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 アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。

 いわゆる地域主権について問うものです。

 ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?

 なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?

 それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。
 すっ飛びの仮説によって考えてみます。

      *


 1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。

 2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。

 3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。

 3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。

 3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。

 4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。

 4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。

 4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。

 

 5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?

 5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。

 5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。

 5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。




 6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。

 6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。

 6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?

 6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。

 6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。
 品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?

 6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。

 6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。

 6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。

 6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。

 6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。

 6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか? 

 6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。






 7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。

 7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。

 7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。

 7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?

 7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?

 7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

A 回答 (2件)

こんばんはです。



☆☆☆
>> 添え忘れたかたちになりましたが もしスサノヲ市民社会としてのムラムラに大政奉還が成ったなら その変革過程においてアマテラス公務員の・ムラムラへの文字通りのアマクダリを予定しています。
 優秀なアマテラス族にムラムラの役人と成ってもらって スサノヲ市民たちのために大いに仕事をしてもらう。これです。

僕は、
”一度、二階にあがって一階の対立の図式を見なければその対立構造の本質が見抜けない”。
つまり、
「スサノヲ市民が二階にあがって、一階の様子をよく観察したあと、再び、一階に戻ってくる。
これ以外に解決策はない!!」
と考えていましたが、
確かにこれは解決策になりえますね。
ふむふむふむ、と納得。

しかし、すぐに僕のアマテラス思考が、アマテラス世界の勝利のシナリオを描いてしまう。
そこで、
bragelonneさんにならって、
僕もすこしだけ古事記の世界観を使ってみました。

$1
本来、スサノヲ世界の平定のために遣わされた天下り人でしたが、
スサノヲ人の懐柔策によって、その共同体の一員ととなり、仲良く、幸せに暮らしていました。
しかし、この様子を見たお二階の人々は怒り、そして、河原に集まり、何やら相談をはじめました。
お二階の人々は、何か面倒ごとが起こると、すぐに集まって、会議をすることが好きだったからです。
そして、一階のスサノヲ人のことをまったく信じていなかったからです。
その話し合いの中で、おたがいにあれこれと智慧を出し合い、
その結果、
タケミカヅチというとってもパワフルでおっかないアマテラス人が一階に遣わされることになりました。
これに対して、スサノヲ人は無力でした。
なぜなら、彼らは草食系の人々(青草人)だったからです。
《粗野でぼんくら》だったからです。
どうして、スサノヲ人が
肉食系(弱肉強食の受験社会出身)の、(理論)武装をしたアマテラス人に戦って勝てるでしょう。
こうして、一階は瞬く間に平定され、
ふたたびお二階の人々の支配を受けることになりました。
めでたし、めでたし。


あるいは、
$2
数の少ないうちは、天下り人はスサノヲ人と仲良く暮らしていました。
天下り人はスサノヲ人のために、本当に、一生懸命働いたのでした。
しかし、天下り人の数が一人、また、一人と増えるにしたがい、
彼らはスサノヲ人の知らないところで密会し、色々な話をするようになりました。
天下り人は、元お二階の住民だったからです。
すぐに仲間同士が群れ、色々なことを相談する、というアマテラス人の習性が残っていたからです。
そして、ある日のことです。
天下り人同士で話し合っているうちに、
何だか、元のお二階の世界がとっても恋しくなり始めました。
でも、お二階は、もうありませんでした。
「ならば、一階を、自分たちが元いた二階のようにするしかない」
だれも、そのことは口にしませんでしたが、
多くのアマテラス人は、心の中でそう堅く決意しました。
天下り人は狡猾でした。
すぐにその(悪)智慧を働かせ、スサノヲ人に気づかれないように、
色々な決まりごとを作り、スサノヲ世界を少しずつ変えていきました。
《粗野でぼんくら》なスサノヲ人は、一階が変わってゆくことに気がつきませんでした。
その変わる早さがゆっくりだったからです。
本当に、本当に、ゆっくりだったからです。
そして、スサノヲ人は、ある日、
一階の世界が、元の一階の世界とすっかり変わっていることに
気がつきました。
でも、気がついた時には、もう手遅れでした。
スサノヲ人は、天下り人の決めた決まりごとで身動きがとれないようにされていたからです。
スサノヲ人は、すっかり変わってしまった自分たちの世界をみて、
目に涙を浮かべながら、こう呟きました。
「こんなはずではなかったのに。天下り人なんかを信じた、俺たちがバカだった」
と。



今の時代、$1のシナリオは考えにくいのですが(でも大政奉還が中途半端なものなら起こりうる話です)、
大政奉還後に$2のシナリオは起こる可能性の高い話です。
数が少ないうちは、天下り人の力は無力ですが、大政奉還後、一気にその数を増やしたならば、
(悪)智慧が働く狡猾な天下り人の力は強力です。
すぐに群れ、集団謀議をし、口では「スサノヲ人のため」と言いつつ、
天下り人が住みやすい世界へと少しずつ変革してゆくからです。
その対抗策、防止策は、スサノヲ人にありやなしや。

bragolonneさんは、いかがお考えですか。

僕は、
大政奉還後、天下り人の力を借りるというbragelonneさんのお考えは、非常にリスクが高い
と思いますが…

この回答への補足

 ねむりねこにゃあさん あちらの質疑応答があまり長くなると yy8yy8az さんに言い訳が成り立たないように思われますので こちらに移りました。

 でもこれだけ説明していただきましたので あとはかんたんな応答になります。

 正直に申せば ブディズムの理論立ては高度に優雅な詭弁であるように感じています。
 そして そのように詭弁に落ち入るかに見えるのは どうもけっきょく ブラフマン(およびアートマン)の有神論を否定することに腐心することより起きている現象なのではないか。と考えられます。

 無我説を論理的に徹底させることよりも そうではなく ブディズムは 堂々と無神論であると宣言して じつはその限りでは 一般的に見て神の議論としては確かに類型的にブラフマニズムと似ていることになる。と認めればよいのではないか。

 言いかえると アートマン説とアン-アートマン説とは 神学としては 同じ類型を採ることになる。とそのまま認めれば済むことのように考えられます。






 例によってぶらじゅろんぬ流の議論は分かったようにしゃべることになりますが ひとつ皮肉を言うとすれば こうです。

 ○ 輪廻を繰り返す存在が 永遠の人間である。――という理論であるように見受けましたが ちがうでしょうか?

 と。もしこの皮肉をくつがえすとすれば 次のように条件づける必要がないでしょうか?

 ○ ブッダとしての(ないし仏性としての)《自性清浄心》が 不死であり アン‐アートマンなる常住なのである。無我が 永遠の存在である。

 と。そして それもこれも 

 ○ 法身仏

 という想定およびそれとしての大前提によります。

 ★(【Q:色心不二・・・】回答No.13) ~~~
  (う) 《報身》は イエス・キリストとどう違いますか? 《イエスはキリストである》は 《真理の生きた姿》であると言えるように思いますが。

  つまりイエスは 《応身》でありましょうし 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》は 《法身》であるように受け取れますが どうでしょう?

 仏教の仏身(三身論)に当てはめれば、そう言っても間違いがないのかもしれません。
 bragelonneさんの考える
 《キリストとよばれるところの・神の子であり神である存在》
 は、
 仏教でいう《法身仏》、
 少なくとも僕の考える《法身仏》のイメージにきわめて近い考えだ、
 とかねがね思っていましたから。
 ~~~~~~~~~~~~



 これで ブディズムとヒンドゥウイズムとは 手を結び得ます。よね。クリスチアニズムともです。

補足日時:2012/05/22 20:12
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 もう おねんねの時間ですが かんたんにお応えしておこうと思いました。


 わたしは 国際関係論にしてもそして特に安全保障論が どだいうとい者ですが もし次のふたつの条件が満たされたならば 大政奉還の道は首尾よくすすめられると考えています。

 ひとつは 第二階の言わばスーパーヤシロ(つまり アマテラス公民圏)は ふつうのヤシロとしての市民社会を成すムラムラの連携 これを調整する最小限のしごとをつかさどる機関に縮小されるということです。
 もう国会などはなくなります。ムラ議会とその連合が 共同自治の主体となる機関です。ですから クニのレベルでは 調整機関が残るであろうと思われます。

 もうひとつに 同じようなことですが けっきょく安全が保障されなくては やっていけないわけですから いまのムラムラの連合は けっきょくほかのクニのムラムラともインタナショナルに連合し連帯していくしかない。これです。



 ひとつのムラは クニの内外にわたって いくらかのムラと特別に連携するというかたちです。
 文化・経済そして共同自治において 連帯します。
 文化の交流とともに 留学や仕事の交流。
 企業を巻き込まねばならないでしょう。
 ムラ議会は 連携したほかのクニのムラの人たちをも議員にえらぶ。つまり互いに議員を選挙します。

 つまりは ほかのクニグニもアマテラス公民圏の自己解体を インタナショナルなインタムライズムの制度のもとに 促し実現させていく。ということになると思われます。





 これらの条件のもとに スサノヲ市民圏の主権回復の道をすすめて行くならば まづシナリオ$1は ないでしょう。
 財政なりあるいは大きくクニの経済なりが立ちゆかなくなるのを回避できたとすれば ありうるシナリオかも知れません。たぶん 回避できたというケースはないのではないか。
 すなわち
 ★ ~~~
 今の時代、$1のシナリオは考えにくいのですが(でも大政奉還が中途半端なものなら起こりうる話です)、
 大政奉還後に$2のシナリオは起こる可能性の高い話です。
 ~~~~~~





 そこで $2のシナリオですが それぞれのムラの実質的な運営を むかしのアマテラスびとが一手に引き受け その意味で天下人になるという内容ですよね。

 たぶん それでよいということになると思います。
 元アマテラス族にムラムラを牛耳ってもらってかまわないのではないでしょうか?



 お二階がないというだけで 風通しはどれだけよいものであるか。
 あとは ムラムラを破産に追い込んだりするのでなければ 元アマテラス人に王さまになってもらってかまわないと思いますよ。

 スサノヲ市民圏の中でその生活世界を 経営者団体としてのごとく元アマテラス人たちが乗っ取る。これは 見方を変えてみれば スサノヲ市民一般が そのようにアマテラス人たちを使っているということですから。雇用者なわけですから。そしてこの生活世界は スサノヲにとっても元アマテラスにとっても 同じひとつの場ですから。

お礼日時:2012/05/21 00:58

bragelonneさん、こんにちは。



今回の質問を、
「あれ、bragelonneさん、どうしてしまったんだろう? 壊れてしまった?」
などと失礼なことを考えつつ、
笑いながら、拝読させていただきました。
(実は、これを書いている間も、笑いが時々、こみ上げてきています)

bragelonneさんもすでにお気づきだと思いますけれど、
僕は、アマテラス語方言を重視し、それを使ってあれこれと考えますので、
今回のスサノヲ側からの反旗・反乱に戸惑い、当惑しております。
なので、
《今回の質問の内容をよく吟味し、じっくり検討してみたいと思います。
しばらくそのお時間をください。》
とアマテラス的・官僚的答弁(笑い)。

でも、素朴な反論。

☆スサノヲ市民に大政奉還をしたら、
小さなコミュニティー・ムラの間の利害関係の調整はできないのではないか?

 5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。

 5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。

では、S-S連関、A-S連関として、この問題を少し扱っていますけれども、
S-S間の(利害対立)は、スサノオ語方言、その特性ゆえに、それにもとづく思考、表現が、普遍性・一般性を持ちえない以上、その話し合いによっては、解決・調整が困難なのではないか。お互いの利害を主張し合うだけでおわってしまうのではないか。
どうしても、アマテラス語方言・アマテラス思考が必要なのではないか。
つまり、一度、二階にあがって一階の対立の図式を見なければその対立構造の本質が見抜けず、
根本的な解決にならないのではないか。
スサノヲ市民にすべてを任せたら、利害対立が先鋭化し、最終的には暴力による解決に発展するのではないか。

などなど、アマテラス語方言を使う僕は心配してしまいます。
これがアマテラス語方言を使う人間の傲慢・思い上がりなのでしょうね、きっと。

たぶん、スサノヲ語方言・スサノヲ社会にも、その閉じた体系の中にも互いに共有しうる一般性はあるのでしょう。
ただ、スサノヲ論理の一般性が利害の対立に役立つものなのかどうか、が僕は心配です。

コミュニティーの最小単位は個人なので、
ホッブズのいう「万人の万人に対する狼」状態になるかもしれない。
その世界では、財産や権利の侵害者に対する殺人をも正当化されるのでは。
まさしく、荒ぶる神・スサノヲの世界の出現!?

などなど、アマテラス型住民の僕は、余計な心配しております。
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この回答へのお礼

 そうですね。今回は 深謀遠慮がないか それとも 深謀遠慮そのものであるか 見方が分かれましょうね。
 質問者は 後者の見方に立っているわけですが まづは ねむりねこにゃあさん ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 今回は 四の五の言わず ひとことたたき台の趣旨をおぎなって よろしかったら バトンタッチをしたいと思います。


 添え忘れたかたちになりましたが もしスサノヲ市民社会としてのムラムラに大政奉還が成ったなら その変革過程においてアマテラス公務員の・ムラムラへの文字通りのアマクダリを予定しています。
 優秀なアマテラス族にムラムラの役人と成ってもらって スサノヲ市民たちのために大いに仕事をしてもらう。これです。

 たぶん このひとつの事で おおよその疑問には答え得ているのではないでしょうか?







 あと一点です。《くにゆづり》という主題にかんしてです。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ というわけでありまして 日本人スサノヲたちは 粗野でぼんくらですが
 ★ ~~~~
 コミュニティーの最小単位は個人なので、
 ホッブズのいう「万人の万人に対する狼」状態になるかもしれない。
 ~~~~~
 ☆ とは成らないでしょう。《スサノヲらのあいだでは 人は人に対して狼ではなく ゆづりあいの気持ちがつよい》ようです。

 《万人の万人にたいするたたかい》には成りませんでした。アマテラスからの使者がやって来て服属せよと言ったとき 主戦論も非戦論もいづれも人間の弱さによって採る道である――なぜなら 服属せよといった帝国主義を推し進めなければならないとしたら それこそ人間の弱さのなせるわざなのであるから―― ゆえに非戦論をえらんだ。これが イヅモのクニのスサノヲないしその子孫のオホクニヌシらの考え方でした。

 すべての人を得るために すべての人に対してすべてと成った。これが ゆづりあいの精神です。

 イヅモに身を落ち着かせてからはスサノヲは わが心すがすがしという宣言のもとに 自分たちの共同体をいとなむようになったのでした。それゆえにこそ――あのスサノヲらが たのしそうに社会をつくって共同生活をいとなんでいるなんて そんなわけはなかろうと踏んだそれゆえにこそ―― アマテラス帝国からは 侵略の手が伸びて来たわけでした。




 ねむりねこにゃあさんは こりゃあどうも《折伏》のやりがいがありそうですね。

お礼日時:2012/05/20 18:35

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