電子書籍の厳選無料作品が豊富!

 当方、医師よりアスペルガー症候群の診断を受け、三級の障害者手帳を持つものです。アスペルガーは、その傾向として社会の暗黙のルールを理解しづらいと言われています。私も、自分の思っている常識が、世間の常識と「ズレている」ことがあるのだろうと考えています。そこで、自分の気になった出来事を、世間の人がどう捉えているのかを知り、どこに「差」があるのかを、理解したいと考えています。ご協力頂けると幸いです。

今回は、差別とは何であるか?を質問いたします。
私は、差別とは「自分(あるいは自己の所属する集団)と他者を比較し、他者をより、低く評価する行為・または自分より低位と考え、相手の権利を侵害する行為」と考えています。例えば都議会の野次も「女性の結婚しない権利を否定した」ことが差別の要点と思うしだいです(セクハラや、社会的な立場は、また別にあるでしょうが)。

辞書的には「正当な理由無く劣ったものとして、不当に扱うこと」なのですが、「正当な理由」があれば、劣ったものとして扱っていいのか?不当に扱わなければ、劣ったものとして扱っていいのか?正当と不当の線引きは?など、疑問が山盛りです。
「ユダヤ人は劣等人種だ」も「高齢出産は危険度が増す」も、同じ差別なんでしょうか?
前者は、何の根拠もないデマですが、後者はある程度経験と科学的知見に基づいた事実ですよね。前者は人種差別として、受け入れられますが、後者は「女性手帳」の問題や新聞に載る問題発言を見ても、「区別」や「事実の示唆」とも受け取れる側面もアリ、差別とは一概には言えないのではと思うところがあります。
後者の差別は「言われたほうが不快に感じる」が故に差別であるとされているように思えてしまいます。もし、この仮定が真とすると社会の風潮に迎合できない人間は「差別主義者」となってしまうと思うのですが。

差別の定義とは、私の思うようなことで間違いは無いでしょうか。それとも、「相手が差別と感じたら、もう差別である」が世間では一般的なのでしょうか?

不明な点や、補足が必要であれば、出来る限りお答えしますので、ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

大変丁寧な質問文章であり、テーマもまじめな話なので感心しています。



差別と区別については良く論議されますし、有識者でも綺麗に答えられない場合が多いです。

ですから、高度な話ですね。

また、質問者さんはアスペルガーであるとか?

どういった症状なのか詳しく知りませんので、旨く説明できるかわかりませんが、

お答えしてみます。


言葉の定義はあっています。

しかし、他人の行動とはわけて考えるべきです。


一人一人は人間であり、自分の利益を追求しています。

実際には差別ではないと分かっていても、ためしに「差別」と主張したら、

その話を信じる人が多くいて、得をしたと言う人もいるはず。

この経験をした人は、繰り返して「差別である」と主張するでしょう。


次に言葉を使うシーンが問題になります。

善意や敵意という概念があります。

自分ではない誰かが自分に対してどちらの感情を持っているか、わからないものですよね?

一般に論争中の話題があったとします。

わたしならば、

善意を向けたい相手には、こうした話題で相手の好みを探ります。

さらに、

「敵意と受け取られかねない発言は注意して避けます」


例えば女性と話していたとします。

そのとき、「女性差別」、「ジェンダーの区別」どちらであるか論争中の話があった場合、

あえて女性に対してそれを向けたら余計な争いになるかもしれません。



重要なのはここなのです。

「相手が争いを避けようとしているか?」

「相手が争いも厭わないという気持ちであるか?」

前者であれば、話題にしないはずですよね。



科学的に議論が収束した話題があったとします。

多くの人がそれを知っているのに、

あえて昔の慣習や考え方を持ち出した人が居たとします。

「敢えて持ち出した」ことは誰もがわかりますから、

その意図は「相手を不快にさせたいこと」だけですね。

純粋に、敵意を伝えたかったというわけです。

これは争いに発展しやすいですよね。


この様に考えて見ますと、

現代でいう”差別”と”区別”という言葉の定義には意味が無く、

善意か敵意かを判断されていると言うことですね。

同じ内容の話でも、細心の注意を払って、敵意が無いことを前置きすれば、

差別と受け取られません。

逆にこの前置きが乱暴ですと、善意があっても、敵意と受け取られますよね。



次は、

質問者さんが不思議に思う現象について考えて見ます。

疑問の要点は、

「相手の捉え方により事実が捻じ曲がり、争いがおきるようなものなのか?」

ということですよね。

事実は変わらず存在しているでしょうけど、

争いは起きる可能性が高いです。しかも思った以上に拡大するかもしれません。



しかも、誰もが争いを避けたいと考えているわけではありません。

「自分が善意を示しても、相手が悪意を止めない」

という可能性もあります。

この場合は、自分は嫌と感じても、戦って相手を倒さないといけませんよね?

自分より強い相手が、少しでも敵意を自分に向けたらどうしましょう?

そこで、似たような人たちで同盟関係をつくるという方法が思いつきます。

この同盟関係では、

「脅威の出現」を誰かが警告します。

これに答えて、みんなで対象を排除します。

この警告には合図が必要ですよね?

キーワードでしょうか。

「魔女」と言う言葉が使われた時代と地域があるそうです。

本質問のテーマでは、「差別」「ハラスメント」ですね。


本質的な課題は、個人の強さかと思います。

個々人が充分に強くあり、

争っても負けることも怖がらず、他人を頼らない対処方法

により実害を防ぐことが出来れば、

本当の意味で自分の心を平安に保つことができます。

そうなれば、他人と同盟関係を維持する必要はなくなる、もしくは弱まると思います。

弱さを克服する方法をみんなで考えていかないといけませんね。



さて雑駁としてしまいました。

まとめますと、

・言葉の定義はあっていても、他人の行動とは無関係である
・同一の行動をし、同一の理由をあげている人々がいても、そのとおり受け取ってはいけない
・敵意に対して敏感な集まりもあるので、注意が必要
・敵意に敏感な人がいるので、注意が必要
・言葉を使うときは、敵意として伝わらないように気をつける
・集団には必ず脅威に対して共感するシーンがあり、これに対してキーワードがある

次に風潮として感じるところです。

・現代では強者の支配を(昔よりも)嫌がる、脅威と感じる傾向がある
・強者の支配、その意図を知らせるために”差別”や”ハラスメント”と言う言葉を使っている

と言うのが、暗黙知じゃないでしょうか?


口に出して、

「自分って正直いってカスです。
 どこには良いところもなく、むっちゃ弱いし、卑怯です。
 それでも生きていたい見苦しい存在です。
 あなたは私と同じ匂いがします。
 ですから、何かあったときは互いに脅威を排除しませんか?」

と言えばややこしくならないのですが、相手が気を悪くしますよね?

私の時代では、本当にこれを言葉にして、仲間を増やすのが普通でした。

いまはこれすら口にせずに仲間を募ろうとしているようです。

便利になりましたねえ。

さて、

お答えの本題に戻ります。

差別と区別の定義は質問者さんの思うところで間違いがありません。
しかし、”現代では強者が敵対しそうだ”と言う警告として、
”差別”と言う言葉を弱者同盟が使っているようです。
これはある時代ある地域の”魔女”に類するものです。
そのため魔女と言う言葉の定義を探っても仕方がないのと同様だとおもいます。

「君子危うきに近寄らず」

といいますから、深く悩まずに、本音とは別にして、

「そういう人たちもいるので仕方ない」

として賢く振舞うのが良いかと思います。


以上、ご参考に成れば。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

賢くかは分かりませんが、私も対人関係の中では、相手に不快を感じさせないような受け答えをしております。ただ、本音としては「?」と思う部分が多いので質問させていただいております。この場での質問であれば、後日しこりを残さずにすみますから、自分の本心と社会の暗黙の理にどれほどズレがあるか、安心して測れますので。

回答のまとめと風潮についてがとても分かりやすく、参考になります。また、弱者同盟や「魔女」の発想はありませんでした。差別=魔女の図式は、少し当惑しますが、とても示唆に富んでいると感じました。魔女裁判のありようを含め、少し調べてみたいと思います。

回答の理解としては、差別・区別は言葉の内容よりも「敵意」「悪意」を、言葉を向けられた対象が感じるか否かで決まる。これは発言者の意図は関係なく、対象の一存である。中には針の先ほどの敵意でも激しい反応をするもの、「敵意」「悪意」ではなく「利害・打算」から、差別を受けた行動をとる場合もある。
また、「敵意」「悪意」を向けられた者(その恐れを感じるもの)は群れになりやすく、集団となれば、より敏感に・激しく反応を起こす可能性が高まる。
で、よいでしょうか。

アスペルガーは、文脈や行間・感情の機微を詠むことが出来ないと、一般には言われています。冗長な確認をお許しください。
それにしても、言葉の定義に意味がなくなると、正直途方にくれてしまいます。「差別」の中身は空気を読んでその場に適した答えを提示しろ。といわれても、辛いです。
とりあえず実生活では、あまり関わらないようにします。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/20 07:45

私も病的であるとの自覚があるので、一般的意見と食い違うかもしれませんが、私の意見を述べさせていただきます。



まず”差別”の原義ですが”差”を以って”別つ”であると考えます。ここで”差”とは少なくとも2つ以上の対象間に順序構造を持ち込んだ際の対象間の隔たりでそこには順序構造があるゆえに優劣の概念があると考えます。しかしながら”区別”の場合は、順序構造が不要で”区別”されたものの間においては優劣が無い場合も考えられます。
尚、一般的な用法としては、”差別”を行った結果としての”不利益”が生じた(若しくは生じることが予想される)際に”不利益”を受ける(若しくは受けると予想される)側が”不利益”を回避するために活用するものであるため、”劣ったものとして不当に扱うこと”との意味で使われることが多いはずです。

故に本来は”差別”であるにも係わらず”差別”として取り扱われない事例はたくさんあります。(要は”差別”により”不利益”を被る側が、その不利益を受けるのは仕方が無いこととの認識があれば”差別”として取り扱われない。例えば、運転免許を持っていない人に対して車を運転することを禁止すること)

後、”区別”との違いにおいて、”区別”されたものの間に一部にでも優劣関係を持ち込んだ場合、この時点で”区別”は少なくとも優劣関係が存在する部分に関しては”差別”に変わります。

最後に一番の問題は、”差別か?否か?”は個人によって異なることです。原則、”相手が差別と感じたら、もう差別である”ですが、その事例が一般的に”差別”であるかは、対象集団中で”差別”と認識している人の割合が多いか・少ないかに因ります。ある集団では”差別”であっても、他の集団では”差別ではない”ということも普通に起こりえます。

補足
世間一般の方は、”差別”についてそんなに深く考えてはいない筈です。
とりあえず自分が不当に扱われていると感じた際に”差別”という言葉を用いて不当に感じている自分に対して自分の”正当性”を自己主張(若しくは周りからの擁護を期待)していることが多いと思われます。
深い考えのない人の考えを理解することは極めて困難なことと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

差別の要点は優劣の有無であるという点、なるほどと思いました。そのなかで、許容でいないものが差別として表面化してくる。潜在的(受容されている)な意味での差別は、無数におるという理解でよろしいですよね。
問題は個々人・各集団により受容できる限度が違い、そのボーダーラインを明確にすることが難しいというところでしょうか。

「深い考えのない人の考えを理解することは極めて困難なことと」との指摘、それは真だと私も思います。ただ、私は基本自分が「劣っているために理解できない」のスタンスです。普通の人がそこまで深く考えないのは、深く考えなくても私が深く考えた部分に達しているのだと、考えるようにしています。やっぱり変ですかね。
回答、参考にさせていただきます。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/21 20:10

>高齢出産は危険度が増す



これは事象を表現しているだけなので、人格には関係ありませんから人権侵害である差別には当たりません。
ユダヤ人は・・と言えばユダヤの「人」を指していますから人権侵害であり差別です。
不当に、「扱う」 何を?、が抜けていますが、あくまで人を、、です。人権の問題なので。
従って、それ以外、例えば、猫に対して不細工だ、というのは差別には当たりません。純粋に猫に言った場合ですよ。
その猫の飼い主に対して言うなら、その人に対する侮辱にもなりませんから別問題です。

正当な理由とは、例えば殺人罪で有罪が確定した人に対して、「お前は人殺しで悪い奴だ」というのは侮辱罪に抵触しかねませんが差別には当たらないでしょう。有罪が確定すれば刑も科せられます。強制労働付きの懲役だったり死刑になったり。
しかし、有罪が確定する前、裁判で係争中などに言うなら、これは差別です。推定無罪が原則であり、有罪が確定するまでは人殺しと断定はできないからです。(ちょっとたとえが悪いですけど)

高齢出産へ戻すと、実際にそのような状況の人に対して言う場合は状況次第でしょう。危険性を指摘するだけなら問題はありませんが、だからどう、みたいな事まで拡大していけば差別になりかねません。危険だから出産はやめろ、堕胎しろ、とまで行けば明らかに人権侵害です。それを決めるのは当人の権利であって他人が口を出す権利はありません。
医師でさえ、危険性を指摘して別の方向を勧める事はできても、最終的な判断は当人の権利です。もちろん、結果の責任も当人が自ら負う訳ですし。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

どうも、私の文章は主語が抜ける癖があるようで、申し訳ないです。全て、関係する人と関わっている前提でお願いします。ご指摘ありがとうございます。ネコさんなら、猫権とでもいうのでしょうか?そういえば、猫カフェの労働問題が一部で騒がれていたような気が…

閑話休題、一般的というか、不特定多数に対しての発信であるのなら、合理性や法律などの社会通念が判断基準となり、個人対個人の関わりの中では、相手の感情が優先される、という理解でいいでしょうか。
私が今回知りたいのは、回答者様の後者の文面で言うと危険だから「出産はやめろ、堕胎しろ、とまで行けば明らかに人権侵害です」の前段階だと思うのです。例えば、高齢出産をする方に「医学的には危険なんだって」ということは(無神経なのは、当たり前ですが)差別なのか、そうでないのかという辺りなのです。

後、質問返しになるかもしれませんが、現在のマスコミの犯罪報道は「差別」という認識でおられるのでしょうか。もしそうであるのなら、なぜ人権団体は反対の声を上げないのでしょうか?
私が中学の頃、社会科教師に「罪の確定前の大々的な実名報道はおかしいのではないか?」と質問したところ「社会の要請で報道されている。判決が出た後では、ニュースの速報性が失われ、社会的な損失になる」という主旨の回答をされたことを思い出しましたが、差別は社会的要望のまえには、変質してしまうものなのでしょうか?
ご教授願えれば幸いです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/20 07:10

およそ総ての差別がダメ、という訳ではありません。



合理的理由の無い差別はダメ、ということです。
だから、合理的理由のある差別はokです。

その合理的理由の有無はどうやって判断するのか
ということが問題なわけです。
一般には次のような基準で判断されています。
どちらかに該当すれば許されない差別になります。

1,差別の目的が合理的か。
2,差別の態様が合理的か。


”「ユダヤ人は劣等人種だ」”
    ↑
ユダヤ人を劣等民族として差別するのは合理的
ではありません。
何故なら、民族間の能力の優劣は、生物学的に
否定されているからです。
故にこれは許されない差別です。
ちなみに、ノーベル賞の30~40%はユダヤ人だ
という説があります。


”「高齢出産は危険度が増す」”
    ↑
これは合理的な理由があるでしょう。
そもそもこれは差別の定義に含まれるかも疑問ですが、
次の理由で合理的理由がある差別で許されると
思います。
1,差別の目的が高齢女性を貶めるものではない。
  むしろ危険性を指摘しているのだから、高齢女性の
  利益になっている。
  故に、目的には合理性がある。
2,差別の態様はどうでしょう。
  およそ35歳以上の女性の出産は認めない。
  妊娠したら犯罪として処罰する。
  てようなことになれば、態様における合理性が無い
  ということになると思われます。
  しかし、そういう発言をしただけでは態様の
  問題は発生しません。



”「言われたほうが不快に感じる」”
     ↑
1,不快はどの程度の不快なのか
2,不快と考える人が大部分なのか、それとも例外なのか

不快と感じる程度が強く、それが大部分である、と
なれば、そういう発言は、高齢女性を貶める目的が
合った、と理解されるようになるかもしれません。

そこまでは行っていないのでは。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

合理的であるか否かが、差別とそうでないもの(仮に区別と呼べばいいでしょうか?)の分かれ目ということでしょうか?1・2のステップでの説明、非常に分かりやすく、納得いたします。


「高齢出産は危険」というのは事実に基づいた区別で某歌手の「羊水が腐る」発言は、差別だよ。という認識でよいでしょうか。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/20 06:53

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!