アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

この質問は、意識的にこのカテゴリに出題しました。(^^;)

ユダヤ教やキリスト教(各宗派)、イスラム教(各派)、仏教(各派)

仏教系の新興宗教(阿含宗・・・桐山さん。幸福の科学・・・大川さん。

創価学会・・・池田さん。生長の家・・・谷口さん。オウム・・・松本さん。etc)

『神』は人間を神に?モーゼ、キリスト、ペドロ、釈迦、日蓮、ムハマンド・・・

多くの宗教は、神を崇めているのか人間を崇めているのかが私には理解出来ません。
自由な言い方で結構です。『神』か『人間』か・・・あなたはどちらですか?

A 回答 (14件中1~10件)

神はあまり信じませんが人間が凶器を作り人間が動物を減らし自然を壊して自分勝手な事をした人間…



ここまでやったなら人間が神を作って全部神のせいにしてるようにも見えないことはない
    • good
    • 0
この回答へのお礼

出題から24時間後の回答に少し驚いています。(^・^;)
回答頂きありがとうございます。

>神は余り信じない・・・

そうですね。『神』や『創造主』は人間が勝手に作った幻想かも
しれませんね。ここまで自然を破壊して於いて救いを求めるのは
ずるいかもですね。

昔は、大木や大岩などを神霊スポットに自然に感謝する習慣が
有ったようですが宗教に駆逐され自然信仰は風前のともし火です。

ボキャブラリーが無いのが悔しいですが『神』以上に地球の存在の
奇跡を言い表す言葉を知りません。

宗教は人間が作った最大の破壊兵器かもしれませんね。

このお礼を最後に質問を閉めますベストアンサーは選択しません。
回答者に感謝します。

お礼日時:2012/02/12 18:07

この質問に対する回答を成されている方々は 


宗教に関係しておられる様な方々が多く見受けられますが 少し驚いております
念の為に 私は
(1)無神論者であり特定の宗教団体には参加してはいませんし 参加の意思もありません
(2)仏教を純粋に学問として考察しております 
(3)仏教も信じてはいませんが 日本人として近しいとは考えております
(4)強いて言うと観音信仰がありますが 仏教とは必ずしも同じではありません
以上の事柄を前提に回答を申し上げました
念の為に表記致します

では失礼致します
    • good
    • 0

極論で応えれば「信仰を持つものは神を信じ、宗教(科学や哲学・思想を含む)を持つものは人を信じている」といえるでしょう。



私はカトリックから出発しました。しかし基本は自分の納得するところを求めたので、今は神を信じています。自分が中心ですから、どこの宗教にも入りません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答を頂き感謝致します。

私は『無神論者』と言っていますが困った時の『神』頼みを
よくします。(^^;)

今回の質問で想像以上に回答を頂きチョット驚いています。
フザケタ質問だ!馬鹿じゃ!等の批判はあっても気持ちを
感じる回答はないと思っていたからです。

私は『無神論者』を辞めようかと考え出しています。
『無宗教論者』に路線変更も有りかと真面目に少し
考えています。

地球の存在と生命の存在と言う奇跡の世界に生きている事が
『何か』の力なのか早く解答が欲しい様な欲しくない様な
そんな時間を楽しみながら苦しみながら許された時間の中で
考えたいと素直に思います。

回答に心から感謝致します。

お礼日時:2012/02/12 12:42

NO.8 の者です。


高いご評価を戴き嬉しく思っています。最終の一言はご指摘通り、極端に過ぎたか、カソリックだけを取り上げたことは、反省に値すると思います。要するに舌足らずでした。ごめんなさい。
多くの宗教が時の権力に取り入り、且つ、利用されてきたこと、中でもカソリックが世界的に影響力を維持している実態を主張したかったのです。しかも、神の名において戦争や他民族への支配拡大を正当化する、その為に利用され、利用されていることに抗議せず、むしろ誇りとさえしているところに、今日までの宗教界の迷走ぶりを感じています。
個々の宗派についての感想は差し控えたいのですが、創価学会の方の投書がありましたので、これに絞って私見を述べることお許しを。
創価学会は元々戸田城聖氏が、日蓮正宗の布教推進のために創設した、宗徒会員組織であったと理解しています。戸田氏は戦時中の弾圧に屈せず、投獄されながらも自説を堅持し、日蓮師の教えの拡大(広宣流布)に努めました。その説の詳細は残念ながら承知していません。戸田氏の後継とされたのが池田大作氏です。池田氏と戸田氏とでは、基本理念に大きな乖離があろうかと疑っています。池田氏に纏わる女性スキャンダルなどは無視するとしても、『王仏冥合』、政治を仏教の理念で取り仕切る理論には賛成出来ません。公明党と創価学会が一体的関係にあることは周知のことです。さらに、『不施不受』の日蓮師の立場が、あたかも教義で有るかのように誤解されているのも遺憾と言うしかありません。
日蓮師は、鎌倉幕府の元で政権に利用され奉仕することを拒否し、政権からの特別待遇をも拒否して『不施不受』の立場を取ったのです。その為佐渡流しの処罰も受けました。この言葉を誤用して、他宗派への排撃をこととし、地域での絆をも断ち切り、鎮守社への寄付行為も禁じ、他宗波での葬儀への参列や香典さえ供えない、社会的断絶行為に出ました。今ではかなり緩和せざるを得なくなっていますが。
池田氏ほど軽佻浮薄な指導者も少ないでしょう。ある時は『人間社会主義』を提唱してソ連に取り入り、時局が変わると公明党を一旦解党して新党政権に合流し、はたまた再建して自公政権にありつく。流れをみるだけで『日蓮正宗』の名に値しないし、場当たり主義と言わざるを得ません。
最後には大本山としてきた大石寺とも暴力的紛争の結果絶縁しました。この時点で宗教法人の資格も失っているはずですが、公明党の影響力で創価学会も生き残っています。
私は無信仰ではありません。万物に精霊が宿り、その万物も常に変転するものと理解しています。
葬儀に参列する時は、その宗派の仕来りに従って礼拝するよう、僧侶とも歓談しつつ学んでいます。その事が、最低限且つ心からの死者への手向けであろうと心得ています。
再度のご批判を期待します。

この回答への補足

回答を再度頂きありがとうございます。

補足蘭を使用してのお礼をお詫びします。
ANo10の方にも再度の回答を頂き同様なお礼をしました。

宗教や信仰の発祥は時代時代に生きた人間の優しさや
弱さと進歩や前向きさの表れだと思っています。

多分、宗教や信仰を無くす事は難しいと思います。

ただ、千年以上も同じ経典や教えを守る事で何かが歪み
疲弊してしまったのでしょう。
森羅万象、自然の営みの普遍的に感じることにも進歩、進化
淘汰が繰り返され変っているのに宗教は原点の回帰に固執
している様に感じ受け入れられないのです。

アンケートカテゴリを選択したのは正解を求める質問では無い
からです。当然、議論を求めるものではありません。
再度のご批判を期待云々の文章は私に対するお叱りと受け取ります。

楽しい回答をありがとうございます。有意義な質問でした。

補足日時:2012/02/12 12:11
    • good
    • 0

 回答を読んで頂きありがとうございます


私は反省しなければなりません と言うよりも反省するべきなのでしょう
御質問者様は非常に良く物事を論理的に考察なさっておられます
感服致しました
無知等とは誰が思う事でしょうか

御質問者様は しかしながら 神とその教えを混同なさっておられるように
私は感じました

神とその教えには 自ずと隔たりがあるものです
仏陀は 仏陀自身(肉体としてのもの)を信じる様に説法をしている訳ではありません
解脱への道を説いております それを信じる事は 仏陀自身を信じる事とは
少し違います 御理解戴けませんでしょうか
和光同塵
とは仏陀の教えを優しい言葉で観音様が人間に説いたものの事です
この様に仏陀の教えを観音様が説いたものが非常に多く観られる事からも御理解戴ける様に
経典とは誰が何を言ったのかの 伝え書き なのですから 
仏陀自身を信じる必要性は自ずとありません それが又理屈でもあるのです
しかしながら 皆が仏像を拝む姿は何処ででも見ることが出来ます
仏像 を拝む事は もの を拝む事なのです
かたちあるものは 信仰の対象としては とても簡単です
でも拝むから信仰の対象であるとは言えないのです
宗教は心の広がりを持ったものです そこに モノ が介在してはいけないのです
仏陀はものを見る目でさえ 物体ではなく心の成すものだと言いました
即ち 物質は この世には無く 心が森羅万象を見せていると 説きました
所謂 色即是空
という論理です
ものを 拝んではいけないのです 信仰の対象がモノである事自体が間違いを招くのです
偶像崇拝とは この様に
御釈迦様の骨
キリストの聖衣
モーゼの十戒
の様にモノがある事を前提に考えた場合の人間の在り様なのです

仏教も他の宗教と共に初期の段階は 偶像崇拝をしてはいませんでした
むしろ禁止しておりました このような態度が改められた背景には他民族の影響が強くありますが
イスラム教には未だ 偶像崇拝の動きはありません
だから最も神に近い宗教と言うのは 間違いです
どれも偶像崇拝は奨励しては居ません
しかしながら 拝む対象はあるか無いかでは 違います
でも拝む対象が在るからと言って そのものを信じているのでは無いのです
拝む対象が
信仰そのものに通じるならば仏像の数だけ信仰がある事になりますが 
これが間違いである事は誰の目にも明らかです

御書きの様に
仏陀は浄財も自己犠牲も求めては居ませんが 仏教は求めるのでしょうか
とありますが
求めてはおりません
神の教えを伝えたのか
とありますが
仏陀は神の教えを伝えては居ません
なぜなら 神は前述の様に仏教では重要ではないからです
般若心経にはこうあります
観音様が お釈迦様がこの様に言っていたと言われました
宇宙は引いて足してもいけない五つの要素から成っているのです
とあります
他宗教の預言者は宇宙を説いては居ません
説けば神を論じる事にはならないからです
しかしながら 仏陀は宇宙を説いています
神を信じると言う事は神そのものの存在を信じる事にも通じてしまいます
ここが恐ろしいところでもあるのです
仏陀の弟子で高名なものにダイバダッタ
と言う僧がありましたが ある日神通力に目覚めてしまいました
この事から仏陀とは袂を分けたとあります
仏陀はこれ程にも神を認めませんでした
しかし仏教の一派でダイバダッタを信仰する宗派がある事も又事実です
あるいは仏陀はダイバダッタを恐れていたとも書いた書物もあるそうです

御書きの様に
信じなくとも地獄には落ちないけれども救済もないのでは。。。。。
信じる必要はありませんが 求めなければ 又解脱も無い事は明らかです
これは方法論での話です
どの様に書けば 私の答えが御理解戴けるか 本当に難問ですね
文章の構成力不足で心からお詫び致します
真摯にお詫び致します

この回答への補足

重ねての回答にお礼を言います。

お礼欄でなく補足欄での返事をお許し下さい。
これは回答を求めるものではありませんので
御理解下さい。

私はお礼に重ねる質問をして失礼しました。
形式的なお礼文は感謝を伝える事に薄い様に感じ
他愛もない事を書く癖が有ります。(反省いたします^^;)

回答者の様に何かの宗教を深く学んだ事の無い人間です。
友人や知人、親戚が深く関わり勧誘の話に閉口してしまい
宗教を避けています。(^^)

丁寧に各問いに回答頂き恐縮します。

無知な愚問です。昨今のニュース等の怒りの八つ当たりだと
お見逃し下さい。

近年、地球が如何に奇跡の産物で太陽との位置や地軸の角度
スーパーコンピューター『京』でも計算できない星々の中で人間を
含めた自然界の生活の確率を考えると宗教の堕落を人間を導けない
神に苛立ちを覚えて愚問を冗談めかして出しました。

三蔵法師が持ち帰った経典は人間を何から救う目的だったのかは
判りませんが人間の遺伝子の中には自然の摂理が組み込まれている
と私は考えています。

宗教は人間が如何に自然の一部であるかを感じる心の阻害にしかなっ
ていない気がしてなりません。
科学が救うとも思えませんが科学は進歩しているのに宗教は枝葉を広
げるだけで進歩はしていない気がします。

それが倫理の発達の邪魔に成っていると感じるのです。

限られた人間の解脱や悟りより人間は奇跡のバランスの宇宙に存在す
る進歩と行動が出来る限られた生物なのだと理解する事に努力すべき
だと考えてしまうのです。

宗教を信じる方には敵対する立場です。お見逃し下さい。
長文を読んでくれたとしたら同情します。

補足日時:2012/02/12 04:00
    • good
    • 0

創価学会 壮年部の者です。



創価学会、釈迦、日蓮と有りましたので、回答
いたします。
勿論、創価学会信者としての回答です。

>多くの宗教は、

■宗教によって、異なります。


>神を崇めているのか人間を崇めているのか

■創価学会では、本尊に帰命します。
本尊とは、南無妙法蓮華経の曼荼羅です。
神でもなければ、人間でもありません。
釈迦でもなければ、仏像でもありません。

南無妙法蓮華経は、仏に成る法であり、仏に
成る種(仏種)です。

本来、こういった設問をする場合、宗教にお
いて一番重要なのが、本尊なのです。
本尊とは、根本尊敬する対象物で、宗教、宗派
により違います。
貴方が問いたいのは、実はこの部分なのです。

神を本尊とすれば神を崇め、仏像を本尊とすれば
仏像を崇めます。
もう少し解りやすく言えば、お金を本尊とする人
や、AKBを本尊としている人もいます。

信仰対象に、何を本尊とするかと言う事です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答をして頂きありがとうございます。

長文の説明を頂き感謝致します。

何か・・・詭弁的な説明の様な気がしなくもないかな~。
まあ、創価学会自体が法華経で仏に成る法だ種だと
浄財でないお金で曼荼羅世界に入る宗教(?)ですからね。

浄土と曼荼羅界と人間界は輪廻で繋がっているのですか?
人間以外は曼荼羅界に死後に入れるのですか?

不思議な宗教ですよね。池田さんの言いなりに成って仏は
怒りませんかね。

お礼日時:2012/02/12 01:20

ユダヤ教と同根のキリスト教・イスラム教は、神を造物主として崇める宗教です。


ヒンズー教もほぼ同様でしょうが、仏教は人としての生き方とか世のあり方について、理想を追求しようとする哲学です。
本来の宗教は、以上の理想を求めることに主眼がありました。
ユダヤ教は、エジプトを追放された民族が、モーゼの十戒を信じて生きるヨスガとしてしていました。
そこから派生したキリスト教は、本来、造物主から人民世界の救済のために派遣された『特別の人』を、造物の主神と同等以上に崇めています。ここから、人間界での『最高指導者』という、神と同格もしくはそれ以上の人、『特別な人』の存在が求められ、ローマ法皇が祭り上げられます。そして、これに飽き足らないとする多数の賢者?が生まれ、宗派が派生して行きます。
イスラム教は『偶像崇拝』を禁じ、アッラーを唯一神として礼拝する点で、本来の宗教の姿に近いと思われます。しかし、価値観の違いから色々な宗派が派生する点では、どの宗教でも同じです。
仏教は、ヒンズー教の教えを元に、釈迦が開いた哲学教派ですが、いつの間にか宗教化して、仏像や仏に拝祈し、救いを求めるようになりました。ここでも、多数の教導者が生まれ、釈迦と同等かそれ以上の地位に立ちました。
日本の皇室神道は、元々国作りの神々を崇める多神教ですが、明治維新に際して『現人神』としての天皇崇拝の形で,政治的に利用されました。
斯うして見てくると、人が神や仏或いはそれ以上に成れる筈も無いのに、成って仕舞っているところに、信徒とその周辺に悲劇が及んでいると思います。
古代中国の皇帝も、神の意志を実行する存在として、人民に君臨してきました。皇帝が神の意志に反すると見なされた時は、その血筋が交代させられました。これが『革命』と言う言葉の始まりです。
結論として、神、仏や造物主を超えるに値する人間は居るはずも無く、そのような人間を崇めさせたり社会に君臨させるような宗教は、全て『邪教』とするのが、私の宗教観です。
宗教各派に対する見解は、述べるに余白が足りません。
植民地拡大に動員されたり、神の名において戦争を仕掛けたりしてきたカソリックなどは、邪教の最たるものと思っています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

愚問に対して率直と感じる回答を感謝致します。

神と同等かそれ以上の地位。凄いですね。

アボリジニの生き方等は仏教に一番近い生き方でしょうか?

物欲私欲を捨てて自然の摂理に謙虚に生きる。

偶像信仰や寺院信仰・・・一神多神・・・哲学・・・?

昔は自然が『神』の世界だったのに宗教家は智者だったのに
いつの間にか人間は『神』の世界を破壊して宗教家は愚かな
人間そのものになってしまった。

歴史を考えたら宗教や信仰は人間にとって『両刃の剣』なのに
科学万能と表裏をなす事を否定して劣化しているのに政局を巻き
込んで自然を破壊する事に手助けしている。

回答者の思考の多くは共鳴を感じます。
最後の一行が無ければBA候補です。(^^;)

お礼日時:2012/02/11 20:59

 始めまして この質問はかなり回答するには困難がありますが


果敢に回答させて頂きます

あなたの設問は二つあります
(1)宗教の信者は神を信じるのか
(2)あなた(回答者)は神を信じるのか人間を信じるのか
と言うことですね

まず(1)から回答します
神の概念が各宗教により異なりますので一概には言えませんが
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は一神教ですから
信じている神は「エホバ神」です
ヤハウエとも表現しますが 日本語の発音でこの表記が読めませんので ヤハウエとなりますが
エホバと同じものをさしています
かたや 仏教では神の存在はありません 仏陀が神を明確に規定してはいませんので
所謂 神という概念が仏教にははっきりとは存在しません
在るとすれば それは仏教守護神
と言う 仏法を擁護する者になります 信仰の対象では在りません
又仏教は 他の宗教とは異なり平等は説いていません
むしろ 仏教世界では階層がはっきりと明確に規定されています
それは仏教曼荼羅を見れば明らかです

ご諮問中の
『神』は人間を神に?モーゼ、、、、、、、
のくだりでは 以下に書かれているもの全て仏陀以外は預言者です
神ではありません もちろん仏陀も神ではありません 又預言者でもありません
仏陀は単なる 人 です
しかし仏陀は覚醒した者 と言う意味もある様に
悟りを得た者なのです 悟っているからこそ
悟りへの道を伝える事が可能となるのです

多くの宗教と仏教を一緒に考察は出来ない論拠がここにあります
仏教は その意味おいて他の宗教とは 大きく異なる宗教であると言われています
なぜならば 仏教以外の宗教は信じる事が前提です
しかしながら 仏陀はその生涯において
自分を信じなさい
とか
信じなければ地獄に落ちる
とかは一切発言していない事になっております
これが仏教と他の宗教との大きな違いです
仏教以外の宗教は神の帝国を地上に実現しようとしている考え方です
この神の信託を受けた者のことを預言者と言います
だから支配者の弾圧を長く受ける事にもなったのです
キリストやマホメットやアブラハムは神の信託を受けた者
すなわち預言者ということなのです
しかし神は同じエホバでも 信託の内容が異なるので
各宗教に別れてしまっているのです 神の帝国を築く方法論が異なるからです
その意味においては仏教も解脱の方法が各宗派で異なりますから まるで違う宗教の様に見えますが
根本は仏陀なのです これは変わる事はありませんが
日本の各仏教宗派では
仏陀をその信仰の対象とはせずに
たとえば
阿弥陀佛
びる遮那佛
薬師佛
と言い習わして その信仰の対象にします
ちなみにに奈良の大仏は
びる遮那佛であり 表現の方法によって大日佛とも大日如来とも言います
仏陀ではありません

仏教が日本で成立してからは支配者の弾圧を受ける事はありませんが
解釈の方法で各宗派が対立した事は事実です
仏教は個人の解脱 すなわち西方浄土への行き方を説いており
成仏したい場合の方法論を教えているに過ぎないからです
これは非常に重要な事です
 
次に(2)の御質問ですが
あなたは神を信じるのか 人を信じるのかですが
個人的には 私は菩薩を信じています
しかし菩薩は 観音菩薩に代表される様に
人でも神でもありません
考え方の産物なのです(神も考え方の産物ですが)
この菩薩信仰は 日本にはかなり多く存在しています
菩薩の表現方法は あまりにも多く存在しています
たとえば
地蔵菩薩
普賢菩薩
日光・月光菩薩
不空菩薩
馬頭菩薩
観自在菩薩 これは言い方を変えると観音菩薩又は観音様
とか言います 最も知られている菩薩です
ちなみに菩薩とは 覚醒する手前の者の事です
だから人間には信じ易く 親しみ易いと言う側面を持っています
又この考え方の基本はペルシャ思想から来ています
この様なペルシャ思想は 元はゾロアスター教のものです
ゾロアスターが発言した内容を列挙したものの考え方です
発音を変えると
ツァラツウストラ
となります 一時期 世界一古い宗教と呼ばれていましたが 今はそう言う言い方はしません
この思想は広く世界中に分布しています
西洋に伝播して
エンゼル
となり
東洋に伝播して
菩薩
となりました
元は同じものなのです
由来は地上と天上界を行き来するものの考え方です
ところで宗教に由来してその会社の名前をつけた会社が日本には多く今も存在しています
キャノンという会社は特に有名です
CANON
と書いて
観音 と読みます 昔は観音カメラと呼びましたが 今は西洋風にキャノン
と呼びます 社主が観音信仰の持ち主だった事は有名です
又今のパイオニアも以前の社名は 福音電気製作所とか何とか 言う社名でした
勿論 社主がクリスチャンだったのです
誰が何を信じるにしても 身近なところから始める事は 大変に重要な事です
その先に何があるにしてもです

最後に 有名な言葉で 以下の様な言葉があります
もし気に入って頂ければ幸いです
『和光同塵』
と言う言葉です これは和光
すなわち観音力のことですが そのままでは人間にはあまりにも強力なので
少し柔らかく 塵のような人間にでも判る言葉で物事を教えよう
と言う言葉です
光を和らげ塵と同じくする
と言う言葉です
そう言えば 観音様は光の中から現れる事が多い事がうなずけますね
後光とも言います
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私の様な無知な人間の愚問に長文の回答を頂き感謝致します。

無知は恐れを知らない為に愚問を書けます。(#・・#)

釈迦の解脱(覚醒)は、生あるものは死ぬと自然の摂理を哲学的に
理論的に説いたと聞きます。
多くの説話がありますね。

>死体が怖いのは死が怖いの間違いだとか

仏教寺院の中に仏舎利を保管する仏塔があり
各寺院の御本尊とは別扱いとか?

信じなくても地獄に落ちないけれど救済もないのでは
同じ事では無いのでしょうか?
釈迦は浄財も自己犠牲も求めないのに仏教は求めるのでしょうか?

神の教えは自然の摂理にしたがえと説いたのではないのですか?

他の宗教で言う『預言者』とは違うようですが結局は神の教えを
伝えたのではないのですか?

回答者の『和光同塵』は誰の言葉を誰を使って後光の元に
人間に伝えるのですか?

回答者の回答が一番矛盾に感じてしまいます。
無知で御免なさい。理解出来ません。

他の宗教より自分には仏教が一番馴染んでいると
感じていたのですが一番矛盾して感じてしまいました。

お礼日時:2012/02/11 20:26

 人間です。



 私は常々思うんですが、どんな宗教の信徒であれ坊主であれ修行僧であれ、天上や別世界におわす神や仏を本気で信じ、意識がそっちに向いているようでは、真に宗教の意味を理解しているとはいえないと思います。

 近所の住職に仏の話を聞くと、御仏は人それぞれの心の中にあり、それを見つめ真摯に向き合うことこそ肝要、と仰いました。
 どこか外の、他の場所にあり手の届かない神や仏ではなく、人間の内面をこそ重視すべきと言ったのです。
 私もそう思います。
 宗教はつまるところ人間の精神という神を崇め誠実に向き合うものであり、成熟した信仰を志す者が見つめるべきは人間そのものではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答を、ありがとうございます。

回答者は『成熟した信仰を志す者が見つめるべきは人間そのもの』と
言うのは、信仰は人間の『心』・『精神』の中に有ると言うことでしょうか?
信仰する対象が人間の精神宇宙ですか・・・宗教か哲学か釈迦の問答
のようですね。

他の回答と微妙に違い気がします。
人間は、地球上で何処へ向かっているのでしょうね。
もう、地球を捨てて宇宙に向かっているのでしょうか?

人間は『神』とは別世界の生き物ですか・・・?

哲学的な回答に感謝致します。

お礼日時:2012/02/11 19:43

>自由な言い方で結構です。

『神』か『人間』か・・・あなたはどちらですか?

その宗教の信仰対象が神であるか人間であるかで答えは変わると思います。
私の場合、神という言葉よりも、創造主という言葉の方がしっくりきますので、回答は、「人間ではありません」。
主は私の人生を変える力は持ちませんが、私をこの世に生み出してくれた存在であり、私を愛して見守ってくれていると解釈します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

済みませんうっかりしてお礼が遅れました。
回答頂きありがとうございます。 m(・・)m

『神』を『創造主』にですか?(^^)両方とも好きな言葉です。


私は無宗教で無神論者です。

私だけでなく地球が奇跡の産物であり、世界の自然が奇跡です。
人間もその中の一つのピースです。

神に選ばれた民でも食物連鎖の頂点でも有りません。
宗教は人間の為だけの神の存在を認めているのでしょうか?

ノアの箱舟はエホバの啓示で作られたのではないのでしょうか?

最近、中国雲南省のハニ族の棚田農法や生活哲学、オーストラリア
のアボリジニ族の生活と自然哲学を聞くと悩みます。

現代人は文明の最先端なのに哲学は進歩が遅過ぎる。
神や創造主と自然との共生に人間だけ離れてしまったのは
宗教の所為ではないかと感じます。

釈迦もエホバも自然を大切にしろと言っていると思っていたのですが
私の誤解でしょうか?

そんな疑問で出題しました。(^^;)神頼みは得意ですが神が解りません。

お礼日時:2012/02/11 22:34

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!