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昨日の自分と今日の自分は同一です。連続的です。
昨日考えたこと、感じたことを思い出せます。

しかし、更に過去に遡ると、私の場合は中学に入る前あたりから思い出せません。
当時持っていた感性が既にないみたいで、無味乾燥な記憶しか出てきません。
つまり現在(23歳)の自分は中学生あたりに生まれて、それよりも以前は別の自分が
存在しているような感じ、うまく言えないですが、一身にして二生を経るような、
小学生から中学生になるにあたって人が変わってしまうような、そんな感じなのですが、
皆さんこの感じ分かりますか?

そしてこの感じってなんなんでしょうか?

回答よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

自らの人格の変貌を顧みて、というところでしょうか


心身の成長期においての自然な変化だと思います。
その時は、自分が変わったとは思わなかったけれども
振り返ってみると、やはり変わっていた、ということなのでしょう。

中学生になった頃から、扱う知識や情報の量がしだいに多くなり
それと共に心が変化していった、という事だと思います。
ちょっと難しい言い方になりますが・・・
自分も含めて世界が変わったように感じられるのは
知識や情報のせいだけではないと思います。
新たに扱う情報量が増えてくれば、それと共に感性の働きの変化や、内面的な時間の変化といったものも起きてくるように思います。
情報と共に感性や時間の質も変わってしまうように思います。
小学生の頃にあった、そうした情報感覚が変わってしまったのでしょう。
そのことは、成長期における精神の発達にともなった自然なことだと思います。

今現在は、23歳と仰っていますから
失礼ながら、精神の発達のピークを迎えつつある状態だと思われます。
感性や意志の働きが最高に近い状態ではないでしょうか。
扱っている知識や情報の量は、過去とは比べものにならないほど多いはずです。
内面的な時間は加速され、外の世界はゆっくりと進んでいるように見えるといった事もあるかもしれません。

>しかし、更に過去に遡ると、私の場合は中学に入る前あたりから思い出せません。

中学生になる頃から記憶情報の変化が起きたのではないでしょうか。
以前の記憶は、まったく失われてはいないとは思いますが
印象に残っていないということは、そこにあった情報感覚が必要ではなくなったことを意味しているのだと思います。
まだ消去されてはいないけれども、記憶の片隅に整理されたのだと思います。
知識や情報を新しく求めていくところに、次々と、必要なものは大切に保管され、不必要となったものは削除されていく傾向があると思います。
そして、そこにあった感覚的なものも同じように扱われるのだと思います。

失われた過去の印象があっても自然だと思います。
むしろ、それがない事のほうが不自然です。
ただ、奇妙な感じに受け止めざるを得ないというのは、
今の感覚と過去の感覚のギャップに気付いてしまうからだと思います。
多分40代後半になってくると、そうした感覚の違いをもう一度味わうことになってくると思います。
二生から三生になってくるようです。

自然なことなので、あまり気に留めないほうがいいと思います。
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先日TVで実話として描かれたことですが、突然直前までのすべての記憶を失って一年間を過ごし、再び自分を取り戻した青年のはなしがありました。

大きな精神的、あるいは物理的ショックでそういうことがまま起こるそうです。
貴方は10年前にそういったショックを受けて記憶をなくしたのかもしれませんが、無味乾燥な記憶があるのならそれとは違うのかもしれません。私はそういったことを経験していないのでどんな感じなのか判りません。
いずれ、たかだか10年前のことなら貴方の身近な人に聞きまわって自分の「前世」を(再)確認することは可能なのではありませんか。

私は(半世紀以上昔の)子供の頃のことは比較的よく覚えている方だと思いますが、三島由紀夫が「自分の生まれた時の事を覚えている」と書いたこととよく似た幼少のきおくもあります。大方は誰かに後年聞かされたことを自分の記憶とごっちゃにしているのだろうとも思いますが、そうとも思えないふしもあります。不思議です。もっとも最近は、昨夜のおかずの中身も覚えていない状況ですがw。
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ルソーでしたか 人は二度生まれると言ってますねえ 第二の誕生が中学生の頃というのもあるかもしれません



理性的に自分を見るのでしょうね

しかし50才の私も昔の記憶は断片的で 妙に覚えてることと すっかり忘れてしまってることとあります

その理屈で言えばどこからが第二の私なのか分かりかねますね。

おそらくは私も中二の頃色々考えるようになりましたので、その頃なのでしょう

しかし小学生の頃の心や知識も今も心にあります 雨ニモマケズを憶えました 今でも言えると思います

その雨ニモマケズは宮沢賢治から伝わってきました 宮沢賢治は教師もやりましたので

いろんな研究もしています。化学等にも通じていたようです この知識や教育に使った精神は

様々な本や法華経から来ていたかもしれません

様々な本を書いた人 その人が読んだ本や見た自然とかを辿っていくと何千年、何万年 いや何千万年・・・

ビッグバンからの因果律で出来上がっているわけですから

ちょっと大げさですが 一身の二生もどちらもビッグバン DNA 魂 精神 情報で繋がってる訳です。

人間は二度生まれる。一度はこの世に生を受けて。もう一度は人間となるために

生命と精神の違い 動物としての人間と精神としての人間の違いと考えることができるでしょう。
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 自分は、#9さんと供に、この中ではけっこう「年食った」ほうだと思いますが、それが・・・、



  「あの頃は若かったなぁ~(ガキだったなぁ~)」

  「若気の至りだったな・・・」

  「若い時は、無茶したよな・・・」

  「俺はあの時、何にもわかっちゃいなかったんだよな・・・」

  「あの頃は、良かったな・・・」

  ・・・

の感覚だと思います(^^)。それは「ひとまわり」を、4回も5回も重ねなくても、感じるものだと思います(^^)。
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 こんにちは。



 ★ つまり現在(23歳)の自分は中学生あたりに生まれて、それよりも以前は別の自分が / 存在しているような感じ
 ☆ だと言うことでしたら その記憶のほとんど無い時代は ゼロなのではないですか? 《別の自分》の正体はいかに? ということだと考えます。

 ★ ~~~~~
 更に過去に遡ると、私の場合は中学に入る前あたりから思い出せません。
 当時持っていた感性が既にないみたいで、無味乾燥な記憶しか出てきません。
 ~~~~~~~
 ☆ 《無味乾燥な記憶》はあるから 《別の自分が存在してい》たと捉えるのですか?

 けれども どうしてその記憶だけの存在が 今とは別のものだと見るのでしょう?

 つまりたとえば 幼いころの《あいまいな自分》が 或る時からはっきりした自覚のもとに《わたし》として存在するようになった。とは 捉えないのですか?


 ★ 小学生から中学生になるにあたって人が変わってしまうような、そんな感じなのですが
 ☆ と言っても 以前の自分はそれとして何らかの人として存在(つまり記憶)しているのではないのでしょう? 《変わった》のではなく あたらしくものごころがついて自分の存在を自覚した。というだけのことではないのですか?


 ★ 一身にして二生を経るような
 ☆ ではなく そうではなく 中学生ころからはじめて自分の一生が始まったとは 認識できませんか?

 つまり そういうふうなゼロからの出発であっても それは以前と以後とは《連続》しているというものです。

 要するに 記憶のとぼしい時代について いまとはどう違うか? これをもう少しはっきりと述べて明らかにして欲しいと思いますが どうでしょう?
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自身のアイデンティティーの根拠は記憶です。


その記憶は古いものから消えていきますから仕方がないでしょう。
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人間は、強い抑圧やショックから来る記憶の欠落が出る場合があります。


無味乾燥な記憶でしたら、抑圧からの可能性が強いと思えます。

その場合、自己防衛のため記憶ごと過去を封印してしまっているのですが
その事について(心や意識が)受け止められる状態になれば、記憶は蘇ってくることがあります。

子供の時の記憶がない人も事実それなりにいて、自分を整理したら過去の記憶が
出てくるのも自分で体験済みです。

ある意味、人生をやり直すためのことでもあり気にせずに過ごせるならそれでもいいのですが
どうしても気になるのであれば、勇気を持ってパンドラの箱を開けるのも
悪いことではないと個人的には思います。

当時の問題が、生きるのに重くなり過ぎて解決を先送りにしてるとも捉えられる現象だとも思っています。
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>私の場合は中学に入る前あたりから思い出せません。


当時持っていた感性が既にないみたいで、無味乾燥な記憶しか出てきません。

自我意識や概念というものが発達していない状態では、記憶の継続性というのは起こりにくいのではないかと思います。

他の回答者様も述べておられましたが、昨日と今の自分が同一であるという意識はよくよく考えれば不思議なことです。

例えば、過去の記憶をデータベースシステムのデータとすれば、現在のデータベースの不具合や性能低下によって過去の私の像も変化するわけです。
それは、過去が固定的に存在するものではなく、現在の私により再解釈されつづけることを示しています。

結局、昨日の自分は今の私の解釈でしかないことになります。

では、解釈とはなにか?
解釈とはエネルギーの節約であると考えます。
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人は半年ほどで体を構成するほとんどの細胞が入れ替わるそうです。


つまり、物質としての体は半年前とは全く別の物に入れ替わっている訳です。

これを繋ぐものは何かと言えば、多分記憶だとか感情だとか言うものでしょう。
つまりはソフトウェア…

新しいパソコンにごっそりファイルやプログラムを移せば同じになるのと一緒ですね。
ただ、人間の脳に忘れるというパソコンには無い機能がありますから、結構記憶も年とともに曖昧になってゆきます。
忘れることもあるでしょうし、その後の経験と混同してしまうこともあるでしょう。
あるいは思い込んで実際に無い経験をしたかのように感じることもありますよ。
昔読んだ本の内容が自分の経験のようにリアルに感じてしまったこともあります。

数十年ぶりに会った友人などと話すと結構食い違いを感じる事があるのはこういう理由で同じ経験をしても記憶としては食い違いが生じるって話だと思います。
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そしてこの感じってなんなんでしょうか?



○染まってしまったんですね。紺屋の白袴といいますが、元の布地は白いのですね。それを染めて紺色の袴になるのですが、紺屋は自身の袴を染める暇がないということですね。
ほとんどの人はこの世に染まってしまうのですね。そのほうが生きやすいからですね。老いて死ぬ前になると完全に染まって死を恐れますね。死んだら何もなくなる。自分もなくなるとね。でも生まれることはもっと神秘的ですよ。なんにもないところからポコッと出てきますからね。出てきてすぐ何らかの意思表示をし、数年も経てば一端の人ですよ。この頃が真っ白な袴ですね。中学生ぐらいからですか染まってくるのは。周りを気にしてみんなと一緒とかね。カッコが良いとか、成績が良いとかね。それまでの純粋無垢な考えや理想がなくなっていきますね。20代は彼女を求め30代になると一端の人間?というか動物ですね。
心が無垢のままでいられる人は少なくなりますね。人の心が動物の心になるのが中学生ぐらいからということですね。静かな環境で振り返れば思い出すことはできますがやる人は少ないですね。それが立派な凡人ですね。
心は生まれる前も生まれてからも今も、死後も続いているもんですよ。心自体は不死ですから永遠の今を生きているのですね。それは誰しも同じですが、年とともに今の今を生きているようになってしまうのですね。
「三つ子にもわかることが年を重ねるごとにわからなくなる。」これは鳥窠禅師が白楽天に言った言葉ですが学ぶと良いですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/11/24 01:20

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