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死ぬこと 生きること 死 命 について意見を聞かせてください

A 回答 (9件)

『生きる』を問いた私に、『生きるって死ぬ為じゃない?』って昔に友人に言われた。


その時は、『あー産まれてから刻一刻と人は死に向かってるんだもんね』と思った。

2ヶ月前に、兄が死んだ。34歳だった。落ち込む私に、身内は『人は遅かれ早かれ死ぬんだよ』と優しく励ましたつもりだったのだろう。長く生きればいいって物じゃない事くらい分かってるけど、そんな割り切りの言葉は私に、より兄がいなくなったんだと突き飛ばされた気分だった。


『どうしてお兄ちゃんは死んじゃったの?』『もっと死ななきゃいけないヤツなんていくらでもいるでしょ?』、毎日辛いんだけど。


私も考えたら、なんとなく生きて来た事を、兄の死を持って実感した。『兄にはない明日が私にはある』。そう思うと、なんでもない日が、キラキラする出来事が増えた。

『死』を考えるのは、答えのない疑問で。それを考えるのなら、『明日は何をして楽しもうか』と考えた方が、数倍人生は楽しいと思う。

天国なんてない。神も仏も幽霊もないと思っていた私だけど、幽霊がいるならいてくれと。例えたたりでも、もう一度兄に会いたいと。


今は、天国があって欲しいと思う。兄には下界で笑えなかった分、せめて天国で笑っていて欲しいと思う。


反省はしても後悔のない毎日を送る事が、もっと生きたかった誰かの為になるかもしれない。


今の私には、『死んだら無になる』なんて、到底思えない。
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深く考えないほうがいいですよ


命があるから生きることになり
命がなくなれば死、死ぬことになる
要は命、生命力、寿命がある限り生きていく、生きられるってこと

それは自分では決められないものだと思います
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「『生命とは何か』『この世だけの存在であるのか』『それとも永久につづくのか』これこそ、永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この間題の解決を説いてきた。



私に会通を加えて本文をけがすことを恐るといえども、久遠の生命に関して、その一端を左に述べていく。生命とは、宇宙と共に存在し、宇宙より先でもなければ、後から偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。

あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、灼熱の地球が冷えた時に、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件が備われば、アミーバが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気侯の時には、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件が備われば、生命の原体が発生するのである。ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、栄えているとするも、なんの不思議はないのである。……あるいは蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙と共に本有常住の存在であるからである。

(法華経)寿量品の自我偈(じがげ)には『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、単なる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない。

(人は)喜んだとしても、その喜びは時間が経つと消えてなくなる。どこかへいってしまったわけではないが、心のどこかへ溶けこんで、どこをさがしてもないのである。しかるに、何時間か何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、後の悲しみと、立派な連続があって、その中間はどこにもないのである。同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。有るのが本当か、無いのが本当か、有るといえば無いし、無いとすれば、あらわれてくる。

前にも述べたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、喜びと喜びの間に喜びがどこにもなかったように、眠っている問、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶けこんで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然の中に溶けこんだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であると言いきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあると同じである。

この死後の大生命に溶けこんだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生活活動となって現われてくる。ちょうど、目をさました時に、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」

(以上、創価学会・池田名誉会長著、「小説・人間革命」第4巻、生命の庭の章より、戸田二代会長による「生命論」の抜粋)
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ヘミングウェイは言った。





魂の脂を燃やせ、と。



意味わかるか?

この回答への補足

ちょっと分からないですね

補足日時:2010/10/26 12:31
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 魂が肉体という入れ物に入ってるものを人間と言います。



ですから 死ぬ、、、ということは、元の世界に帰る、、ということ。

怖いことも、悲しいことでも有りません。

ただ、神(仏)から与えられた 寿命は 生ききらなければなりません。
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死、命ねえ・・・お若いのかな?


宗教的なことでも、詩的なことでもピンとこないでしょう。

世界のどこかの紛争地域で、まわりで人間がばたばた死んで、自分を殺そうとする銃弾が、頭上1cmを通過するときに、すべて、わかります!

ここでは、死にたくないと! 祖国に帰って、人のために一生懸命働こうと!!

安全な国内では、通り魔にでも襲われないとわからないかもしれません。
自分の胸に、ナイフか弾が突き刺さり、どくどく血が流れて、痛く、あと30分で命がなくなるときを想像してみてください。
そのときに、何を思うかですね。
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http://www.kiroku.org/kan_gyo/kris_09.html

↑すべてかいてます^^
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あなたの未来で確実なのは死があること。

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命あるもの何時かは死を迎える、遅かれ早かれ。

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