【お題】王手、そして

 まづ 《ていねい語》は 別とします。(次の意味あいから その理由は 自明になると思います)。

 ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E

 敬語は、
 ○ 言葉で表現する主体(書き手、話し手など)と
 ○ 客体(読み手、聞き手)や その話題中の対象となる人との
 ○ 上下関係、
 〔あるいは〕
 ○ 話題中の人物同士の上下関係
 などを言葉の内に表現するために用いられる語法。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。考えるに おそらく 別の側面があると思われます。
 ○ 社会的な上下関係にかかわりなく 相手や人をうやまうゆえに 語法において その心を示そうとして 表現を形成する。
 ☆ そこで 質問です。

 【Q:敬語は (A) 上下関係が社会身分として成ったから 出来たのか。それとも (B) はじめに 人びとの間で 互いにうやまう気持ちを表わそうとして 出来たのか】

 ☆ もし (A)であれば 敬語は 要らないと思います。結果としてでも 上の者が 下の者に そういう表現形式を使うようにと 押しつけたものだと考えられるからです。
 果たして どうなんでしょう? 

 * 質問者じしんの考えをも述べます。(1) じつは あいまいです。
 (2) 分かっていることは 仮りに(B)の場合が 歴史的な事実だとした場合 それでも (A)のような使い方は あまり愉快ではないと感じます。
 (3) 尊敬するかしないかが決まっていなくても 一般に―― 一般に―― 敬語という語法を用い合うことによって コミュニケーションが 障りなく実り多く 進められるのなら そのほうがよいではないかという議論があるかと思います。ということは 敬語という語法がなければ 社会の人間関係は 滞りなく 進むことは むつかしいということでしょうか? 
 (4) だとすれば それは 尊敬語というよりは 最初に挙げた《ていねい語》という語法ではないでしょうか? 表現にあたって その内容および形式(語の選びや文の形態)を みづからのためにも 相手のためにも より良く形成しようと つとめる語法です。
 おしえてください。

A 回答 (3件)

 「敬」という字は会意文字ですよね。

確か、図らずも羊の角に触れて、はっと驚くような意味合いだったと思いますが、そういう意味の文字を当てている以上、相手を敬う言葉としての意味よりも「敬」という文字の意味が先立つのではないでしょうか。
 こういうのって、ブラジュロンヌさんの方が詳しそうですが。

 ある程度の年齢以上の方(七十歳くらい以上)ならきっと、「敬」という字は人が屈んだ姿勢を現わす文字だという理解があると思います。
 では、なぜ屈むのか? 
 それを三十代くらいの人に聞いてみると、「それは相手より頭を低くすることで、相手を敬う自分の態度を現わすからじゃないか」という返事が多いんじゃないでしょうか。
 質問は、これって本当の意味なのか? と理解して以下に答えてみます。

 単刀直入に言えば、相手が「敬語」を口にしたとき、きっと心のどこかで相手は避けようとしているんだと思います。うまく身をかわして羊の角を避けたいのだと、こう判断したんだと思うんですね。
 その判断は、この相手とはむやみに言葉を交わしてはならない――そういう心理に裏付けられている。意識してか、無意識かはわからない。けれど、敬語ってそういうものだと僕は思います。
 
 どうしたんですか、ブラジュロンヌさん。どこかで、敬語を口にされた?
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この回答へのお礼

 ri_rong さん お久し振りですね。ご回答をありがとうございます。

 漢字や語源(字源)から 説き起こすのは 中村元の専売特許かと思っていたら お使いになるのですね。やや 皮肉交じりです。中村のばあい あまり成功していないように思っていたものですから。
 さて なるほど 《敬》の字源は 藤堂と白川とで 説が分かれていますね。
 ▲ (ヰクショナリ:敬) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wiktionary.org/wiki/%e6%95%ac

 会意形声。「攵(攴:動詞を表す)」+「苟」(キョウ:現在、「コウ」と読む文字とは同形別字)。
 苟は、羊の角+人+口の会意文字で、角にふれかしこまる様子を表す(藤堂)。
 又、「羊の角+人」で、中原の西部に住んでいた、羌人を表し、「口(神器)」の上に置いて、羌人の生け贄を捧げ、神をうやまうことを意味するとも(白川)。
 はっとしてかしこまるの意は「警」「驚」に含まれる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたしが この質問を挙げたのは 敬語を学ぶという人がいたからです。
 で お答えは けっきょく 《敬遠》ということになりましょうか?
 ★  単刀直入に言えば、相手が「敬語」を口にしたとき、きっと心のどこかで相手は避けようとしているんだと思います。うまく身をかわして羊の角を避けたいのだと、こう判断したんだと思うんですね。
 ☆ 敬遠の四球というところですね。
 ★  その判断は、この相手とはむやみに言葉を交わしてはならない――そういう心理に裏付けられている。意識してか、無意識かはわからない。けれど、敬語ってそういうものだと僕は思います。
 ☆ ううむ。ただ ただですね ただ これほど 普及していますよね。そして 敬語を使って 話を引き出そうとしたり 相手を味方につけようとしたりしますね。交通の手段のようなものでもありますね。
 積極的に使っている場合も 少なくない。ということになりませんか? なった場合 どう捉えるかだと思うのですが どうでしょう?

お礼日時:2009/05/21 20:46

オコリザルです。


難しい話は付いていけないので世代間の変容の話です。
最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。
私もそれにならっていい年をして「バカ」又は「アホウ」を連発します。
この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。
尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術でもあります。
一見凶暴な暴言を吐く若者は、やりこめてくれる尊敬できる大人の見分け方を探しています。
ややこしいかもしれませんが、実践した経験から行くと、理解してもらえない場合でも自分だけは納得できます。更にウマの合わないお年寄りは、自動的に去っていきます。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 敬語について 起源をさぐるよりも いま どのように言葉一般を用いているか これを捉えるなら 敬語の扱い方もわかるのではないか。こういった探究の道であるように思いました。
 
 ★ 尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術
 ☆ として
 ★ 最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。
 ★ この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。
 ☆ つまり 見栄を張らず 慣れない敬語などを飾りとして使ったりしない。そのことまでをも分かって欲しいからか かえって 乱暴な言葉を わざと使う。

 ここからのわたしの理解は こうです。若い人びとで 敬語を使いこなせていない者の思っていることは 言葉使いに関しても ひとに対する尊敬の念を 表わしたい気持ちはある。ということ。
 もしくは ぎゃくに 言葉使いにおいて それとして尊敬を表わす用法を使わなくても 実質的に 尊敬の気持ちを表わすことはできる。と思っているのではないか。
 
 そうですね。わたしは 自分の見方に引き込もうとしてのように 《ていねい語》があればよいという方向を見てしまうのですが どうでしょう?

お礼日時:2009/05/23 05:47

こんばんは。



敬語表現という呼称にあまり囚われない方がよろしいのではないでしょうか。
思うに、ある国語学者が待遇表現をさらに細かく分類しようとした結果、その一部について、たまたまその時代・社会を支配していた日本的、儒教的美徳?の影響を受けて《敬語》と呼び、それが今日まで存続してきただけと考えた方が無難ではないでしょうか。

要するに、敬語表現を用いる話者の意識裡に、本当に相手に対する敬意が認められるかと問われれば、「必ずしもそうとは言えない」という程度のことは、誰しも経験的に理解しているのではないかということです。

申し上げるまでもなく、相手に対する話者のいろんなレベルでの気遣い、配慮、思惑等々からいろんな待遇表現が生み出されたきたわけですが、その中の敬語表現だけに限れば、話者が相手から有形無形の利益を引き出さんと謀ったり、そのために相手のプライド、自尊心を擽ったり、相手の歓心を買ったりすることが、敬語を用いる際の動機、目的、意図等になっているのではないでしょうか。
したがって、ご指摘の通り、相手を「敬遠」することで自己防衛しようとするときも、敬語は重要な働きをするわけです。

同じような心理は、日本語にはいわゆる目上の人に使える二人称代名詞がないことや日本人特有の対人恐怖症的傾向等にも認められるのではないでしょうか。
もしかして、日本語における敬語表現とは、日本人がいかにアカの他人の他者と面と向かって対話することを苦手としてきたかを立証しているのかもしれませんね。

その意味でも、ときどき日本語の敬語表現がかつての封建的な差別社会、身分社会の残滓であるかのごとく言い張る人もいますが、あまりにも底の浅い謬見だと思います。

この回答への補足

 kadowaki さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 思うに、ある国語学者が待遇表現をさらに細かく分類しようとした結果、その一部について、たまたまその時代・社会を支配していた日本的、儒教的美徳?の影響を受けて《敬語》と呼び、それが今日まで存続してきただけと考えた方が無難ではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううむ。kadowaki さん これだけでは 納得しましたと申し上げるわけにはまいらないと まづ 考えます。まづ そのように反応いたします。こうなれば
 ○ 起源
 ☆ をしっかりと捉えて 論じないことには 上滑りになりかねない。もしくは 歴史の途中の段階からの議論になる。とお考えになりませんか?
 この疑問が先に立って 決してそうではないのですが いわば粗探しをするかのように 話を継ぎますが この質問の思うところにしても
 ★ 敬語表現という呼称にあまり囚われない方がよろしいのではないでしょうか。
 ☆ というように囚われて 何かを訴えようとしているわけでもないのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 要するに、敬語表現を用いる話者の意識裡に、本当に相手に対する敬意が認められるかと問われれば、「必ずしもそうとは言えない」という程度のことは、誰しも経験的に理解しているのではないかということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と たしかに なるでしょうね。その上で どうして この語法がつづいているか ですが
 ★ したがって、ご指摘の通り、相手を「敬遠」することで自己防衛しようとするときも、敬語は重要な働きをするわけです。
 ☆ というNo.1説に賛成のご見解ということになりましょうか。詳しく述べてももらっています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 申し上げるまでもなく、相手に対する話者のいろんなレベルでの気遣い、配慮、思惑等々からいろんな待遇表現が生み出されたきたわけですが、その中の敬語表現だけに限れば、
 ・ 話者が相手から有形無形の利益を引き出さんと謀ったり、
 ・ そのために相手のプライド、自尊心を擽ったり、
 ・ 相手の歓心を買ったりすることが、
敬語を用いる際の動機、目的、意図等になっているのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうなれば――つまり このように分析されていることが まちがいだと言うのではなく そうではなく まちがいではないゆえに そのまま 敬語の理論としていいかとなれば それは 待ったがかかると思われ それは―― やはり 起源から説き起こした上でないと この《敬遠》説を 胸に落とし込むわけにはいかないように感じます。
 たしかに なお説いて述べられることには 日本人には 社交下手といった性格があるということのようですね。
 ★ 日本語にはいわゆる目上の人に使える二人称代名詞がない
 ★ 日本人特有の対人恐怖症的傾向等
 ☆ が証拠として挙げられるのだと。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もしかして、日本語における敬語表現とは、日本人がいかにアカの他人の他者と面と向かって対話することを苦手としてきたかを立証しているのかもしれませんね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうして
 ★ 封建的な差別社会、身分社会の残滓
 ☆ の説をも破って むしろ
 ○ 敬語にかんする《敬遠》説は 起源としての敬遠をも含んだ《敬遠語法》理論である。
 ☆ という様相を呈しています。そういう日本人論でもあるようです。

 たとえば わたしは 日本人には 進取の気風をも感じ取るのです。隣の半島や大陸に対して けっして 目をそらせていたわけではない。引っ込み思案であったのではない。こう捉えます。
 この一事からしても 《敬遠》説は ことの半分をしか言い当てていないという感触を まづ 持つものです。率直な感想は まづ これなのです。
 少し時間をください。考えてみます。
 また お礼欄では 字数が足りないので もういちど 何でもよいですから ご回答を寄せておいていただけないでしょうか。
 急ごしらえの状態です。あらかじめ そのための試行錯誤によるご不便などについて おわびを申し上げておきます。このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

補足日時:2009/05/24 09:02
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この回答へのお礼

 起源についての第一考。
 ○ めし(召し・飯 ← 見し)
 ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》
 ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》
 ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 めし:《見る》の尊敬語
 1.ご覧になる
 2.お治めになる
 3.お呼び寄せになる
 4.結婚の相手となさる
 5.お取り寄せになる
 6.お取りあげになる
 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語
 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ シは スルという動詞。見ナサルというように 能動性をつけ加えている。メは ミの母音交替形。
 見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》。(2)から(6)までについて 不都合無し。(7)は 《寄せた》あとの動作について 直接に触れず 遠回しに言う。
 ここで 別の解釈をします。
 シを 使役の意に採る。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できる。ただし モノを取り寄せるという用例では 合わない。おそらく この使役の語法は 第二次的であろう。
 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。ゆえに 《めし(召し・飯)・召しあがる・お召し物》という意味。

 メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞・シをとおして 第一次と第二次の用法が見られる。第二次の用法は ヰキぺで言う《上下関係》にもとづく尊敬語法。表面的でもある。
 第一次の用法は では 人びとの生活から 自生的に 起こったか。
 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよい。古語で ル・ラル。これは 自然生成の相。《出来る》という可能の相も 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとする。
 能力があるという相を その表現に使えば 敬うかたちになる。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいまいか。身分関係にかかわらず 発生したのではないか?
 《敬遠》の語法は どうあつかうべきか。

お礼日時:2009/05/24 13:43

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