プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

現在、中学2年生なのですが、最近読書にはまっていてふと気づいたことがあります。
私は「趣味は釣りです。」と言われると別にどうも思わないのですが、「趣味は狩猟です。」と言われるとすこしキツいイメージを持ってしまいます。
どちらも生物を殺すことなのに、どうしてこんなにもイメージが違うものかと思いました。
狩猟自体は法律に反しているわけではないので、悪い人だとは思いません。しかし魚は殺しても食べてもいいのに動物は殺してもよい数(←なぜ?)が限られているというのはおかしいのではないのかと思いました。
(私自身、狩猟についても釣りについても関心も持ったことがなく何の知識もありません。さっきウィキペディアで狩猟が法律に反していないことを初めて知ったくらいです。)
でも、そう考え始めると豚も牛(ヒンドゥー教は別・・・というのもおかしいのかなあ)も鳥も食べるのにどうして犬や猫を食すことは一般的ではないのか、抵抗があるのか、というのも引っかかってきます。

皆さんはこのようなことをどう思っているのでしょうか。
また、このようなことについて述べられている本などがあれば教えてください。

A 回答 (7件)

No.6ですが、参考図書について補足させていただきます。



比較的読みやすいのは、服部文祥さんのもので、下記を参照下さい。

http://blog.goo.ne.jp/watarureport/e/f2f86fade35 …

狩猟等について、より深く哲学的に考えたいということなら、少し理屈っぽいですが、スペインの哲学者オルテガの『狩猟の哲学』をお薦めいたします。

http://www8.plala.or.jp/kikkasha/books/ortega.html
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幼少時から「ウサギ追ひし彼の山、小鮒釣りし彼の川」の歌詞そのまま、冬以外は海に潜って魚を突き、海川で魚を釣り、冬には鳥獣を狩るという生活を実際に営んでいる中年ハンターです。



>私は「趣味は釣りです。」と言われると別にどうも思わないのですが、「趣味は狩猟です。」と言われるとすこしキツいイメージを持ってしまいます。
>どちらも生物を殺すことなのに、どうしてこんなにもイメージが違うものかと思いました。

平均的な人々の心性を考えますと、もともと殺人を最大の罪悪と捉え、これを最も厳しく戒めるとすれば、それより下等な動物になるにつれ、良くも悪くも、殺生に対する罪悪感、抵抗感もより希薄化するのではないでしょうか。
と同時に、殺人についても、いわゆる正当防衛に該当する場合に限り、宗教上の教義上での禁止は除くとして、どこの国でも法的・社会的にはそれを罪とは咎めませんよね。

古来、人間は自らの生きる権利を最大限尊重する限りにおいて、人間以外の他の動植物の命を尊重しつつも、自らの生命が他の生命の犠牲の上に成立・維持されていることをもきちんと肝に銘じてわきまえてきたのではないでしょうか。
そして、自らの命の大切さを思えばこそ、他人の命を奪うことの罪悪感にも、ひいては動植物の命を奪うことによって自分の生命が維持できていることの罪深さにもはじめて思いを致すことができるのではないでしょうか。

その意味では、自分がいただく動植物をお金を出して他人に命を絶ってもらうのと、自分の手で自分がいただく動植物の命を絶つのと、いったいどちらがより残酷で、罪深い営為か?ということが問われるかもしれませんね。

>動物は殺してもよい数(←なぜ?)が限られているというのはおかしいのではないのかと思いました。

たとえば、狩猟対象鳥の中でも、カモは1日で5羽以下、キジはオスに限って2羽以下と捕獲数の上限が決められていますが、これは狩猟によって各鳥獣の個体数が大幅に減少しない範囲内での捕獲については容認するとの考えにもとづいております。
ですから、ある年、狩猟期に入る前にクマがエサ不足等のために人間の生活圏に侵入してきてたくさん捕獲された場合、その年はクマ猟禁止の通達が出ることもあります。

>豚も牛(ヒンドゥー教は別・・・というのもおかしいのかなあ)も鳥も食べるのにどうして犬や猫を食すことは一般的ではないのか、抵抗があるのか、というのも引っかかってきます。

こういう問題では、何が「おかしい・おかしくない」と言ったところで、実は自分がそうと気づかないまま囚われている習慣、因襲、社会通念、常識等々に基づいて相手の考えを批判・非難しがちになりやすいだけに、その是非・善悪を判断するよりも、そういう文化なり宗教的教義なりがどのような歴史的、社会的な事情(原因・理由)のもとで生み出され、継承されてきたのか?と考えた方がより有意義だと思いますよ。
いわゆる、自分の考えとか価値観とかといったところで、ほとんどは自分自身だけがそうと気付いていないだけで、実際にはただの先入観、偏見、思い込みでしかないことが多いと思った方がより賢明かもしれませんから。
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質問者さんにとっては狩猟のほうが馴染みがないからだと思います。

地域によっては、釣り以上に狩猟が一般的なところもあり、「いつも伯父さんが猟に出てる」とか「若い頃は、よく父と猟に行った」みたいな人をよく見聞きしている環境にいる人にとっては、釣り以上に狩猟も抵抗がないかもしれません。

一方で、動物愛護に強い関心がある人は、釣りにも抵抗を感じるようです。特に欧米の都会人の多くは、それを理由に菜食主義になる人が少なくなく、そういう環境で生活している釣り人は、何度かは釣りを思いとどまるように言われたりします。

また、わかりやすい例としては、クジラがあります。日本の少なくとも中高年以上の人は、当たり前にクジラを給食で美味しく食べていたので、クジラを食べることに抵抗はありません。しかし、アメリカやフランスの人にとっては犬を食べるも同然です。一方で日本人も、クジラなら平気で食べるのに「これはイルカの肉だよ」と言われれば、二の足を踏んでしまうかもしれません。

「このようなことについて述べられている本などがあれば」とのことですが、そうですねえ、いろいろな角度から考えられると思います。動物愛護、菜食主義、そんな角度から、図書室の先生と相談しながら探してみてはどうでしょう。あるいは哲学の角度から研究してみてもいいかもしれません。

ちなみに、こうした考え方が盛んなアメリカなどでは、四足だけ食べない人、鳥も食べない人、魚も食べない人、乳製品も食べない人と、いろいろとグレード(?)があって、それぞれに名前がついています。では、植物に命はないのか、と考えたくもなるのですが。

いずれにせよ、こういうことは考え出すとキリがないのですよね。したがってどこかで自分なりのルールを、なんとなく決めておくのも大事かと思います。例えば、私は魚も動物も食べますが、残さないようにしています。また、自分が釣る場合も、処理場で解体される場合も、できるだけ生物が苦しまずに済むといいとは思います。そういう意味では、できるだけ活き造りは自分から注文しないようにしています。

ちなみに、食べられるために生まれてくる家畜と、自由競争(?)のなかでハンターに撃ち落とされる獲物とどちらが幸せなのか、ときどき考えたりもします。
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既に回答が寄せられてますが、あとひとつ、


狩猟は鉄砲など人を殺せる道具を使うから
ではないでしょうか。
ついでに西洋の貴族は趣味のハンティングで
それこそ絶滅させる勢いで狩まくっていた様
な写真などが結構残されているからでは。

現在の日本でも誤射で亡くなった方もいます。
ハンティングに行く場合は、しゃがむと姿が
見えなくなるような背丈の草や枝がある所は
細心の注意が必要です。

まあ、何を食すのが一般的であるかないかは
教育・文化で決まると思います。

鶏や豚、猪などは飼っていても『食べるもので
あってペットにはならない』という考えならば
平然とさばいて食べてしまいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ああ、そうですよね、狩猟には銃を使う!
餌で呼びつけられたら苦労はしませんものね・・・

たまにテレビで見ますよね、豚をペットにしている人。えー!という人が大半ですが、豚はペットに向いていないなんて発表もないですから、何をペットにしようがその人の勝手なんですよね。キリンを飼ってたり像を飼ってたり、人それぞれ感じ方、考え方は違いますからね。

お礼日時:2011/11/22 22:02

魚には「表情」がありませんよね。

 また、苦しみなどを感じてるにしても「そうとわかる鳴き声」もありません。(一部の魚種には、ヒレの擦り合わせなどで擬似的な発声もありますが)。
「かわいそうに感じてしまう要素」の多い少ない、が重要なんでしょう。多分・・・・

それに、魚は厳密な定義上の「共食い」も頻繁にしたりしますが、哺乳類あたりになるとネズミなどを除けばその頻度は一気に下がりますし、「子育て」とか「情」を感じる要素の有無もあるでしょう(魚も、遺伝子にプログラムされただけという印象が強いながら子育てする種類がありますが)

狩猟=悪と短絡的な見解の者・・・「自然=尊い善、人間=即ち悪」も多いですが、たとえば俺が狩猟免許を取得した目的の主要な狩猟鳥獣であるイノシシ様は、自然の豊かさが現代とは比較にならない江戸時代ででも、「イノシシケガチ(飢饉)」と呼ばれるような耕作地への蹂躙を日常的に行ってます。
それは、「ただ単に楽に食い物を得られるから」であり、イノシシが年貢を納められずに処罰された人間に、良心の呵責を感じたりするはずは無いでしょう。
日本各地に、鹿も対象ですが「シシ垣」と呼ばれる防護柵の名残は散見できます。

また、律令時代の権力者にとって、権力欲を満たすには「人を土地に縛り付ける」必要があり、そして同時に食料確保の一環として稲作に従事させる必要もあるので狩猟者を「悪」とする必要もありました。
自給自足でやっていける狩猟民は、彼らには都合悪いのです。 その一方で自分たちは武芸の一般として、狩猟をやってたりしてましたが、民衆が「稲作に頼らない」生きかたをするのを「悪」とする必要がありました。
そのために、仏教説話(殺生の~)も民衆に「刷り込んだ」のも現代に細々ながらあるのでしょう。

人間が狩猟鳥獣を哀れもうが、その鳥獣だってなにかしらの生き物を食ってるのです。
現代に限らないでしょうが狩猟を嫌うのは「生活の心配のない能天気」の「自分は心の優しい人間」だと思い込みたいお坊ちゃま・お嬢様趣味の一種です
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
結構感情が左右するんですね。たしかに魚が鳴いているところなんて見たことありません(笑
たしかに大半の生き物がなにか生き物を食べて生きてきているのですよね。プランクトンも生き物といえば生き物ですし。
ライオンが小鹿を食べている映像を見て、かわいそう~という人もいますが、結局は自分も食べているし、肉を見てよだれを垂らしている。
生き物に対する感情が鈍っているのでしょうか・・・

お礼日時:2011/11/22 21:58

>どちらも生物を殺すことなのに、どうしてこんなにもイメージが違うものか


狩りの対象と人間とどれくらい似ているか、は大きいですよ。
イノシシやシカやヤマドリは手足(翼)があって毛が生えていて温かいですが、魚は鱗で首が無くてエラ呼吸ですから、殺すのに抵抗は少なくなりますよ。
かけはなれた貝類なんてなんの抵抗も感じず煮殺したり生きたまま食べたりしますよね。
害獣駆除をする方でもサルなんかは撃つのは辛いというような事をいっていた記憶があります。

日本人にとってはイヌやネコは生活の友ですから食べづらいですね。
でも、ほんの50年くらい前まではバンカラ学生なんかは肝試し感覚で野良犬食べたりしていたんですよ。
日本では馬を食べますが、世界的には珍しい食習慣らしいです。イギリス人が聞いたらカンカンに怒り出すとか。

>動物は殺してもよい数(←なぜ?)が限られているというのはおかしいのではないのか
動物、というのはケモノのこととして回答しますが、要は生態系の上位にいる動物はそもそも数が少ないので数の制限をしておかないとあっというまに狩り尽くされてしまう可能性があるんですよ。生態数のコントロールはかなりデリケートなんです。
また、魚類でもマグロなんかには漁量の制限がありますし、サメにも漁をしてはいけない種類があったと思います。
貝でもカニでも、漁場単位で取り尽くさないように配慮されているはずです。


私は感情的には趣味の釣りや狩猟は嫌いですが、理性では仕事と遊びのグレーゾーン的な分野がなければ文化とは言えないかと考えて容認できます。
さらに、食卓に上がったものはアレルギーがあるもの以外はなんでも味わって楽しんで食べることにしています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
たしかに狩猟の的は哺乳類ですものね。人間も哺乳類ですから自分も気づかぬ間になにか似たものを感じたりしているのでしょうか・・・
たしかに、サメやクジラに捕獲の制限があると聞いたことがありました、一般の魚類もそうなんですね。
ああ、たしかに馬刺しという食べ物がありましたね・・・あれって本当に馬なんですね。名前だけかと。
グルメリポートでも当たり前のように食べていましたから、今思うと日本人って結構度胸あるなあと思います。昔は馬に乗って戦っていたんですからね。
何を食べて何を食べないか、その文化に対して怒るのは少し変かなあと思いますね。私は別に中国の人が犬を平気で食べていても怒りはしません。私だって牛豚鳥を食べて生きてきていますから。

1つの文化として考える、というのも1つですね。

お礼日時:2011/11/22 21:49

一般的ではないので、抵抗がある。

と言った方が良いと思います。

中国の一部では今でも犬や猫を食べます。
ジャングルの中では、カブトムシの幼虫や芋虫も食べます。

釣は、ほぼ全国民が行うかその行いを目にします。
しかし狩猟は聞いたことがあっても、その行為を見たり行ったりしません。

また、犬や猫は昔からペットとして飼われ、
今では家族になっています。
身近になれば、殺して食べる事に抵抗が出てきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
身近になってしまうと食べづらくなるものですね。私は、魚は、生きている姿より死んで料理された姿のほうが圧倒時に多く見てきました。しかし犬や猫は生きている姿のほうがはるかに多く見てきました。それも時代と場所が左右することなのですよね。

お礼日時:2011/11/22 21:43

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