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宗教団体へ電話をかけました。
皆、儀式も大事だけど信心が大事だ。信心する心が無ければ形式だけの儀式なんてくその役にも立たないと言っておりました。
そして、一番、まともな事を言ったのが真言宗でした。
また、真言宗は、下の電話番まで私の宗教的儀式の重要性の話の付き合ってくれました。しかし、秘密の部分があるようでそれ以上は話してくれませんが、確かに秘伝の儀式はありそうです。

そこで、質問です。
聖職者とは、厳格な宗教儀式を執り行う職人に近い様な宗教専門家であると私は認識するのですが、ほとんどの聖職者とは、そんな事よりも信心する心が大事だと言っております。
彼らは、つまり、聖職者とは、本当は、宗教的儀式を厳格に定義していないで儀式を行っている集団の様な気がしてならないのです。
伝統的な宗教儀式の伝承。
そういうのが無い宗教って本当に実在して良いのでしょうか?
例えば、キリスト教においては、聖餐式なるものがあり、パンとブドウ酒を飲むのですが、そのブドウ酒をぶどうジュースの変えられてしまったり、また、とある宗教団体では、ブドウ酒を飲まない儀式があったりします。聖書に書いてある儀式の事を忠実に守れないキリスト教という宗教団体は、はたして本当のキリスト教なのでしょうか。
それは、あらゆる宗教団体にも言えます。
もし、宗教団体が霊力だとか信心だとかそんな事を重視しているようでは、それは、霊能者に相談した方が、宗教団体を信仰するよりもよっぽどご利益がありそうだと考えるわけです。

という事で、宗教においては、厳格な儀式は必要とされるかどうかを質問します。

A 回答 (5件)

宗教によるでしょうね。



というか、同じ宗教でも人にもよります。

祈り方ぐらいは形式があるかもしれませんけど、
臨機応変も大事ですから。

あなたがどの宗教を信じてもいいですけど、人は見分けたほうがいい。

形式を外れても、笑顔で、他宗教にも寛容なのがいい宗教者です。

排他的な宗教者は危険です。

宗教戦争のもと。

形式に厳格でない人と関わったほうがいいですよ。

この回答への補足

たかが宗教的儀式が形式的であり厳格である事と、排他的な宗教とは関係は無いですね。
ただ、ここで、排他的な宗教者は危険です。宗教戦争の元。これは大事でしょう。
しかもですよ。もし、この排他的な宗教者が、一切の以前の宗教的形式を無視して新たな宗教的儀式の形式すら作らなかったら、先祖代々の霊、これからの霊はいったいどこへ行けば良いのでしょう。
皆、浮遊霊になってしまい、霊の道が断たれて路頭に迷うのではないでしょうか。
宗教だって、厳格であるべき所、つまり職人として仕事をするのに厳格な作法を守って仕事をする事は当然だと言えるでしょう。

私、コンピューター技術者でしたが、仕事のできない人間。特に仕事のできるふりをする仕事のできない人間という存在とは、まさしく、仕事に対しての儀式的な形式を守らず仕事をしようとし、しかも、排他的な技術者でして、それを利用するユーザーにとっての災いの元となっております。
こんな腐ったコンピューター技術者と、宗教的な指導者、及び、儀式を行う神官と呼ばれる方々も、同様な仕事をされていたとしたら、きっと、大きな災いが起こるだろうと予想するのですがどうでしょうか。

つまり、いい加減なやつらが、仕事の簡単な形式すら守れないで威張ってる連中って、どの職場での最低ですよね。そして腐敗の温床となっておりますよね。
そういう職人の世界観から宗教界の事を考察したまでなんです。

補足日時:2014/02/16 19:19
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宗教って言ったって、運営は個々の人間ですからね。

どんなに良い宗教でも、上司の信者の価値観によってその宗教に対するイメージがかなり変わってくると思います。一口にキリスト教と言っても、カトリックやプロテスタントなどいろいろと派閥もあります。

自分の価値観が定まらずに、宗教にただすがるだけの指示待ち人間は、宗教に入信しても苦労するのではないでしょうか。

この回答への補足

カトリックだとかプロテスタントがあって、いくら派閥があったとしても、聖書なる書物が一般公開されているのですから、誰が見ても宗教的儀式が一目瞭然です。
これを守らないで、私はキリスト教の宗教団体でございますと語っている団体とは、もはや、キリスト教の宗教団体とはかけはなれた、異形の霊集団と認識すべきではないでしょうか。
それは、霊能者や霊能者集団よりも、異形の霊集団と認識すべきだと私は考えるのです。
そして、それが、堂々と、私は、宗教団体でございます。信心が大事ですと言った所で、これって、嘘吐きのペテン師集団じゃないでしょうか。

大衆とは、自分の価値観が定まらずに、宗教にすがるだけの指示待ち人間である事は当然です。だからこそ、宗教に入信する訳でして、もし、自分の価値観が定まっており、宗教にすがらないだけの人間が存在したとしたら、それは、もはや、その人に宗教団体を作って欲しいと懇願した方が良いのではないでしょうか。
そしたら、その人の元へ大勢、多くの自分の価値観が定まっておらず、宗教にすがるだけの指示待ち人間達はこぞって集まって、その人に救いを求めてやってくる事でしょう。

私は、そう考えるのですが、どうでしょうか。

もしもですよ。キリスト教が、特定の上司の価値判断で宗教をやってごらんなさい。
それも、聖書に書いていない儀式を執り行ってごらんなさい。
そしたら、誰かがそれを見た時、きっと、こんな事を言うでしょう。

ああ・・・あそこに裸の王様がいる。
なんだ、立派な衣装を着ていると皆が絶賛しているあの王様は実は裸なのだ。
そして、そんな恰好で、町を堂々と行進している。
一人の子供が、真実をありのままに語る一人の子供がいて、
全員がそれに気が付き、そして、その町中で、いいや、地域で、いいや、国で、いいや世界中で、それもインターネットを経由して、記憶を共有しながら、言語の壁までものりこえて記憶を共有して、こんな事がばれでもしたら、いっぺんで、この宗教団体はおじゃんです。
皆の笑われ者。さらし者となって、もう、二度と世間に対して顔向けできません。

キリスト教もそうですから、日蓮宗も、けっこう、こんな宗教団体っていると思うのですよ。
日蓮宗が読むお経の中に「祈祷抄にいわく」にこんな内容がありました。「行者は必ず不実なりとも智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護したもうべし。疾く疾く利生を授けたまえと強情に申すならば、いかでか祈りのかなわざるべき。」としめくくっております。
ですので、法華経の行者を罵って追い出した事がある宗教団体は、もはや、日蓮の法華経が関知しない宗教団体であるばかりか、邪教集団だという事です。
まだ、邪教ならばまだまだ良いですが、宗教的儀式を軽視している宗教団体が、信心が大事だと言った時点で、それってマインドコントロールじゃないですか。
そんな宗教団体って、宗教団体ではなく、悪霊集団の悪徳ボスが君臨するブラック企業とたいして変わりがないと思うのですが、いかにお考えでしょうか。

補足日時:2014/02/16 19:48
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one-answer-dog さん、こんばんわ。



宗教に儀式はつきものですよ。
儀式を一緒にやることによって、仲間意識を持つことができるということを認識するのです。そうすれば、仲間内で犯罪のような反道徳的なことは起こらないという一種の防止策ですね。お祭りと同じことだと思います。

例えば、キリスト教においては、聖餐式なるものがあり、パンとブドウ酒を飲むのですが、そのブドウ酒をぶどうジュースの変えられてしまったり、また、とある宗教団体では、ブドウ酒を飲まない儀式があったりします。聖書に書いてある儀式の事を忠実に守れないキリスト教という宗教団体は、はたして本当のキリスト教なのでしょうか。

子供にぶどう酒を飲ませるのは問題です。それから、聖書だって、最初はラテン語オンリーだったのに、プロテスタントの人々が英語やフランス語、ドイツ語に翻訳したのです。なぜ、ラテン語かというとローマ帝国で国教になったからです。ちなみにキリストはヘブライ語というものをしゃべっていたと思います。
こんなことは何もキリストが実行を迫ったものではありません。ほかの人が勝手に決めたのです。


宗教においては、厳格な儀式は必要とされるかどうかを質問します。

私は厳格なという原理主義者的な考えは持っていません。ただ、いくらでも寛容でもいいから、儀式という手段で反道徳的な思想がはびこらないようになるならよろしいと思います。

この回答への補足

私は、厳格な儀式は必要だと思います。ただ、レベルというものあります。
高級な儀式ならば、ものすごく厳格でなければならない。
コンビニエンスな儀式ならば、大衆が実行しやすくするために簡略化せねばならない。
ただし、その簡略化を行ったとしても、やっぱり、間違った儀式をするわけにはいかないから、できるだけ、誰でもやりやすい儀式を考案する事が肝要かと思います。

さて、大抵の宗教の儀式の後とは、親睦会です。その親睦会には法話も含まれます。
親睦会とは、ただ楽しいだけではありません。その儀式に参加してくれたいろんな人、例えば、身体障碍者、今にも死にそうな老人。知恵遅れな人。体に大きな傷跡がある人。健康な人たちの他に、この人達も集まって親睦会を開くのです。
親睦会とは、慈悲です。
互いに慈悲の心を確かめ合い、友情を深めてゆきます。
それは、時として悲しい。そして、時としてうれしい。感謝の心でもって接待し、感謝の心で別れます。

儀式をやる時は、皆、真剣です。
神に祈りをささげたいという気持ちでいっぱいだからです。
それは、苦しいからです。
ここにやってくる人々とは決して幸せではありません。
ですから、この様な儀式をやる場合、やはり厳格であるべきだと考えるべきです。

補足日時:2014/02/16 23:49
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one-answer-dog さん、こんばんわ。




ithiです。私は宗教で人々の心が完全に救われるなどという幻想を抱いているのではありません。
もちろん宗教団体の高級幹部の方が厳格で高度な儀式を行うことについては別に否定しているわけではありません。
しかし、レベルが低くても簡略な儀式でもそこに参加している人々が真剣に活動しているならば、別に問題ににはしません。

ただ、高度で厳格な儀式を一般の信者に強要するような考えには反対です。そういうのはもっと修行の進んだ幹部さんたちが行えばいいのです。

この回答への補足

この前の書いたコピーアンドペーストを示すから、それがこの問題についての答えです。

私は、厳格な儀式は必要だと思います。ただ、レベルというものあります。
高級な儀式ならば、ものすごく厳格でなければならない。
コンビニエンスな儀式ならば、大衆が実行しやすくするために簡略化せねばならない。
ただし、その簡略化を行ったとしても、やっぱり、間違った儀式をするわけにはいかないから、できるだけ、誰でもやりやすい儀式を考案する事が肝要かと思います。

補足日時:2014/02/17 01:14
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信心と儀礼を勘違いしてはいませんか?


ミサなどは一つのイベントです。皆で一致して神を思い、神に願うのですから、そこに様式があって当然でしょう。統一した様式がなければ心を一致することは出来ません。
修道士でも神社でもそれぞれが好きなときに教会に行き、それぞれの方法で祈りを捧げている。これはイベントではありません。
聖体拝領は最後の晩餐を模したもので、コレを記念として行なえという指示に従って行なっています。そうする事によりイエスの心情を思い起こし、拝領によって救いを確認して一体感を得るためです。
しかし、コレを行わないからと言ってキリスト教ではないとしてしまったら、聖体拝領を必要以上に重視して今浮き県が生まれてきます。それは偶像崇拝に陥る危険性すら含んでいるのです。
だからこそ、形式も大事だが、それ以上に信心が大事というのです。

信心のない儀式であれば、ドラマや舞台の宗教儀式も宗教といえてしまうでしょ。要するに点睛を欠いた竜ということです。
逆に儀礼を厳格に行っている事により、そこに自然と心が芽生えるという事もありはします。しかしそれはかなり難しいことでもあります。やはり日頃の信心の上に儀礼は存在すると考えます。

キリスト教でも無教会主義などの派があります。これは教会というものが逆に神との距離を遠ざけてしまう、権威主義に陥りやすい等の理由によるものです。イエスや弟子は基本的には教会など持っていなかったという事です。イエスの儀礼は基本的にユダヤ教のものです。そのためこの考えの人たちは必要最小限の儀礼しか用いません。

比例は必要ですが、必要以上に縛られてしまうと、本文を忘れる事になってしまいます。

この回答への補足

あなたは、信心と儀礼といっしょくたんにしております。
信心と儀礼とは全くの別物です。
儀礼とは、きっと、神への演出みたいなものでしょう。
そこには、一定のフォーマットが存在する。
そのフォーマットが儀礼だと私は考えるのですが、あなたの考えはどうですか?

あなたの考える儀礼とは何なのでしょうか?それをお答えください。
私の考える儀礼とは、神へ祈りを提出するレポートのフォーマットみたいなものであり、そnフォーマットに合わせて儀礼をおこなう事によって、神へ信仰者の願いや祈りが叶うというものです。
つまり、儀礼とは、神と人間とのコミュニケーションのパターン。フォーマットと私は認識しており、であるから、そのフォーマットに忠実であることが大事であると判断します。

信心ではフォーマットやパターンが存在しませんね。それで、どうやって神と人間との間に正確なコミュニケーションを存在させる事ができるのでしょうか。
信心だけでは、全くコミュニケーションできませんね。
本当の、効率の良いコミュニケーションとは、宗教儀式の儀礼に他ならないのです。

そういう事を知らないで、あなたは、信心だとか儀礼についての意見を戦わせようと私にいどんだのですか?
あなた、それって、素人すぎるじゃないですか。
私も素人ですが、職人としては、素人ではない。
そこでの私の考えに基づく宗教論を展開したにすぎない。

こんな儀礼の事を知らないとは、あなたは、コミュニケーションなるものの正体を全く知らない人だと言える事でしょう。
そんなあなたが、ここで、議論しているんですって。
ちゃんちゃら、おかしいじゃないですか。
あなたの言っている事とは無意味の羅列、そのものであり、コミュニケーションなど全くできない人物ですね。

じゃ、あなた、挨拶というのはどういう事か知っておりますか?
宗教論を交えてその考察を話してください。

補足日時:2014/02/17 03:38
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この回答へのお礼

イエスの儀礼は、ユダヤ教のもので良いです。
日本は日本の儀礼、それでいいじゃないですか。
儀礼を大事にするという事とは、ゆずれないものがあるという事です。
儀礼を大事にするという事とは、過去のゆずれないものが、現在まで続いているという事です。
アニメ:レイアースの歌にも譲れないものというタイトルがあります。
譲れないものとは、未来までたどりつきます。

私にとって、譲れないものという存在は、女の貞操です。
女の貞操を守れない女性は、堕落しきっている。
しかし、その堕落しきった感覚とは、誰かに罰してもらいたいがゆえに苦しみぬくというものです。
ですから、私は、そのような苦しみに対しては、神にすがるしかないのです。
とてもじゃないが、私一人だけでは、救えない。だからこその神への祈りなのです。

比例・・・・いいですね。
あなたは、私に懺悔したいから比例と言って非礼なんていうダジャレを言ってきました。
あなたは、本当に良い人だ。

私は、言いたい。伝統の重要性というものを。
それは、譲れない現在であり、譲れない未来のためなのである。

神と共にあらんことを!!お互い様に。

お礼日時:2014/02/17 18:10

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