初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

フェラーリの工場を取材した番組を見たのですが、いやはや、技術と言うのはすごいなと思いました。
それに、夜に私たちの街全体を眺めてみれば、まるで星空のようです。
そして、まだまだ知らない文明の粋が、この世の中にはあるのだろうと感慨に耽ります。
 
質問です。
現代、かつて無い規模と高度さで繁栄している(偉大なといってもいい)われわれの文明ですが、一体この文明はどうしてこのような姿になったのでしょうか?

皆さんの文明観をお尋ねいたします。
ご自由にご回答ください。

「文明とは何か」の質問画像

A 回答 (20件中11~20件)

No.2.9,10です。



や、失礼。口、いや筆が滑りました。
>>>
切り口に対して直交する「流れ」(方向性)のみが本質的なものだろうと思っています。
<<<
ではなく
>>>
切り口に対して直交する「流れ」(方向性)もまた本質的なものだろうと思っています。
<<<
でした。

No.3のJidousyaGaisya氏の「視聴覚有意」もまた本質的だろうと思います。養老氏の唯脳論では、さらに「視覚の聴覚に対する優位性」から「脳化社会」を引き出していますが、
http://ynomura.dip.jp/archives/2006/01/post_16.h …
それはまさに、「この文明はどうしてこのような姿になったのでしょうか」に対する一つの回答になっていると思います。

すなわち、切り口(切断面)が「人間の脳」という共通の形状・機能を有する器官(特に知および視覚)によって捉えられるからこそ、「明るさ」という概念が「文明」として共有化されやすく、仮想的・幻想的であるはずの脳内感覚が、共有の場である「都市(ないしネットワークの)仮想空間)」へと投影され続けるのだと思います。
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この回答へのお礼

明かりと目と、脳の話ですね。それが現代の都市像に投影されているものであると。
なるほどわかりやすい話だと思います。現代のように沢山の電飾に彩られた都市ができたのも、人間の視覚に頼る傾向の表れだと言うこともできるのですね。視覚優位のことなど、勉強になります。
ありがとうございます。

脳化社会というモデルも、なるほどと思わせるところがあります。脳を設計図として、人類共通の認識だけがより色濃く反映されている社会、都市文明であると読み取りました。

お礼日時:2011/06/12 14:10

No.2です。



イデア・理想という語が飛び交っているようですので、知・文明との関連を踏まえ、野暮ったくなりますが、少し解説・追加をしておきます。

>>> No.2
しかし、人々が集うとき、集う場所では、一人ひとりが必要とする「明かり」よりも、多くの「明かり」が求められてしまう。。。

都市が形成され、都市を維持し、都市の利便性を追い求めようとするために必要になる、さらなる「明かり」。。。civilization...

人智によって変容し、人智によって拡大していく都市文明。。。

脳機能の一部としての知は、「文明」を(知以外の情・意を含む)「心」から切り離し、無機的に制御することで、巨大なシステムを作り上げた。。。高度な技術はロボットの反応を「心」に沿うように制御できるが、知的制御から逸脱する場合には、「壊れた」ことを意味し、破棄の対象となる。。。

そうやって心から切り離された「明かり」。。。生きていくために利用せざるを得ず、生きていくためには飲み込まれることを避けなければならない「明かり」。。。「文明」とは、そのようなものなのだろう。。。
<<<

車に限らず、高速で移動させようとする乗り物は、空気抵抗や流体力学、物性などの制約を受けて、ある一定の形へと収束していくようです。(無論、顧客の好みなども制約に入るでしょう)

その制約を理解し、手製の器具を制御し、デザインしてクレアモデルを作り上げる過程では、曲線美の組み合わせと統制において、無論「知」が基本になるのですが、高度な職人の技と、研ぎ澄まされた感覚が必要なようです。(数ヶ月前に、クレアモデルを作る女性新人社員を取り上げた番組を見ました)

対象物と、求めようとする姿。同じ「車」や「飛行機」であっても、また、「制約」があっても、直線・曲線の無限の組み合わせの向こう側に、「研ぎ澄まされた美的感覚」を外延することで、「何か」を感じ取ることで、一心不乱に「ある形態・形状」へと集約させていく新人社員。。。幾度もの実車走行で、乱流が生じるかどうかを確認しつつ、「何か」へと集約しようとする姿には、仏像を彫り続ける仏師にも重なる気がしました。

その「何か」が、「イデア」であるかどうか、存在するかどうかは別として、一定の方向へ形状を引っ張っていく「方向性」として認識されうるものであることには、間違いがないと思います。

逆説的に言えば、その「何か」を、「方向性」としてではなく、あたかも対象物として存在するかのごとく扱ってしまうと、すなわち、人智の内部でも「何か」として掌握しうる(あるいは、「掌握してしまっている」)と勘違いするとき、あるいは「ある特定のものであって、それ以外のものはない」と知的に縛りを加えてしまうとき、そこから逸脱したものは「規格外」として排除される方向に向かうでしょう。すなわち思考が「文明」に飲み込まれてしまっている状況です。

「文明とそれ以外」という定義の歴史の中に、そういった問題が散見されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E

>>> No.2
「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)。。。
<<<

南北朝時代の幕開けに生きた光厳天皇。。。「ともしび」には様々な含意が重なります。

国家としての都市機能の中枢にいた光厳天皇は、まさに文明という怪物に飲み込まれ、地獄絵図の中で翻弄されたとも捉えることができます。

その光厳天皇の晩年の境地は、ともしびに「何か」を固定して扱うのではなく、「何か」をともしびの向こう側に感じつつ、ともしびによって揺らぐ自身の影をも見据えながら、向かうことを欲せず、向こうから来ることもないようなところへと落ち着いたようです。。。
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この回答へのお礼

再度ご回答、解説をありがとうございます。

>その「何か」が、「イデア」であるかどうか、存在するかどうかは別として、一定の方向へ形状を引っ張っていく「方向性」として認識されうるものであることには、間違いがないと思います。

>逆説的に言えば、その「何か」を、「方向性」としてではなく、あたかも対象物として存在するかのごとく扱ってしまうと、すなわち、人智の内部でも「何か」として掌握しうる(あるいは、「掌握してしまっている」)と勘違いするとき、あるいは「ある特定のものであって、それ以外のものはない」と知的に縛りを加えてしまうとき、そこから逸脱したものは「規格外」として排除される方向に向かうでしょう。すなわち思考が「文明」に飲み込まれてしまっている状況です。

なるほど、文明に飲み込まれる状態になってしまえば、発展もなくなってしまうということですね。何かへと収束していく、その方向性、追求するということ自体が、その先をも無形のものとして存在させているのかもしれないと思いました。

光厳天皇の至った心境、文明の流れとは距離を置きつつ、しかし完全に離れるでもなくそれを眺めている、そのような距離感が、彼の『居場所』になったのかもしれないですね。

大きな流れの中では、自己の落ち着く場所を見出すのもなかなかです。それを見出さんとすること自体が、それを形成してゆくもとのものになるのかもしれないですね。水の低きに流れるという性質が、川を形成するように、人の何がしへ向かう性質が、何がしを形成するのであるのかもしれません。
明かりを求める性質が、都市をこのような形へと収束させたのかも・・・

お礼日時:2011/06/11 13:51

補足、ありがとうございます。

厳密な思考をお望みでしょうから、敢えて言えば、理想とイデアは同じではありませんよ。イデアとは、より真なものです。

ギリシア彫刻を例にとってみましょう。たとえば女のイデアを彫刻家が表現しようと望んだとする。この時、彫刻家がモデルにする目の前の女は美しいところもあるが、どうも鼻の形が曲がっていたりする。すると彼は「この曲がってしまった鼻は、まっすぐであるべきだ」と考え、修正して表現します。彼が現実を修正しようという考える理由は、彼がモデルの真の姿であるイデアを着想するからなのです。
イデアを着想するのは、それは大変なことで、宗教的な悟りが必要だとか、霊感だとか、様々な議論があるのです。霊感というのは、イデアがあるのは、神の国だからです。所詮は地上の人間に理解できない姿を知るにあたっては、ミューズや神に教えてもらわなければできるはずもないというわけです。ここら辺の事情に関心があったらゼウクシスの故事とそれをめぐる議論など調べてみてください。真の美女のイデアを着想するためには、一人の女ではなく、複数の女の良い部分を張り合わせるべきとゼウクシスは主張します。しかしこれは目に見えるものを追求するだけで、霊感という観点が足りないではないか?など批判も多かったわけです。

ともあれ話を戻すと、補足してくださった摩天楼やフェラーリに関する記述は、端的にいえばイデアと無関係な話です。なるほど車や摩天楼にも理想があるとおっしゃるかもしれない。しかし、その理想の知覚にあたって、技術者は霊感を必要とするでしょうか。おそらくしないでしょう。
加えて、車や摩天楼は、最初から人工的なものであって、自然にあるものではないのです。たとえば神の世界であるイデア界に、車が走っていたり、摩天楼が立っていたりすると思いますか。神の国に機械があると思う人は少ないでしょう。だからあなたのおっしゃる「理想」とは、欲望の追求と呼んで差し支えないものだと考えています。
僕はてっきり、摩天楼は大樹の森のイデアを表現しているとか、フェラーリはエンブレムにあるような名馬のイデアを表現しているという話かと思ったのです。つまり大樹の森などもう無くなってしまったし、名馬と言っても数年で亡くなってしまう。それならばと、人工的に作ったという話かと思ったのです。イデアという言葉の取り違えに過ぎなかったのは、ちょっと残念です。

最後に『カモメのジョナサン』はまた別です。きっと特別に、お好きな小説なんでしょう。カモメが努力し、自分の限界を超えていく。これは自分の本来あるべき姿(=イデア)の追求であるということもできるかもしれません。しかし上で僕が述べてきたことを確認する意味でいえば、ジョナサンはカモメであり、自然界にある生き物です。したがってイデアが存在するでしょう。実際、小説の末尾だとジョナサンは天界に行ってしまいますが、彼は生きながらにして、天界にある己のイデアと同化したとも解釈できるでしょう。
しかしイデアの話であるというのなら、僕はジョナサンが本来のカモメとはどうあるべきかという点で、(周囲の無理解に苦しんだにせよ)本質的には何ら悩まずに飛行や速度という選択をしたというのが、ちょっと気に入りませんね。「本来の姿がどうあるべきか」を悩んでこそ、イデアの探究であるでしょうから。
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この回答へのお礼

うーむ。意見の分かれるところですね。昨今の技術を見てみると、ある種霊感以上の感性やセンスを感じてしまいますし、技術者に霊感が無いとはけしていえないと思います(むしろありそうな気がします)。それに、自然界のものでない人工物であるからといって、イデアが無いとも言えるものでもない気がします。諸芸術は皆人工の物ですし、ありのままの自然では腐敗や老化、病と言った好ましくないものまで含有しているものです。むしろイデアは自然物にではなく人工物にこそ表現され得ると言えるのでは無いでしょうか。欲望を追求しただけで、果たしてこのように文明が発達するものなのかどうか。。
イデアを理想と訳すことに私は特に問題を感じないのですが、回答者さん的にはやはり違うのでしょうか?

摩天楼が森林のイデアを表現していると言うのは面白いですね。高層ビルの森という詩的な表現は理解できるところです。自動車が鉄の馬であると言うことも詩的には可能な表現ですし、実際にそうでしょう。人類の古い記憶にそういったイデアなるものがあるのかもしれません。回答者さんと私の言っていることはそれほどズレているとも思えませんが、しかししいて言うならば、私の言っていることはイデアというよりは、エイドスに近いのかもしれません。あるいは近世的なイデアなのかもしれません。どちらも似ているのでしょうが、異なる点もあるでしょう。

>「本来の姿がどうあるべきか」を悩んでこそ、イデアの探究であるでしょうから。

これは難しいところであると思います。悩む姿と探求の姿は同じでは無いと思うからです。
あるべき本来の姿とは一体なんであるのでしょうか。
ジョナサンが好きというわけで引用したのではないのですが、カモメ関連で、私には他にこんな経験があります。旅行中、古い軍港に立ち寄ったときのことです。草むらに埋もれたトーチカの上を散策していると、数体のウミネコの亡骸を発見しました。それ以前は、鳥とは自由に空を飛びまわっているものであるという印象しか持っていなかったのですが、これが現実なのだなと、思い知ったことがあります。私が見たものはウミネコの本来の姿の一端であったと思います。どれほどウミネコの死体が『自然に還元されれば』、ウミネコがウミネコでなくなる地点に到達するのかわかりませんが、原型というものは、DNAのように、僅かな欠片、痕跡にさえ見出されうるものかもしれないと思いました。
 
将来、DNAを制御して、病や老いの無い理想の人体を人類が手に入れるときがくるのかもしれません。それでも死はまぬかれ得ないでしょうが、それでもそれは、随分な進歩であろうと思います。僅かな欠片に宿る原型たるDNAを発見し、そこから自身を作り変えることまでを視野に入れることができたのは、どうしてでしょうか。それが欲望の追求だけで成し遂げられることなのか、私にはやはり疑問が残るのです。

お礼日時:2011/06/11 13:20

 技術屋の応えです。



 知識と技術資料の蓄積、およびそれらを保存可能にした技術の発明(文字と紙と印刷機など。ハンドブックは中世以後のもの)。古代では戦争被災によって語り部の消失なんかがあり、多くの文明の粋が失われたのだろうな、と想像します。保存技術の発明により、飛躍的に進歩(技術進歩)は速くなった。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
知識を保存、継承できる技術の発明が重要だったと言うことですね。
ということは、コンピュータなどの発明は一つの時代の始まりでもありそうですか。

>古代では戦争被災によって語り部の消失なんかがあり、多くの文明の粋が失われたのだろうな、と想像します。

なるほどです。消え去ってしまった文明も沢山在るのでしょうね。
話は変わるのですが、この間、赤外線でエジプトを空撮した考古学者が、大量のピラミッドと墓、そして集落の跡を地中に発見したそうです。まだ発見されていない古代文明もあるのかもしれませんね。
http://www.rerefa.com/archives/65984542.html

お礼日時:2011/06/10 21:16

補足しますが、ロハスとは少し違うのです。

ロハスは自然に還ろう、共存しようということでしょう。そしてそのためには、プリウスのように、環境に優しい技術はどんどん取り入れていこうというわけです。
しかし僕は技術と文明は別個のものだと思っています。そして古代文明の再評価というところに力点を置きたかったのです。というのも、現代の方に郷愁を感じるとお書きですね。それは僕も同じなのです。自然に還りきることはできない。しかし、この還りきれないという思いは、僕の場合、技術の進歩を享受したいというより、文明が欲しいということなのです。

おそらく質問者さんのいう「文明」は技術と切り離せないのではないですか。だから僕のいう「文明」の定義とは何かと思われるでしょう。それにあたっては、パリやローマなど、技術としてはもう東京に及ぶべくもないが、文化としては確固としたものがある街のことを思い浮かべてみてください。たとえばそこには摩天楼など無いわけです。しかし生活の豊かさや文化の保存にかけては、東京よりも進んでおり、遺跡をはじめ、たくさんの名物に囲まれています。街には歴史があります。先人らから学び、継承するものがあります。東京もそうやることは不可能ではなかったはずですが、技術を優先したのでした。

ところで、どうも本題について御意見を表明してらっしゃるようですから、せっかくなので、少し伺ってみることにしました。

>わたしは、人間がイデア的なものを追い求めた結果ではないかと今回思いました。欲望に忠実で、力に従順で、競争原理のみに人間が生きたのであるならば、戦争に明け暮れてきっと文明は発達しなかったのだと思うのです。それよりも、超越的な、形而上学的なものを追い求めたために、飛躍的な進歩の契機を得ること ができたのではないかと。そういう人の志向性が、文明を今の形に作ったのではないかと思ったりもしました。

単刀直入な物言いをお許しいただきたいのですが、欲望に忠実な文明ならば、即刻、衰退するという話は必ずしも本当とは思われません。インターネットも原子力も、もともと軍事的目的をもって開発されたものであって、憎悪や破壊衝動が技術を発展させてきたと言わざるを得ないのです。加えて、戦略的に考えて、勝ちが見込めるまで、人間、戦いなどするものではありません。今はただ敵方の様子を伺いつつ、軍備を蓄えているだけかもしれません。
だから僕は質問者さんのように現代の文明が偉大だと安心することは無くて、いつ何時、その技術の蓄えを使って争いが起きてもおかしくないと思っているのですよ。実際、勝ちが見込めるとみなしたアラブやイラクへの近年の仕打ちを考えると、僕は自分の言っていることが間違っているとは思われません。しかし、国際情勢と関係する議論は、僕にとっては、まぁ、あまり興味がないのですし、本題とも逸れるでしょう。それよりも、次の一節を補足していただけませんか。

>わたしは、人間がイデア的なものを追い求めた結果ではないかと今回思いました。

では、たとえば設問にあげられている不夜城や、フェラーリは、我々に何のイデアを教えてくれているというのですか。それはどの観点で、古代人には知りえなかったものなのでしょうか。ちょっと面白そうなので、ご意見を伺いたいのです。なかなかそう感じる方は僕の周りにいませんから。
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この回答へのお礼

なるほどロハスとは少し違うのですか。文化の継承という意味だったのですね。

>では、たとえば設問にあげられている不夜城や、フェラーリは、我々に何のイデアを教えてくれているというのですか。それはどの観点で、古代人には知りえなかったものなのでしょうか。ちょっと面白そうなので、ご意見を伺いたいのです。なかなかそう感じる方は僕の周りにいませんから。

イデア的なものを追い求めた結果では無いか?そう思ったのは直感なのですが、説明してみます。
例えばギリシャ時代には、驚異的な技術で精緻に彫りこまれた石像などがつくられています。それらは、理想の人体を追い求めた結果、そのようなすごい彫刻が出来上がったのでは無いだろうかと思うのです。フェラーリも、現実的には無用の機能が満載されていますが、それには理想の自動車と言うコンセプトがあって、そのコンセプトの実現を目指して作られているのではないかと。より速く、かっこよく、操作しやすく、ワイルドに、スポーティに、などなどです。
不夜城や摩天楼の方は、どういった理想かはよくわからないのですが、建造物が、必要以上に高く、大きく、作られることを目指すのはわかる気がします。建物の理想の一翼として、より高く、より大きくがあるのでは無いでしょうか。夜でも昼のように明るいことがどういった理想であるかはわからないのですが、これも考えてみると面白いかもしれません。都市の理想ということですが、夜にも星空のように輝く都市と言うのは、一種、理想郷のような趣を感じます。不夜城は、人々がさまざまな理想=イデアを追い求めた結果、出来上がった都市の形態なのかなと思いました。遠い未来には、ラピュタのような都市ができるかも?

それらは喩えるなら、ただのカモメではなく、ジョナサンであると言うこと。ただの自動車ではなく、フェラーリであるということ。ただの集落ではなく、東京であると言うこと。
カモメのジョナサンは、ただ飛んで魚を取ると言う行為に満足することなく、飛行と言う行為を極め、ついに時空を超えるかのような境地に到達します。
それが空想に過ぎないにせよ、小説の言わんとするところは、そういう生き方がなにか壁を超えることにつながるのではないか、ということでは無いでしょうか。
イデア的なものを追い求めた結果、文明の発達が成ったのではないかという思いつきは、こういうことなのでした。

もちろんフェラーリにせよ建造物にせよ照明にせよ、幾つもの実証実験を繰り返して、実際に使用できるようになっていますから、その点、ジョナサンの飛行とは異なるものであるでしょう。しかし、理想を求めたと言う点で、ジョナサンと同じであると思います。人の生き方にも、同じような示唆を与えることができるのでは無いかと思います。
もちろん、理想を求める生き方が最高であると言うのではありませんが。イデアの働きと言うものについて少し考えてみたのでした。

お礼日時:2011/06/10 19:07

文明とは何か?という問いは置いておき、僕個人が、文明とはどうあって欲しいと思うか?についてお答えしようと思います。



僕に言わせると、文明とは、健康で安全に暮らせる環境を準備するものです。僕の理想は非常にささやかなもので、衣食住の安全が維持できればそれでいいのです。だから街を星空のようにしないでもいいのですし、それに何の感慨も感じないのです。というのも、それら人工の星の動力である、原子力発電所の危険と、化石燃料から出る二酸化炭素を思いだしますから。街を星空などにせず、天空の星空を見上げて満足すればよかったのです。
また排気ガスを普通の車よりも多く輩出するフェラーリの車も無くてよいと思っています。いや、むしろ、無い方がよいとさえ思っています。

こういう観点は、文明の発達に懐疑的なのであって、ある意味で、現代を否定しているわけです。それよりは現代の良い点を見て、最新のテクノロジーを謳歌してはどうか?と思われるかも知れません。
しかし「健康で安全なもの」が文明であると割り切って過剰なものを見切ると、実は、別の積極的な視点が浮かんできます。つまり古代文明だとか、原住民の文明だとか、先進国からすると見下しがちな文明の価値が、よりよく見えてくるのです。遺跡やアンティークを見たり、古い本を読んだりするのが、より楽しくなるのです。というのも、「歴史は繰り返す」という教訓の意味合いではなく、日々を豊かにする方法を彼らの文明から学べますから。

たとえば僕がやっていたことですが、ラベンダーのプランターを準備して、その上に干した洗濯物に香りをうつす――というのは古代ギリシア人の知恵だそうです。消臭剤「ファブリーズ」のような製品など無くてもいいわけです。
また、俳句や短歌などは、暇をつぶすにあたって、お金もかからず、日常のことをよりよく観察する契機になります。テレビ・ゲームなどより、ずっと文化的だと思えます。医療技術もまた、漢方など、古いものに学ぶものが多いですね。副作用が少ないわけです。

僕が文明とは何か?という問いを置いておき、文明とはどうあって欲しいか?について答えた理由は、結局、取捨選択する必要があると思うからです。パソコンはどうしても必要になってしまったので、やむなく使う。トイレも水洗の方が望ましい。しかし、便利だからと言って、何もかもを「文明」と呼んで感嘆し、受け入れるわけにはいかない。――そうした一線を引く意味で、文明とはどうあって欲しいか?を考える必要があるように思われたのでした。

さて、最後に質問の「なぜか?」ですが、こういう文明になった理由は、人が己の欲望に忠実で、かつ、己の力を増幅させることに迷わなかったし、また競争し合ったからだと僕は思っています。より強い刺激を求め続けた結果の産物が、ハリウッド映画であり、テレビ・ゲームであり、不夜城と化した都市であり、数百キロの速度が簡単に出る車です。刺激は、なるほど、人を感嘆させるものです。しかし、ストイックになることも必要であるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど文明が現代に比べて未発達の時代にも、よい暮らしがあったのではないかというお話ですね。
スローライフの立場といった感じでしょうか。ロハスな暮らしともいえそうです。現代人は一見余裕があるように見えて、競争と切磋琢磨で忙しいですから、そのような考えがよいと思われるのにも納得ができます。

以前、国立民族学博物館に行ったときに、昔の農機具などとともに、ファミコンが展示されているのを見ました。そのとき、なるほどやはり、今われわれは文明のターニングポイントを生きているのだなと思いました。私も、木製のカヌーで星を見て航海することなどにあこがれたりしますが、その時代とはまったく様相の異なる現代の文明を故郷としている自分には、やはりこの現代文明に郷愁を感じたりもするのです。

なぜ文明が今のような形態になったかですが、わたしは、人間がイデア的なものを追い求めた結果ではないかと今回思いました。欲望に忠実で、力に従順で、競争原理のみに人間が生きたのであるならば、戦争に明け暮れてきっと文明は発達しなかったのだと思うのです。それよりも、超越的な、形而上学的なものを追い求めたために、飛躍的な進歩の契機を得ることができたのではないかと。そういう人の志向性が、文明を今の形に作ったのではないかと思ったりもしました。

お礼日時:2011/06/10 10:03

物質に決まった方向性(仮想的第一原因)はなく、


常にカオスを指向します。
しかし、この「カオス=エントロピー増大」というのは、
よく考えられるような均質な状態ではありません。
整然と区別されるのも、均質に均されるのも、
エントロピーは低いのです。
「ランダムな状態」もランダムなのです。
ずっと「ランダム」であっても、それはランダムではありません。
先ほどの「整然とした状態」や「均質に均された状態」
も含めて、ランダムに変動するものなのです。
それは淘汰の力となって、二次的に進化を導くのです。

しかしその「進化」は、必ずしも「文明の発達」を意味しません。
エントロピー増大に抗して存続する方法は、1つではないのです。
認識性ひとつとっても、進化には、アリ型とヒト型があります。
ヒト型の特徴は、進化における環境への適応や形質の多様化
による組織化(分業)を、遺伝子の変異に対する自然淘汰により
行うのではなく、認識の発達=環境認識(自意識の目覚め)に
よる行動パターンのフレキシビリティによって行うところにあります。
(文明=社会性の発達における世代間伝承も、遺伝子ではない
「ミーム(文化的要因=教育や家庭での学習)」に依存する)

しかし、その「認識の発達による道具や行動の多様化による
自律的進化」も、近代の工業化における大量生産&分業化&
市場の拡大に、その『認識の発達』がついていけず、代替として、
“お金や地位といった馬車馬の目の前のニンジン”や“法規や
モラル(≒神)といったムチ”で、他律的に社会性のコースを
走らせるようになったのです。
それは、遺伝子ではないにしても先入的要因によって非自覚的
に社会性を強制=歯車となる、「アリ型進化」への転針なのです
(「ヒト型進化」の総本山である人類自身が!)

そこにあるのは、人の生きる目的が、物質的豊かさであるか、
精神的豊かさであるかの分岐に他なりません。
かつて細胞単位で環境と相互作用し、自律的に行動していた
単細胞生物が、我々の体内では神経やホルモンに対して、
条件反射的に反応することで、環境を環境として捉えることなく、
歯車として1個の個体を形成しています。
即ち、現在の我々の文明における自己チュー化の先には、
希薄な意識により目の前のエサに釣られて条件反射的に行動
し(=短絡的&相互に矛盾する、非最大充足)、“結果的に”
生かされる、「アリ型進化」が待っているのです。
(これまでの社会的劣化におけるような“見えざる手”による軌道
修正は働きません)

そうして人類がバカになり始める前に、こうした社会や生命、
存在についての本質的認識に到達できたのは奇跡的です
(それも哲学的に不毛な日本において)。
(過去の天才たちの成果の上に立っている凡人に過ぎないとはいえ、
有史以来人類がたどった認識深化の頂点に立って、世界が僕の横を
素通りして降り始めているのを眺めるのは万感の想いがあります)
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この回答へのお礼

なるほど、アリ型進化への転針ですか・・・。納得させられる所があります。

>世界が僕の横を素通りして降り始めているのを眺める

この文末の詩的な表現には、非常に現代的な響きを感じます。回答者さんが、何か深い認識か、精神の秘蔵に触れているかのような印象を醸している気がしました。なかなか詩人ですね。

個性的な見解が聞けてうれしいです。他の回答者さんとの共通点も見られ、より多角的に回答を読むことができました。ミームの話も面白そうです。

この偉大なる文明を眼下に臨み想いを馳せれば、人は文明の束縛を離れて天の星と共に、世の有様と自身の生き様について、如何に在りたいのかを、如何に在ってしかるべきだろうかを、究明できるだろうと私は思います。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2011/06/09 13:11

集団による同時的な共有とか再現とかに適した、視聴覚認識対象の価値が優先された展開にも起因して、現代文明が成り立っているのではないでしょうか?



でも、施術者・被術者が触知で相互に影響を与え合う、という東洋医学的な発想の価値が見落とされていますね。
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この回答へのお礼

なるほど、視聴覚メインだと言う発想ですね。東洋的な?触覚メインの発想は今のところないと。
おもしろい観点をありがとうございました。

お礼日時:2011/06/09 12:19

人はどうして「明かり」を追い求めようとするのだろうか。

。。

帰りの夜空に「明かり」を見つけ、星座を追うとき、人工的な「明かり」と薄汚れた大気にかき消されてしまった、怖いくらいに「明るく」輝く無数の星々の幼き思い出が、無性に懐かしくなる。。。

そうして、暗闇の中で「明かり」を見つけたときには、なんだかほっとした気分になると同時に、ふと、「飛んで火に入る夏の虫」といった言葉が脳裏をよぎる。。。

原発事故は節電を要請し、臨界事故では「青い光」が死を招く。。。「明かり」を追い求めすぎた人類に警鐘を鳴らしているかのようだ。。。

。。。「適度な明かり」。。。

内心は、おそらく、そういったところを求めているのかもしれない。。。

しかし、人々が集うとき、集う場所では、一人ひとりが必要とする「明かり」よりも、多くの「明かり」が求められてしまう。。。

都市が形成され、都市を維持し、都市の利便性を追い求めようとするために必要になる、さらなる「明かり」。。。civilization...

人智によって変容し、人智によって拡大していく都市文明。。。

脳機能の一部としての知は、「文明」を(知以外の情・意を含む)「心」から切り離し、無機的に制御することで、巨大なシステムを作り上げた。。。高度な技術はロボットの反応を「心」に沿うように制御できるが、知的制御から逸脱する場合には、「壊れた」ことを意味し、破棄の対象となる。。。

そうやって心から切り離された「明かり」。。。生きていくために利用せざるを得ず、生きていくためには飲み込まれることを避けなければならない「明かり」。。。「文明」とは、そのようなものなのだろう。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)。。。
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この回答へのお礼

詩的なご回答ありがとうございます。
文明との距離を怖れながら測り、バランスを取ろうとする気持ちが感じられました。

驚異的な工学技術などを目にすると、自分がそれを享受していることが信じられず、ついていけなくなることがあります。何かに牽引されて、否が応でもどこかに連れて行かれるのかもしれません。文明とはそのような、列車であるのかもしれないと思いました。一体どこ行きの列車なのでしょうね。

お礼日時:2011/06/09 02:43

人類は過去から現在に掛けていくつかの文明を経験して参りました。

その文明に共通した物は力ですね。それも強大な力。

人類の歴史を見ていると、始めに旧石器時代と言って地球上何処でも同じように地球規模で統一された石器が出て来た。それが新石器時代になると、石器の形に地方性が出て来て、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカとそれぞれ違った形の石器が現れて来るようになった。地球規模の普遍性から、各地方への特殊な地方性という個性の出現ですね。その地方性のことを文化と呼ぶ。だから、文化は多様になっていった。

生物の進化を見ても、始めは単純な構造で統一されていたものが次々と分岐して、特殊性を手に入れて来た。すなわち、普遍から特殊性へと向かって行く流れのことを、進化と言うのですね。

ところが、たまたま進化の過程で強大な力を持った集団が偶然に現れて来る。そうすると、その周りの多様で複雑な文化を力任せに殲滅して、その多様性を認めないで自分たちの単純な価値観だけで全体を統一して来る。すなわち、進化とは全く逆の、特殊性から普遍性への流れという退化を強引に力任せで実現して来る。これが、文明ですね。

文明はしばしば世界宗教を伴ってやって来ます。もともと、各地方の文化は自分たち固有でその複雑性を高度に発達させた宗教を持っている。ところが、世界宗教はその価値観の単純さ故に解り易い。そして、それがしばしば文明と言う強大な軍事力と共に遣って来る物だから、地方の複雑な宗教は、その世界宗教に飲み込まれて、単純な世界観へと人々を統一退化させてしまう。

今の西欧キリスト教文明も、その強大な軍事力に物を言わせて、世界中を単純な物欲の世界へと統一してきましたね。もともと西欧は中央集権で統一されることなく、小国がドングリの背比べで群雄割拠する封建制度という、ある意味で不安定な存在形態を長らく保持していた。従って、彼等は常に戦争を繰り返し、失敗を繰り返し、生き残りのための工夫としていろいろな工学を進歩させて来た。あたかも、日本の戦国時代のような状況でした。日本でもその時代に高度に工学技術を進歩させましたね。

ダーウインが『種の起原』の中で論じていますが、英国の小さい島で生き残りのために熾烈な戦いをして来た英国の雑草の種が、オーストラリアで比較的少ない戦いの中で平和で統一されていた巨大な草原のなかに偶々こぼれ落ちた結果、あっという間に、オーストラリアの雑草が英国の雑草に駆逐されてしまった。まあ、今日の物欲に根ざした物質文明は、この英国の雑草みたいな物なのでしょう。ヨーロッパ文明をもっと露骨に物欲的に発達させたアメリカは、価値観としては、超単純なお金だけという一次元的な世界です。更に、軍事力がなんせ強い。だから、自国の中にどんなに複雑で高度な文化を持っていたとしても、単純で未熟な若者達は、水が低きに流れるように、そして悪貨が良貨を駆逐するように、ついこの単純で解り易いアメリカの物質文明に汚染されてしまい、退化してしまう。

それが、今日の世界中の状況なのではないでしょうか。アメリカのみならず、世界中の若者達を見てると、確かに物欲は以前の世代よりも満たされていますが、だからと言って、人々が前よりも仕合せになったかと言うと、必ずしもそうではない。そんなことは当たり前で、多様性を否定する一次元的な世界では、余りにも選択肢が少ないので、そこからあぶれた人間には生き場所が与えられていない。だから、統一化や普遍化は、人々を幸せには出来ないのですね。だから、文明は人々を幸せに出来ない。多様性を認めた世界のみが、一つの価値観に囚われない生き場所を人々に提供出来るのですね。

日本もこの津波のように強大で単純な物質文明に押し流されて、今まで我々先祖達が営々と作り上げて来た日本固有な価値観をどれだけ沢山失ってしまったことか。引きこもり、いじめ、ニート、派遣、これは見ごとにこの物質文明のもたらした遺産ですね。おっと、原発もその遺産の中に入れておきましょう。

人類の歴史を見ていると、アメリカで象徴されるこの物質文明もそのうちに摩滅して行って、また、しばらくは群雄割拠で多様な文化が華開く進化のときが遣って来るかもしれません。そして、その中で偶々ある文化が強大な力を手に入れて、また普遍化への退化をもたらす新しい文明を創り出して来る。人類の歴史を見ると、進化の時期と退化の時期を繰り返しながら、今日まで来ているようですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
一元的な力の為す支配の中では、人々の居場所が少ない、、。なるほどです。
一つ疑問に思ったのは、この一元的な物質文明の中で、はたして精神の多様性は失われたと言えるのだろうか?ということです。私から見れば十分に多様な文化が育まれているように思うのですが、回答者様から見れば、それはまだまだ多様と言えるようなレベルには無いのでしょうか。どれも西欧的、アメリカ的であり、真のグローバルと言うには程遠いと。確かにそんな気もします。もっともっと多様なはずであるかもしれません。

>人類の歴史を見ると、進化の時期と退化の時期を繰り返しながら、今日まで来ているようですね。

ふむふむ、そういう見方もできるのですね。発展とは不思議なものです。今後中国やインドなどが台頭してきたのち、短期間で世界の様相がガラッと変わるのかもしれませんね。アジア人やアジアの文化が隆盛するのかもしれません。

>引きこもり、いじめ、ニート、派遣、これは見ごとにこの物質文明のもたらした遺産ですね。おっと、原発もその遺産の中に入れておきましょう。

引きこもり、いじめ、ニート、ここらへんは、心が貧しくなっている事に起因するのでしょうね。派遣労働は企業の都合でしょうか。原発はリアルタイムですが、これも文明の力をもてあましている感がいなめませんね。
文明の発達に目を見張るならば、それと共に、その影とひずみにも着目するのは当然かとも思いました。

お礼日時:2011/06/09 02:35

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