丸谷才一氏が作品で旧仮名遣いを使用し始めたのはいつからでしょうか?
確か、記憶違いでなければ、文壇に登場した当初は現代仮名遣いだったと思うのですが。
また、旧仮名遣いに拘る理由は?

ご存知の方、コメントください。

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A 回答 (1件)

『桜もさよならも日本語』所収の


「言葉と文字と精神と」の中(新潮文庫版138ページ)にあります。

・最初の小説は歴史的仮名遣いを使っていた。
・しかし、翻訳もやっていたので、翻訳は新仮名遣いを用いた。
・そのうち翻訳以外の時にも新仮名遣いを使うようになった。
・だが、『後鳥羽院』を書いたとき、
「引用文は歴史的仮名づかひ、地の文は新仮名づかひでゆくというふわづらわしい二本建ては、
必然的に両者の比較をわたしに課すことになつたのである。
優劣は明かだつた。わたしはその評論を書き上げたのち、
ごく自然に新仮名づかひと別れ、国語改革を再検討する意向を固めたのである」(前掲書)

理由は、簡単にいえば歴史的仮名遣いの方が論理的であり、
新仮名遣いは例外が多く、論理的にすっきりしていないから…とのことです。
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この回答へのお礼

> 『桜もさよならも日本語』所収の
> 「言葉と文字と精神と」の中(新潮文庫版138ページ)にあります。

これは知りませんでした。

> 簡単にいえば歴史的仮名遣いの方が論理的であり、新仮名遣いは例外が多く、論理的にすっきりしていない

文法的なことは私にはわかりませんが、字面に関しては、読み慣れると、旧仮名遣いの方が美しい?・・・ような気もします。

ありがとうございました。

お礼日時:2003/09/08 18:03

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  内田百閒について、あまり詳しくないので自信なしとしますが、文学者は一般に、「言語」つまり、日本人の作家なら日本語を大事にします。その場合、日本語の何を大事にするか、重視するかは、作家の作風や、文学についての考え方で違って来るのが当然だと思います。
 
  内田百閒は、特異な文体を持った文学者でしたし、その主題も非常に韜晦したというか、錯綜した内容を持っていました。彼にとって、自分の文学空間を十分に表現するためには、日本語の歴史的典拠全体が必要で、その上に更に彼独自の言語空間・物語の空間を築くという操作が必要であり、また、そのようなことを意図したのだと思われます。
 
  日本語の伝統との連関で言うなら、「旧仮名遣い」の方が合理的で、伝統文学や伝統の重みの意味と整合性や調和性があります。「新仮名遣い」はいわば、日本語の歴史を無視して、或る時点での日本語のありようを切ってみせて、「標準」を決めたとも言えます。これでは、日本語の歴史に立脚して文学空間を構築しようという文体や意匠に拘泥する作家には、納得の行かないものでしょう。
 
  現代の新仮名遣いの文学は、それはそれとして、時代を開いているのですが、日本語の文学伝統や、言語の歴史との連続性から言えば、色々なものを失っているとも言えます。失う代わりに得たものがあるのですが、どうしても、失いたくない場合は、旧仮名遣いに拘泥するのは少しも不思議なことではないと思います。
 
  また、旧仮名遣いで育った世代にとっては、旧仮名遣いがいわば「マザータング」であり、新仮名遣いが不自然なのだということも言えるでしょう。
 
  逆に、たかが内閣訓令ぐらいで、何故、自己の言語表現を変えねばならないのか、という疑問が出てきます。新仮名遣いを採用した結果出てきた不都合なことや、色々な矛盾は、古典を読むと、かなり分かるのですが、しかし、新仮名遣いで育った人には、古典の記述がむしろ、奇妙に見えているのだとも思えます。
 
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  ベストセラー作家や、誰でも読めるエンターテインメントを目指す人は、読みづらい旧仮名遣い表現は、それだけで読者に背を向けているということになるのかも知れませんが、或る時代の読者受けすることを狙うのが作家・文学者ではないでしょう。やはり、文学者も、芸術家である以上、時と空間を越えた、「普遍」を目指すものでしょう。
 

 
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新仮名遣いが採用されたのは太平洋戦争後です。
それ以前は、文語詩も口語詩も『歴史的仮名遣い』で書かれていました。


>文語詩と口語詩の立てわけとは何なのでしょうか?

"文法の上で"文語の文法で書かれたのが文語詩、
口語の文法で書かれたのが口語詩です。

仮名遣いとは直接関係の無いお話です。
口語の文法については、今我々が日常で使っているような文法です。
文語の文法についてはご自身でお調べください。

ちなみに文語詩の代表格が『若菜集』です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1508_18509.html

口語詩の代表格は……サッと出てきませんが、取り敢えずこれでもどうぞ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000011/files/9_20331.html


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