『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

 最近良く思うんです。この世界、世の中って何なのか、何のために存在するのか。こんなことを考えているとなんだか生きる気ややる気が失せてきて、最近良くだらけてしまいます。もしこの世界、世の中が夢幻だとしたら、頑張ることは無駄なことなんじゃないかと思ってしまうんです。一時期、「この世界は何のために存在するのか、自分は何のために生きるのか」それを見つけるために生きるのだ、と思っていましたが答えは見つかるのだろうか、もし見つからなかったとしても人生満足して終えられるかとても不安です。もしよろしければ助言お願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

 以下、本で知り、私は納得できた内容です。


 まず、この世は【物質】に囲まれた世界であり、ちょうど缶詰の中にぬいぐるみを着た【心・魂】が生きているようなもののようです。つまり、人間とは心・魂であり、肉体はぬいぐるみ、この世とは缶詰の中ようなもののようです。
 次に、あの世は(缶詰やぬいぐるみを脱して気体が飛び出したような)心・魂だけの世界であり、心・魂とは、(意思・感情・思考等を持った)電波・気体のようなものですから、波長・比重によって人々の住む世界が分かれてしますようです。つまり、悪い心を持っていると比重が重いため沈殿するようですし、善人は善人で集まり、天使は天使で集まる、という感じになるようです。(上層から下層へ行くことは可能。また悪人でも心境が変化すれば心境に合った所へ移動することは可能。)
 このように、あの世では自分と価値観等が同様な人々と住むわけですから、居心地がいい反面、長く居ると停滞感も出てくるため、そうなるとこの世に生まれて来るわけです。
 この世は缶詰やぬいぐるみの中に気体を入れる形式をとるため、気体の比重が違う物同士でも交流することが可能ですので、違うレベル・価値観の人々と交流することで自分の器を広げ、人格を成長させることができますし、また様々な珍しい体験をすることができますので、こうしたことを通じて幸福感を味わうことができ、また自分も変化することで生まれる前に住んでいた所よりすばらしい所(あの世)へ行くことも可能になる、というわけです。
 つまり、この世界や自分は何のために存在するのか、というと、自分と違う人々との交流を通して人格をより成熟させて行き幸福感を増進させて行くため、また、そうした人々との様々な体験を通じ幸福感を味わうため、またそうした人々とすばらしい社会を創って行くことて幸福感を味わって行くため、ということのようです。
 なお、この世に生まれてくる際には、あの世で人生計画書を役所へ提出し、許可を受けることも多いそうです。
 例えば「医者になって難病の人を助けてあげたい」「障害を持っても幸福に生きられることを実証したい」「前世では○○が実現できなかったので今度は実現したい」等々、各人様々な希望・志を持って生まれてくることが多いようです。そうした計画は表面的な意識レベルでは忘却させられますが、深い決意・志として魂に刻んでいますので、その熱意がどの程度のものであったのか、死んで帰って来た際に当初計画と実際結果を見せれらるのでお楽しみ!ということのようです。
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>〈あなたの目の前にある現実以外の幻想を打ち消して下さい。

〉これについてなんですが、どういうことなんでしょうか?良ければおしえて下さい。

今これを読んでいるあなたの目の前に何があるかは想像するしかないですが、あなたが今このとき目にし、耳にし、肌に感じていることこそが「現実」であり、そのほかは全て「幻想」だと思って下さい。
そうです。あなたの頭の中で繰り広げられる「思考」によって得られるイメージは「現実」ではなく、「幻想」なのです。

人間は言語というものを手にすることによって「思考」という「幻想」を手に入れました。しかし人間はそれを「現実」と思ってしまう癖があります。
あまりに複雑で抽象的な思考は幻想と等価と思った方がいいでしょう。

ただ、「思考」という「幻想」は、私たち人間という生物にとってしばしば本当の「現実」に素直に反応して導かれるはずの「生の力」を減ずるいたずらをときどきします。

あなたが、「この世界、世の中って何なのか、何のために存在するのか。こんなことを考えているとなんだか生きる気ややる気が失せてきて・・・」と感ずるのはそのせいかもしれません。

人間が一個の生物として純粋に生きるためには、そういったあまりに抽象的な思考はむしろ邪魔なのでしょう。

人間が「どうしようか?」と迷ったときにはむしろ一切の抽象的な思考を止めた方がいいのかもしれません。
そうしたときに初めて一個の生物としての本能的な解決の方策が見つかるのだと思います。
言葉を持たない他の生物に学ぶべきです。
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「この世界は何のために存在するのか、自分は何のために生きるのか」の答えですが、


見つけようと思えば見つかるし、見つけようとしなければ見つからないものです。

結局は自分が納得できる、満足できることがその答えで「ヒトの数だけ答えがある」ものです。
この答えは人から教えてもらっても満足できないと思います。
人から教えてもらえるものは答えだけで過程は自分で考えることでしか見つかりませんし。


私も「自分も今はここに存在しているけど死んだら何にも無くなって、私を覚えていてくれる人もいつか死んでしまって私の存在は消えてしまうんだな~・・・」と思います。
それなら最初からいなくても、生きて死んでもあまり変わりないものだと思いました。

それでも私が死ななかったのは生きてるうちにできることをしたいからです。
この世界がたとえ夢でも、夢の中でしかできないこともあると思います。

生きることは無駄なのかもしれないけど、他のなにかのためにという使命感ではなく自分がやりたいことをすればいいんだと思います。
満足するっていうのは欲を満たすことなので自分を誤魔化して生きても満足はできないと思います。

答えを探したいならいろんなことを経験しながら生きていくしかないと思います。


駄文、失礼いたしました。(_ _)
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がんばっていい夢を見ればいい。

世の中が現実であっても、夢幻であっても、どちらにしてもがんばれば、よくなる。だから、努力は無駄ではありません。
答えを出すのに方法を考えました。
ひとつは答えを積極的に築いてしまうこと。
もうひとつあります。

知らずの内に努力していたということが多くあります。
迷ったり、苦悩したり、することはそういうようなことです。
それらは積み重ねられ、やがて疑問、悩みをその体積、質量によって、物理的な意味で超えてしまいます。そのとき、疑問や悩みは消えます。食い尽くされたといえるでしょう。答えも必要でなくなります。
また、無駄な悩みはありません。これから悩む量を減らすことはできますが、すでに悩んでいる量は無駄にはなりません。その人の栄養になり、排泄物もでます。何一つ無駄にはなりません。
また、悩む量を減らす方法は、疑問を軽視することです。
疑問を軽んじるには、より重いテーマを考えることが有効です。
一歩先を答えるのに、三も四も、欲張れば無限をも目指すのです。
いつの間にか、あわよくば一瞬、目の前の一を終えます。
>人生満足して終えられるかとても不安です。
人生を超えるものに、ふと目をやってください。それ自身がみえなくても、今まで歯が立たなかった悩みは、あなたの食卓に乗る大きさになります。
こういう問いは腐りません。時事社会問題、初恋や親子関係などは、時がたてば腐るので、早く食べなければなりませんが、世界って何?のようなものは、なかなかくさりません。まるで何万年も形を残す岩石のようです。
味もおいしくなさそう(笑。事実、おいしくないです。
おいしい苦悩とまずい苦悩があるなら、人生って何?とかいうようなものは、食いにくい苦悩かもしれません(笑。食指が動かないので、怠惰になるのではないでしょうか?
良薬は口に苦いというけれど、医食同源、日ごろからいい物を選んで食べておれば、病気にもかからないとも考えれます。
 
もっとおいしい迷いに目をやってみれば、そんな苦い薬のことは忘れていいかも知れません(笑。
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私は生物学者の卵ですが、生物ができたのも、それが人間のような複雑な生き物に進化できたのも偶然です。


10の何億何兆乗分の1の確率でたまたま起こるようなことがたまたま積み重なって人間というものが生まれたのです。
しかし、これは見方を変えれば必然と言うことになります。
確率がゼロでないものは、時間の粉を振り掛ければいずれ必ず起こることなのです。
そして、進化が性質上逆戻りできない現象であったこと(遺伝子は積み重なっていくがあんまり減らない)も人間の誕生を助けたでしょう。
進化の性質は偶然ではなく、自然の法則です。
つまり、宇宙ができたときから、自然の法則の中には人間がいずれできることがプログラムされていたと言えます。
そしてその先もきっとプログラムされています。
でも、この大きな流れとは別に個人の幸福というものはあると思います。
がんばるのは自分の幸せをつかむためです。
そして自分の幸せの中には他人の幸せも含まれてるはずです。
自分の本当の幸せとはなんだろうということも考えてみるといいかもしれません。
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私の他の回答は、ほとんど全てと言っても良いほど、このような内容の質問に


費やされております。もし良かったら他の私の回答をご覧下さいませ。

人間は、決っして偶然に生まれてきたのではありません!!
もし、偶然なら、これほどのシステムを持った機能的存在には
なりえなかったはずです。
ましてや、アメーバーが進化して人間になったのなら、
人間になるための素材が既にアメーバーに無ければなりません。
原因に無いものが結果として現象化するはずがないからです。
そういうことは偶然ではあり得ないのです。
DNAの螺旋構造も、偶然に出来る確率は0だと、或る科学者は言っています。
ニュートンもアインシュタインも皆神様を信じていました。
科学者であるばあるほど、偶然にこの宇宙が出来たとは信じられないのです。

あなたの「目」という機能一つとってみても、それがどれほどの驚くべき
機能の連結された組織から成り立っているか考えてみたことがありますか?

目がないアメーバーがいつどうして「目」の必要性を感じ得ましょうか?
又、必要性をもし感じたとしても、それが突然変異の偶然の連続で
たまたま、「目」の組織になり、あなたの頭蓋骨の左右にたまたま、穴ぼこ
が空いて、たまたま、そこに「目ん玉」が収まる確率を考えてみたことが
ありますか??!!

ですから、目的が先にあって、「目」が出来たのです。
「物を見る」という「目的」が先にあって、存在が出来上がったです。
目的が先で存在は後なのです。つまり、目的の背後に意思を認めざるを
得ないので、必然的に、人間という合目的的に完成された組織体も、
これまた、目的が先にあり、結果的に存在するようになったのです。

意思が先にあり、存在はあとから現象化したのです。
これが「宇宙」です。ですから、宇宙の創造目的があり、その結果、
宇宙が造られたので、人間は、結果的存在であり、自分の意思で生まれてきた
人は有史以来一人もいません。ですから、人間が存在するようになった目的は、
人間を必要とした方の動機の中にあります。
人間だけが、価値観を追求する欲望を持っています。
他の動物にはそれがありません。価値観は、知・情・意に対して追求され、
その内容は、真・美・善となります。このような価値観を追求するように
創造されているのは、人間を創造した神ご自身が、知・情・意を
もっていらしゃるので、「子女」たる人間も、親に似て創造されたのです。
神様は、ご自身では愛を感じることが出来ないので、愛する対象として
子たる人間を創造されました。

人間は、神様の愛する実体対象なので、人間は何人と謂えども、生きる権利が
あり、愛される権利があり、幸せになる権利があるのです。
アメリカの大統領がそれを願うからではなく、日本の総理大臣がそれを願うから
でもなく、人間を愛する対象として創造された神がそれを願うからなのです。
これが「人権」の真の意味です。

また、同時に、善を行う責任(=自由意思)が賦与されているのです。
動物は、人間の喜びの対象であり、万物であり、責任はありません。
万物を主管する責任は人間にあります。
ですから、花の香りも、果物も、皆、人間の味覚に合致するように
造られています。
あなたは、それが偶然だと思いますか?
偶然だと言える根拠を示せますか?
だから、神様を信じて生きたほうが、いずれにせよ「得」だと言うのですね。
信じるか信じないかではありません。存在するかしないかのどちらかなのです。
ですから、希望を持って、頑張りましょう!!
神様は、間違い無くいらっしゃいます!目に見えない心のような存在です。
しかし、もし、あなたが、肉体より心の方が大事だと考えるのなら、
目に見えない神様もきっと信じられるはずです。
あなたは、偶然に生まれたのでは有りません。
親である神様にとっては、「唯一無二」「絶対」の存在なのです・・・。
どうかそのことを信じてこれからも生きてくださいませ。
ではでは、今日はこの辺で失礼します。
乱筆・乱文お許し下さい。
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この世界やこの世って結局はこの地球という星の人類という存在ということですよね。


だったら、幾億、幾兆もの星が生まれた中でたまたま生まれた地球に偶然的に生物が生まれる条件が揃って人類というものが誕生しただけです。
根本的に何のためとかといった意味は存在しません。
しかも地球上でそんなことを考えて生きているのは人間しかいません。
人間以外の生物はそんなことを考える機能も存在していないのです。
人間は他の生物と決定的に違うのは脳の発達にあると思います。
あまりにも脳が発達してしまった為に「勘違い」のようなものを脳の中で起こすようになったと思います。
本当は人間には「心」もありません。「心」がどこにあるか説明できませんよね。よく胸を押さえる仕草をしますがそれは「心臓」です。
「心」だと思い込んでいるのは結局は自分の脳で作り上げた考えで、利便上「心」という表現を使っているように思います。
ちょっと脱線気味になってきたので軌道修正します。
つまり、その「脳の生み出す勘違い」で人間はあれこれ悩んだりしています。
fujiryoさんの考えるこの世存在意味や、その対局の回答とする「世の中が夢幻」というのも全て「脳の生み出す勘違い」なのです。
勘違いを起こす脳なんて、発達した割にはパーフェクトではないと思います。
だから人間はみんなどこかゆがんでいるのです。
わたしの考えはこんなところですが、私自身、この世に全く意味など存在しないとわかってはいても、全くつまらないと感じたことはありません。
「脳の生み出す勘違い」は「脳の生み出す遊び」だと思っています。
人間だけが持っているこの脳内の遊びを一生楽しみながら生きていくだけで充分楽しいじゃありませんか。
これはまさに生きている間に限定された遊びです。
fujiryoさんがこの世って何だろうと考えていること自体、高度な遊びのひとつだと思います。
先ばかり見て満足した人生を送れるかなんて小さいことを言わないでください。
人間はカラダひとつで生まれてきたのです。その命をまっとうするまで人間しかできない「脳の生み出す遊び」で楽しみましょう。
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中学時代、同じような疑問にぶつかりました。


ちょうどその頃、故・手塚治虫氏のある短編漫画にこのような内容に苦しむ少年の話がありました。

ライオンブックスだったかな?
どの本だったかはちょっと忘れてしまいましたが・・・。

漫画喫茶なんかにおいてあると思います。
一度読んで見て下さい。
少しだけスッキリします。
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んー、難しいこと考えてしまいましたね。

率直に言って、答えなんか無いのでわないのでしょうか。そんなこと分かれば、誰も苦労しないし、誰も自殺しないのではないのかなあ。と私的には思いますね。「何のための存在」というのであれば、きっと、存在の意味などないのでは?もっとスペクタクルなことをいえば、人間ごときが、どうのこうの言うことではないのではないのはないのでしょうか。世の中は、あなた(勿論、私も)の為に動いてたり、存在しているのではないのですから。これは単に、長~い時間の流れなのですから。その流れの中に、たまたま自分というのが乗っかってるだけのことで、我々の存在などは、その中の一瞬でいいのですよ。我々は、その長~い時間の流れの中その一瞬をセカセカ生きる微生物のようなもんなのではないのでしょうか。その微生物は、世界って一体なんなのだろうという、疑問すら、持たずに「あー、あたしゃ、人生まっとうしたよ。」と思って死んでゆくのなら、それはそれで、しあわせだったのではないのでしょうか。私なりの結論としては、そんなこと知らないから「しあわせ」と、言うことになるのでしょうな。
>何のために存在するのか。こんなことを考えているとなんだか生きる気ややる気が失せてきて…。
元気のないことを述べてるようですが、一体、あなた自身が、今までどれほどの人生を送ってきたか振り返ってみてください。多分、狭い世界で、大した事もしていないのに、すっかりセンチメンタルになってるのでは?大事にしたい人、まだまだやってない事、しなくてはならない事、なんかあるのでは?狭~いところで、ウジウジしててはだめですよ。世の中は、広いのですから。自分の知らないこと、考え方の違い、今まで見たこと、聞いたこと、したこといっぱいありますよ。イッチョ、思い切ってもっと自分の世界をひろげてみれば?がんばって!!
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「この世界は何のために存在するのか、自分は何のために生きるのか」それを考えるのも意味があるでしょうし、考えないのも意味があります。



考えても結論が出そうもなかったら、何も考えないでボーッとしてみて下さい。

でもそのうちに何故か、ある考えが浮かんでくるはずです。
それがあなたを不幸にするような考えだったら、考えるのをやめて下さい。
あなたの目の前にある現実以外の幻想を打ち消して下さい。

やる気が失せてきたら、頑張るのをやめてみて下さい。

でもそのうちに何故か頑張ってみたくなるものが現れるはずです。
それがあなたが本当に望んでいるものだったら、是非頑張って下さい。

あなたが何を考えても何を行っても、あなたの根本にあるものは自然に幸福を求めていきます。
それに逆らわないで生きるようになったとき、答えは見えてくるはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

〈あなたの目の前にある現実以外の幻想を打ち消して下さい。〉これについてなんですが、どういうことなんでしょうか?良ければおしえて下さい。

お礼日時:2003/03/13 16:20

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Q宇宙以前に…「この世」って何ですか

誰でも一度は思ったことあると思います。
「宇宙は何であるのか」って。
宇宙の中にたくさんの星があることはなんとなくわかります。
宇宙についてはビッグバン(?)とかなんかいろんな理論があるみたいですね。でも何のことかあまりよくわからないのでその話は置いておきます。

問題は「この世」です。あ、天国地獄とかそういうのでなくて。上手く言葉で言えないんですけど・・

宇宙空間にも端っこというのはあるんですよね?その外は物質の入れないところになっていると聞きましたが。。それではその外の部分にも宇宙以外の宇宙空間のようなものはあるのでしょうか?
ええと、ひとことで言うと「宇宙は他にもあるのか」ってことです。勿論あったとしても名前や環境や性質は違うかもしれないですけれど。。
それで、そういう空間があったとして、さらにどうしてその世界があるのか。。

なんかすみません、色々言ったあげくあまり質問の説明になってないというか・・;
きっとここでは説明しきれないくらいのすごいことなんでしょうけど、私の言いたいことなんとなくわかってくださった方、簡単に回答お願いします!!

誰でも一度は思ったことあると思います。
「宇宙は何であるのか」って。
宇宙の中にたくさんの星があることはなんとなくわかります。
宇宙についてはビッグバン(?)とかなんかいろんな理論があるみたいですね。でも何のことかあまりよくわからないのでその話は置いておきます。

問題は「この世」です。あ、天国地獄とかそういうのでなくて。上手く言葉で言えないんですけど・・

宇宙空間にも端っこというのはあるんですよね?その外は物質の入れないところになっていると聞きましたが。。それではその...続きを読む

Aベストアンサー

>それではその外の部分にも宇宙以外の宇宙空間のようなものはあるのでしょうか?

理論的にはあるはずだということになってきて
いて、今いろいろ実験をやっています。

 事の始まりは、100年以上前にミンコフスキーと
いう学者が、この世の中には縦横高さ以外に
時間という方向があると考えると物理現象が
うまく説明できると言ったことからなんですが、
このミンコフスキーという人、相対性理論で
有名なアインシュタインのいたスイス連邦工科大学の
先生で、相対性理論が時間方向を含めた
4次元の理論として完成したのはこの先生の
おかげでした。
 数学的に空間が安定な次元(空間の方向の数)
というものがあって、4次元というのはその
安定な次元の1つなんです。
 4次元以上でも安定な次元というのがあって、
そういった高次元で物理学の式を計算して
みるという試みが沢山行われたわけです。

 現在11次元あると仮定すると、理論的に
いろいろな計算がうまく行くというところで
多くの学者の意見が一致しています。
 問題は、5~11次元がどうして人間に
見えないのか?観測されないのか?

 それは我々の宇宙の外側に大きく広がって
いるのではないか?ということなんです。

>さらにどうしてその世界があるのか。。

 どうも誰かが作ったらしいと理論物理学者の
多くは考えています。そして、それ、つまり
宇宙は生命と呼べる存在かもしれないと
いうあたり、みんなうすうす感じています。

 宇宙は巨大な生き物であるというのは、
今から2400年くらい前の古代ギリシャの
哲学者たちが言い出したことなんですが、
今のような科学技術はなかったものの、
古代ギリシャの哲学者達の洞察力は
卓越していたので、今でも多くの学者が
参考にしています。
 生き物というからには、仕組みを持って
動いていて、意志があるということです。

 18世紀の産業革命をきっかけに、ゼンマイ
時計や蒸気機関といった機械が世の中に
多く出回りはじめたころ、多くの学者は
この世、つまり宇宙は巨大な機械では
ないかと考えていました。人間が物理法則と
呼ぶきまりに従って動く機械ということです。
 電波を記述する理論として有名な
マックスウェル方程式ですが、これを考えた
マックスウェルは、歯車を書きながら
この理論を考えたと言われていて、電気や
磁気といった現象は、時計のような機械仕掛け
の宇宙で起きる現象だと考えていたわけです。

 1970年にホーキングという学者が、
光も吸い込んでしまうと言われていた
ブラックホールからエネルギーが
放射されるという理論を出したのを
切欠に、ブラックホールに何か物が
吸い込まれてしまった場合、その形の
情報はどうなるのか?という議論が持ち上がり
情報も放射されるという結論になりました。
 ブラックホールは、情報を吸い込み形を
変えて出力する巨大な量子コンピュータと
いう仕組みを持っていることが分かったんです。

http://www.nikkei-science.com/
2005年2月号

 研究が進み、宇宙全体に同じような仕組みが
あることが分かりました。

 今人間が使っているコンピュータも
回路上に電圧があるかないかという単純な
2つの状態を多数組み合わせて結果的に
複雑な動作をしていますが、宇宙の
場合、粒子の右まわり、左まわりといった
簡単な現象の組み合わせで複雑な動きをしているんです。

 ★コンピュータのような演算の仕組みを
持った、巨大な機械、これが宇宙です。

 普通のコンピュータの電子回路の
動きも、部分的に見ているとめちゃくちゃで
動作の意味はわかりにくいですが、全体と
しては、ある意味ある計算をしたりしている
わけで、宇宙も人間の身近な現象だけ見ていると
無意味に見えるものでも、宇宙全体の動きを
一度に見ることができれば、何か意味ある
ことをしていることが分かるかもしれないんです。

 我々の宇宙は、大海原を泳ぐクジラの
ようなもので、その外側には大きな海の
ような広い空間があり、他のクジラ、
つまり他の宇宙もありそうなわけです。

 人間は宇宙という名のクジラのおなかの
中に住む微生物みたいな存在だと思います。

>さらにどうしてその世界があるのか。。

 作ったやつらがいそうです。
それは宇宙の外の観測が本格化
すれば分かることだと思います。

 

>それではその外の部分にも宇宙以外の宇宙空間のようなものはあるのでしょうか?

理論的にはあるはずだということになってきて
いて、今いろいろ実験をやっています。

 事の始まりは、100年以上前にミンコフスキーと
いう学者が、この世の中には縦横高さ以外に
時間という方向があると考えると物理現象が
うまく説明できると言ったことからなんですが、
このミンコフスキーという人、相対性理論で
有名なアインシュタインのいたスイス連邦工科大学の
先生で、相対性理論が時間方向を含めた
4次...続きを読む

Qなぜ「どうせ死ぬのに」、頑張って生きるのですか?

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレベルで小さな変化や成長を自分の中に感じても、他人にとってはどーでもいいこと。

何かの技術に習熟して、他の人ができないことができるようになったとしても、やっぱり社会全体から見たら取るに足らないこと。

僕が何かの資格を取ったりしても、やっぱりそれは地球全体で考えたら本当に些細なこと。


そしてそもそもの話。

どんな風に生きたとて、結局のところ人は死にます。
当たり前の話ですが。

じゃあなんでどうせ死ぬのに頑張って生きるのでしょうか。

しかも、上述したように、何か頑張って成し遂げたとしても、ほとんどが自己満足。
自己満足を超えて社会に幾ばくか貢献できたとしても、その影響は本当に小さい。。。


もしあなたがベートーベンやゴッホなどの世界クラスの才能をお持ちであるならば、その影響は大きいでしょう。
ですが、そんな人は本当に極一握り。

僕を含む、彼ら以外のその他大勢の"凡人"は、結局頑張ってもその努力の跡や功績は後世には伝わらないんです。

じゃあ、頑張っても無駄じゃないですか?


一生懸命、大変な思いをしながら生きるのって、必要なくないですか?


ただでさえ、あなたは日本や世界という基準で見たら、小さい存在で、正直いてもいなくてもいいんですよ。
あなたは後世に残る程の偉人にはならないだろうし、多くの人間に必要とされる人間にもならないでしょう。


その上、悪口を言われたり嫉妬されたり、潰されたり、精神的に辛い思いをさせられたり・・・と、色々な目に遭いながらも一生懸命生きたとして、残念ながら結局は死にます。


じゃあもう、どうせ死ぬなら生きなくてよくないですか?



・・・・っていうようなことを、ここ3ヶ月ぐらい前からずっと考えています。



自分は今20代半ばで、これまで色々とその場その場で頑張って来たつもりです。


高校受験の為に勉強して、部活では一生懸命走って、大学受験をして、そして就職活動をして・・・と、なんやかんや頑張って生きて来ました。


でもここまで生きて来て急に気付いたんですよね。


「俺、どうせ死ぬんじゃん」
「このまま生きてても、どうせ俺は後世に何年も残る偉大なものを作り上げることなどできない。つまり長い歴史で見ると俺の人生なんて何でもないんだ」


ってことを。


これまで本を読んだりして知識を付け、本人しか分からないレベルで成長したこと。
趣味を一生懸命やって、そのスキルを磨いて自己満足を得たこと。
ダイエットして痩せたこと。
何かに感動したこと。
新しい経験をし、新しいことを知って喜びを感じたこと。


これら全て、結局僕以外の人間にとってはどうでもいいことなんだなと。
そして、当たり前ですが、結局死んで無になるんだから全ては無意味なんだなと。


こんなことを最近強く思ってしまうようになったんです。


別に仕事で辛いことがある訳でも、プライベートで絶望的何かがあったとかでもありません。
恋愛で躓いているとか、他人が羨ましくて仕方ないとかでもありません。
特にサボリたいとか、その様な怠慢状態になっている訳でもありません。


単に、

「凡人が生き続けても何も残らないし、自分が何に感動し何に喜びを感じても他の人にはどうでもいいこと。 しかもいつか死ぬ。じゃあ生きてても意味なくね?」

という気持ちが急に湧いて来て、消えないだけです。


巷には

「人間関係を円滑にする方法!」
「コミュニケーションをスムーズにする為の〇〇ステップ!」
「資格試験取得への第一歩!」
「10年先を見据えた生き方をしよう!」


みたいな趣旨を唱う自己啓発本みたいなのが山のようにありますが、こんなのも正直無意味です。

結局あなたに、そして僕待っているのは「死」なんです。



・・・みたいな、「そもそも論」的な部分でしか物事を考えられなくなってしまっただけです。



こんな状態なため、ここ3ヶ月は本を読んで知識を付けようと思っても、

「どうせ俺がこうやって知識を付けて賢くなっても、結局は自己満足だ。 しかも俺より賢い人はゴマンといる。 じゃあやっても意味ないよな・・・」

って考えてしまったり、趣味に没頭しようと思っても、

「どうせ俺がこうやって趣味を楽しんでも、俺よりこの趣味に習熟している人なんて山程いる。。。 じゃあ意味ないんじゃないか・・・」

こんなことを思ってしまい、もう全てに対してやる気が失せ、情熱を燃やすことができないんですよ。



この気持ちが一向に消える気配がないので、思い切って仕事も辞めようかとも思い始めてます。
仕事を辞めて、一切の友人関係を絶ち、部屋に引きこもって餓死するまでずっと横になって生ける屍になろうかと。

冗談ではなく、本気で。


かなり前置きが長くなって申し訳ありませんが、以上を踏まえて質問です。


なぜあなたは「どうせ死ぬのに」生きるんですか?
あなたが幸せになろうが喜びを感じようが他の人にとってはどうでもいいのに、なぜそれらを追い求めて一生懸命生きるのですか?
それと(これはできればで結構です)、どうすれば僕はまた生きることを肯定的に捉えられるようになると思いますか?


これらのあなた自身の明確な意見をお聞きしたいと思います。

(回答する際はお手数ですが、年齢の方も最初に明記して下さい。 その方が回答者様の人生経験などを推測しやすいので)

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレ...続きを読む

Aベストアンサー

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のことだと思います。
「生きる意味を探す」「生きる意味をつくる」というのも、立派な「生きる原動力」です。

抽象的になってしまい、分かりにくくなってしまいました。
もう少し分かりやすく言うと、私は、いのちの期限が決まっているからこそ、可能な限り、自分に与えられた人生を全うしたいと思うのです。
「生きる意味」というのは、誰かに提示されるものではなく、自分で見つける、さらにいえば、自分でつくるものだと思うからです。
だから、簡単に見つかるものではないのは当然です。
一生をかけて、向き合っていかなければいけない問いなのです。

勉学に励むことも、恋することも、友達と過ごすことも、家族をつくることも、仕事をすることも、全て、無駄なことではないと私は思います。
それらは全て、自分の生きる意味を形成するための重要な材料になるからです。

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のこと...続きを読む

Qなぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。


『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、
神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、

なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、

別の形では
「なぜ宇宙があるのか?」
「なぜ世界があるのか?」
「なぜ無ではないのか?」
などの形でも問われる。

もの事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて、現れる問いであることから、「究極のなぜの問い」またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる、解答することが著しく困難であることから「存在の謎」と言われる、
哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中で最も根本的な問い、第一の問いであるとしばしば言う。


物理学の領域ではビックバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明も答えにならない、
なぜなら、問いの形が「なぜ何もなかったのではなく、ビックバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。

ビックバンが真空の揺らぎから発生したといった説明もまた同様である、
「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐ真空があったのか」もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。

同じように何か超越的な存在、例えば神様を持ち出し、それが世界を作ったと説明しても話しは同じである、
「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」こう問いが置き換わるだけである。

こうした例を見てわかるように、この問いは因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしても、もっと過去へ、もっと過去へ、と無限後退が生じるだけでそから答えは得られないだろうと考えられている。

また、こうした時間の始まりの問題を避けるため永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解答はえられない、
「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。

この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である、
またしばしば同時に問われる関連した問いに「なぜ世界はこのようになっているのか」という、この世界の在り方の根拠を問う問題とは区別される。


Wikipediaには解答の候補などもいろいろ載っていますが、

上述のように、哲学や科学など、宇宙、世界、自然を観察、観測したり、そこから論理的に思考したりする手段でも、さらに宗教のように神様を全ての原因とする手段でも、解決できそうもないこの「究極の問い」を、一体どうすればいいのでしょうか?

つまり、それ(科学、哲学、宗教)以外に何か他にこの『究極の問い』にアプローチする手段があるのでしょうか?

それはもはや論理や言語や思考を超えて、人間の能力を超えた手段が必要なのでしょうか?

『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。


『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、
神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、

なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、

別の形では
「なぜ宇宙があるのか?」
「なぜ世界があ...続きを読む

Aベストアンサー

何故あるのか、て命題は、理由の存在を前提に
しています。

従って、なぜ理由があるのか、がその問いの前提
にあると思います。

何故、宇宙があるのか。
  ↓
何故、宇宙が存在することに理由があると考えるのか。

てことです。

理由が無くても存在する、てことは充分にあるでしょう。
理由が必要だ、というのなら、なぜ必要なのかを
論証しなければその命題は成り立たないと思います。

Qグロテスクな画像を見たがる心理

インターネット上にはグロ画像・グロ動画と呼ばれるメディアが沢山出回っています。
汚物や死体や人が殺されている現場や拷問されている現場、その他嫌悪を催すものを題材にした映像類のことです。

ずいぶん前からこの手の画像や動画を見たりしていて、止められないのです。もちろんこういうものを見ると不愉快な感情になりますし、人が殺されている現場などを見ていることに罪悪感や恐怖も感じます。
論理的に考えれば、そんなもの"みたい"なんて思うわけないのですが、気が付けばグロ動画を検索しているような状態です。

このような人は沢山いると思うのですが、第三者から見れば私は普通のサラリーマンだと思います。
会社勤めもしていて、仕事も任されています。
友人は少ないですが、恋人も作れるし家族とも仲良くしています。

なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。
どうしたら健全な状態になれるでしょうか。

学術的なアドバイスでも、宗教的なアドバイスでもよいので私に教えてください。

Aベストアンサー

これは、きっと、あなただけの問題ではなく、
いま日本の社会が、もっている、社会的な病理、情報構造の病理ともいえるのかと思い投稿させていただきました。
これらの画像や映像を見ようとする行為というのは、自らは、観察者として(絶対的な安全が確保された上で)自分と関係の無い他人が、生きている状態から無残な状態へと変貌させられるという過程を息を呑みながら「視る」という行いです。
あなたはただそれを見ているだけと思っているかもしれませんが、あなたが、視たことによって引き起こされた感情なり想い(ショック、悲しみ、不条理感、怒り、無力感)によって、実は何事も行動しなかったという行いもしているのです。さらに、視たことを自分の心の中に隠匿し、なおかつ背徳感を抱きながら、ある部分悩んでいるという行為をも・・・。
質問文の最後に「なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。どうしたら健全な状態になれるでしょうか。」とあるようにあなたの心は、その行為の、背徳性をすでに知り、健康な状態への志向が顔をだしているのでは?
画像や映像によって知った「現実」に対して、これが人間の性だとか、これが今の社会の現状だとか思わせられてしまうのが、自分は何もできない、巨大な情報ネットワークであり、「考察」や「分析」であり政治や教育、経済もそれに深く絡んでいます。
人は、いつも世の中で何が起こっているのか知りたいのです。
それは、きれいなこともひどいことも。隣町で戦争が起こって、人が悲惨な状態になり、または、誰かが人を殺そうとしたりしている、あるいはしてしまったとしましょう。それを、見に行こう知ろうとするのはむしろ必要なことかもしれません。勇気のいることであるとも言えます。むしろ、それらが起こっていることを知りながら、そこから遠ざかろうとするだけでは人間として不十分なのかもしれません。しかし、それを視たことによって、どんな想いを描くかが問題でしょう。それを視て喜ぶのか、自分もやりたいと思うか、加担しようとするか、悲しみ、憤ることもできるでしょう。人びとに訴えることもできるでしょうし、そのようなことを阻止しようとすることも助けようとすることもできるでしょう。起こっていることが何なのか考えることも、見ている自分が何なのかも考えることができる。さらにもっとできることはあるはずです。最初は小さいかもしれませんが、自分自身が、社会に何か作用する力を持っているということを思い出してください。多分、昼間は目一杯会社で働かされて、夜や休みの日自分の時間を休みとして刺激の最も強いもので様々な縛りからのがれようとしているのかもしれませんが。
それらの画像や映像を撮るときどんな想いによってそれがなされたでしょう。それをネット上にアップする人の気持ちの根底にどんな想いがあったのでしょう。そういう邪悪な感情とは同調しないようするのが
いいのではないかと思います。
知り得た事実に対してどのように行為できるかが現代の人びとの大きな課題だと思います。

これは、きっと、あなただけの問題ではなく、
いま日本の社会が、もっている、社会的な病理、情報構造の病理ともいえるのかと思い投稿させていただきました。
これらの画像や映像を見ようとする行為というのは、自らは、観察者として(絶対的な安全が確保された上で)自分と関係の無い他人が、生きている状態から無残な状態へと変貌させられるという過程を息を呑みながら「視る」という行いです。
あなたはただそれを見ているだけと思っているかもしれませんが、あなたが、視たことによって引き起こされた感情...続きを読む

Q甘やかされて育った子供と厳しく育てられた子供の性格は?

甘やかされて育った子供はわがままになると言われますが、本当のところどうなんでしょうかね?
逆に厳しく育てられた子供は、どうなるんでしょう。
単純にわがままの反対はがまんだとおもうので、がまんのできる子に育つと考えていいでしょうか?

みなさんの意見を聞かせてください。
よろしく御願いします。

Aベストアンサー

甘やかされて育つ。皆さんが書かれているように、叱られずに育つということですよね。
甘やかされた子はわがまま、厳しく育った子供は我慢が出来る、でも実際にはそれほど単純ではないんです。

まず、叱ると褒めるが表裏であると言う事をよく考えてみてください。
甘やかされて育つということは、実は叱られずに育つということになり、叱るがないから褒められるがない、つまり本当の意味で褒められた事がないと言えます。

よくあるパタンですが、甘やかされて育った人は、褒められていないので物事に対する達成感がなく(実際には分からない)、どこまでやっても『やり遂げた』という気持ちがあまり具体的にわいてこず、そのうちに『出来ていないんじゃないか』『不十分なんじゃないか』といった不安感に襲われ、やる前から諦めてしまう、さらに悪い状態なら欝になる。

厳しく育てられてきた場合は逆に、厳しい事を聞かなければならないというプレッシャーから、人の顔色を見て育つようになりがちです。求められている事をきちんとこなしているか、これで叱られないだろうか。
なので叱られる事がないようにするために褒められる事もなくなり、結果愛情を求めるようになってしまい傾向があります。

そう考えると、kiccaさんのおっしゃるとおり、やはり叱るべきところはきちんと叱り、その上で甘やかす部分も作ってあげ、そのメリハリをきちんとしてあげるというのが理想だといえますね。

叱る事によって社会のルールをきちんと理解させてあげ、褒める事によってその子のもつ才能を伸ばしてあげる。時には自分の行いを子供の前で反省する事もあってもいいですし、あえて子供を褒めるように料理のお手伝いを頼んでみたり(きれいに切れたね、上手に盛り付けられたね、など)。

それによって、自分自身の『気付き』も生まれてくるものですよ。

子供を育てるのではなく、子供の人生を育てる事が本当の意味での『育児』なんですよ。
自分の経験を見直して、『反面教師』として受け取った事に対しては『私は○○をされて嫌だったから子供にはしない』と考えて、楽しく人生を送る事が出来るように導いてあげてくださいね。

甘やかされて育つ。皆さんが書かれているように、叱られずに育つということですよね。
甘やかされた子はわがまま、厳しく育った子供は我慢が出来る、でも実際にはそれほど単純ではないんです。

まず、叱ると褒めるが表裏であると言う事をよく考えてみてください。
甘やかされて育つということは、実は叱られずに育つということになり、叱るがないから褒められるがない、つまり本当の意味で褒められた事がないと言えます。

よくあるパタンですが、甘やかされて育った人は、褒められていないので物事に対す...続きを読む

Q彼氏が自殺しました。

彼氏が一カ月前に自殺していました
原因は私にあるとおもいます。

彼はとても一途で そしてすこし心が脆かったし
二年間の付き合いで 別れようとか別れたいとかいう言葉を口にしたことはありませんでした。
毎日大すき!っと言ってくれていました

私たちは車で二時間かかる距離で 遊ぶ回数は私は仕事であり、彼は学生であり
私の休みは土日は確実にないので あまり時間があわなくて
月一で彼の家にとまりに行く程度でした

彼と付き合ってくうちに 私は何度か別れたいとおもうときがありました
その時は 彼氏がバイトもしないで奨学金で専門学校に通ってることに無償にいらいらしてたり
彼氏の恰好が v系寄りで少々派手だったり 彼の愛情が重く感じたり
そんな理由でした。

一度本気で別れようといって連絡をとらなくしました
そしたら 着信が90くらい来たり メールのあらしが来て
最後のメールで

俺はお前がいなきゃ生きてけない ごめん 死にます
という文面で 首吊りのロープの写真がはられてました

私は怖くなって 怖くなって警察に連絡しました

警察から後ほど連絡きたら そのときは大丈夫だったそうでした


それから話し合うことになって 会って話し合いました
その時も彼の部屋で話し合ったのですが、
私は命をかけごとに使うことはおかしい と言いました 彼は別れたくないし 俺が死んだってお前には連絡いかないから大丈夫だよ^^
言ってました・・

それからまた寄りを戻すことにしました
そのころは、ただ死なれるのが怖かったんです 本当に死なれる気がしてどうしょうもなかったのです。

一回目の自殺予告のまえに
ミクシーのほうで 死にたいとか もとから身長175cmで体重45キロくらいのかなり細身な体だったのに 首をつって余計なものが出ないように断食をする!って書いてあり その結果40キロまで落としてました その様子で 家族に精神病院にまでつれていかれたそうです。


正直自分でも ただの死なれるからどうしよう という思いで付き合っていても
連絡は取る気になれなくなって めーるの文面もつめたい雰囲気になり
どうしてつめたいの?
俺なんかしたかな?

などと聞かれるのも億劫になって

私は寄りを戻した後 また別れたいと メールを送りました

どうして?俺お前がいなきゃ生きていけないよ?
どうして?

メールをシカトして逃げると

また逃げるの?臭いものには蓋?
会って話し合おう

けれど 会って話し合っても変わらないのはわかってて
私は逃げてメールをシカトして ミクシーのつぶやきもみたくなくて
マイミクをはずして
なにもかも逃げました



そして彼は前見たくは メールも着信もなくて 
ミクシーのにっきでは
最初は死にたいっておもったけど いまおもったらあんなやつのために死ぬのはもったいないわwwwwwwwwwwwwwwwwクリスマスは長門だなwwwwwwwwwwww
って書いてあり 安心しました

けれど二日後 彼氏の友達から 相談のってたんだけど 昨日の深夜に死ぬっていってて ありがとうってメールが来た後 連絡がつかない 俺はいま東京にいるしどうもしてられないから 頼むから探してくれ
というめーるが仕事の休憩中にきました
休憩が終わる五分前で
家族の電話番号もしらないし どうしようとおもって
けれど仕事にもどって けど不安になってどうしようもなくて 一時間後にロッカーにもどって
携帯をひらいたら彼氏からメールがきていました




○○が自殺しました

遺言のほうに伝えてほしい方が書いてあったのでその方に連絡します

兄より



でした 私は彼氏の携帯に電話して そしたらお兄さんがでて
現実を知り泣き崩れました。






私には何も遺言はありませんでした
ただ 遺体には ポケットに私とのプリクラを入れて
手にはペアリング
それだけの持ち物でこんな寒い深夜に山で首をつりました


そしてミクシーのにっきに 
彼女を責めないでください すべて弱い自分に原因がある
お酒のせいですこし気がらくだ
やっぱり世界一かわいい さすが俺が愛した人だ



それだけ書いてありました


後悔しかありません
そして今ではこんなにも引きずって
なぜ振ってしまったのか こんなに自分を愛してくれてた人を どうして捨てたのか
どうして救ってあげられなかったのか
後悔だらけです
そしてできればあとをおいたい。
会いたい
ただそれだけです

これからさき一生このきもちをひきずっていくかとおもうと もう人生を終わりにしてもいいかなと思います


だれかのアドバイスをききたいです
また同じような経験をして今 どうやって暮らしているのか・・

できるかぎり質問にもこたえます
よろしくお願いします

彼氏が一カ月前に自殺していました
原因は私にあるとおもいます。

彼はとても一途で そしてすこし心が脆かったし
二年間の付き合いで 別れようとか別れたいとかいう言葉を口にしたことはありませんでした。
毎日大すき!っと言ってくれていました

私たちは車で二時間かかる距離で 遊ぶ回数は私は仕事であり、彼は学生であり
私の休みは土日は確実にないので あまり時間があわなくて
月一で彼の家にとまりに行く程度でした

彼と付き合ってくうちに 私は何度か別れたいとおもうときがありました
その時は ...続きを読む

Aベストアンサー

度々すみません。
誰かを愛したら、誰かの優しさに縋り付くのではなく、自ら愛を与えなさい。

あなたはできる事は全てしました。
彼との交際中に、彼に愛を与えたじゃないですか?
それは彼にとっては宝でかけがえの無いものです。

あなたが自我を堪えて、彼に嘘の愛を与える事が全て解決できたと思いますか?

私はそうは思えませんよ。

彼は自分の問題に彼自信が立ち向かうべきだった。
人を巻き込み、人の人生をうばってまで成せる事は、決して彼の力とは言えません。

あなたは幸せになりなさい。
辛さを経験しただけ、大きくなりなさい。
人の弱さや辛さがわかった今回を、忘れろとは言いません。

バネにして、誰かを愛した時、その人をありのままあなたの綺麗な目で見て、尊重してあげてください。

甘やかす事がすべてではありませんよ。

時には厳しく突き放す事が愛でもあります。

あなたは、この事を彼にしましたよね?

今は辛い、自分を責めるのも理解できます。
でも、あなたの人生はあなたが創るべきです。
厳しく書きましたね。ごめんなさい。
ただ命を粗末にして、後悔しているのは彼自身でしょう。
あなたまで悩むと、彼はますます辛くなりますよ。
彼への供養は、あなたらしく生きること。

度々すみません。
誰かを愛したら、誰かの優しさに縋り付くのではなく、自ら愛を与えなさい。

あなたはできる事は全てしました。
彼との交際中に、彼に愛を与えたじゃないですか?
それは彼にとっては宝でかけがえの無いものです。

あなたが自我を堪えて、彼に嘘の愛を与える事が全て解決できたと思いますか?

私はそうは思えませんよ。

彼は自分の問題に彼自信が立ち向かうべきだった。
人を巻き込み、人の人生をうばってまで成せる事は、決して彼の力とは言えません。

あなたは幸せになりな...続きを読む

Qタナトフォビア(死恐怖症)の症状を抑えたいです。

現在23歳、大学3年で就活が間近に迫っている男です。

昨年(2010年)の年末から、死んだら自分はどうなってしまうのだろうという思いがほぼ四六時中、頭から離れなくて心身共に疲れています。

小学校に入学するかしないかの頃から、ふとした瞬間に、死んだら自分はどうなってしまうのだろうと考えて得体も知れない怖さを感じることが度々ありましたが、寝るなどしてしばらくしたら治まっていました。

しかし、今回はすぐに治まらず、死んだら自分の意識は無くなってしまうのだろうか、「無」は何なのだろうか、何の為に生きているのだろうかとか、宇宙について考えてしまったりして、ここ数日は朝になるまで寝られず、起きている間も考えてしまいます。恐怖や絶望を感じてしまい、食事も無理をして行っている感じがします。情けないですが、自分の部屋で声を殺して泣いてしまうこともありました。

また、母親(60代前半)もいつか死んでしまって、火葬が行われるであろうことも考えてしまい、家で母親の顔を見ただけでも、涙が出そうになってしまいます。ニュースなどで人が死んだことを聞いても、その人について考えてしまいます。

先日、ネットで調べて「タナトフォビア」という言葉があることを知り、自分もそれを発症していると思い、ここのような相談サイトを見て回ったのですが、理論的な理解はできても、感情をなかなか抑えられません。少し落ち着いているときと考え込んでしまうときが交互に来ている状況です。

10代の時に強迫観念症(これが正式名かどうかはわかりません)を複数発症したこともありました。(元々、そのような病気になりやすいのだと思います。)そのときは病院には行かず、程度の差はあれ、自分で症状を改善しました。

心が休まりません。どうすれば、タナトフォビアの症状を抑えられるのでしょうか。

強迫観念症の件で家族には迷惑をかけてきており、また、今回は対象が「死」ということもあり、家族には話していません。なので、ここで質問させていただいた次第です。

長文かつ乱文で申し訳ございませんがよろしくお願いします。

現在23歳、大学3年で就活が間近に迫っている男です。

昨年(2010年)の年末から、死んだら自分はどうなってしまうのだろうという思いがほぼ四六時中、頭から離れなくて心身共に疲れています。

小学校に入学するかしないかの頃から、ふとした瞬間に、死んだら自分はどうなってしまうのだろうと考えて得体も知れない怖さを感じることが度々ありましたが、寝るなどしてしばらくしたら治まっていました。

しかし、今回はすぐに治まらず、死んだら自分の意識は無くなってしまうのだろうか、「無」は何なのだろうか、...続きを読む

Aベストアンサー

今晩は。

症状を抑えるのも大事かと思いますが、うまく付き合う、それもひとつの解決策かと思いお返事します。

強迫性障害を持っています。死が対象だったことがあります。
死に捉われ、苦労はしましたが、お陰で意識がとても変わりました。
その経験をお伝えします。

なぜ死に捉われるのかから探りました。
実は身近に死が沢山溢れていることに対し感覚がそれを捕らえていることに気付きました。
だから意識が「死」から離れない。死を感じる結果、それを強く意識してしまう。
だから病気だ、というよりも単純に感性が鋭い事が原因なんだろうと思いました。
感性が豊かな人なら大なり小なりタナトフォビックであろうとも今は思っています。
死、はいかなる人であれ未知です。
DNAからは死を避ける行動を取るように恐怖という感情を引き起こすよう書き込まれています。
それなので死=恐怖は自然な感情です。ところが死が溢れているがゆえにいつまでも繰り返し
恐怖を引き起こす、どこかで麻痺するのが通常なんでしょうけれど、麻痺しないことが苦痛となる。
麻痺しないことは間違ってはいないと思うので病気だとは考えません。
ただ麻痺しないから困っている現状がある、それをまず客観的に捉えられるようにしました。

そこで繰り返し引き起こされる恐怖への対処法を考え、実行しました。

何をしたかというと、死、の反対を探したんです。
誕生ですね。意識して、意識を向けた結果、溢れる死と同じように
生命の誕生を至る所に感じられるようになりました。
毎日、毎秒、ありとあらゆる生命が生まれている一方で、死んでいく。
繰り返し、繰り返し、です。その感覚を得てはじめて万物流転をきちんと理解できた気がします。
自分の身に起こる死もまた、肉体が解体され、流転する。自然の流れなんだろうと。
そこに魂を信じる気持ちがあれば、輪廻転生も有り得る事とも思いました。

その一方で、死からも学びを得ました。何よりも如何に命が儚いか、です。
だからやはり誠に、生きて存在しているということ事態が奇跡なのだと知りました。
一期一会という言葉の持つ真の意味に触れることが出来たのも、死を思ったが故に。
今は昔、全ての時計に書いてあった言葉だそうです。メメントモリ(死を想え)と。
その昔は今で言うタナトフォビアが当たり前だったのかも知れませんね。
ちなみに朝生まれ、夜死す、それが繰り返されて日々となる、という考えもありますね。
なによりも人は思ったよりも簡単に死んでしまうものなので
限られた日々を一所懸命生きなさい、という智慧なのでしょう。

いつか必ず死にます。死後の世界の話で困るのは、結局死んでみないことには判らないですし、
折角まだ生きているのに、知りたいから今死のう、というのも違います。
なので死後の悩みは死後のお楽しみとしてひとまず置いておきませんか?
死後も意識が継続していましたら、その時にあらためて考える、としておいて
意識が無かった時は諦めよう、としてみましょう。
問題の死への概念ですが、死の意識を振り払うことは大変です。
だったら死に対してポジティブな意識を持つように意識を変えてみませんか?

私の辿った道のりです。
身近に溢れる命が死んでゆく、その切なく脆い命が故に、命に対しての愛おしさに繋がった。
儚さゆえの愛おしさだとしても、溢れる息吹に感じ入り、懸命に生きる大切さが
死を感じるが故に繰り返し伝わってくる。
その時にはじめて死の概念がそのまま命への慈しみへと変わりました。

残された日々を大切な人たちといとおしみ、生きる。それはかけがえのない日々となるでしょう。
命を見送り、自分の最後の時には、素晴らしい人生を過ごせれた、と悔いなく死ねるでしょう。
思い残すことが無いから安心して自らの命を自然へ帰す。
そんな心を最後の時に持てるよう日々、命を燃やして生きていきたい。
それこそが、死を想うが故に苦しみを生むことに対しての最大の対処法として
僕が今、まさしく実践中の毎日です。

繰り返しますが、命は儚いものです。お母様を想う気持ちは慈しみでしょう。
慈しむ思いがあるのですから、まずはお母様への慈しみの行動を取ってみましょう。
具体的に、日々の感謝の気持ちを手紙としてお渡しするのも良いでしょう。
あなたの笑い顔を見せることも、もちろんとても喜んでくださるでしょう。
何も出来そうになければ、ただ、傍に居る、たったそれだけでもとても大きな喜びでしょう。
愛情こそ、死への恐怖から解き放つ何よりのものではないでしょうか。

私事ばかりで恐縮ではありますが、何か拾えるものがありましたら何よりの喜びです。
長々とお付き合い、ありがとうございました。

今晩は。

症状を抑えるのも大事かと思いますが、うまく付き合う、それもひとつの解決策かと思いお返事します。

強迫性障害を持っています。死が対象だったことがあります。
死に捉われ、苦労はしましたが、お陰で意識がとても変わりました。
その経験をお伝えします。

なぜ死に捉われるのかから探りました。
実は身近に死が沢山溢れていることに対し感覚がそれを捕らえていることに気付きました。
だから意識が「死」から離れない。死を感じる結果、それを強く意識してしまう。
だから病気だ、というよりも単純...続きを読む

Qスピリチュアルな観点で・・・全ての縁が切れる時期

52歳女性です。
あまりにも普通じゃないほど、人、お金、仕事、趣味・・・全ての縁がここ3~4ヶ月でばたばたと切れています。

こんな感じです。聞いてください。
付き合い始めた彼とはたった2ヶ月でいきなり振られました。
長年の友人とは耐え難い事があり、事実上絶交状態に。(それに伴い、その周りの人たちとも疎遠に)
一人でネット販売の仕事をしていますが、売り上げが急降下し、どうしようもなくなりました。
頼りにしてた常連さんたちも注文してくれなくなりました。
元々、十分な収入では無かったのですが、ついに貯金も底をつき、来月の支払いのめどが立ちません。どうやって食べていけば良いのか途方に暮れています。
生活苦のため夜のバイト(水商売)をしていますが、やはり頼りにしてたお客さんが不思議なほど一気に切れて行ってしまいました。
唯一の楽しみでバンドをやっていましたが、他のメンバーが忙しすぎて突然活動休止と言う事に。
短い期間で、こんな風に全ての縁がどんどん切れて、何もかもダメになってしまいました。
絶望的です。

ただ、入れ替わるように新しい縁もあるにはあります。
ちょっと気になる男性に出会ったり、2人ほどデートに誘ってくれたり(水商売のお客さんは抜きで)
だからと言って、それがどう・・・って事も無いんですが。何か意味はあるのかしら。

ネット販売の仕事はもうあてにできないので副業にするとして、就職活動を始めました。
とは言え、この年齢では難しいでしょう。

偶然と言うにはあまりにも一気に、お金も仕事も人の縁も切れてしまうのは、何かスピリチュアル的な事なんじゃないかと思ったもので・・・詳しい方にお聞きしたいと思います。

これから、何を気をつけてどのように生きていくべきなんでしょうか・・・。
アドバイスください!お願いします。

52歳女性です。
あまりにも普通じゃないほど、人、お金、仕事、趣味・・・全ての縁がここ3~4ヶ月でばたばたと切れています。

こんな感じです。聞いてください。
付き合い始めた彼とはたった2ヶ月でいきなり振られました。
長年の友人とは耐え難い事があり、事実上絶交状態に。(それに伴い、その周りの人たちとも疎遠に)
一人でネット販売の仕事をしていますが、売り上げが急降下し、どうしようもなくなりました。
頼りにしてた常連さんたちも注文してくれなくなりました。
元々、十分な収入では無かったのです...続きを読む

Aベストアンサー

スピリチュアル的には、人として成長したので、今の自分とはあわないものや人と縁が切れた。
と言われますね。
私もちょうどその時期だったので、調べたところそういう感じでした。

今になって思うと、確かにその通りなんですよ。
縁が切れた人とは話が合わなくなっていました。

例えば私は昔よりずっとポジティブになりました。
縁が切れた人は、昔から変わらず、いやそれ以上にネガティブになっていました。それにともなって、冷静な判断が下せなくなっていて
焦りからあれこれ自分の都合にあいそうなものに手をだしていまして
スピリチュアル的に言わなくても、異常にしか思えませんでした。

しかしその人にとってはそれが一番正しい行動なんですね。
目的のものを手に入れるために一番確実な方法だと思っているんです。

私だったら、今を楽しんでいる方が幸せだしよい出会いもあるだろうと思うのですが(過去の偉人たちの名言にもそう言うものが多いですしね)
そうした方がいいんじゃないかと、ちょっと落ち着いて心を整理した方がいいんじゃないかと、
思って言ったら喧嘩するようになりました。

その人はその人なりにがんばっているんです
それがどんなに理にかなっていなくても愚かに見えても
その人はそれが正しいと信じている。
けれど私はそれを正しいとは思わない。昔なら判断つかなかったけれど今は何が原因でそうなってどうなるのか分かるから止めたい、けどそれを相手は望んでいない。

それが、合わなくなった、縁が切れた時なのだと思います。

あなたは縁が切れるものが多い今、どういう経験が多いでしょうか。
意見の相違という経験なら、それは生きる世界が変わっていく狭間なのだと思います。

質問を読むに、仕事に関する変化が如実なように思います。

となると、私が自分の経験から思うのは
本当はやりたい夢があるんじゃないか
本当はこう生きたい、という思いがあるんじゃないかということです。

私は仕事をやめたい、この会社のやり方にはついていけない。と思っていたとき
自分からやめる前に、首をきられました。

それからしばらくショックで食事もままならず
無職にならざるをえませんでしたが、その苦しい時間が
人として成長する大きな気付きの多い日々となりました。

仕事をしていなくても生きていられる幸せ
支えてくれる人への心からの感謝
生きているということは奇跡のように誰かのお陰なのだという感覚
無理をしなくても生きていけるのだという、この世への信頼
健康のありがたみ
理解者のありがたみ
理解されない悲しさと、それでも頑張れない壊れた心身
本当にやりたいことをやろう、という覚悟
自分を大事にできるようになろうという決意

あなたに今それがあるでしょうか
ないとすれば、あなたは今、この世の奇跡のような素晴らしさを感じる、その機会にあるのかもしれません。

経験者として私に言えるのは
プライドを捨てなさい。ということです。

スピリチュアルの質問をしていらっしゃるからには
その手の知識もあるのではないでしょうか。だとすれば

おそらくですが、今まであなたが身に付けたいなと思ってきたスピリチュアルな愛とか感謝の気持ち
知識としては分かるけれど、感覚では分からない
そういう感覚に目覚めるときがきて
その感覚を持たないモノとの縁は邪魔にしかならないので、バッサリ切れていっているんじゃないかと思います。

あなたが今まで素敵だなと思ってきたものを手にいれるための別れなのでしょう。

自分を信じて
世界の優しさを信じてください。

今失っていくものは、本当に欲しいですか?
必要ではなく、欲しいと思いますか?

本当の気持ち、本当に望むもの、こうありたいと思う自分
それを圧し殺す時期は終わりを告げました。

心の底にあるかぎりない平和の感覚を
感じられるようになるといいですね。

そういえばその時期、私はエンジェルナンバーという本当にとても助けられました。
二冊ありますが両方買っちゃった。最初は白っぽい表紙の方を。
お持ちでないなら購入をおすすめします。安いですし。すごくすごく天使たちの優しさを感じられると思います。
ドリーン・バーチュー博士の本です。

スピリチュアル的には、人として成長したので、今の自分とはあわないものや人と縁が切れた。
と言われますね。
私もちょうどその時期だったので、調べたところそういう感じでした。

今になって思うと、確かにその通りなんですよ。
縁が切れた人とは話が合わなくなっていました。

例えば私は昔よりずっとポジティブになりました。
縁が切れた人は、昔から変わらず、いやそれ以上にネガティブになっていました。それにともなって、冷静な判断が下せなくなっていて
焦りからあれこれ自分の都合にあいそうなものに手...続きを読む

Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.

Q人間って何のために生きてるんだと思いますか?

人間って何のために生きているんだろうとか考える
事ありますか?食べるため?お金を稼ぐため?
恋をするため、子孫を残すため、遊ぶため、
仕事をするため、より良い人間になるため?
自分磨きをするため?
それぞれ違うのだろうけど。皆さんは
こういう事意識する事ありますか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私の知る限り、その昔、この質問に明確な回答を出したひとがひとりいます。
それがお釈迦様ですね。

人間が何のために生きるのかは、そのひとの価値観によって決まります。
全ての生命にとって「行動の動機」とは「欲求の実現」です。そして、欲求というのは価値観によって産み出されるものです。つまり、何が欲求なのかはその価値観によって決まるわけですね。
我々は、そこに発生した欲求を実現するために行動の選択をします。ですから、当然、その行動選択は価値観に従ったものでなければなりません。従って、人間が何のために生きるのかは、価値観を持った時点で決定してしまうということになります。

価値観には、本能と理性のふたつがあります。
本能の価値観とは、遺伝子にプログラムされた「神経の反応基準」であり、自分の意思で変更することはできません。この価値観に従って食欲や性欲などの欲求が出現しますので、我々はその欲求を満たすための行動を選択しなければなりません。そして、このような価値観は遺伝子の中にプログラムとして組み込まれているものですから、全ての生物にとって、何のために生きるかは生まれる前から決まっていたということになります。
それに対して、理性の価値観というのは生まれる前から決まっていたものではなく、生後の生活環境の影響を受けてあとから作られるものです。こちらは変更が可能で、個人によって違いがあります。このようなものが、そのひとの体験に基づく「個人的価値観」であり、生まれた社会の慣習に従った「文化的価値観」ですね。
このような価値観によって、より豊か生活がしたいとか、有名になりたいとか、世の中の役に立ちたいなどといった、人間には様々な、また複雑な欲求が出現します。そして、我々はそのために生きることになります。
因みに、本能と理性、このふたつの価値観の食違いを、大脳を発達させてしまった人類の苦悩、即ち「悩み」と言います。

さて、ここで問題になるのは、ならば我々は、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされているだけではないかということです。
ひとたび価値観を持ったならば、それに対して欲求というものか決定されてしまいますので、我々はその欲求に対する行動しか選択できなくなります。まして、本能の方の価値観は自分の意思では決して変更できません。
もちろん、我々人間は論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることができます。ですが、それが如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、我々はそれに反する結果を選択するということはできませんよね。つまり、YESかNOかの内、常にYESしか選択できないというのですから、そこに自由意思はないということになります。
このように、人間は価値観に対して選択の自由を持っていません。何のために生きるのかは価値観によって決定されてしまうのですから、このメカニズムがある限り、人生に自分の意思が反映されることはありません。

では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いかということになります。そのためには、価値観の持ち方を変えなければなりません。
我々は、価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。ならば、価値観の方を自分の意思で変更すれば良いのです。本能の価値観は変更できませんが、理性の価値観は変更が可能です。自分の意思によって価値観を持てるのであれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということになります。我々が自分の意思で生きるためには、自分の意思で価値観を持ち替えなければなりません。
ということなのですが、さて、そんなことは当たり前だ、誰だってそうしている。
果たしてそうでしょうか。

個人的価値観というのは、そのひとの体験によって作られるものです。その体験とは、価値観によって選択された行動の結果の積み重ねに他なりません。そして、文化的価値観とは、自分がその社会に生まれ育つことによって、長い間に掏り込まれたものですよね。果たして、そこに自分の意思というものがあったのでしょうか。
人間が何のために生きるのかというならば、ひとつには、より高い価値観を持ち、自分を成長させるためだという考えもあるでしょう。ですが、より高い価値観、この「より高い」という判断基準はいったい何処にあるのでしょうか。それは自分にとってより高い人間なのでしょうか、それとも、その社会で認められている価値観なんでしょうか。
このように、価値観には絶対的な基準というものがありません。我々は自分の意思で価値観を選択しなければなりません。ですが、その選択にはまた基準が必要になります。それが個人的な評価や、その社会の慣習に従うものであるならば、我々は価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。
さて、何やら悲観的な話になってしまいましたが、ここで結論を申し上げますと、我々が持つべき価値観とは、より高い価値観ではなく、個人の考に捕らわれたり、周りの動きに惑わされることのない「客観的な価値観」である、ということになります。

この極めて客観的で、人間が持つべき究極の価値観とはいったい何かを論理的に追及したのがお釈迦様でした。
この世の全ての現象に拘らない客観的な価値観を「無我の境地」と言い、その絶対的な価値観を「平等の境地」と言います。このような価値観を持つことによって、初めて客観的な行動の選択というものが可能になります。これを、慈悲の動機に基く行動選択と言います。
先に申し上げましたが、欲求というのは価値観によって決定されるものであり、行動の動機とは、その欲求の実現です。そして、このような客観的な価値観によって産み出される客観的な欲求が「永遠の幸福」です。
価値観が主観的である限り、幸福という欲求はひとそれぞれで変わってしまいます。ひとによって幸福が異なるのであるならば、そこには争いが発生します。争いとは苦しみであり、苦しみがある限り永遠の幸福は実現しません。
永遠の幸福とは、この世の全ての生命にとって平等の欲求でなくてはなりません。そして我々は、その欲求を実現するために生きなければならないわけです。さもなくば、我々は自分の意思で生きているのではなく、主観的な欲求によって生かされているということになってしまいます。因みに仏教では、このような主観的欲求を煩悩と言います。

訳の分からない話を長々と済みませんでした。このようなことは誰でも考えますし、偉いひちたちも昔からたくさん考えていました。人間が何のために生きるかという問題を整理してゆくと、私は概ねこのようになるのではないかと思います。
とはいえ、我々は逆立ちしてもお釈迦様のようにはなれませんよね。価値観によって欲求が生まれ、欲求によって争いが起こるのが世の中です。ならばせめて、より多くの見識を持つことによって自分の価値観を広げ、周りの動きに無闇に惑わされることのない、おおらかな生き方をしたいものだと思います。

こんにちは。
私の知る限り、その昔、この質問に明確な回答を出したひとがひとりいます。
それがお釈迦様ですね。

人間が何のために生きるのかは、そのひとの価値観によって決まります。
全ての生命にとって「行動の動機」とは「欲求の実現」です。そして、欲求というのは価値観によって産み出されるものです。つまり、何が欲求なのかはその価値観によって決まるわけですね。
我々は、そこに発生した欲求を実現するために行動の選択をします。ですから、当然、その行動選択は価値観に従ったものでなければ...続きを読む


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