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九州の南方から台湾に伸びる島々は「南西」諸島と呼ばれていますが、なぜ「西南」諸島とされなかったのでしょうか?

方位については、日本語では東・西・南・北、英語ではNorth, South, East, Westの語順が一般的ですので、日本語の東北は英語ではnortheast(逐語訳では「北東」)、東南アジアはSoutheast Asia(逐語訳では「南東」アジア)になるように理解しています。(地理学に大きな影響を持つ(?)ドイツ語の語順は私は知りません。) 

日本史上の「西南の役」、「西南戦争」は日本語の発想では自然な語順ですよね。同様に考えれば
「南西」諸島は、日本の本土(もしくは九州)から見て西南の方向にある島々だから日本語の発想と語順からすれば「西南」諸島であってよかったはず、と考えるのですが。

命名が比較的新しく、英語なり西洋の地理学の影響を受けてのことなのでしょうか?
私は地理学などは素人なのですが、英語学に興味を持つものです。
なにかヒントがあればいただけませんか?

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A 回答 (8件)

そういうことです。


地理学・地学的名称として、国際的に認知される名称は「琉球弧」ですが、
琉球弧とは、日本列島西南端の九州島から南約1,260kmの洋上に199余の島々が花緑のように分布し、
地理学上で「南西諸島」「琉球列島」などと総称される。
現在の行政区分上では北半分の薩南諸島38島は鹿児島県に、
南半分の琉球諸島161島は沖縄県に所属する。

南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、
それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されていた。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、
それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されていた。」の部分はとても興味深いです。

お礼日時:2013/03/30 10:30

NO.5で NO.4への補足にお答えしましたが,お読み頂けましたか?



『新詳高等地図-3版・帝国書院-昭和47年』には,種子島・屋久島・奄美諸島を「薩南諸島」とし,沖縄県地方を「琉球諸島」と記載しています。
『南西諸島』の呼称は,沖縄施政権返還後の一括した呼称かと思われます。

直ぐに回答の欲しい質問にしては,ご質問以来一ヶ月になります。
上記回答は,役に立ちませんでしたか?
間に合わない回答でしたか?
何の参考にもなりませんでしたか?
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ロジックはないでしょう。

最初にその言葉を作った人の感性と、それを広めた報道、出版、教育などの定着が理由ですね。方角を示す時は、時刻や郵便番号のと同様で、入れ替えてはいけませんが、漢字で地名を書く際には順序を気にする必要がありません。流れでそうなっているのだと思います。
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日本語では、東北地方、東南海、西南海、都の西北、などは、ごく普通の表現です。


もちろん、北西、北東、南西、南東も、ごく普通の表現です。
地域名はどは、固有名詞であって、方位や方角の表現とは異なります。(東北地方、東南海、西南海、都の西北は、地域名です)
十二支で示す、八卦の八方向で示すのは、それで慣れていれば問題ないですが、少しの量(四方の4名称)をある原則で組み合わせた方が便利だと思って教育で方位の示し方の原則を普及させると、従来から使われていた言い方に単純方式が後から混じるので、ごちゃごちゃに見えるだけでしょう。
地理は方位や方角を単純に示すことではなくて、その地域地域の状況を見て違いや共通性、その特徴をみるのであれば、単純方式で統一しようとするのがおかしいでしょう。 同じような地形でも地域地域で独自の呼び名があって当然です。
英語でも、Southeastが方位、方角を示すのであっても、地域名の呼称はいろいろなのではないでしょうか。
http://www.luventicus.org/maps/unitedstates/west …
NORTHWEST、NORTHEAST CORRIDOR、EAST SOUTH CENTRAL STATES、NORTHEASTERN UNITED STATES、EAST NORTH CENTRAL STATES

日本語では、方角のことを東西という場合もあります。東西南北という場合もあります。 
東西が基本なので、東北、西南、西北、東南は、四方位から八方位に広げる場合は、自然な発想です。
中国でも、東北、西南といいます。
海を航行する、軍事作戦で進路や展開、標的などの方位をきめ細かく示そうとする場合には、これら自然発生的な方位呼称ではなくて、単純なやり方が優れていますから、現行の北を基準に時計回りの方位角、北をNo1、南をNo2として、東西を組み合わせるような方式を増やしてしまったダケだと思います。
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NO.4です。

補足にお答えします。
私は外国語は苦手ですので,完全なお答えは出来ないと思いますが。
日本史的視点で,書き忘れていたことがあります。古代文献で,東海道・東仙道など,『道』で表される地域名があります。近国と遠国の中間に中国がありますが,山陽道(または中国道)山陰道と,四国地方も中国に当たりますが,こちらは「南海道」と呼ばれています。主なルートが船便であり,道後温泉が主要港湾として利用されたことにもよります。従って,南海の諸島を『南海』とは呼びにくかったかと推測します。
地理的方位表示には,国際的にも南北を基準とする習慣があります。北東や南西等の表現法,東南東とは言いますが,東東南とは言いません。北北東・南南西とは言いますが,北東北や南西南も使いません。地域名としての東北は,「東国北部」を指します。
『新詳高等地図-3版・帝国書院-昭和47年』には,種子島・屋久島・奄美諸島を「薩南諸島」とし,沖縄県地方を「琉球諸島」と記載しています。奄美返還数年後,小笠原,沖縄返還交渉時点での編集かと思われます。
『南西諸島』の呼称は,沖縄施政権返還後の一括した呼称かと思われます。
誰が言い始めたかは定かでありません。
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地理の問題と考えるからややこしくなります。


近世まで,中国地方以西は『西国』と呼ばれ,特に九州各地を指しました。
古代では,朝廷所在地から見て宮廷の置かれた地域を『畿内』,比較的近い国々を『近国』,遠い所を『遠国』と区分し,朝廷への租・庸・調に差を設けました。その頃の諸島で『国』とされていたのは隠岐と対馬ぐらいで,後に種子島加わりました。
『西国』の南方で起きた,薩摩が肥後や日向を巻き込んで戦乱の地とした事から,『西南戦争』と呼ばれました。
奄美大島は古くから日本領とはされていましたが,国でなく『島』とされていました。奈良時代,一時領土放棄の通達が出され,これに反対する島民が九州を襲ったという記録もあります。
その後,明治政府が琉球国であった沖縄をはじめ,南海の島々を正式に領土化したときから『南西諸島』と呼ばれるようになりました。
歴史地名の問題と見れば,すっきりすると思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

(A)
まず私の今回の疑問の視点、私の今回の立場についてまず補足させていただきます。

私の今回の疑問は以下の2つ
(1)日本人からの、日本史の視点
(2)外国人からの、世界史の視点
の視点をどう翻訳・通訳するかといった点からの疑問で、いわば比較文化の視点からの疑問です。

これは、日本人の目から見れば十分説明できることであっても、文化を異にする海外の人からすると不思議な事象をどのように説明すると、ある程度理解をしてもらえるのかという視点です。

たとえば我々がしゃべっている言葉を、国語という視点で見る立場と日本語(ニホンゴあるいはJapanese)という視点で見るのかで見方が異なってくる場合があることともよく似ているように思います。

(B)
さて、kamobedanjohさんが教えてくださったことで私にはよく理解できない点です。

ご説明では、日本史の視点では
「西南」戦争は「『西国』の南方で起きた」から  → なるほど。

一方、「南西」諸島は「南海」の島々だから →  ?
だったら、「南海」諸島、もしくは「南島」(これはkusirosiがご紹介くださいました)でいい訳ですが、これがなぜ「南西」諸島になるのでしょうか? 「西国」の南方だから「西南」諸島のほうが一貫性があるように思いますが。

(C)
ご説明では
「近世まで,中国地方以西は『西国』と呼ばれ,特に九州各地を指しました。
古代では,朝廷所在地から見て宮廷の置かれた地域を『畿内』,比較的近い国々を『近国』,遠い所を『遠国』と区分し,朝廷への租・庸・調に差を設けました。その頃の諸島で『国』とされていたのは隠岐と対馬ぐらいで,後に種子島加わりました。
『西国』の南方で起きた,薩摩が肥後や日向を巻き込んで戦乱の地とした事から,『西南戦争』と呼ばれました。」
→ つまり、「西南」戦争は古代から近世の歴史の流れに沿った命名の仕方。

他方、「南西」諸島は、明治政府が樹立して以降の命名であった、ということですね?

ということは、私の「西南」諸島ではなく「南西」諸島と呼ばれるのは「命名が比較的新しく、英語なり西洋の地理学の影響を受けてのことなのでしょうか?」に対する回答は端的に言えばYESであると理解してよろしいのでしょうか?

補足日時:2013/03/30 10:12
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元々日本語では45°を表す方位は無いので東北、北東などはどちらも西洋語の訳でしょう。

日本語なら丑虎ですね。
ですので東西、南北のどちらを先にするか明確な基準は無いでしょう。

方位ではない地名について言えば東北は東(あずま)の北部、東南アジアは東アジアの南部の意と解すべきかと思います。
西南戦争は「西郷南洲」に掛けたものかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「東北、北東などはどちらも西洋語の訳でしょう。」

→ 北東は西洋語の訳だと思います。たとえば、Northeast Asiaを「北東アジア」と訳するのをよく耳にしますから。でもSoutheast Asiaには「南東アジア」ではなく「東南アジア」を日常的に当てているように思います。この辺りの背景を知りたいのですが。

お礼日時:2013/03/30 10:29

あくまでも個人の意見ですが・・・・・・。



方角を示す場合は、南北が先、東西が後という順番でよいと思います。
「東北地方」は東(の)北陸という意味ではないか。「むつ」は陸奥と書きますし。

また「西南戦争(西南の役)」は、日本の西南で起きた戦争という意味ではなく、
(1)西海道(九州地方)の南部で起きた戦争という解釈。または、
(2)西郷南洲(西郷隆盛)が起こした戦争という解釈。
この2つが考えられます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「方角を示す場合は、南北が先、東西が後という順番でよいと思います。」

→ たとえば「都の西北、早稲田の森に...」の歌詞は「北西」ではないですよね。他の例も考えてみますが、私は伝統的な日本語(日本文化)ではこのようには言えないのではないでしょうか?

お礼日時:2013/03/30 10:21

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教えてください。

Aベストアンサー

No.3の回答で要は尽くされていますが。補足です。
日本の「西南」部とは、ふつう言いませんね。
まず「南西」部と言うはずです。
これは、明治以前、日本は中国文化の影響もあって、方位に関しては「東、西を先に言う」という習慣だったからです。
早稲田大学の校歌も「都の西北」です。本州の北東部を「東北地方」と呼ぶのは伝統的な言いかたです。
明治の中期になって、地理学、気象学など西欧の学問が学ばれるようになると、西欧では標準的な「北、南を先に言う」という呼びかたに切り替わりました。「西南戦争」「西南の役」と呼ばれるのは、切り替え以前のことだったからです。明治末期にこの乱が起きたら、「南西戦争」「南西の役」と呼ばれたことでしょう。
この「東西優先>南北優先」の切り替えについては、永井荷風ら文人は違和感を覚えて、批難していました。

Qもし西南戦争で薩摩軍が九州制圧をしていたら

歴史にIFはありませんが、西南戦争(西南の役)で薩摩軍が九州全域を制圧し、明治政府軍と休戦条約が結ばれたとしたら、大日本帝国(日本国)と九州国(便宜上こう呼びます)との関係、日本近代史・九州近代史・アジア近代史がどのようになっていたか、想像していただきたいのです。
休戦条約で、九州は飛び地として下関市を割譲されて関門海峡を有料運河のように運営する権利を有する代償として、長崎県対馬列島を日本側へ割譲するという想定です(実際に日本が行った日清戦争や日韓併合などの軍事拠点として対馬が軍用地として使われるという想定)
よろしくお願い申し上げます

Aベストアンサー

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Q西南戦争と西郷隆盛

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Aベストアンサー

こんにちは。

西郷は蜂起したかったわけではありません。
地元で起こった騒動を、地元の名士として代表する立場に就き、いつのまにやら
西郷の叛乱とされただけです。
勝ち負けどころか、戦う気すらもってませんでした。

発端は薩摩で政府が旧薩摩藩の所有する武器類を接収するという話が出てきた
ことなどから、薩摩に残っている旧薩摩藩士が接収にきた政府役人とのあいだで
武力衝突を起こして騒動が発端しました。

この騒動を、西郷を亡くすことに利用しようとした動きがあったという噂が出た
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ただ、その30年前ぐらいは、薩摩藩士の無念を思って田原坂で自決した人の
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話ではなかったのだと思います。
田原坂の戦いを地図上で見ればわかるのですが、かなり広範囲での戦闘です。
また、お互いが撃った弾丸同士がぶつかって圧着したかたちで残っているものが
たくさん残っています。また、民家の土塀や林の中に弾丸や小刀の錆びたものが
よく落ちていました。(地元なので、よく知っています。)
弾丸同士がぶつかるくらいの激闘だった・・・想像つきませんよね。
私の曽祖母が「薩摩も政府軍も関係なく、弾丸が貫通した穴に藁の紐を通して
薩摩藩の兵器類を接収する寒風摩擦の要領で亜鉛のついた傷口の肉をシゴき
取って介護した。」という経験談を語っていたそうです。

話が逸れてしまいましたが、元々は薩摩で起こった騒動を政府に問い質しに行くぞという旧薩摩藩士の動きが、14,000名もいたために蜂起軍の北上と見做されて
乱ではなくて役という扱いとなり、不幸にも早々に熊本での戦いを呼んでしまった
というかたちでしょうか。
熊本城は行けばわかりますが、14,000名程度で簡単に抜ける城ではありません。
加藤清正の築城の謂れもあったものですから、薩摩は熊本城を抜くことに固執して
しまったのが戦略上の大きなミスだったのかも知れません。
結果的に、清正が野戦をすることを想定して整備していた田原坂で決戦を行い、
その戦いの最中に背後を政府軍に衝かれることを許してしまいます。

薩軍は士族というよりも侍の集まりでしかなかったため、戦術的にはさておき
戦略的には大きく見劣りしていました。そもそも、道中のトラブルは力押しして
東京に歩いて辿り着くことが彼らの目標だったので、戦略を問われたとしても
関係なかったのかも知れません。
明治天皇は「西郷のことを殺すつもりはなかった。」と漏らしていますから、
14,000人規模のデモであった可能性もありますね。

こんにちは。

西郷は蜂起したかったわけではありません。
地元で起こった騒動を、地元の名士として代表する立場に就き、いつのまにやら
西郷の叛乱とされただけです。
勝ち負けどころか、戦う気すらもってませんでした。

発端は薩摩で政府が旧薩摩藩の所有する武器類を接収するという話が出てきた
ことなどから、薩摩に残っている旧薩摩藩士が接収にきた政府役人とのあいだで
武力衝突を起こして騒動が発端しました。

この騒動を、西郷を亡くすことに利用しようとした動きがあったという噂が出た
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Q南東?東南?

方角に関して、南東と東南との違いについて教えてください。
というよりも、東南という使い方は誤りなのでしょうか?

Aベストアンサー

参照URL(ことばの話537:ページ中ほど)に,福井大学助教授の岡島昭浩さんによる意見が書いてあるので,それをすこし要約しておきます.詳しくは,そちらのURLにたくさん書いてありますよ.

どうやら,決定的な違いは,「"西北・東北・西南・東南"が日本の伝統的な言い方で、"北西・北東・南西・南東"は翻訳語的なものらしいです.
例えば「東北地方」や「西南諸島」,「東南アジア」という名残を考えると,「東西南北」の順で並べられる傾向があるのですが,欧米の慣習では,「ノースウェスト航空」や「South-west Asia(南東アジア)」に象徴されるように,「北南東西」の順番で並べられるようです.だから,2通りの表現が存在するようです.


また,天気予報などでは「南東の風」とか「北西からの寒気団」といったように表現し,「東南」とか「西北」という表現をすることが少ないようです.これには,国際規定があるからです(もう1つのURLをご覧ください).
大気に国境はありませんし,気象状況が他国へ影響を及ぼすことも十分にあります.したがって,国際的な基準が必要となって,「北南」を中心にした英米式表現が用いられているようです.

これと同様にして,航海や航空なども国境を隔てるものなので,国際的な方角を示す際にも国際基準をもとにして,英米式の「北南東西」という順番で表現されるようになったのではないでしょうか.


一般に,方角をあらわす語順については,
1.日本式:「東西南北」
2.英米式:「北南東西」
3.中国式:「東南西北」

などがあるようです.

参考URL:http://www.ytv.co.jp/anna/t04536.htm,http://homepage2.nifty.com/osiete/s658.htm

参照URL(ことばの話537:ページ中ほど)に,福井大学助教授の岡島昭浩さんによる意見が書いてあるので,それをすこし要約しておきます.詳しくは,そちらのURLにたくさん書いてありますよ.

どうやら,決定的な違いは,「"西北・東北・西南・東南"が日本の伝統的な言い方で、"北西・北東・南西・南東"は翻訳語的なものらしいです.
例えば「東北地方」や「西南諸島」,「東南アジア」という名残を考えると,「東西南北」の順で並べられる傾向があるのですが,欧米の慣習では,「ノースウェスト航空」や...続きを読む


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