霊のみ名によって、アーメン。」
私の場合ここで再び両手を合わせ「ご馳走さまでした。」と言います。

以上参考になりましたでしょうか

カトリック信者です。

十字の意味は、イエスが十字架に貼り付けられ処刑されたのはクリスチャンでなくとも大抵の人が知っていますね。
よって、信者はイエスと同様に自分も十字架を背負って生きていく覚悟で洗礼を受けるのです。
ですから十字架を誇りに思っております。
また「十字を書く」ではなく「十字を切る」と言います。

●十字の切り方
まず自分の心を沈め、神を賛美し神への感謝を込める気持ちに満ちて、
(1)まず、ほぼ額の中央位置で右手中指で軽く触れ「父と」と言葉に出し、
(2)その手...続きを読む

Qクリスチャンの方々へ:あなたの洗礼名は何ですか?

クリスチャンの方々へ:あなたの洗礼名は何ですか?

少しでも多くの情報を集めたいと思ってアンケート形式にしました。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

少しでも多くとのことですので、友人たちのものを羅列しておきます。
珍しい名前は本当に特殊なので、ちょっと本人の許可なく載せられないので、ポピュラーなものだけになりますが……。
ユリア、エステル、モニカ、エヴァ、イーヴァ(綴りはエヴァと同じですが、本人はイーヴァと発音していました)、アンジェラ、マリア、ハンナ、男性だとジョン、ペテロ、パウロ、マルコ、アリエル、レヴォなど。
基本的に聖人の名前から取りますから、かぶりやすい名前もけっこうありますね。
洗礼名とは別に堅信名というのもありますので、2つの名前をくっつけたような名前もあります。

Q教会における懺悔室について

教会にある懺悔室について詳しく知ってらっしゃるもしくは詳細がわかるHPや小説の抜粋等ありましたら教えてください。
必ず知りたいのは<懺悔室にも閉館時間はあるのか><どんな内容でも絶対に神父は意見を言わないのか>です。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

懺悔という制度は、キリスト教でも、たぶんカトリック特有のものだと思います。(ちなみに私は、元カトリック教徒) プロテスタント教会の信徒さんに聞いたら、そんなものはないと言ってましたから。
カトリック教会では「懺悔」とは言わず、「告解(こっかい)」と言ってましたが、今は「ゆるしの秘蹟」と言ってます。

ヨーロッパ諸国を初め、外国のことはよく分かりませんが、私が所属していた日本のカトリック教会では、復活祭(イースター)の前と、降誕祭(クリスマス)の少し前に、教会では「黙想会」というものがあって、そのときは、聖堂で神父の話を聞いて、その後、皆、私語を慎んで黙って祈り、自分の生活や信仰を顧みたりして、さらにその後、神父のいる部屋にひとりずつ入って行って、自分の犯した罪を告白していました。

ただ、これは教会側で設定された告解の日であって、普段の日でも、どうしても告白したい罪等があれば、個人的に申し出れば、神父さんには応じてもらえると思います。

昔は、月に2、3回は告解したものなのに、今は皆、告解をあまりしなくなって、たるんでいる・・・と嘆き怒っていたお婆さんの信者さんをよく見かけましたよ。


大きな規模の教会には懺悔室というようなものが、ちゃんと普段から設置されていますが、小さい教会にはそんなものはありません。私の所属教会でもそうでした。

ただ、教会の中には事務室や、会議に使える小さい部屋や、食堂なんかがありますから、告解をするときは、神父さんがそれらの部屋に入って待っておられて、信者はそこの前に並んでひとりずつ入って行きます。
入ると、神父と信者が顔を合わせないように、一枚もののついたてのようなものが立っていて、その真ん中へんに小さな小窓のようなものがありましたが、細かい網が貼ってあって、お互いの顔は見えなくなっていました。
演劇の舞台なんかで使われているドアだけのセットみたいなものを想像してもらったらいいと思います。
そのついたてをはさんで、罪を告白していました。

ただ、先ほども書きましたが、比較的大きな規模の教会には告解するための部屋がもともとあって、そこに入ると、教会によって造りは少し異なると思いますが、パチンコ屋の景品交換所とか、昔のラブホテルのキーを渡すフロントみたいに、壁で仕切られていて、その壁に小さい窓のようなものはあるけれど、お互いの顔が見えなくなっていて、壁を挟んで話します。

ただ、いくらついたてがあっても、いつも逢っている神父さんと信者さんなら、信者さんの声とか話し方でその人が誰か分かる場合がありますでしょう。そうすると、たとえば、とんでもない大きな罪を告白しちゃったわはいいけれど、次の週からその神父に逢いづらいとかいうことになり兼ねないので、先に書いたような教会が設定している年2回の告解のときは、そこの教会の神父さんはよその教会へ行き、そこの教会には、また別の教会の神父さんが来たりします。そうすると、神父も信者も知らない同士だから、声を聞いても、神父さんが「ああ、あの人だな」なんて
分からないでしょう。


告解する部屋に閉館時間はあるのかということですが、基本的に、やっぱり夜9時とか10時になると、教会の門自体が閉められて、神父さんも就寝しちゃうので、普通だと
ずっと開いているわけではないと思います。
ただ、もう、どうしても今夜中に告白したいのです!と電話入れて懇願でもすれば、その切羽詰まり具合によっては夜中でも応じてくれることもあるのかもしれません。
しかし、基本ややっぱり教会の門を閉めた時点で、告解の部屋も閉まるということになりますでしょう。

あと、神父は告白されたことを絶対に、ほかに漏らしてはいけないというのは、厳守されていると思います。
神父は個人的な意見も特には言わないです。ただ、罪の告白を聞いて「では悔い改めの祈りをしましょう」というようなことを言われて、一緒に祈祷文を唱え、「同じ罪をおかさないようにしましょう」と言われるくらいです。
と言うか、告解の台本みたいなものがちゃんとあって、信者はここでこう言って、それに対して神父はこういうように言うというのが、すでに定型であるんですよ。ただ、その告白する罪のところが各々個人で違うだけで、あとは台詞が決まっているので、その通り言って終わりです。

神父は「告解」のときに、あれこれ意見は言わないですが、たとえば「私は殺人を犯しました」とか「強盗を働きました」とか言う、明らかに法的にも犯罪のことを告白されたら、警察に通報したりしてはいけないことになっていますが、その本人に「自首しなさい」と説得するそうです。これは、現役神父に聞きました。


日本はキリスト教の人口自体がものすごく低いので、映画でも適当なものが思い浮かびませんが、フランスやイタリアなどのカトリック信仰国では、映画にも告解しているシーンがよく出てきます。
たとえば、大ヒットしたイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」や、リュック・ベッソンが監督して、ミラ・ジョヴォビッチが主演した「ジャンヌ・ダルク」なんて映画には、告解のシーンが出てきますから、一度、ご覧になってください。あと、サスペンス映画の巨匠、ヒッチコックの映画の中に「私は告白する」という映画がありますが、これは、先ほどの話ではありませんが、信者に「殺人を犯したことを告白されてしまって、苦悩する神父の話
です。
いずれもレンタルビデオ店に行けば、ビデオがありますから見てみてください。

長文になりましたが、参考になりましたでしょうか。まだ、分からないことがあれば聞いてください。

懺悔という制度は、キリスト教でも、たぶんカトリック特有のものだと思います。(ちなみに私は、元カトリック教徒) プロテスタント教会の信徒さんに聞いたら、そんなものはないと言ってましたから。
カトリック教会では「懺悔」とは言わず、「告解(こっかい)」と言ってましたが、今は「ゆるしの秘蹟」と言ってます。

ヨーロッパ諸国を初め、外国のことはよく分かりませんが、私が所属していた日本のカトリック教会では、復活祭(イースター)の前と、降誕祭(クリスマス)の少し前に、教会では「黙想会」...続きを読む

Q「すいません」と「すみません」どちらが正しい?

 タイトルにあるとおり、素朴な疑問になりますが、「すいません」と「すみません」ではどちらが日本語として正しいのでしょうか。分かる方ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

もともとは「すみません」ですが、「すいません」と発音しやすく変えたものもたくさん使います。
話す時はどちらでもいいですよ。

ただ、私個人の語感で言うと、公式的な場では「すみません」の方がいいような気もします。「すいません」はちょっとくだけた感じかな。でも、これはあくまで私個人の語感。人によって、あるいは地方によっても感じ方は違うだろうと思います。

書くときはもちろん「すみません」にしましょう。

発音しやすく変化した発音の他の例としては
手術(しゅじゅつ→しじつ)
洗濯機(せんたくき→せんたっき)
などがあります。これも、話す時にはどちらでもいいです。「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q大さじ一杯 小さじ一杯って・・・

それぞれ何グラムぐらいなんですか?困っています教えてください。私はさじを持っていないので測れないのです

Aベストアンサー

重さは量るものによって違いますが、
大さじ一杯=15cc
こさじ一杯=5cc
です。

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 

末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 
末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。
これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。

母がすいぞう癌だと宣告されたのはおよそ1年前です。
肝臓にも転移しており既に手遅れでした。
今年の3月頃までは癌だと思えないほど元気な母でしたが
4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。
あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。
肺へも転移し、咳がひどいです。
今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。
急に食欲もなくなりました。
一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。
母はこれからどうなっていくのでしょうか。
苦しみが増しますか? 
意識は最後まであるものですか?
自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?
この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。

文章がうまくまとまっていなくてすみません。
少しでも心の準備ができればと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化学作用
が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。
大きな血管にがんができて、血管が破れるということも起きます。
腎臓の機能が低下すれば……
脳の機能が低下すれば……

つまり、がんがどこにあり、その臓器は、どんな仕事をしているのか、
ということです。
何が起きても不思議ではない、ということです。

「苦しみが増しますか?」
軽くなるということはないでしょう。
出てきた苦しみを押さえるということになります。

「意識は最後まであるものですか?」
わかりません。
先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている
場合もあります。

「自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?」
状況によりますが、オムツということも考えてください。
尿はカテーテルを留置することになります。

残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、
「それを治療して、昏睡から醒めさせて、延命をする」ということを
しないという選択肢もあります。

末期症状は、医師や看護師がよく知っています。
まずは、医師や看護師と相談してください。

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む


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