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むかし、ちょっとだけ、車であちこち行く仕事していて、先輩が、『君の人生の目標は何?』と聞かれ、別にないです。と答えたら、えらい、おこって、一日中説教されました。説教の内容は、こんな感じです。人生はな、まず小さい目標持つねん、例えば、あの高校に入りたいとか、かわいい彼女が、欲しいとかな、そしたら、人間努力すんねん、努力して、手に入れたら、もっと大きな目標持つねん、そして、もっと努力すんねん。そういう感じで、人間は、生きていくんだ。目標のために、手段を選んで、行動するんだ。と、一日中説教されました。納得したか?と聞かれたので、正直に、ドラクエみたいで、そんなのいやです。別に、今が楽しければ、いい、そんなんじゃ、なくて、人生に目標を、持っている人が、生理的に嫌い。例えば、将来の為にと、今を犠牲にして、生きてる人。今、ここが、嫌いだから、目標を持つような、きがします。いつも、目標は、何ときかれ、目標に対して、考えが、まとまってないので、いつも、争ったら、まけます。なんで、みなさん、目標、目的なんて、持つのですか、教えてください

A 回答 (34件中11~20件)

何も説教しなくてもいいんじゃない?って気がしますが...そんな先輩もつと苦労しますよね。


正直言って、目標なんて持たなくてもいいと思います。自分の生活スタイルをどうするかは自分の勝手ですし、そんなことに他人がとやかく言う権利はないというのが僕の考えです。
ただ、私は目標を持っていますが、目標があったほうがないときよりも充実して過ごせますし、目標を達成したときの達成感は、うれしい喜びがあると思いますけれど...
(人生に目的はないというのが、私のサルトル実存主義の解釈です。人生に目的なんてありません。それよりも先に存在してしまっているので、それから先の生き方は自分で自由に決められるということではないでしょうか。サルトルは、「実存は本質に先立つ」といっております。また、「人は自由の刑に処せられている」とも言っています。)時間があったら『ソフィーの世界』とか読んでみると結構面白いです。
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xinmanです。

お礼拝見させていただきました。
>道路は、進行方向に、移動するには、危険はないけど、それを、左右を、よくみ>て、危険は、承知で、横断してみる。そんな、ふうに考えてます。遠回りが、一>番近道だと、信じてます。
”進行方向に移動する”か”横断する”かを決断するのは自分自身ですよね。しかも、人生という道路は進んだが最後、後戻りできないときている。ある地点に置いての直進するか横断するかの判断は一度しかできないんですよ。似たような場所を通ることはあっても、やっぱり、前のときとは異なる場所なんですよ。このときに、直進を選択した場合には横断したときの結果はわからないし、横断した場合には直進したときの結果はわからない。もちろん、結果を想像することはできるけれど結局想像の域から出ることはできないんですよ。直進と横断のどちらがより目的に近づくかは状況によって変化しうるものです。未知の結果に対しての選択となるので選択するときには悔いの無さそうな方を選択する。もちろん、後で振り返ったときに失敗したと思える場合もあるが、逆の選択をした場合にどうなっていたかを考えても、今更戻ってやり直すことなどできるはずも無い。だから、今を生きていく。地図の無い道路を進んでいくにあたって、遠回りであったか近道であったかは道路の地図が描ききれたときにはじめて見えるものだと思います。近そうな道を選んでさっさと目標を遂げるか、遠そうな道を選んでその道中を満喫するかはどっちもありだと思ってます。
>人生は、苦しみと絶望の連続です。その中で、一瞬だけ、幸せがおとずれる。
これは、ちょっと酷くないですか?もうちょっと前向きに考えましょうよ。わたしにはpassagen22さんが一瞬の幸せのために苦しみと絶望の連続をあえて選んでいるのかなって気になっちゃいます。苦しみと絶望を味わうことが目的ではないですよね?
>倦怠と、気晴らしの、連続の中から、気晴らしだけを、取り出しているような、
>気がします。
楽しい倦怠があるかどうかはわからないけど、わたしが生きてきた中には気晴らしの為の倦怠なんてのがありますよ。あえて、倦怠の中に身を置きその倦怠を満喫する。これって変ですかね?
わたしは、ガッコウ出て、カイシャ入って、そこそこのキュウリョウ貰って、ヤスミが有って、でも、コンナンヤリタイシゴトトチガウと思って、カイシャ辞めて、アタラシイカイシャ入って、キュウリョウ減って、ヤスミが無くて、でも、ヤリタッカッタシゴトやって、てな感じでジンセイマンキツ中です。タノシイです。シアワセです。オカネの為に生きているんじゃない。ラクスルために生きているんじゃない。それでも、タノシク生きたい。今のシアワセが無くなったときには、アタラシイシアワセを作ればいい、掴めばいい。コレガワタシノイキルミチ~♪ってなことをやってます。
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わたしの場合は自発的に目標なり目的なりを持もちます。

っていうか、持っちゃうんです。たいした目標じゃないけど。
今回の場合だとpassagen22さんの質問”目標もきらい”というタイトルと回答件数を見て”何で盛り上がっているんだろう?”という疑問を持ち、質問と回答を読んでみたい! すなわち、”質問と回答を読む”という目的を持ってここに入って来ました。でもって、読んでみると今度は、回答したい! わたしの意見も聞いてもらいたい! という意識を持ち、”回答を投稿する”という目的の元に回答作成中です。
日常的な場合の例えを上げると、空腹の時には”空腹を満たす”という目的で食事をとるわけで、といっても頭でここまでのことは考えていないけどね。
passagen22さんもここで質問されたのは他の人の意見が聞きたい、回答が欲しい、などの目的があったのではないですか?
今が楽しければいい、ちょっと先でいい思いをしたい、最終的に満足のいく人生を送りたい、などは時間や規模こそ違うけれど全て目的や目標なんじゃないかな?
わたしは、欲深きニンゲンなんで今を楽しく、将来も楽しくなんて考えで生きとります。
まあ、簡単にシタイコトからする!ってだけなんだけど。このシタイコトってのが目的であり目標なんでしょ。
こんなこと書いていると、おっきな目標を持っている人からは、そんなん目標ちゃう、なんて言われそうですけど…
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この回答へのお礼

例えばね、大きな道路みたいのが、あるでしょ。学生さんだったら、いい大学にはいる。そして、いい会社に就職する。という一直線な、道路。道路は、進行方向に、移動するには、危険はないけど、それを、左右を、よくみて、危険は、承知で、横断してみる。そんな、ふうに考えてます。遠回りが、一番近道だと、信じてます。あと、したいことは、したくないことを、しないと、発見できないと思います。それと、幸せは、一瞬だと思います。人生は、苦しみと絶望の連続です。その中で、一瞬だけ、幸せがおとずれる。だから、今が、楽しくは、たんなる、倦怠と、気晴らしの、連続の中から、気晴らしだけを、取り出しているような、気がします。

ヨル遅いンでねます。また、返事かきます。おやすみ

お礼日時:2001/03/07 04:50

ぼくには君が必要だ。

君には僕が必要だ。ということをなぜ人は頭ではわかっているのに、わかっているはず?(気がついていない人もいるかも?)でも、実際、そのようには振舞わない。必要ないとでもいわんがごとく垣根をつくり、隔ててしまう。そのせいかなぁ~Passagerさんが『話し合いも嫌い』のお礼文で書いてた夏目漱石の一節が、矛盾だらけのこの社会におかれたとき妙にあの言葉がマッチする。それと同時にはかなくもおもえる。社会という集団、集団から飛び出すことで孤立してしまっては、自分がなくなる。ピノキオにとってはプ-がいないということはピノキオもいないと同じ。プ-に置き換えても同じ。皮肉だね。なんで上手くいかないのかな?いろんな考え方があるのにどうして人は、違う考え方を認めようとしないんだろうね。なんでもかんでも型にはめようとする・・・・生きにくいね。ひとつきいてもいいですか?この生きにくい世の中、あなたはこれからどうやって生きていかれますか?他人事ではないです、すっごく自分の身に置き換えても考えて立ち止まってしまうことだから、聞かせてもらえたら参考になります。相変わらずトンチンカンモ-ド全開で・・・『こいつなにいってんだ!』って不快におもわれましたら、ごめんなさい。わたしも夏目漱石の一節は常々、心に感じているところです。
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「ひとは行動に先立って、あらかじめ目標や目的をもつ」


ということ自体がそもそも幻想ではあるまいか。

日々の生活をふりかえってみるに、こと改めて目標や目的
をもつなんてことは、じつに稀なことではありませんかね。
いってみれば、目標や目的をもつなんてことは年に一度の
祭りで御輿を担ぐようなもんじゃあないかなあ。
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 「お礼」、ありがとう。


 「世界は1と0とではなくて、1と8とでできている」…のけぞりました。マジで。君でなきゃ思い付かない表現だ。
 カオス…天気予報…偶然…。
 知ってるだろうけど、昨今よく人の口にのぼる「複雑系」とか「カオス」とかいった自然研究の流れは、1963年、MITのエドワード・ローレンツによる「バタフライ効果」発見に端を発している。モデル化された気象シミュレーションを実行した際、数値「0.506127」を「0.506」として実行したところ、えらい違いが現れた。千分の一の、ほとんど無視できるはずの誤差が、計算を累積するにつれて膨大な誤差になっていった。あたかも「南半球で飛んだ蝶のはばたきが、北半球に嵐を生み出す」ように。「初期値に対する鋭敏性」と呼ばれるやつだ。未来は予測できない。長期予報は当たらない。どれほど科学が発達しても、決して。それは、科学自身が科学的に証明してしまった。
 それと、「カオス」のもっとも単純なモデルとしてよく例に出されるのが、
   p=ap(1-p)
という簡単な関数。このaの値を0から4の範囲で少しずつ増やしていくと、3くらいからpの値が二周期に分かれてくる。もう少しいくと四周期…と見る間に分岐が加速する…そしてカオスへ。一定の範囲内でではあるけれど、全然バラバラの値をとるようになる。かと思うと三周期の「カオスの窓」が開けたり…面白いよ。

 さて、悪いけど、今回はちょっと反論ね。
 「1と0をいくら細かくしても、ハイビジョンは現実を超えられない」…これは大賛成。表現も見事だ。でもね、「必然と偶然」の対立図式も、やっぱり「1と0」だと思うよ。というのはね…。
 上の方で話の枕っぽく出した「カオス」のことだけど、これ、実は「偶然」じゃないんだ。「デタラメの仮面をかぶった秩序」なんだ。事実上、カオスは確率論的過程=偶然と区別ができない。でも、ちょっと見方を変えると秩序が浮かび上がる。その秩序の表現の一つがフラクタル幾何学だったりする。見たことないかな? おケツの割れたひょうたんみたいな図。拡大していくと、めちゃめちゃサイケデリックな極彩色の世界が広がる、アレ。
 一見偶然だけど、実は必然。必然だけど、原理的に予測不可能。偶然と同じ。それがこの世界なんじゃないかな? 「ぐうぜん~」と見ていた世界に、突然「ひつぜんっ!」が浮かび上がる。これも予測できないときに。
 だから真実は「必然と偶然が出会うところ」にあると思う。二分法ではなくて。

 でもね、君の「偶然を受け入れて生きよう」という生き方は否定しない。世の中、事実上偶然なんだから、それしかない。…なんか、ランボーとかマラルメの詩を連想するなあ。
 でもね、前も書いたように、「目標は武器になる」。君の言うように、現実は必ずしも安定した時間構造の中にはない。言い換えれば、偶然に満ちている。寄る辺ない偶然の大海だ。でも、計画とか目標というのは、その海を航海する海図にはなる。本物の海図に比べて、ひじょーに頻繁に書き換えなきゃいけないところがやっかいで、めんどうだが、時々役に立つこともある。「気が向いたら使えばいい」ってこと。
 でももちろん、それに縛られちゃいけない。しょせん道具なんだから。目標とか計画とかに縛られてしまうことは、虚妄でしかない「安定した時間構造」に縛られるのと同じこと。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
 そう、だから「目標は嫌い」。それでいいんだよ。
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この回答へのお礼

たぶん、結論から言えば、目標を捨てて、強度を持て。一つの目標から、千の目標へ、いちか、ばちか、かな。なぜ、私たちは、1と0で、世界を表現できると、思い込んでるのだろう?デジカメの画素が、上がれば、世界を所有できると、思い込んでる。もっと、pop考え方が、日本から出てきて、欲しいです。個人的には、網野善彦という、日本の中世の学者で、無縁の考え方が、可能性があるような気がします

お礼日時:2001/03/06 02:06

 oni_ocさんに賛成。


 Passagen。君は「今」「ここ」という真実の生を生きている。透明になって駆け抜けている。そんな君は、「今の生き方、楽しくないでしょ」などという決め付けにも、「目標を持ってがんばらないと馬鹿にされるぞ」などという言葉の暴力にも動じない。「ありがとう」と返せる。大きいね。
 君の詩のような言葉は、「美しく正しい日本語」なる虚妄からの美的逸脱だ。心の狭い人間には「小学生並の稚拙さ」にしか見えないかもしれないが。その言葉で資本主義という色即是空の空間を生きればいい。そして貨幣舞い散る空を飛べ。売って売って売りまくれ。押し付けられた「モクヒョー」なんて笑い飛ばせ。
 君は「嬰児」だ。
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すばらしい。

passagen22さんがymrsさんへのお礼で得られた境地は特筆に値する。

存在を極限まで煮詰めていけば、この世に確かなるものは、
己がここに在ることしかないかもしれない。
そこが無の境地なのかもしれない。
しかし、そこから、目を見開いてみれば、己は様々なものとの関係性の
中で存在させられている一個の存在にすぎないことに気付くことになり、
そこに辿り着けば、己を存在させてくれている全てのものを受け入れ、
愛するところに到達できることをpassagen22さんに教わったように思う。

passagen22さん、君の門出を僕は心から祝おう。
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>将来のためにと、今を犠牲にして、生きている人



↑傍目からそう見えていてもとうの本人にとっては、それが、苦ではないのかもしれませんね。言い換えれば、犠牲とはおもっていないのではないでしょうか?そうすることが、その人にはなんらかの意味があるようにもおもえます。自分自身で虚言、幻像、夢、あこがれといったものを信じ、抱くことで生をかんじとっておられるのかもしれません。目標、目的に重きをおく方それはそれでよろしいかと・・・ただ、それを他人に強いるのはよろしくないかとおもいます。例えば、宗教で仏教(お釈迦様)が一番いいぞといっているのと代わりがないような気がします。キリスト教徒に仏教が一番といったところで『お釈迦様を信じます』とはおっしゃられなないことてしょうし、無理からキリスト教徒に仏壇の前で数珠を持たせ手を合わせてお経を唱えなさいなんていわれたら、苦痛で以外のなにものでもない。そうすると、信仰の自由もあったもんじゃないことになる。自由自体がそもそも存在しないと私はおもっています。ないからこそ、あってほしいというおもいが、先ほど述べました、虚言、幻像、夢、あこがれを信じ、抱こうとするのではないかと・・・だから自分の中にそういった意識をつくりあげている。あなたをお説教した先輩の意識の中には少なからずやこういったものがベ-スにあるようにおもえます。あと困るのが、最終到達点(目標)にたどり着くことだけにとらわれて、そこに到達するまでの過程でまわりの景色を楽しむ余裕をなくしてしまうことです。結果が生れるまでには、いろんなプロセスをふんでいきますね。いいこともあればよくないこともある。また、辛いこともあれば、楽しいこともある。そのすべてのことを考慮し結果が生れるのなら素敵です。おおくの人は、途中のプロセスを評価しない。結果だけを見て物事を判断する。ばかばかしいです。この点が困った部分です。結果も大事ですが、私には途中のプロセスがとても意義があります。他人にとっては、たいしたことなくても自分にとってとても重要です。それは、たどった道のりが自分の生の証だとおもえるからです。いいかえれば、目標、目的をもつことは生の証になりうるからです。
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この回答へのお礼

「彼のリゾームはこわされ」、<彼の地図はよごされ>、その地図は、位置は、正され、あらゆる出口は塞がれて、ついに彼は、自分自身の恥辱」と、罪悪感を望むに至り、彼のうちに恥辱と罪悪感、<恐怖症>が根を生やす。『彼に対して建物のリゾーム、街路のリゾームが封鎖され、フロイト先生に金縛りにされる。

彼の地図は、豊かな今、色々な人がいて、多彩な色彩、その地図も、今のままで、いいのか、目標を持て、もっと、もっとと、せかされて、とにかく何か全身全霊を打ち込めるものを探さなければ、と焦る。焦れば、焦るほど、自我は、ぬかるみにはまる。

一方、プーの方はと言えば自由の刑に際し、なまけものを決め込む。ことさらヒトに進化しようなどとは、思わずに、ぬいぐるみの無意識に任せて、郊外の日溜まりで放心している。そして腹が減るとモソモソと行動を初め、蜂蜜を舐めたり、クッキーを、腹が破れるまで食べたりする。満腹になれば、また放心する。プーは自殺の誘惑に駆られることもなければ、絶望することも、被害妄想に陥る機会もない。わざわざ自分の無力を悟るまでもなく、無力そのものを生きている。

いつも自分の行動には、じかくてきで、積極的に他人と関わり、世界と関わろうとする、ピノキオは、傷だらけになり、打ひしがれ、敗北を重ねる。

プーは自分が何をしてるのか殆ど自覚を持たずに、他人との交わりはいつだって受動的だ。世界と関わっているのかいないのか曖昧だ。でもプーは敗北を知らず一人無邪気なままでいられる。

可哀想なピノキオは他人に利用され、快活さを失い、世界を呪いはじめる。

ピノキオ君、君は生きるテーマーとか、アイデンチチーとかにこだわり過ぎるんだね。

ぼくはなまけもので、喰うことばかり考えてる。無意識に身を任せて放心している。

君は神経質に、未来や世界との折り合いについて悩むお利口さんだ。

ぼくには君が必要だ。君がいなければ、本当に惚けてしまう。自分が何をやっているのかわからなくなってしまう。君には僕が必要だ。ぼくがいれば、ぼくがいれば、君は、絶望を軽くし、自殺をおもいとどまってくれるだろう。

お礼日時:2001/03/05 11:12

「目標もきらい」に大賛成です。

すごく良く分りますその意見。
「グリーンカード」と言う映画を見ましたか?
あの映画は『将来の為にと今を犠牲にして、生きる人生に幸せは来るのか?』
といった旨の内容だと感じました。(違うと言う人もいるでしょうが)
刹那的に「今が楽しければそれでいいじゃん!」とはなかなか思えませんが
人生は一瞬の連続なのでもし「一生の間『今』が楽しければ」最高ですよね。
僕には目標があるので目標を持つ人を否定しませんが、passagen22さんの意見には大賛成です。
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この回答へのお礼

ありがとう、答えてくれて。まだ、グリーンカードは、見ていません。今度見るようにします。フェデリコ、フェリーニという、イタリアの映画監督の映画で、8か2分の1という映画があります。その中で、地位も名声もある、映画監督が、自殺します。目的をもってる自分も、目標そのものは、実は、なんの実体もないものだからと気ずきます。実体のないところの、実体があるように思いこめが、その行為そのものが汚されてしまう。実体の幻影にあざむかれては、いけない、そのことを、一瞬の啓示をうけます。それで、こんなセリフを、映画監督は、言います。急に嬉しくなって、力が湧いてきた。許してくれ、ぼくは、分からず屋だった。君らを受け入れる愛するよ何て簡単だ この解放感 すべての真実が輝いて見える これを表現したい だがどうすればいい 混乱したぼくの人生は、ぼく自身の反映だったんだ 理想と違うが もう混乱は怖くない 実を言えば求める物はまだ見つからない だが君の目をまっすぐ見てこう言える。人生は祭りだ供に生きよう 今はそれしか言えない 君にも他の人にもあるがままのぼくを受け入れ再出発を 

お礼日時:2001/03/04 09:14

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