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自分の為には行動できても、他人の為には行動出来ない。

昔から物事に結果を求める性格でした。
行動や努力が結果に結び付くことに対しては積極的になれるのですが、
特に人間関係のように行動が結果に結び付かないものに対して及び腰になります。

髪型を整えたり、ファッションなどの身だしなみを整えたりすることで、
自分自身が積極的に外に出れたり、自分を好きになれたりします。
運動や筋トレをすることで体力がついたり、筋肉がついたりして、
バテなくなったり、体型がしっかりしたりと自分に良いことずくめです。
勉強や習い事なども同じでそれを積み重ねたことで知識や技能が身につく。
やればやった分の結果(人により程度の差はあれど)に結ぶつくことは
自分の身に結果として返ってくるので行動的、積極的になれます。

例えば「ダイエットプログラム」などはやることが決まっていて、
早急に結果を求めずプロセスに従いやってみれば、結果が出やすいものと思います。
やることが自分のプラスに働くことが明らかなのにどうして出来ない人がいるのか分かりません。
はたまた、私が自己鍛錬が好きなナルシスト野郎なだけかもしれませんが・・・

しかし、他人に好かれるためや、他人のためにと思うとどうにも及び腰になります。
例えば、仕これが事上で同僚が困っていたら助けるにしても、心の奥では
「これで今度困ったら自分もお願いしてみよう」と思う事で救われます。
仕事であれば「これは義務であり、いつかの為の種まき」であると思うことで
割と自分自身を納得させることが出来るのですが、仕事以外のプライベートな場で
こういった損得的な感情を持ちこむことが困難であると思います。

以前「何でそんなに人間関係をギブ&テイクで考えるか分からない」と言われたことがあります。
幼少期から見返りを求められることが多かったので、それがいけないこととは思いませんでした。
両親はいつも「誰々は俺(私)がこれだけやったのに何もしてくれない」と二人で愚痴を言い合って
いたのを部屋の布団の中でずっと聞いていましたし、自分も結果を求められました。

プライベートな場は仕事のように自分に大義名分を課すことが出来ない(それが成立しない)
場で人のために行動する、努力すること(一般的に優しさとか思いやりと言われる類のもの)に
どうしても不透明感を感じて、疑心的になりがちです。
努力なり行動の結果が自分の身にどういう形で返ってくるか分からないのが不安しか連想させません。
でも、こちらから何かしらのアクションを起こさないと、相手側から対応が来るはずがないという
ことは「ギブ&テイク」(こちらのアクションに対する相手の出方)に基づくのでは?

ダラダラと長くなってしまったのですが、どうやって見返りを期待せずに他人と接すれば良いのかと
いうことが本当に分からなくてずっと悩んでいます。
人に道を教えることは苦ではないのですが、他人に見返りを期待せずにちやほやするのはとても
苦手です、何でも「してあげれる」人は本当に凄いと思います。
人に期待せずに優しく出来るのって一体どういう感覚なのでしょうか?

A 回答 (5件)

わたしは、みんな同じような気持ちで行動しているとおもいますよ。



無償の愛って、ないんじゃないかっておもいます。

わたしは子供ができました。
子供への愛は無償だと言いますよね。
でもわたしは、子供の幸せそうな顔を期待しているし、可愛らしい表情のお返しに優しさをあげたり尽くしたりしているとおもいます。

これも、ギブ&テイクだとおもうんですよね。

まぁ、それは良いとして・・・。

わたしも、他人にちやほやするのは苦手です。
でも、何でもできることはしてあげるようにしています。

それは、結局は自分のためです。
考え方だとおもうんです。

ある本で、『人から頼まれることは神様からのご提案』という言葉を読みました。

だからって、神様を信じているとか言うことはないですよ。

人から頼まれることと言うのは、自分だけではしないことの方が多いですよね。
何かを手伝って欲しいとか、どこかに連れて行って欲しいとか、何かを分けて欲しいとか・・・。

自分の生活の範囲では、し得ないことをするチャンスなんだそうです。

人のために動かなければ、行かなかったであろう場所とか、しなかったであろう事柄って出てくるんですよね。
それって、結局は自分の人生の幅を広くしますよね。

こういったことが、神様が『これはどうですか?やってみませんか?』って言ってるっておもうと楽しくなりますし、何かを吸収しようとしますよね。
自分にとって、すごくプラスだとおもうんです。

そうおもわなくても、心から無心に人のためになろうとする人もいるんでしょうけれど、わたしはそうおもい始めてから損得だけを考えることがなくなりました。
何事も自分のためだっておもえるようになりました。

あなたも苦手なことをしようとするんじゃなくて、自分のためなら動けるというメリットを生かして、自分を高めるために人に何かをしてあげるとおもうと楽になりませんか?

してあげるという行為は、こちらがどう考えていても相手には同じだけ感謝です。
自分のためっておもって気持ちよくしてあげると、人生の幅も広がるし、何かのチャンスやヒントを拾えるかもしれないし、その上感謝される。

実際わたしは、人を送迎してあげた先で取引先が見つかり契約できたり、人脈が広がったりしたこともあります。
分かりにくいことをダラダラとすいません。
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この回答へのお礼

凄く分かりやすい回答をありがとうございます。
してあげること=自分のスキルアップと捉えるのは合理的ですね。
・・・こう理論的でないと理解や納得が出来ないのがお恥ずかしい所ですが。
「お前のためじゃない!自分のためだ!」と思えば意外と
すんなりいけそうな気がします。
後は「良いように使われる可能性」というデメリットとの
折り合いをどう付けられるかがキーポイントのような気がします。
自己鍛練と捉えるのは良いかもしれませんね。

本当に大きなお世話だと自分でも思うのですが、
お子さんのお子さんらしさをこれからも尊重してあげて下さい。
きっと素直に自分らしさを表現できる人になれると思います。

回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/06/22 01:20

まず気がついたことについてなんだけど


「自分の中で、今のやり方がおかしい、変なんじゃないか?」と思っているからこそ、質問されているわけですよね。
それは他人からの問い掛けに、自分が反応したからとか、何らかの切欠から始まった「心の動き」である、と。
疑問が生まれてきてるわけです。

そういった場合は、これから苦しむことにはなるけど、自分で「発見」し続けていくことがベストなんだと思うよ。
ここでああすればいい、こうすればいい、というマニュアルを問わないで。
何らかの「事件」というのは、日々あるものですから、その中で…まあ、親切な人ばかりではないけれど、そういう人はちゃんといますから…いろいろな「会話」を通じて、ダイレクトに心が動くことこそが一番の薬だと考えます。

正直、生い立ちとしては可哀想な部分があったようです。
子供は親の人形じゃないから、過度な期待はしないほうがいいのに、それをされてきたわけですから。
あなたは、親の死後も生き続けねばいけないわけで、それだけをとっても自分が人形じゃいられない、ということは理解出来るはずです。

とにかく時間はかかります。
それだけは知っておいて下さい。
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この回答へのお礼

マニュアルだったり、正解を知りたいとは思っていないです。
人の感情や思考は十人十色なのですから、人の感情に対する質問には
明確な答えはない、ただ自分一人で考えるには判断材料が少ない。
あくまで私が欲しいのは「ヒント」です。
時間が掛かるのはこの三十年近い人生で分かっているんです。
答えは自分で見つけるものだとも分かっています。
同情ではなく、ヒントが欲しいのです。
お気持ちは凄くうれしいです、ありがとうございました。

お礼日時:2010/06/22 01:12

>自分の為には行動できても、他人の為には行動出来ない。


私もその一人です。また、実のところほとんどの人が自覚していないだけで、自分の為に行動していると思います。

奇しくもokwave自体が好個の例となっていますので、とりあげて考えてみたいと思います。このコミュニティは、まさに他人の為に意見を出し合う場ですね。それによって報酬が得られることはありませんし、新規の質問者の方にも回答者さんはつきますから評価をあげることにも大きなメリットはありません。おまけに、自身のホームページへのリンクは禁止されています(中には違反している人もいるかもしれませんが)。報酬といえば、少しばかり自尊心が満足することと、記念品がもらえることくらいでしょう。

では私がなぜ当コミュニティを始めたかといいますと、思考の整理や文章力の向上など、自分自身の為になると思ったからです。それが結果的に質問者さんのお役に立つことがあったり、またお役に立てなかったりして、自身の考えを見つめ直すいい機会になるのです。もちろん他の回答者さんすべてが私と同じ姿勢であるとは思いません。しかし、他人の為と思い回答されている方の多くも、結局は自分の為なのではないでしょうか。

ある質問者さんに対して素晴らしいアドバイスをし、ベストアンサーに選ばれたその回答者さんは「問題が解決できてよかったね!」と心から喜ばれるとします。素晴らしい方です。おそらくここが、あなたの理解できないポイントなのでしょう。それは、何に対してその人が価値を感じるかの違いです。月並みな言い方でガッカリされたかもしれませんが、例に出た回答者さんの場合、「他人が喜ぶこと」自体に価値を感じているのでしょう。それが自分の手によってもたらされたものならその価値もいっそうかもしれません。これは一見「他人の為」の行動にみえますが、実は「他人が喜ぶことに価値をおく自分の価値観が満たされる為=自分の為」の行動なのです。


>人に期待せずに優しく出来るのって一体どういう感覚なのでしょうか?
ということでしたが、そのような行動の多くは以上に述べたように突き詰めると「自分の為」に行き着くのではないかと思います。無償の親切というものは、私にとってはもはやSF的夢物語としか思えません(笑)。ただ、幼少の頃から人の役に立つことが習慣になっている人の場合、もしかすると無償の親切もありうるのかもしれませんね。きっと関節を鳴らす癖と同じくらい自然に行うことでしょう。例えがよくないので皮肉に聞こえたかもしれませんが、掛け値なしにこれ以上ない美徳だと思います。

長々となってしまいましたが、お役に立てばなによりです!
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この回答へのお礼

親切心=自己満足であるのと同じだとは思います。
人が喜んでくれれば嬉しいのは確かなのですが、
やはりこちらの思ったような反応が返ってこないと
どこかで失望してしまうのは浅ましい感情なのでしょう。
そこをスッパリ割り切れる人間であれば私もこんなにも
悩まなくて済んだのかもしれませんね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/06/22 01:07

私はサービス精神旺盛な方ですが、その理由は「他人が喜ぶ顔を見るのが好きだから」です。

喜ぶ顔には笑うというのも含まれます。だから、他人が笑ったり、喜んだりするのを見るのが楽しいのです。結局のところ、「他人のために何かしてやっている」ってわけじゃないですね。突き詰めて考えれば「自分が気持ちいいからやっている」わけです。否定的に見ればある種のナルシシズムかもしれません。
他人の笑顔を見ることで、私みたいなタイプは見返りをもらっているのです。見返りを得ていることには変わりません。
詭弁術で、「善行は少しも立派なことではない」という話があります。もし彼が自分の好きでやっているなら好きなことをやっているだけだし、苦痛を抑えてやっていることならたかが知れている、ということです。

七つの海を文字通りに股にかけた船乗りの友人から聞いた話です。アフリカや中米、南米などの貧しい国には毎日の食事にも事欠く人たちが大勢います。港には、船乗りたちを目当てにする女性たちが集まるそうです。お金に多少余裕のある船乗りたちは、そんな彼女らに食事をごちそうします。お腹いっぱいの食事にもありつけない彼女らにはそれでも充分魅力的です。しかし、彼女らはお腹を空かせている親兄弟の中で自分だけがごちそうを食べることに引け目もあります。
そこで、船乗りたちは家族への土産にと食べ物を持たせてやるそうです。すると、彼女たちはお礼に体を提供します。これは、彼女たちにとっては売春ではありません。食べ物をもらった以上、返礼はしなければならない。もしもらって終わりなら乞食と同じです。ボロは着てても心の錦ということです。だから、お礼をしなければならないが、貧しくて何も持っていないから、彼女たちは「自分自身」を与えることによってお礼とするのです。つまり、ギブアンドテイクです。

ギブアンドテイクというのは、お互いが平等な関係です。主従ではない。お互いに権利を得ている対等な関係です。欧米人は神とさえ契約します。旧約聖書、新約聖書の約とは契約の約です。神様とさえある種の対等関係なのです。契約なのですから。

また、何かを得るために何かを失わなければならないのか、というのはそのとおりだと思います。これは個人的価値観でもあるのですが、何かを得るなら、それに見合うだけのものを手放さなければなりません。
例えば、何かを買おう(手に入れたい)と思ったら、それに見合うだけの金額のお金を払い(失い)ます。これは当然のことで、ランボルギーニをタダで欲しいといってもミニカーさえ手に入りません。また家族を得ればそれによる幸せを得ますが、自分の自由で気ままな時間は失います。時々、家族を持ちながら自由で気ままな人がいますが、しかしそういう人は家族から愛されることはありません。俳優の山城新吾さんは、数多くの女性と浮名を流しモテモテで楽しい人生を送ってきました。しかし、晩年その老人ホームで「誰も訪ねてきてくれる人はいない」と雑誌の取材に孤独を嘆き(奥さんには愛想をつかされた)、最後は「娘に会いたい」と熱望したそうですが、その呼びかけに娘さんは決して応じず、骨を引き取ることすら拒否したそうです。
風船おじさんは、あの突拍子もない行動のおかげで命さえ失いました。娘さんはその後プロの音楽家になりましたがあんな(家族からすれば全国に恥をさらしたような)父親について、「今でもこの空のどこかにいる父のために演奏しています」といっています。家族にとっては愛すべきパパだったのでしょうね。
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この回答へのお礼

他人のためが自分の喜びの回答者様は素晴らしいと思います。

ご友人の方の売春女性の話、もし自分がその女性たちと同じ立場だったら
どうだろうかとも考えますが、やはり何らかの形で返したいと思うと思います。

やっぱり自分は与えられる一方という関係は嫌だと思います。
他人同士が互いを尊重するならやっぱりギブ&テイクはいけないことだとは
私はやっぱり思えないんだと思います、礼には礼で返すべき。
両親はギブ&テイクを求める人でしたが、他人からのギブには
誠意を持ってテイクしていたのは子供ながらに覚えています。
そこに関しては不思議と不満はなかったような気がします。

与えずに欲しがるのも何かを得るには失うことの覚悟を要することなのでしょうね。
他人に与えることを自然に出来るようになれたらと感じます。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/06/22 01:02

時間の観念ですね。



見返りを期待するというのは、
短期的な時間での話でしょう?

○○をしてあげたから、○○してもらえる

というのはある一定の区切られた短い時間での話です。


もっと長い時間で考えてみませんか?
いい事を周囲に沢山してあげると、
1年、5年、10年、30年
そういった長いスパンで考えると
トータルで返ってきます

返ってこない事もありますし、そんすることもありますけど。
そういった短期的な損得をセコセコ考えないで行動する人は
周囲に居て安心出来ます

下手したら便利屋にされてしまいますが、
長い目でみれば、自分の能力がどんどん向上して行って後々生きるのが楽になります。

短い時間的な損得よりも、
長いスパンで考えませんか。


人に期待せずに優しく出来るひとっていうのは、実は長いスパンでの利害にはすごく敏感だったりするんですよ。
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この回答へのお礼

便利屋扱いされるの凄く抵抗ありますね、実際一時期なってしまいました。
確かに自分のスキル(出来ること)や知識が増えるという考え方は合理的です。

私も他人が他人の好意をどう捉えようが他人の勝手という理屈は分かります。
当人が一生懸命やってあげたことも、相手にしてみればそうでもないこと。
これは誰もが自由に持っている権利なのかもしれませんが、
そうすると「幸福になりたい、嬉しいと思う自分」は何処に居ればよいのか?
自分が幸せになりたいという気持ち(一般的にはエゴと呼ばれる)は
一体心の何処に置いて他人に優しくすれば良いのかと思います。

しかし、長期スパンで見返りがないとショックは倍増しそうな気がします。
やはり何かを得るためには何かを失わなければならないのでしょうか。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/06/21 01:30

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