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生真面目なタイプの人に向かって、
「正論ばかりで退屈」「正しくても世間では通用しない」
などと言う人がいますよね? 私はあれが大嫌いなんです。

そもそも「世間で通じるかどうか」というのは、そんなに大切な基準なのでしょうか?
それは要するに「正しさよりも多数の同意が得られることの方が大事」という意味ですよね?
私は時代や文化によって変わる世間の風潮よりも、
「論理的に正しい」ことの方が百倍も大事だと感じます。

「大勢の同意が得られる」というのは、
「こうあるべき」とは何の関係もないと思います。
(天動説とか、奴隷制が幅をきかせていた時代を考えれば分かります)
ゆえに私は「世間ではこうだから~」と言われても
「みんなゲーム持ってるから、僕にも買って!」と
駄々をこねる子供の言い分にしか聞こえません。

そこで質問です。
「正しさ」よりも「世間で通じるかどうか」を重視する人は、なぜそうするのですか?
そんな曖昧なものを基準にしたら、不安でしょうがないと思うのですが…
また、相手に正論を言われたら、なぜ黙って受け入れないのでしょうか?
よく「人間は感情の動物だから」と正当化する人がいますが、
それはただのワガママとは、どう違うのですか?

A 回答 (23件中1~10件)

本当に「世間で通用しない」ってことがポイントじゃないかと。


人間社会で生きて行くには、多数派とうまく折り合いを付けていくことが必要です。

正しささえあれば、どんなに無茶でもいいんだとか言いませんよね?
それじゃ「世間で通用しない」を『悪用』している人と同じでしょう。

正論の正しさは誰が判断するの?
立場が変われば判断も対応も変わるモノじゃない?

そういうわけで、正論を金科玉条のように振りかざすのは嫌いです。
同族嫌悪? うーん、あるかもね。

正しさは自分の中だけにあるものだと思うので、振りかざすのはどうかなあ。。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

正しさは立場によって変わるのは、その通りだと思います。
だから「おれはこれが正論だと思う」「いやそれはおかしい」という
対等の議論なら理解できるんです。

分からないのは、
「はいはい、それは正論ですねー(明らかに聞く気がない)」
「おまえの言い分は正論だが…(と言いつつ結局無視する)」
のように、聞く耳を持たない人のことです。

こういう人たちは堂々と意見をぶつけあわずに
「なんとなく」「いつの間にか」相手の方が間違っているという「雰囲気」を作り上げ
うやむやのうちに自分の勝ちにしてしまいますよね?
しかもたいてい、周囲もそれに同調する。
そういう卑怯なやり方を、なんでみんな容認するのか、という意味なんです。

お礼日時:2011/07/21 21:21

他人の意見に反論するのも言論の自由です。

これは重要ですよ。尊重しなければなりません。

ですから、「正しくても世間では通用しない」という意見の人も尊重してあげましょう。
不愉快でも、それを顔に出すことなく、ちゃんと聞いてあげるのが礼儀です。
そのうえで、出来るだけ距離をとって、接点が少なくなるようにするのが大人の対応です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

おっしゃること、よく分かりました。
確かに反論の自由はだれにでもあります。
そう言われると、なんだか納得してしまいました。

お礼日時:2011/07/21 21:22

そうやって生きていかないと欲しい物が手に入らないからでは?


面接で人に気に入られることを言って合格を貰い、愛想笑いで出世して、近所付き合いで敵を作らないように過ごす
その人達も貴方から欲しい物があればあなたに合わせるでしょう
人が欲しいと思うものを持ってる立場の人は高慢になりやすいから、そこを始まりとして連鎖的に皆が周りに合わせるよになっていくのではないでしょうか
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この回答へのお礼

そう、そこなんです。
要するに「長いものに巻かれた方が楽だから」
そう言ってくれれば、まだ納得がいくんです。

しかし大多数の人は、
「そんなに正論にこだわるなんて、まだまだ若いねー(笑)」というように、
理由も説明せず、うやむやのうちに相手を貶め、
自分の方が「道理をわきまえた人間」であるようにふるまうでしょう?
そういうやり方が卑怯だと言いたいんです。
堂々と「正論を認めたら、俺が不利になるからイヤだ」って言えよ!と思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/21 21:27

正論というのがそもそも曖昧なものです。


どんな場合においても絶対的に正しい事なんてありません。
まあ殺人はいけない事だ、みたいなレベルの話じゃない限り。

見方や立場を変えれば180度違うこと、正誤が逆転する事などいくらでもあります。
「世間で通じるかどうか」という事ではなくて、臨機応変な対応こそが大事なのです。
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この回答へのお礼

おっしゃること、分かります。
確かに「絶対的に正しいこと」は世の中にありません。

今よく考えてみると、私の質問のメインはむしろ、
No.1やNo.3の方へのお礼に書いたような点でした。
「正論に反抗する人は、堂々と意見をぶつけ合わずに、なぜ横柄な態度をとるのか」
ということですね。
分かりにくい質問で失礼しました。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/21 21:32

「正しさ」って何をもって断言できるのしょうか。


独りよがりではありませんか?。
物事の判断は基準をまず決めないとだめです。
「世間で通じるかどうか」を基準にしてもいいし、
道理を基準にしてもいいし、とにかく基準が大切です。
末期ガンの患者さんがいたとします。
あなたはこの患者さんをどうすればいいか、あなたの「正しさ」で答え出せますか?。
これも基準を決めないと「正しさ」の答えは出ません。
命か苦痛の除去かですよねどっちの選択が正しいかなかなか難しいでしょう?。
結局「正しさ」ってのは観念的にはあるかのように思いがちですが、実際は存在しないのです。
常に基準の定め方によって「正しさ」も変ってきます。
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この回答へのお礼

よくわかる回答、ありがとうございます。
基準が大切というのは、まったく同意です。
何に重きを置くかで、判断はもちろん変わってきますね。
そのうえで質問を書き直してみます。

なぜ「明確な事実」や「明文化されたルール」でなく、
「感情の機微」や「世間様の同意」という曖昧なものを
基準にしたがる人がいるのでしょう?
そういう曖昧な基準は気持ち悪くないのでしょうか?

ガンの例は……すみません、私にもわかりません。
「ガン患者にはこうしろ」というルールがありませんからね。
よく話し合って決めろとしか……

お礼日時:2011/07/21 21:39

こんばんは。



質問者様に逆に質問したくなります。
正論ってなんでしょうか?
殺人がダメというのは正論なのでしょうか?
私は違うと思います。
世間がダメだというから殺人はだめなのだと思います。
江戸時代以前の仇討とかはある意味認められているじゃないですか?
現代で仇討は認められていませんよね?
世間=正論
というのは時代、場所で変わるものだと思います。

日本の戦時中に赤札で徴収されるのは世間ですよね。
だけど、民族を守るために戦争に行くのは正論だと思いませんか?
(時代が違うせいで色々あるとは思いますが)

我儘な人に対しては正論で通すというよりも
完膚なきまでに言い負かすしかないと思います。
正論というよりは相手に対して完璧な理論武装して言い負かすというのが
現状では正しい気がします。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

そうですね、正論の根拠そのものが、時代によって変わるものです。
そこのところは、まったく同意です。

今よく考えてみると、私の聞きたかったことはNo.1やNo.3の方への
お礼に書いた内容だと気づきました。
つまり
「正論に反抗する人は、なぜ堂々と議論せずに、横柄にふるまうのか?」
ということでした。
分かりにくい質問で、申し訳ありませんでした。

お礼日時:2011/07/21 21:42

いや~お若いですね。



いえいえ馬鹿にしてる訳ではありません。若いときの私のようですね。
私も直属の課長から「お前の言う事は正論だが…」とよく言われていました。その当時は「正しいものは、正しいと」と考えていましたので、間違ったことは全然言うことを聞きませんでした。課長はもちろん部長だってかまうものかって感じでした。

でもね、正しいから言ってよい行動してよい事にはならない事も良くあることなんです。癌にかかった人に「あなたは癌です」って言うようなものです。人によってはそれが元で自殺する人もいるかもしれません。

私の場合は、とにかく上司から嫌われて退社をよぎなくされました。でも、いくら正論であっても私は部課長の気持ちを傷つけていたんですよね。人間関係が会社の中でうまくいくはずがありませんよね。

正論がいつも正しいのあれば、間違っているのはそっちのほうだと考えていればいるほど人間関係は悪くなるし、正論はいつも正しいとはかぎりません。

論理的なものが大事なら、人間にはなんで感情があるのでしょうか?感情を抜きにした正論なんて他人に受け入れられるはずもありません。正論だから必ず正しい言動ではありませんよ。まあ、それが分かったのはずいぶんとたってからですけどね。

感情や人情があるから、たまに遅刻したり二日酔いで出社しても「まあ、いいか」で済みますが。倫理的にいえば何らかの罰則があってしかるべきでしょ?ノルマをあたえられたらその通り仕事するのが義務で、達成できなければお給料を返上すべきですよね?つまり人間関係ができていれば多少失敗は大目に見られると言うことです。会社にとって仕事で失敗されるは、いかなる正当な理由があろうと損失と同じですから。

人間関係に限って言えば正論は正しいとは言えませんよ。学者の言い分ではないんですから。その気持ちを無視して正論ばかりいっている方がワガママと言われることになりますよ。学問と違って社会では絶対にただし答えは存在していないのですから。

あなたの考えも正しいのら、他人の考えだってただしいのかもしれませんよ。それを自分だけが正しいと言い張るのは大人気ないと思いませんか?他人の価値観も受け入れる度量がないと言うことでしょうか?

他人の気持ちを分からない人間には大きな仕事もできないでしょう。またやっててもそのうち大失敗してしまいます。

なんか納得はいかないでしょうが、ちょっと視点を変えて考えてください。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

う~~ん、おっしゃることは分かるんです。
そうした方が生きやすいということも、実感はできるんです。
回答者さまに悪意がないことは理解しているのですが、
そのうえで「あえて」普段は言えない本音を書いてもいいでしょうか?

>>いや~お若いですね。
悪気はなくても「未熟者」と言われたようで不愉快になるんです……

>>「お前の言う事は正論だが…」
じゃあ従いましょう。従えないなら理由を説明しましょう。たとえ言いにくくても。

>>「あなたは癌です」
教えてくれと言われたなら、言うべきです。
そのうえで自殺するかどうかは自己責任でしょう。

>>いくら正論であっても私は部課長の気持ちを傷つけていたんですよね。
社会人なら私情をはさむな(←これ上司が部下によく言いませんか?)
仕事に気持ちとか関係ありません。

>>感情を抜きにした正論なんて他人に受け入れられるはずもありません。
受け入れる「べき」でしょう。少なくともそう努めるべきです。
受け入れたくない? 感情的にイヤ? 子供みたいなことを言うな。

>>何らかの罰則があってしかるべきでしょ?
もちろん罰則があるべきです。許されるんですか?

>>その気持ちを無視して正論ばかりいっている方がワガママと言われることになりますよ。
いや、ルールを無視して感情を主張する方がワガママです。
「守りたくないから守らない」ではルールの意味がない。
それを容認する周囲も変でしょう。
変な人間が多いから、少数派が迷惑させられるんです。

>>またやっててもそのうち大失敗してしまいます。
その大失敗とは、人間関係のことですよね?
それは私に言わせれば「理屈にこだわる人間が、失敗を起こす」のではなく、
「ルールより感情を優先するような、周囲のけしからん人間」がいるから起こる失敗です。
みんながルールや理屈をきちんと守れば、その失敗は起こらずに済むんです。

……と、あまり口にできないことを言ってみました。
ひょっとして腹立ちを感じられるかもしれませんが、これが私の本音なんです。
実生活では決して言いませんが……

大変失礼しました。

お礼日時:2011/07/21 22:03

40過ぎ会社員です。



私は「これが正しい」と正論を振りかざす人が嫌いですね。
もちろん、物によりますけれどね。振りかざすなどという表現を使うべきではなく、正しいんだから守らなきゃいけないでしょ、という場合も多いです。法律とか事実とかがそうですね。
ただ、へそ曲がりなのか、「世間で通じない」と言う人にも、「その世間って、どこ?通じないのはなぜ?」と茶々を入れてしまいそうですが。

「世間で通じる」=「多数の同意が得られる」似ているけれど、違いますね。
世間で通じるという場合、「世間」というのはある程度限定されます。職種だとか、地域だとかですね。
ですから「世間で通じる」と言うのは、その人が重視している社会で是とされているとなります。その中でも、その意見を主張している人にとって価値ある人の意見を「世間」と呼びます。
100人のうち90人がAだと言っても、その人にとって価値のある10人がBだと言うなら、Bになっているようです。
私の感覚では、「世間で通じるか」を基準として主張する人は、根拠を説明するのが面倒、または、根拠を説明できない、だと思います。

相手に正論を言われて黙って受け入れない理由は、色々あると思います。
一番、ありえるのは見方を変えれば、別の意見が正論になる場合でしょうね。
質問者さまは、正論でない例として、天動説と奴隷制を挙げていらっしゃいますが、これは同じように論じることはできません。
まず、天動説は事実に反しているわけです。ですから地動説が正しいと主張して問題ないでしょう。
けれど、奴隷制は、「基本的人権」が認められている今だからこそ「おかしい」のであって、時代によっては奴隷制が正当だった時代と環境があります。
変な例えになりますが、今、選挙権は一人一票です。しかし、一票の格差というものが存在します。これはおかしいことです。が、格差を是正しようとすると、地域の意見が十分に反映できない恐れがあります。これもおかしいことです。つまり、「正論」どうしがぶつかってしまう場合もあるのです。

他には、主張していることは正論だが、主張する権利があるか、相手に受け入れなければいけない義務があるか、という点で正論でない場合ですね。
私は生命保険の勧誘の方に「保険がいかに必要か」正論を説かれたことがあります。けれど入りませんでした。金を払う私が嫌だから、です。

正論を主張するのは自由です。正論を受け入れない人をワガママ呼ばわりするのも嫌うのも自由です。
ただ、その正論が法的なものでない限り、他人が質問者さまの意見を受け入れなければならない義務はありません。
義務のないことを強要しようとすれば、その時点で質問者さまが正論ではなくなります。ご注意ください。
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この回答へのお礼

なるほど……どれもよく分かるお話です。

確かに物理的事実としての天動説と、
制度としての奴隷制を同列に語るのは変でしたね…。

あと権利と義務についても、まさにその通りだと思いました。
言い分の正誤と、それを主張できる立場にいるかは、別問題ですね。

納得いく回答をありがとうございました。

お礼日時:2011/07/21 22:18

他の方々も迷走してるようなので、簡潔に回答いたします




正論、、、正しい事を証明できるのは数学くらいです。

次点の物理学でも完全とは言い切れない部分があります(特に量子力学など)

というわけであなたの周辺の出来事「すべて」が正しいなんてヘソが茶湧かしますって。

そこで世の中は、だれかの意見を「信じよう」で決定されます。

選挙演説も恋愛の告白もそうですね?

裁判も証拠と言いながら最終的には「信じる、じない」で決定されます。


というわけで「とても大事なこと」は、人に「説得力」を持つ意見、話し方をするということ。

それは上記の作用で「正しいこと」と捉えられます。

あなたがそれを阻害する意見を唱えると、もちろん「正義でない異端的な人」となります。

単純でしょ。


正しいことがあると信じてる何でまだまだ子供です。

他の回答者で社会のテクとして私に近似する回答の人おられましたが、あれと私は異なります。

社会の云々、テク、処世術、、、、どうでもいいっすw

あくまでも「正しい」「正義」についてそれは「存在しない」と申し上げたまでです。



最後に下らないたとえをw

ソフトバンクのソンさんが100億募金しましたね。
皆さん賞賛されてますが、もしこの世界が社会主義だとすると、彼在任ですよ。
人から搾取した金で「これ大犯罪です」大金を売るなんて、、、おそらく終身刑レベルの犯罪になるでしょう。

つまり、周りの人々が「こう思う」が正否の基準なんですよ。
くどいけど理解できましたか?
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>>「正しさ」よりも「世間で通じるかどうか」を重視する人は、なぜそうするのですか?



 流されていく方が楽だからです。

>>また、相手に正論を言われたら、なぜ黙って受け入れないのでしょうか?

 私の持論と反する場合は受け流します。
 それはあくまで相手の意見であって、私の正論ではありませんので。

>>よく「人間は感情の動物だから」と正当化する人がいますが、
それはただのワガママとは、どう違うのですか?

 ワガママでは有りません。
 単なる感情論者の言い逃れ口上です。
 正当化できているとも思いません。

 長い文章が書けませんので、簡潔に回答させていただきました。
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