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「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。
「悟りを開く」で辞書を引いて、記されていない言葉でお願いします。

真理と言われるものを説明できなければ「悟りを開く」にならないのか?
知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。
真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる?
でしたら、私的には
考えない・悩まない・迷わない
ようするに「阿呆になった」
と言っていいのでは?と考えていました。

悩み考える人間のほうが良質なのではないか?

A 回答 (18件中1~10件)

「あほになった」これはいい表現ですね。


しかし少し違います。考えない、悩まない、迷わないからアホになったのではなく、分ってしまったからその事については「考えなくてもよくなった」「悩まなくてもよくなった」「迷わなくてもよくなった」んです。その上を行ってしまったのです。悟りは「全てにおいて悟った」か「その対象物について悟った」というように2つの表現がありますね。仏陀あたりは全てにおいて悟られたと思います。また悟りを開いた人間と無知の人間は似ています。あなたの言う「考え・悩み・迷い」を「欲」だとすると無知の人間はそもそもその対象物について知らないから欲その物がないと推測できます。悟りを開いて無欲になったか、もともと知らないから無欲か。結果的に欲が無ければ悟ったと同じ状態です。

>知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。
そうです。例えば金で大事なことは量ではなく質ですよね。悟りを開こうと無駄に知識を入れるというのは、たくさんの混じりけのある物質を混ぜるのと同じで最終的に金かどうか分からなくなります。金の質を高めたければ、一つ一つ無駄なものを取り去らなければならないのです。
>真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる?
そうです。私はそう思います。知識を入れてない分混じりけの少ない金な訳でその分純金に近いのです。(金=悟 とした場合)

あなたのように考える人間は好きです。これを乗り越えて頑張って悟りを開いてください。私は王陽明の伝習録に出てくる「未発の中」を悟りとしています。求めた回答と違いましたらすいません。
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人はなぜ悟れないか、悩み、迷い、苦しむか?原因は、脳が宇宙の心と、人の心の交流を遮断してるからです。

だから脳を自我を、人の心から分離したら、宇宙の大元と人がつながり、宇宙のすべてが、テレパシーでわかります。現代人は脳に頼りすぎます。いくら科学が発達しても、この物質界、三次元界の事だけです。脳の世界は、この地球に限定されてます。この地球は仏教では、仮の世界といい、宇宙の大元の完全調和の世界から、投影された虚像の世界です。だから人の数だけ、自我があり、争い戦争が絶えません。地球の様な、不完全、不調和な世界が宇宙だったら、宇宙は分解、消滅します。脳の世界を超えた所に、本当の完全調和の世界があります。
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私はbird48さん、brageloneさんの意見に賛成します。


「悟り」はある一定の状態ではなく、ある行為を行い続けるのが悟りであり、行仏であるというのが少なくとも曹洞禅の立場かなと考えます。
臨済禅の見性というと「ある一定の状態」という感じがして私は賛成しがたいです。
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前に申し上げた回答の補足をします。


増谷文雄さんという方が「悟り」について、カントの純粋理性批判の中の認識作用を取り上げて解説されています。
古い本ですが「大乗仏教と小乗仏教」という本です。
よろしければご参考になさつて下さい。
直観的把握と分析的思考についての考察です。
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感覚から思考に移る過程で、「好き嫌いや自分勝手な妄想のトッピング」の情報の捏造が行なわれていると思います(パパンチャ)。



そこから無知・瞋恚・貪欲(三毒)を多く生み出す自我意識が生まれ、悩み苦しみが多く量産され無駄に苦しむのだと。

その捏造(パパンチャ)を破ることが「悟り」だと思います。

「悟り」に達すれば、捏造・自我意識・三毒が絶たれると言います。

知識は悟りではないでしょう。パパンチャ(捏造)を破って、ありのままのデータに触れたとき、真理たるものを実感としてありのままに見るのでしょう。

その人は真理たる捏造の無いデータを元に語るでしょうね。その際、他者にうまく伝える能力は人によってさまざまでしょう。

だからその能力に長けていたお釈迦様は、多くの人の役に立てるように、悟った阿羅漢たちに伝え方を教えている。という経典も残されてます。

<<考えない・悩まない・迷わないようするに「阿呆になった」と言っていいのでは?と考えていました>>

捏造のデータ・妄想により考えない
悩みの根(捏造・自我意識・三毒)を絶っている
なすべきことを明確に知る智慧を備えているので悩まない

要するに「智慧の人となった」と言っていいのでは?

と考えてますw

<<悩み考える人間のほうが良質なのではないか?>>

悩まず明確に事実に基づいて智慧によって行為をなす人間のほうが良質なのでは?

参考になれば幸いです。

では、幸福であれノシ
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「悟りを開く」とは、決して難しいことではなく、端的に言えば、心そのものが本来の自分自身、つまり、心こそ確固たる自我であるということに気づく、いわゆる覚知することを意味しています。


 悟りという字面(じづら)を見てもらっても分かりますが、立心偏に吾(われ、おのれ)と成っていて、心即自我、心こそ自分自身というものを表していて、よく出来ているかと思われます。
 それで、これは一体何を言っているかといえば、誰もが肉体の存在こそが自分自身を成しているように思いがちですが、つまり、心も肉体に付随したものと捉えていますが、それは実のところ、本末転倒であり、心こそが本質、主体であり、肉体はその心の所有物でしかないということです。
 確かに一見すると、目で捕らえられる肉体が主体で、捕らえられない心の方が客体のように思われがちですが、仏法では逆で心というか精神こそが主体、本質となり、肉体はいわば、その心の鎮座するところで、早い話がガンダムのモビルスーツとそれを操るパイロットのような関係と捉えられればよいかと思われます。ですから、肉体というものは自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということです。この本末転倒に気づくことを「悟りを開く」などと言うのです。
 詳しく言えば、我々の思い(心)というものは物心ついた頃から、それこそ死に到る時まで決して変わることはありませんが、その肉体においては子供の頃、成人の頃、壮年、老年とどんどん変化して、傍から見ればまるで別物のような存在かと思われます。いわゆる無常、いずれ朽ち果てるはかない存在ですが、心は色も形もないがゆえに不変、つまり、年を取ろうが決して朽ち果てることのない存在で、これこそが我々の実体であるということです。しかも、この心は決して朽ち果てることのない存在として永遠不滅に続くのです。つまり、その肉体がいくら滅しようとも存続し続けるのです。結局、このことに目覚めた者、つまり、自分は本来は永遠の存在であると確信した者こそが、文字通りの悟りを得たことになるのです。
 確かに、有形で変化して様変わりするものが本質であるはずもなく、無形で不変なるものを本質、その実体と捉えることの方が合理的です。
そしてこの点を踏まえて、かのデカルトは『我思う、ゆえに我あり』という言葉を残したのです。つまり、私という思いがあってこそ自分自身があるのであって、肉体があるから自分があるのではない、と結論付けたのです。彼は仏法を知らなかったとは思いますが「絶対確実なるものは心だ」という、仏法に相通ずる考えを持っていたのでしょう。この点からすれば、結果的にデカルトも「悟りを開く」こととなっていたのでしょう。
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>「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。



説明出来ないと思いますよ、禅の言葉で「不立文字」と言う言葉が有りますが、悟とは理屈で解る事ではないからです。

鈴木大拙の本などを参考にされたら良いと思います、有名な禅学者です。本を読まれたから悟を得えれる訳ではないでしょうが、本も説明(理屈ですから)  判ると言う事では勉強に成ると思います。


禅は自力宗ですが他力宗(浄土真宗)の本も勉強になりますよ。本質を突いているのは自力も他力も同じみたいです。
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悟りとは全てのものはそこに存在していてもいいと許せるようになることだと老います。


そこに存在してもいいと思っているものにいちいち考えたり悩んだり
迷ったりする必要もないでしょう。

これがあってはいけないと思えばそれをどうにかしたいために考えたり
悩んだり迷ったりしたくなるのでしょう。
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何の悟りでしょうか


相対的な悟りか
それとも一元的な真理の悟りかです。
いずれにしても、体験によって得る浅深の度合いによって大きく変わってきます。
悟りそのものは直観による体験であり、理性による概念化はその後にくるものです。
直観は分別を超えた智慧、理性は分別の智慧です。
この両方の智慧の働きによつて成されるのが悟りなのです。
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「悟りを開く」とは、いったん人間界の様々な問題に直面し、迷い、悩み、考え抜いた末に、それらの解決法(真理)を会得してそれらを克服し、晴れ晴れとした一点も曇りのない心的状況を獲得する場へ心が達することでしょう。


もちろんその過程には先賢に学び、様々な知識を頭に詰め込むこともあるでしょうが、ただそれだけではありません。それらが当面する問題解決に役立たなければ真理とはならず、ただの雑知識に終始するだけです。
悟りを開いたひとは厳密に言えば仏陀のあと余り数は多くないと思います。
阿呆とは問題そのものであって、悟りとは程遠いものだと思います。
辞書の言葉をちょっと噛み砕いて自分流に解説したつもりです。
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