ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)は いくら梵我一如と言っても そのオシエにおける概念としてのみ持たれているに過ぎないのか?
つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。
つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか?
次のようなご見解に接してこの問いを取り上げるものです。
◆ ~~~~~~~~~~~~~~
梵我一如については仏教でも説かれていますが、バラモン教のものとは一線を画します。
前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。
詳しくは西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」という二本の論文を参照してください。
(☆ これは 出所をあきらかにしても差し支えないものと思います。
【Q:空海と景教の関係】回答No.8
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8697822.html
ご文章は 取り急ぎの作成になったもので それを引用するのはかえってこの引用者の落ち度になるのですが つかわせていただきました)。
~~~~~~~~~~~~~~~~
参考:
■ 西昭嘉:「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」~~~~~
http://ci.nii.ac.jp/els/110002912913.pdf?id=ART0 …
(§ 4 結語 pp.34-35)
原 始仏 教 聖 典 に 説 か れ る ウ パ ニ シ ャ ッ ド的 表現 に つい て , 中村氏は
「最初期 の 仏 教 はバ ラ モ ン 教の 優勢な
雰 囲気 の な か で は こ よ うな 説 き か た を
しな けれ ば な ら な か っ た 。
しか し仏 教 が ひ ろ が り さ か ん にな る に
つ れ て こ の よ うな 配慮は 無用 に な っ た 。
だ か ら聖 典 の 散 文 に お い て は〈ブ ラ フ
マ ン へ の 乗物〉とい うよ うな 語は 現 れ な く
な っ た 」(17 )
(17):『中村 元選 集 』 〔決 定版 〕第 15巻
「原 始 仏教 の 思 想 1 」 (春秋 社 , 1993年 )P.68.
と主 張 して い るが ,む しろ 散文 に な る と attan と brahman の 関係が 定型 句 に な る ほ ど繰 り返 し説か れ る よ うに な っ た と考え る べ きで あ り, 我々 は 原始仏教の 悟 りの 境地 がウ パ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 と類似 して い る こ とを認 め ざ る を 得な い 。
け れど も原 始仏教 が 説 く悟 りへ の 道 は 実践 道で あ り, BRhadaraanyaka-UpaniSad に おい て ,Yaajnavalkya が USasta-caakraayana た ち に 対 す る atman の 説明 (18)の よ うに ,
(18) BRhad Up .III, 4.i,2,
形 而上 学的考察 に 基 づ い て 悟 りを 求 め る も の で は な い の で あ る か ら, た と え原 始仏教の 悟 りの 境 地 とウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 が 同一 で あっ た と し ても, 悟 りに 到 る道を 区別 して 理 解す べ き で あ ろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.8
- 回答日時:
遅くなりました。
時間の関係で少しだけ。私はブラさんと猫さんとさほど意見は違わないと思うんですがね?
そもそも、『六方礼経』なんかを読むと、仏教はバラモン教に新しい意味を付加する形で教線を拡大しているのがわかります。仏教は智慧と慈悲といいますが、知恵はさておき、他者に積極的にかかわるという意味での慈悲はバラモン教からの流用でしょう。梵天勧請なんかがそれを表現していると思います。また、中村元先生も確か仏教徒が仏教徒という固有性をもったのはアショーカ王が現れるちょっと前くらいだって言ってたと思います。
仏教の中には瞑想法において、サマタはバラモン教等のインド古来の宗教の瞑想法であり、ヴィバッサナーこそがお釈迦様が悟りを開いた本当の意味での瞑想だっていう人がいますが、私はこれをいまいち信用していません。降魔の伝承はお釈迦様の心の葛藤と一般書籍には書かれているように思いますが、本来これは成道そのものを三明六通に分けて説明しているものです。『阿毘達磨大毘婆沙論』でもそうなっていたはずです。その後、お釈迦様は縁起の観察に入るわけですから、サマタで悟った後ヴィバッサナーしていると考えています。つまり、サマタによって得たお釈迦様の悟り自体はバラモン教等の悟りと大きく違わないのでしょう。もっと極端なことを言えば、キリスト教における祈りにおける「神が隣にいたように感じた」とか、バラモン教の梵我一如、仏教の自他不二等も完全に同じではないでしょうが共通点を十分に見出せるの知覚的な作用であると思っています。
しかし、そこから表出された表現はそれぞれの宗教の個別性ではないかと考えます。その中で、アートマンの記述に関して、松本史朗氏でしたか、中村元氏をはじめとした仏教学者は仏教内部におけるアートマンの記述を翻訳や解釈でうまくごまかしてるみたいなことをどっかで書いてたはずです。確かに『スッタニパータ』の訳を見ると「自己の安立」とかあって、ここは「アートマンを確立する」ってことなわけですが、バラモン教ではアートマンは確立するものではなく、そもそもあるものですよね?そもそも、あるものが昇華していってブラフマンに至るわけですようね?この辺が違いではないかと思います。仏教におけるアートマンは確立する必要があるわけです。日韓仏教学交流の父と呼ばれた金東華氏がたしか仏教では実我を否定するが、仮我と真我は認めているとどっかに書いてあったのを読んだ記憶があります。つまり、実体のある固定で不変の我は執着でしかないが、五蘊化和合の仮に我と呼んでいる化我と、仏教の就業する中で確立される真我は否定するものではないという事かと思います。その辺が、西昭嘉氏の言いたいことなのではないかと思います。
私見ですが、『スッタニパータ』1146がそれではないかと思います。お釈迦様に焦点を当てれば「法を見るものは私を見る・・・」の定型句の表れとなるのでしょが、ピンギヤ尊者に焦点を当てればその前文1145は自灯明法灯明(自洲法洲)の事ですから、ピンギヤ尊者にとっては自(アートマン)灯明というアートマンの確立を表しているのではないかと思います。では、それ以前ピンギヤ尊者はそういう意味でのアートマンがあったのか?といえば、なかったはずです。それで、『イティヴァッタカ』では
彼を、自己(アートマン)を修めた唯一の者を、梵(ブラフマン)と成った如来
とあって、この確立したアートマンをブラフマンと呼んでるわけですな。
あと、化我と真我の関係ですが、この辺は私もまだ勉強中なんですが、いわゆる『中論』の勝義諦と世俗諦とか化論寂滅と化設の関係みたいな感じなのではないかと。
時間なくてこんな感じになっちゃってすいません。誤字脱字乱文御容赦を。では。
合掌 南無阿弥陀仏
ばか‐はげさん こんにちは。ご回答・ご説明をたいへんありがとうございます。
そうですね。依然としてわたしは経文そのものに従っているわけではないのに それでもデカイ口をたたいているのですが これは――必ずしも ブディズム内部の教理に限った議論なのではなく そうではなく―― 宗派やそのひとつの宗教を超えてひとえに広く
《神および信仰 ならびに〔信仰のオシエ化された(つまり それはオシエを信じるとなるとマチガイである)〕宗教にかんする一般理論》
の問題ではないかと考えて来ましたし ご議論に接してもその考えを持ち続けます。
そしていま一つ 日曜日に図書館から次の本を借りて来て ちょうど触れておられる松本史朗の議論を真っ先に読んだところです。
高崎直道監修・桂紹隆/斉藤明/下田正弘/末木文士編:
シリーズ大乗仏教 第八巻 如来蔵と仏性 2014
・松本史朗:第六章 如来蔵と空
ちなみに その結論のみを引いておきます。(議論全体としてもその推論の過程にしても 文献を引いての解釈を推し進めているかたちですので 容易には引用もまとめもむつかしいと思います)。
■ (松本史朗:如来蔵は アートマンである) ~~~~~~
・・・本論の結論を言えば
" dhaatu " = " buddha-dhaatu " = " tathaagata-garbha "
《界》 = 《仏性》 = 《如来蔵》
は " aatman " 《我》であり 《実在》であって 《空》ではないということになるであろう。( p.292 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ じつはわたしは 松本説のうち 《 dhaatu-vaada (基体説)》についてまだよく分かっていません。
《基体( ダーツ)》からいっさいの法(現象でしょうか)が生起するといった見解について それが何を言おうとしているのか よく分かりません。
仮りに次のように捉えるなら:
《基体(ダーツ)》:非思考の庭(直観・ヒラメキ)
---------------------
《経験事象(諸法)》:思考の緑野:思考・認識
《同上》:感性の原野:直感・知覚
こうであると仮りに捉えるなら それでも 一方で確かに《基体=非思考の庭(信仰)》と《経験行為やその世界》とはつながっているのでしょうが 他方では その経験世界はあくまで人間の《思考ないし意志》の行為として成り立っている。ゆえに 一般に《諸法(一切の現象)》は 〔自然界の自己運動をもふくめつつ〕人間の行為(カルマ)の相互依存的かつ錯綜構造的な関係でありその総和だと考えられます。
つまりむやみに《基体(ダーツ)⇒諸法(諸現象)》なる影響関係としての方程式をさだめる必要はないのではないか。と思っています。
さて―― 一気に要らぬことまで口走ったかも知れないのですが―― まづ《さとりなる境地》の状態ないし実態が どの信仰形態にあってもさほど違わないというご見解を示しておられます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・その後、お釈迦様は縁起の観察に入るわけですから、サマタで悟った後ヴィバッサナーしていると考えています。
つまり、サマタによって得たお釈迦様の悟り自体はバラモン教等の悟りと大きく違わないのでしょう。
もっと極端なことを言えば、キリスト教における祈りにおける「神が隣にいたように感じた」とか、バラモン教の梵我一如、仏教の自他不二等も完全に同じではないでしょうが共通点を十分に見出せるの知覚的な作用であると思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そういった全体観からおおざっぱに見た場合には No.5のぼんぬふじさんとのやり取りで提出した構図は かなりその事情を明らかにしうるでしょうか?
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)
無梵:空(シューニャター・ゼロ)
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如(有神論)
仏:アミターバ (阿弥陀)/ マハーワイローチャナ(大日)
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
☆ すなわち
アートマン(霊我)
= アン‐アートマン(無我)
= ブッダ‐ダーツ(ブッダター・仏性)
= タターガタ・ガルバ(如来蔵)
☆ なぜなら これらは わが心なる《非思考の庭》にあってはたらくチカラだと――想定において――見るからです。理性による思考でもなければ 感性による知覚そのものでもない。つまり 経験事象ではない。――しかも そこからヒラメキをとおして 言葉にして表現しうる概念内容をも人間は得ることがある。
★ しかし、そこから表出された表現はそれぞれの宗教の個別性ではないかと考えます。
★ 確かに『スッタニパータ』の訳を見ると「自己の安立」とかあって、ここは「アートマンを確立する」ってことなわけですが、バラモン教ではアートマンは確立するものではなく、そもそもあるものですよね? そもそも、あるものが昇華していってブラフマンに至るわけですようね?この辺が違いではないかと思います。
☆ この主題についてもわたしはただちに教理として議論しうる素地がありません。
それでもそんなわたしにも見えるところにしたがって ひとこと述べますが:
(あ) アートマンは すでに――ブッダダーツ(仏性)と同じく 一切衆生に悉く有るという想定ですから―― 《確立する》というよりは 《そのことに自覚しそれを受け容れそのアートマンとしてのハタラキに目覚める》のではないでしょうか?
(い) それが 梵我一如なる《信仰のかたち》が 現実にそのチカラを現わすことだと見ます。それによって人は《やすらぎ》を得ると言えば そうだと考えます。
(う) ★ そもそも、あるものが昇華していってブラフマンに至るわけですようね?
☆ ここのところが 文献として教理としてどうであるか わたしには分からないのです。ですが いま上に述べたところによるとしますと やはりそうではなくすでに《非思考の庭》は 生まれつき自然の本性としてヒトにそなわっている。と見るわけですから ただただその神――ブラフマンならそれとしてのむしろ名前――を心に受け容れる。だけで 自覚ないし目覚め(つまり ブッダ)が成る。のではないかとは推測します。
(え) この《目覚め》は 即身成仏=即得往生であると考えます。名字即ないし理即の状態が そのまま一瞬のうちに 究竟即に到る。こういう《主張》です。
(お) 矢が患部から抜かれたからただちに傷が完治するというわけではなく その癒されて行くのは やはり過程をともなって時間的な経過にしたがうでしょう。けれども 矢が抜かれるのは 一瞬のうちにです。(これを そうではなく何だかんだと難癖をつけブツブツ言うから 一般に治癒が長引くのではないでしょうか?)
(か) これらの《さとり》の状態などについては ここまでの ねむねこさんとのやり取りでかなりしゃべっております。
(き) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
『イティヴァッタカ』では
彼を、自己(アートマン)を修めた唯一の者を、梵(ブラフマン)と成った如来
とあって、この確立したアートマンをブラフマンと呼んでるわけですな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここでの表現について ですからわたしからの見方では:
● 自己(アートマン)を修めた
= ☆ 神を受け容れアートマンなる霊我にめざめ そのチカラのはたらき(ヒラメキなど)に《きよらかな畏れ》をいだいた
● 梵(ブラフマン)と成った如来
= ☆ アートマンのハタラキを受け取ったとき ならば 《梵我一如》なる信仰のかたちをもその説明として得た。その状態は 非思考の庭にあって あたかも《如来ないし法身のブッダ》のようであると捉える。
(く) これは ひとが神に似るということ・ひとは神の似像であるということを表わしていると思います。百パーセント 神に成ったとかブッダに成ったとかということではないと受け取ります。
(け) つまり ブッダターのはたらきは あくまでこの梵我一如なる信仰の状態を確立した上で 娑婆世界ないし生活世界に還って来てその社会を――思いっきりベンチャラをすれば――仏国土に築き上げること。ここにあると考えられます。(これは 親鸞の理論だと思います)。
取りあえず こんなところでしょうか。
みなさんで このあたりの主題すなわち《それぞれの宗教の個別性》の問題について話し合って行ければ さいわいはこれに勝ることはないと思います。・・・
No.7
- 回答日時:
NO6の付け足しです。
《あたらしき我を着た》のではなく、
《あたらしき我》は、もともと備わっていた。
もともと我々の中にあった。
それが現われた、ですかね。
痛いところを突かれました。
そのとおりに思います。
ご回答をありがとうございます。
もし――もし この《もし》を百回唱えて弁明にこれあいつとめますれば―― 次のような事情はあるとも考えます。
たとえば 赤ちゃんは 母親に理性や思考を超えてなつきます。この甘えは 《聖なるあまえ》と呼べるのではないか。一般に 幼児は 相手に何のうたがいもなくまして猜疑心を起こすことなどなく 接しますから。
ものごころが着いてからは そういうわけには行かなくて 意識が先立ちます。
ところが この世知辛さを超えて この幼児ないし子どもの心を取り戻したときには あたかも《聖なるあまえ》に還り戻ったかの感じを持ち得ます。
それでも そのときには 何か底なしの天然となってはいけないとか そう見られてはまづいといった意識が やはり先立ちます。
このとき 聖なるあまえに代わって成り得る状態というのは 《きよらかなおそれ》なのではないか。
つまり これもけっきょく《目からうろこが取れた》たぐいの《事件》なのだと思われます。
すなわち このような《革命》について どう表わすか?
・《あたらしき我れを着た》
・ いや 《すでに潜在していた〈我れなる我れ〉を回復したのだ》。
・ それでも《あたらしき我れ》という言い方をも捨てきれないのは 《もともとの我れを取り戻しその我れに立ち還った》というときには じつは《ただの自然本性なる〈聖なるあまえ〉の状態》から さらにもっと良き状態に成っている。多少とも力強くなっている。
とすれば その《きよらかなおそれ》なる状態は それとして《あたらしき我れ》だとも考えられる。
どう違うか?
《聖なるあまえ》状態は やがてものごころを着けたあと その状態から――ウソ・イツハリをおこなうことを経て――多少は逸れるし あたかも消えてしまった状態にまで成り得る。
きよらかなおそれ――自性清浄心の再獲得――にあっては 《憂いを帯びた聖なるあまえ》が 恰好よく決まる。
ゆえに。
陰影がなお聖なるあまえを際立たせ得る。
No.6
- 回答日時:
こんにちは。
○ 我生已尽:《ふるき我れを脱いだ》
○ 梵行已立:《あたらしき我れを着た》
○ 所作已弁:《ふるき我が人生(前史)を終えた》
○ 自知不受後有:《わが後史に入ろう》〔前史の人生をふたたびやり直すことはない〕
梵行已立の解釈は???だと思いますが、このような解釈は成立するのであろう、と考えます。
少し行き過ぎなのかもしれませんが、
パウロがイエスの声を聞き、「目から鱗」が落ちますよね。
仏陀の成道は、これと同じなのではないか。
パウロという人間は変わっていない。世界も変わっていない。しかし、目から鱗が落ちることによって世界の見え方が変わるわけですよね。世界の有り様がこれまでと違って見えてくる。
ゴータマさんもこれと同じなのではないだろうか。
そんなことを考えています。
目から鱗が落ちたというのは、
bragelonneさんの言葉を借りれば、
《ふるき我を脱いだ》
ということですよね。
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
◇ 梵行已立の解釈は???だと思いますが
☆ 《清浄なる行》という解釈が 検索途中で 見つかりました。
▼ (Wikisource:仏説五蘊皆空経) ~~~~~
http://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%AA%AC …
§ 日本語訳
・・・
[すなわち]わが生で輪廻は尽きた。 清浄なる行は、すでに完成した。 造作することもなくなった。 (もはや、私は)後の生存を受けることはない、と」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしは分かりません。わざわざブラフマ二ズムの言葉を借りているということは どういうことか? くらいしか反応がありません。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
少し行き過ぎなのかもしれませんが、
パウロがイエスの声を聞き、「目から鱗」が落ちますよね。
仏陀の成道は、これと同じなのではないか。
パウロという人間は変わっていない。世界も変わっていない。しかし、目から鱗が落ちることによって世界の見え方が変わるわけですよね。世界の有り様がこれまでと違って見えてくる。
ゴータマさんもこれと同じなのではないだろうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そこで 聖書本文ではなく一般的な解説として:
▲ (ヰキぺ:パウロ) ~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6% …
§ 2 パウロの生涯
・・・
ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。
アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。
この経験は「サウロの回心」(使徒行伝9:1‐19)といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ばか‐はげさんは いまお盆でお忙しいようです。
◆ 西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」
☆ 前者は 見つけられませんでしたが 後者は 前者論文を承けての内容ですから それをひとつの判断基準にしてよいと思います。そして それを読む限りでは ブラフマニズムとゴータマとを アートマンないし梵我一如なる思想の違いとして区別する理由は まだ納得するまでには到らない。
こういう中間の結論でよろしいでしょうか。
No.5
- 回答日時:
仏教側は、悟りには無我の体得もふくまれているんだと主張します。
もし、本当なら、これが確かにウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りとの違いでしょう。しかし、単なる無我は、理性に反するものです。カントのように我やモノに実体があるかないか、なんであるかもわからない、は論理的・理性的ですが、我やモノが「ない」ことは導けません。関係性・因果の結びつきでとらえることも、実は実体を否定できるものではありません。
仏教の 悟 りがホンモノであるなら、理性に反する無我の体得を除けば、輪廻からの解脱など、ウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りとはきっと同一でしょう。
ぼんぬふじさん お早うございます。初めまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ 仏教側は、悟りには無我の体得もふくまれているんだと主張します。もし、本当なら、これが確かにウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りとの違いでしょう。
☆ この《無我(アン-アートマン)》説の扱いにかんしては じつは質問者には解決案があります。
ゴータマと後世のブディストとを分ける捉え方です。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空(シューニャター・ゼロ)
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ (阿弥陀)/ マハーワイローチャナ(大日)
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
☆ これは 人間にとっての信仰――信仰一般です――のかたちを 《梵我一如》なる類型のもとに捉えようとしたものです。梵我一如を 一般概念として扱おうとするものです。
この梵我一如なる信仰形態は 次のようにわが心なる《非思考の庭》にて起きていると捉えます。
○ (わが心なる非思考の庭) ~~~~~~~~~~~
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
____________________________
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
___________________________
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ さらにこの際添えますが 非思考の庭が 受け容れているのは むろん《神》です。神とは 次のような説明における《非知》なるナゾのことだと定義しています。
○ (《非知》とは) ~~~~~~~~~~~
経験
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと知った)
非経験
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このとき《非経験の場⇒ 非知》なるナゾは 一般に《神》であり 個別の人にとっては じつは有神論と無神論とに分かれます。
《知り得るか知り得ないかが知り得ない》ということは 《経験的に言うところの〈有る〉か〈無い〉かが知り得ない。人間には決められない》ことです。
したがって わたしたちがそれぞれ神をわが心に受け容れるというときには 《有る神》か《無い神》か どちらかで――つまりそれぞれ言葉による表現の違いを許容しつつ――受け取っているはずだからです。
《神を信じる》というのは 一般に《有る神を心に受け容れている》信仰です。
《神を信じない》というのは 《無い神を心に受け容れた。けれども もうそのあとは いちいち触れないのだ》という信仰のかたちです。
《非知》はこれを 人間がいやだと思って否定したり削除したりすることは出来ません。そのように言ったとしても 《非知すなわち神》は 痛くも痒くもありません。非知は 非経験の場であり 絶対だからです。
でも 《神などはいるわけがない。いないと信じる》という自由が 人間にはあります。
この無神論が ひとつの具体的な形態として表わされたのが
ゴータマ:無梵無我一如 なる無神論
だと見るわけです。これも 信仰であり《梵我一如》なる類型に入ります。
おそらく後世のブディストたちは 《無我・・・無い神》という言葉に反発して 《有る神》をえらび 《法身のブッダ》を立てた。したがってミクロコスモスなるアートマンの位置には けっきょくアートマンと同じ霊我なのですが アン‐アートマン(無い霊我)の代わりに ブッダター(仏性)を同じく立てた。
こうだという交通整理であります。
だいたい 次のようにご議論されたところを含み得ましたでしょうか?
★ しかし、単なる無我は、理性に反するものです。カントのように我やモノに実体があるかないか、なんであるかもわからない、は論理的・理性的ですが、我やモノが「ない」ことは導けません。関係性・因果の結びつきでとらえることも、実は実体を否定できるものではありません。
☆ 《経験世界――思考の緑野および感性の原野――》では 《有る・無い》が決まります。あるいは因果関係が決まります。ところが 《非経験の場=非知》にあっては この有る無いを超えており因果関係からの自由であると来ています。おそらくついでに言えば善悪の彼岸として善悪をも超えているでしょう。
むろんこの非知が おっしゃるように《実体》として名づけられ扱われて来たことも 実際であると思います。
こういう見方を採っています。
ひとこと言えば ゴータマ氏は じつは《無梵無我一如》なる信仰を得たとは 自分では分からなかったのではないか。そもそも《信仰》とはどういうことか? 《神》とは何であって 何でないか? についてしっかりとした哲学を持ち得たかについて いささか疑問が残ります。
この疑問は むろん 晴らされるならばそれに越したことはないという問題です。
長々と出しゃばりました。この際です。
もう一言:《シュウキョウ》は そのオシエが信じるものではなく考えることなのですから これを信じなさいと言ったとしたら それは精神錯乱に落ち入ったことを意味します。
学習会などとして集団を組むことはよいとしても 信仰の集団だとか信徒の組織だとかというのは じつは気が振れているのでないなら あり得ません。
《非思考の庭》が 複数の人間のあいだに集められたり束ねられたりすることは あり得ないからです。
No.4
- 回答日時:
こんばんは。
☆☆ ということは またまた 《さとり》とは何か?
◇お示しになられた論文に
~~~~~~~~~
このように知り,このように見る彼には,欲望の煩悩からも心は解脱し,生存の煩悩からも心は解脱し,無知の煩悩からも心は解脱し,解脱した時には,解脱したという知恵が生じる。生まれることは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなし終えた。もはや,このような〔迷いの〕生存状態に戻ることはない ,と知る。
~~~~~~~~~
という仏典の一節があるでしょ。
わたしは、ずっと前に、
bragelonneさんに「自分が悟ったということを悟った」、「解脱したということを悟った」と言ったことがありますが、こうとしかいえないんですよ。
(自分が)解脱したということを知る、この能力(?)を《解脱知見》といいます。
この《解脱知見》は仏陀にしかない能力とされています。
ちなみに、この部分の最後の四句は
「我生已尽 梵行已立 所作已弁(しょさいべん) 自知不受後有」」
で、有名な箇所です。
特に「所作已弁」が有名です。
これが、《さとり》の内容と言えば、内容かと・・・。
嘘だな。
《さとり空間》からこの世界に戻ってきて、このように感じた、こう解釈したと言うべきなのでしょうね。
ヴェーダで、ヤマ天(閻魔大王)が不死(アムリタ)の世界、不死の道を発見した、というのと同じ内容だと思いますよ、きっと。
このことをゴータマさん流に表現したものなんでしょう。
これ以上は、ちょっと恐くて言えないです(ポリポリ)。
既にかなり危ないことを口にしてしまったような気が・・・。
ですから、
循環論法ではないか、
といわれれば、その通りで、
わたしもこれには困っております(ポリポリ)。
ほんと、答えようがないんです。
この回答への補足
おぎないです。
さとりについての捉え方(その説明の仕方):
・ブディズム:前史(此岸)から本史(彼岸)へ
・パウロ:前史(此岸)から後史(此岸)へ
本史は 自然の体から霊のからだへの《復活》
もう少し細かく見るならば:
・パウロ:前史(此岸)から後史(《彼岸‐此岸》構造)へ
もっと細かくは:
・一般に:前史(《彼岸‐此岸》構造の潜在)から後史(構造の顕在)へ
・《彼岸‐此岸》構造は 《梵我一如》なる想定である。
・ 梵我一如は 信仰形態についての一般類型である。
・これが 顕在化するのは 《非思考の庭》なる目覚め(ブッダ)である。
ご回答をありがとうございます。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
《さとり空間》からこの世界に戻ってきて、このように感じた、こう解釈したと言うべきなのでしょうね。
ヴェーダで、ヤマ天(閻魔大王)が不死(アムリタ)の世界、不死の道を発見した、というのと同じ内容だと思いますよ、きっと。
このことをゴータマさん流に表現したものなんでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここは 経典を知らないので何でも言えるわたしに言わせれば かんたんなことに見えています。
○ わが存在の成り立ち:
《不死の道を直観》:非思考の庭:ヒラメキ
-------------------
《さとり空間の自己同一性》:思考の緑野:認識
《イメージ直感》:感性の原野:知覚
これらの構造が《われ》の内に出来ていると見るというのが
◇ 《さとり空間》からこの世界に戻ってきて、このように感じた、こう解釈したと言う
☆ ことだと捉えられます。
ですから たとえば:
○ 我生已尽:《ふるき我れを脱いだ》
○ 梵行已立:《あたらしき我れを着た》
○ 所作已弁:《ふるき我が人生(前史)を終えた》
○ 自知不受後有:《わが後史に入ろう》〔前史の人生をふたたびやり直すことはない〕
といった感じで捉えます。パウロ的解釈ですが。
たぶん 《後史》なる概念を導入すると
◇ 循環論法ではないか
☆ という問題は起こらないのではないでしょうか?
さとりは 前史から後史へという地平の同一なる見方のほうがよいかと考えます。
ブディズムには 前史から――たぶんその地平からいっぺんに垂直に舞い上がって――本史に到るというようなアマアガリ志向もしくはアマガケリ傾向が その思想にあるのではないか? と見るのは ただのやぶにらみでしょうか?
煩悩と解脱といった対立する二項を・そしてその論理を推し出し過ぎなのでは?
No.3
- 回答日時:
知るか、ボケ。
俺様は仮面ライダーだ。
俺様はもはや、自らの正義のみを信じる。
助けてくれと言われても知ったことじゃない。
★ のみ
☆ という言葉が現われると何かと やばいですよ。そういう場合が 多いですよ。
という反応が 第一に出て来ます。
ご回答をありがとうございます。
この問いは へんな恰好でしょうが 具体的にブラフマ二ズムとブディズムとが 梵我一如をめぐってどう違うか? でした。感覚として 違わない。同じである。と思っていただけだったので 質問としました。
仮面ライダーって 虫か何かだったんですよね。
そういうのを人びとは好むのかなぁ。
No.2
- 回答日時:
こんばんはです。
☆☆ これは 分けて考えるべき要素があると ほんとうに 見るべきなのでしょうか?
◇分けて考えることがインド的ではない、と思います。
インドの形而上学や哲学は、ヨーガ(実践)と車の両輪の関係にあって、どちらか一方のみに焦点を当てるのはおかしい、と思います。
もしキリスト教が「知らんがために信ず」という言葉で形容できるとするならば、
仏教やバラモン教をふくむインド教は、「知らんがためにヨーガす」です。
ウパニシャッドが如何に知識を重視するといっても、《梵我一如》という教えや言葉を聴いただけで、悟れるなんてことは言いませんよ。
bragelonneさんの言葉でいうならば、《梵我一如》も補助線であって、その先にはヨーガによる超経験的な領域、非思考・非経験の庭があります。その非思考・非経験の領域で超経験的に感得できる何かが《梵我一如》なんだと思います。
おそらく、これは宇宙とわたしが溶け合っている、状態なんでしょう。
このことを女性に抱擁されているような悦びと表現しているようですけれども。
あっ すみません。ありがとうございます。
◇ インドの形而上学や哲学は、ヨーガ(実践)と車の両輪の関係にあって、どちらか一方のみに焦点を当てるのはおかしい、と思います。
☆ ということなのですね。
そこを ブディズムだけは 特別であると言おうとしているのでしょうか。やっかいですね そうだとしたら。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
仏教やバラモン教をふくむインド教は、「知らんがためにヨーガす」です。
ウパニシャッドが如何に知識を重視するといっても、《梵我一如》という教えや言葉を聴いただけで、悟れるなんてことは言いませんよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですよね。
だとすると いったいどこが違うと言おうとしていたのでしょうか。《神》を出すかどうか くらいでしょうか。《ブッダ》にこだわるクセでしょうか。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
bragelonneさんの言葉でいうならば、《梵我一如》も補助線であって、その先にはヨーガによる超経験的な領域、非思考・非経験の庭があります。その非思考・非経験の領域で超経験的に感得できる何かが《梵我一如》なんだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ということは またまた 《さとり》とは何か? になってしまいますね。法身のブッダを打ち出すことで 《神》とは言わない。というときの地上におけるブッダのさとりとは何か?
ブディズムは ややこしいですね。
ひょっとすると ゴータマ氏は ネクラだった? ですかね。あれとは違うんだ これとも別なんだと 独自性をどうしても出したかった。・・・
いやぁ ややこしいこと限りないです。《梵我一如》なる信仰のかたちを 一般類型とすることが出来る。このひとつの方程式で そうとう遠くまで行けると思うんですがね。
No.1
- 回答日時:
こんばんは。
☆ つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。
◇ですよ、とずっと前から言ってきたじゃないですか。
仏教はbrahmanismなんですよ。
(大乗)仏教では、このbrahmanを法界や法身仏と呼び、それがすべての生き物にも内在する、と考えるんですよ。この???を如来蔵と呼んだに過ぎない。
仏教は、仏典が説くゴータマさんの時代からブラフマニズムです。
ゴータマさんと梵天さんは、切っても切れない関係にあるんです。
☆ つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか?
◇教えとしては理念のようなものなんでしょう。
ただ、ヨーガなどによって超経験的に感得できるもののようですから、理念という言葉で片付けることはできないのでしょうね。
☆ 前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。
◇「実践の中でのみ存在する」というのは奇妙な話。
実践の中には現勢態として働いているというのなら、分からないでもないですが、
それでも、
実践中以外の時は潜勢態(可能態)として存在しているわけでしょう。
もっとも、アートマンは条件によって消えたり、生まれたりするのである、と言うのならば話は別ですけれども、
生滅するものをアートマンとは呼びません。
であったら、無我論の立場をとる方が首尾一貫している、と思います。
いやぁ ありがとうございます。いえ こんばんは。ご回答をありがとうございます。
この一点は 教理としてどうなのかと自分の知識をあやぶんでいました。
◇ 生滅するものをアートマンとは呼びません。
☆ そりゃあ そうです。《霊我》ですから。思考の緑野や感性の原野ではなくそれらを超えたところの非思考の庭における――想定じょうの――直観などを寄すがとしてあると信じるチカラだと思いますから。
◇ であったら、無我論の立場をとる方が首尾一貫している、と思います。
☆ 《実践》の外では ハタラキを持たないのなら いっそのことアン‐アートマン(無我)なる見方を採ってそれをすべてに及ぼしたほうがよいと。
それでも アン‐アートマンとて 非思考の庭なるけっきょく《無い神》(やはり霊)のことであろうから つねに潜在力としてあると想定される。
あと 確認になると思いますが
■ (西昭嘉) ~~~~~~~~~~
けれども原始仏教が説く悟りへの道は 実践道であり,
〔ウパニシャドにおける〕atman の説明のように ,形而上学的考察に基づいて悟りを求めるものではないので あるから,
たとえ 原始仏教の悟りの境地とウパニシャッドの悟りの境地が同一であったとしても,
悟りに到る道を区別して理解すべきであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 分けて考えるべき要素があると ほんとうに 見るべきなのでしょうか?
形而上学というのは けっきょく神学ですよね? 《実践道》だからと言って それの説明のために一定の神学がないわけではなく やはりあるはずです。だとしたら どこでどう違ってくるのか? と思うんですけれど。
まぁ こんどは ばか‐はげさんに尋ねるべきようなのですが。
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