dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

樋口一葉の「たけくらべ」の冒頭部分

 日本語を勉強中の中国人です。仕事で樋口一葉の「たけくらべ」の冒頭部分を中国語に訳さなければならないことになります。その文章の日本語は難しくて、全然読めません。どなたか現代日本語に書き換えていただけないでしょうか。下記の部分です。よろしくお願いします。

 「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前(だいおんじまへ)と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いへ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂(でんがく)みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當こと/″\しく、一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉(とり)の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、……」

 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (8件)

すでに#1さんが適確なご回答をされているので、そのご回答を参考にさせていただきながら、ネックとなりそうな語彙について少々、あくまで補足として投稿いたします。



1.吉原遊郭や遊女の意味についてはウィキに詳しく載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F% …

2.【吉原】の見取り図については下記サイトがわかりやすいでしょう。
http://www.viva-edo.com/yosiwara.html
中に詳しい解説がありますが、
【大門】
吉原という区画の出入り口にある大きな門。
【見返り柳】
吉原から帰る客が名残惜しさにここまで来て見返るところだと言われる。
【お歯黒どぶ】
遊女の逃亡を防ぐための五間(9m)幅の堀。
です。

3.簡単なあらすじとしては
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAI99406/から。
「吉原のとなり町【大音寺前】、子どもたちは二つのグループにわかれて対立していた。やがて遊女になるさだめにある少女・美登利と、美登利がほのかに思いをよせる寺の息子・信如。そのふたりもこの対立にまきこまれていく。-あわい恋のめざめ、少女が女になる哀しみ…少年少女たちが信じられないほどピュアだった時代の信じられないほどせつない物語」

一葉は新吉原にも近い下谷龍泉寺町というところに住んでいたらしいので、作品中の大音寺前というのは龍泉寺町が、たぶんモデルなのでしょう。
いずれにせよ、「吉原のすぐ隣の町」ということです。
ここに住んでいる勝気な少女「美登利」が主人公。

4.【胡粉】は「ごふん」で、goo辞書によると「白色の顔料。貝殻を焼き、砕いて粉末にしたもの。成分は炭酸カルシウム。」

5.【酉の日】は、毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、「酉」に当たる日のこと。これは、12日おきに巡ってくる。
とウィキにあります。
この日に立つ市が「酉の市」。
「酉の市」の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。
ようです。
詳しくお知りになりたいときはウィキでご確認ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%89%E3%81%AE% …

表現上の不明点がございましたら補足なさってみてください。
読んだことは無いのですが、できる範囲でお答えします。
    

この回答への補足

原文がぜんぜん読めないので、現代語訳を拝見して疑問に感じた箇所についてお尋ねいたします。
________________________________________________
 吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。明け暮れなどお構いなしの車の行き来はこの町の果てしない全盛を表しており、大音寺前という仏くさい名前とは裏腹に陽気な町だよ、とは住む人の言である。

 三島神社(さま)の角を曲がればもう目立つ豪邸はない。かたむいた軒端の十軒長屋や二十軒長屋ばかりで、とてもまともな商売などはできそうにない場所なのだが、そこでも半開きの雨戸の外で、紙を妙な形に切って胡粉をぬりたくり、それに串を貼り付けて色つきの田楽みたいな物を作っている。それも一軒や二軒ではなく、どの家でも毎日欠かさず色つき田楽のような物を朝に干して夕方にしまっている。

 一体それは何を作っているのかと聞けば、「あんた知らないのかい、霜月酉の日に、例の神社で欲深いお方がかつぎなさるやつだよ。つまりこれが熊手の下ごしらえさね」と言われることだろう。
_________________________________________________
1.
>吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。

「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」は日本の同僚に聞いてもよくわからないと言っていました。私は、「吉原というところで廻れば」と「大門の見返り柳から廻れば」とこの二つの表現でいったいどこを廻るのかよくわかりません。「とても長い」は何を指すのかも理解できません。日本の同僚の意見では、「吉原へ行くために大門の見返り柳から廻ればその道(見返り柳から吉原までの道)がとても長い」となっています。

また、「お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎ」もよくわかりません。騒ぎは水に映せるものなのでしょうか。

2.
>かたむいた軒端の十軒長屋や二十軒長屋ばかりで、とてもまともな商売などはできそうにない場所なのだが、そこでも半開きの雨戸の外で、紙を妙な形に切って胡粉をぬりたくり、それに串を貼り付けて色つきの田楽みたいな物を作っている。

「十軒長屋や二十軒長屋」は「十個の狭い部屋や二十個の狭い部屋」という意味でしょうか。

補足日時:2010/06/30 17:01
    • good
    • 1
この回答へのお礼

 いつもご親切に教えていただきありがとうございます。補足内容はとても参考になりました。疑問に感じたところがありますが、もう一度教えていただけないでしょうか。

お礼日時:2010/06/30 17:09

#7です。



ご質問の真意を捉え違えたかもしれませんね。

淡雪さんは、
『「長い」のはもしかして「柳の糸」でしょうか。』とおっしゃっていましたから、柳の枝が糸にたとえられることはご存知だったのでしょう。
だとすれば、#7では、言わずもがなのことを長々と述べてしまい、失礼しました。^^;
改めて回答し直します。
-----------------------------------------------

>「そう言えば、正規ルートを廻るには見返り柳の前を必ず通るわけだから、遊び心として、[いと=糸]の掛詞【大門の見返り柳】を挿入してみようか・・・」
と一葉は考えたのかもしれません。(全くの素人見解ですが)

「いと」の掛詞は「糸」ではないでしょうか。なぜ「大門の見返り柳」になるのでしょうか。

私の表現が不完全でしたね。
「そう言えば、正規ルートを廻るには見返り柳の前を必ず通るわけだから、遊び心として、[いと=とても]の掛詞として【(大門の見返り柳の)糸】を使ってみようか。どちらも長いのだから面白いかもしれない・・・。」
と一葉は考えたのかもしれません。
とすべきでした。
  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。これで解決いたしました。何度もご親切に回答していただき誠にありがとうございました。

お礼日時:2010/07/09 13:47

#6です。



>「そう言えば、正規ルートを廻るには見返り柳の前を必ず通るわけだから、遊び心として、[いと=糸]の掛詞【大門の見返り柳】を挿入してみようか・・・」
と一葉は考えたのかもしれません。(全くの素人見解ですが)

「いと」の掛詞は「糸」ではないでしょうか。なぜ「大門の見返り柳」になるのでしょうか。

ごもっともな疑問だと思います。^^

細くてしなやかな柳の枝は、よく糸にたとえられます。
「柳の糸」という春の季語もあります。
「阿部ひろし」に、

・寒すでに柳の糸の青みたり

という句があります。

新古今和歌集には、
凡河内躬恒(おおしこうし の みつね)という人の、

・春雨のふりそめしより青柳の糸のみどりぞ色まさりける

という歌もあるようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます^^。

お礼日時:2010/07/09 13:39

#5です。



>>基本的には、
「吉原を(直接行くことによって知るために)、大門の見返り柳から廻ればとても長いが、」
という意味になると思います。

しかし、「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」の中の「吉原を」の後ろに「知る」という動詞は省略できるのでしょうか。それは日本語として成立するのでしょうか。なぜその現代語訳に「吉原を」にかかる動詞がないのでしょうか。

端的に言うと、
「このような名作として認知された段階では、許容範囲の(特に問題とはならない)日本語表現である」
という印象を受けます。
しかも、こういった「超省略表現」が文学作品としての味を(たぶん)深めていることも否めないようで、そこが難しいところかもしれません。
専門家ではないので断定的なことは言えませんが、
漱石などもそうですが、必ずしも「文学的表現ー文法的表現」にはならない場合が往々にしてある、ということなのかもしれませんね。

前回も述べましたが、ここは、淡雪さんが奇しくもご指摘された内容により私的に解釈したところの、一葉の遊び心としての「掛詞」の表現ではないか、と思います。
「 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、」
は、本来、
「 (正規のルートを)廻ればいと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く(吉原の様子は窺い知ることができ)、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、」
という文であったかもしれません。

「そう言えば、正規ルートを廻るには見返り柳の前を必ず通るわけだから、遊び心として、[いと=糸]の掛詞【大門の見返り柳】を挿入してみようか・・・」
と一葉は考えたのかもしれません。(全くの素人見解ですが)

>しつこくて本当に申し訳ありません

とんでもありません。
ネイティブの回答者としてお答えしていますが、日本語表現の本質は、むしろ質問者である淡雪さんに教えられることのほうがずっと多いのです。
それが回答する楽しみでもあるわけなので、どんどん、納得のいくまで補足なさってください。
ネイティブというのは、何気なしに日本語を使っている、という人種にすぎず、なぜこのような表現を自身がしているのだろうか、ということを論理的に全て説明できるとは限りません。
淡雪さんは、その可能性を広げてくださる貴重な質問者です。
日本語に対する真摯な姿勢は淡雪さんのほうがずっと上です。
必ずしも納得できる回答に至らない場合も多々あるかと存じますが、懲りずに、しつこく、今後ともよろしくお願いいたします。
  

この回答への補足

>「そう言えば、正規ルートを廻るには見返り柳の前を必ず通るわけだから、遊び心として、[いと=糸]の掛詞【大門の見返り柳】を挿入してみようか・・・」
と一葉は考えたのかもしれません。(全くの素人見解ですが)

「いと」の掛詞は「糸」ではないでしょうか。なぜ「大門の見返り柳」になるのでしょうか。

補足日時:2010/07/07 14:46
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。掛詞自身はまだよくわかっていないのかもしれません。発音がまったく同じで、漢字が違うものだと考えています。私の心配を払っていただき本当にありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて、今回もしつこく質問させていただきます。よろしくお願いいたします。

お礼日時:2010/07/07 14:59

#4です。



1.
>基本的には、
「吉原を(直接行くことによって知るために)、大門の見返り柳から廻ればとても長いが、」
という意味になると思います。

すみません、「吉原を(直接行くことによって知るために)」の意味はよくわかりません。ほかの言い方に書き換えていただけないでしょうか。

わかりました。
「 吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。」という記述を、「なぜ一葉はしたのだろうか」ということを想像してみると良いでしょう。

この箇所の意図は、実は隠されていて、
「 吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、【そのようにして、長い道程を経て、直接わざわざ行かなくても、吉原の賑わいを知ることはできるわけで、たとえば、】お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。【だから、吉原に隣接している大音寺町に住んでいるものであれば、大人だろうが、子供だろうか、吉原の賑わいというものを実感することは難しくない。】」
というものです。

「吉原は賑やかな遊郭であった」と表現すれば済むことなのですが、わざわざこのような遠回りな表現にしたのは、「少女美登利の目線に立った表現」を一葉がしたかったからではないか、と思います。
美登利はおそらく一葉の分身(一葉がモデル)なのでしょう。

2.
古文はわかりませんが、いまもう一度原文に目を通しました。「いと」という表現が目に入りました。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」に言う「長い」のはもしかして「柳の糸」でしょうか。

大変、鋭いご質問と思います。
原文の解釈は私も自信が無いのですが、この「いと」は【実質的には】「とても」という意味でしょう。
ただ、私も言われてみて初めて気づいたのですが、これは、いわゆる「柳の糸が長い」との「掛詞」である可能性も大いにあるように思われます。
一葉は稀代の天才女流作家と言っていいでしょうから、このぐらいは遊び心として、さりげなく発揮したとしてもおかしくはありません。
文学カテなどでご質問なさってみるのも面白いかもしれませんね。
  

この回答への補足

>この箇所の意図は、実は隠されていて、
「 吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、【そのようにして、長い道程を経て、直接わざわざ行かなくても、吉原の賑わいを知ることはできるわけで、たとえば、】お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。【だから、吉原に隣接している大音寺町に住んでいるものであれば、大人だろうが、子供だろうか、吉原の賑わいというものを実感することは難しくない。】」
というものです。

意味は理解できました。

>基本的には、
「吉原を(直接行くことによって知るために)、大門の見返り柳から廻ればとても長いが、」
という意味になると思います。

しかし、「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」の中の「吉原を」の後ろに「知る」という動詞は省略できるのでしょうか。それは日本語として成立するのでしょうか。なぜその現代語訳に「吉原を」にかかる動詞がないのでしょうか。

補足日時:2010/07/04 19:20
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。分かるようになりました。しつこくて本当に申し訳ありません。「吉原を」という箇所がどうしても気になります。

お礼日時:2010/07/04 19:22

#3です。



「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、(わざわざその長い道のりを辿って中まで入らなくても、すぐ目の前にある)お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。」
といったニュアンスなのでしょう。

「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」という文はやはり理解できませんでした。「吉原を」はどういう意味でしょうか。
見取り図によると、「大門」と「見返り柳」の間に結構距離があるようです。なら、なぜ「大門の見返り柳」と言うのでしょうか。とても長いのは「大門」から「見返り柳」までの道のりでしょうか。

a.
基本的には、
「吉原を(直接行くことによって知るために)、大門の見返り柳から廻ればとても長いが、」
という意味になると思います。
たぶん、ですが。

b.
「(吉原の入り口としての)大門に必ず至ることになる見返り柳から廻れば」といったニュアンスでしょうか。
吉原に行こうとして正規のルートを辿ると、「通常の道路を外れて最初に曲がる角」に見返り柳があります。
この見返り柳は「吉原の入り口としての大門」に(距離はありますが)直結しています。
そのため、この二つは殆んどセットとして認識されていたのでしょう。

「吉原を見返り柳から廻ればとても長い」
と言っても良かったのでしょうが、
「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」
と言うことで、「見返り柳を廻る」ということは「吉原の大門を潜る」と同義なのだ、というニュアンスを出したかったのではないか、と思います。

c.
>とても長いのは「大門」から「見返り柳」までの道のりでしょうか。
:その道程も含んでいますが、それだけではありません。
吉原の隣町である「大音寺前町」からの距離を言っていると思います。
「お歯黒どぶ」は大音寺前町に接触しているので、「近くで(吉原の一端を)知ることができる」ということになります。
    
a と b に関しては、あまり自信がありません。
新しく質問を立てられても面白いかもしれませんね。

>ちなみに、「見返り松」ではなく、「見返り柳」です^^;。
:柳より松が好きなので(無意識に)勝手に変えてしまいました。
一葉さんに叱られますね。^^;
教えていただきありがとうございます。
  

この回答への補足

1.
>基本的には、
「吉原を(直接行くことによって知るために)、大門の見返り柳から廻ればとても長いが、」
という意味になると思います。

すみません、「吉原を(直接行くことによって知るために)」の意味はよくわかりません。ほかの言い方に書き換えていただけないでしょうか。

2.
古文はわかりませんが、いまもう一度原文に目を通しました。「いと」という表現が目に入りました。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」に言う「長い」のはもしかして「柳の糸」でしょうか。

補足日時:2010/07/03 19:42
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。すみません、今回は五里霧中の状態です(><)。

お礼日時:2010/07/03 19:52

#2です。



1.
>吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。

「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」は日本の同僚に聞いてもよくわからないと言っていました。私は、「吉原というところで廻れば」と「大門の見返り柳から廻れば」とこの二つの表現でいったいどこを廻るのかよくわかりません。「とても長い」は何を指すのかも理解できません。日本の同僚の意見では、「吉原へ行くために大門の見返り柳から廻ればその道(見返り柳から吉原までの道)がとても長い」となっています。

また、「お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎ」もよくわかりません。騒ぎは水に映せるものなのでしょうか。

a.
見取り図をご覧になるとわかりやすいと思いますが、吉原の様子を知ろうと思えば、【正規ルートとしては】、見返り松の前を通って大門をくぐり、その区画の中に入る必要があります。
しかし、このように、【わざわざ(正規の)長いルートを辿って中まで入らなくても、】お歯黒どぶに灯火を映している三階の騒ぎなどを見れば、吉原の賑わいを手に取るように近く感じることができる、
ということでしょう。
これは子供である少女が主人公(おそらく作者の分身)なので、子供は吉原の中には簡単に(たぶん)入れなかったという事情を背景にした表現ではないか、と思います。

「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、(わざわざその長い道のりを辿って中まで入らなくても、すぐ目の前にある)お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。」
といったニュアンスなのでしょう。

b.
「お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階」「の」「騒ぎ」と区切るとわかりやすいかもしれません。
吉原の3階の部屋の灯火が水に映っていた、ということです。
煌々とした明かりの下で、お客さんが遊女と戯れているわけですが、その明かりが水に映っているわけです。
客の大きな声や遊女の嬌声なども同時に「騒ぎ」として聞こえてきます。

「湖面に影を映している鳥の羽ばたきが微かに聞こえてくるようだった」
などといった表現などと同様ですね。

2.
>かたむいた軒端の十軒長屋や二十軒長屋ばかりで、とてもまともな商売などはできそうにない場所なのだが、そこでも半開きの雨戸の外で、紙を妙な形に切って胡粉をぬりたくり、それに串を貼り付けて色つきの田楽みたいな物を作っている。

「十軒長屋や二十軒長屋」は「十個の狭い部屋や二十個の狭い部屋」という意味でしょうか。

「長屋」の定義は、「複数の住戸が水平方向に連なり、壁を共有する物」とウィキではなっています。
現在のマンションなどとは違って、この頃の長屋は、とても壁が薄くて作りも貧弱なため、隣の人の声や音が手に取るように伝わってきたはずです。
そういった家が十軒つらなっていれば十軒長屋と言います。
二十軒長屋、三軒長屋など色々あります。
狭い部屋ではなく狭い家ですね。
私も現在は独立した一戸建てですが、子供の頃から長い間、二軒長屋に住んでいました。
一応住宅ですが、一軒の中に通常は、一部屋か二部屋ぐらいしか無かった(無い)と思います。
  

この回答への補足

>「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長いが、(わざわざその長い道のりを辿って中まで入らなくても、すぐ目の前にある)お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火を映している三階の騒ぎなどは手に取るように近く感じられる。」
といったニュアンスなのでしょう。

「吉原を大門の見返り柳から廻ればとても長い」という文はやはり理解できませんでした。「吉原を」はどういう意味でしょうか。見取り図によると、「大門」と「見返り柳」の間に結構距離があるようです。なら、なぜ「大門の見返り柳」と言うのでしょうか。とても長いのは「大門」から「見返り柳」までの道のりでしょうか。

補足日時:2010/07/01 14:47
    • good
    • 1
この回答へのお礼

 再びありがとうございます。だいぶわかるようになりました。まだよくわからないところがありますが、もう一度教えていただけないでしょうか。ちなみに、「見返り松」ではなく、「見返り柳」です^^;。

お礼日時:2010/07/01 15:01
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。こんな便利なサイトがあるんですね。大変助かりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/06/26 18:09

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!