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仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

A 回答 (28件中1~10件)

 あけましておめでとうございます。

真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
>>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。
>>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。
 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。
 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 

>>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。
 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。
 まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫)

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ
ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです)

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
(文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう)

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。

 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が

サーティ比丘は
「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」
と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して
「サーティよ、その識とはどんなものですか?」
と問いかけると
「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
と答えたするとお釈迦様は
「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。
と御叱りになった。

というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。
 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。

 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

なるほど。なるほど。

とても深い学識を、分かりやすく解説して下さいまして、ありがとうございました。
とても参考になりました。
私も、もっと深く理解するように、種々、努力したいと思います。

中村元氏の訳した「スッタニパータ」は持っているのですが、なかなか、その文章の真意を理解できずに、途中でストップしていますが、もう一度、熟読玩味したいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:00

 ★(No.25補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~


 bragelonne様からは、No.4のご回答を頂きました。

 (あ) しかし、仰っている内容が私には分かり難くて、なにを仰っているか理解できません。
 (い) しかも、私の質問に対する答えにはなっていないと思われますので、返答の仕様もありません。

 ご理解頂けると幸いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 心を翻して物分りの良い人間にはなるまいと いぢわる回答をつづけましょう。

 つまり (あ)の《なにを仰っているか理解できません》という判断と(い)の《私の質問に対する答えにはなっていないと思われます》という判断とは こまかく言えば相い容れません。

 そこのところをどう考えでしょうか?

 質問者の質疑応答における判断の矛盾?






 たとえば一点。DNAの問題から行けば《輪廻転生(つまり ここでは生まれ変わりということです)》は  すでにあり得ないと分かっているのではないでしょうか? そのように回答しています。

 それでも 主体がいないのに輪廻転生の説が〔部分的にしろ〕説かれているのか? という初めからの問いに固執されますか? つまり おれがこの矛盾を発見し指摘しているのだというご自分の考えに執着しますか? その我執については 輪廻論では煮え切らなかったゴータマでもそれはあかんよとはっきりと説いているようですよ(スッタニパータ)。


 つまり多くの回答者も さぞもっともで正当な疑問であり質問であるという前提を真に受けて見解を述べています。質問者は ぶらじゅろんぬさんからいいことをおそわった この質問はすでに成り立たないと知った ほかのみなさんもそう理解しましょうよ。とでも言えばよいものを。
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この世のものは、全てエネルギー体である。

(宇宙の一部である)
人間とは、肉体を借りただけの存在である。(本来はただのエネルギー)
こんな話をされる方がいます。

もっとシンプルに置き換えて、考えてみます。
全ては「水」である。
海水が宇宙。
そこから蒸発した水分が、霊体。
そこから形を成したもの(仮に雨とします)が人間。
雲から地面に落ちる間が人生。

大きな流れのサイクルの中に人間は存在しており、その中で何度も人生を送っている。
こういうことでしょう。
輪廻転生しているからといって、意思を持って生まれてきているのかどうかは別問題でしょう。
(そういう記述があるのでしたら、認識不足ですので謝罪します)
たまたま同じ「分子」が同じ雨という形を成して、再び降り注いできた。
雨という事象になって現れたのならば、そこには何か意味がある。(植物を育て、生き物に活力を与える)
その意味を考え、成せることをしましょう。
そういう教えなのだと、受け取っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「この世のものは、全てエネルギー体である。(宇宙の一部である)」と言うのは分かる気が致します。

そして、海水の喩えも、少し内容は違っても、私も聞いたことがあり、ある程度納得できます。
つまり、海水があって、そこに波があり、これらの波は、ある一瞬においては、一つ一つ別物と言えば別物と言えないこともない。そこで、一瞬の一つの波が私であり、また別の波が彼である、と認識してしまう。しかし、波もまた海水であり波が消えたら元の海水に戻る。だから、一つ一つの波は、それ自体で永続する実体ではなく、海水の変化した一つの形、一つの現象にすぎない。と言う様なお話だったと理解しています。これは、とても分かりやすい喩え話だと思います。

しかし、だとすると、私という波は消えればそれでお仕舞いであって、私と言う波が消えた後に出来る新たな波は、私とは関係なく新たに起こった、私とは別の波であって、「私の波が再び新たな別の波になるということではない」と思えるのです。

そうすると、「我の実体がない」という説は理解できますが、私であった波が、また別の波として新たに発生したことが明らかでない限り、「輪廻」しているとは言えないという気がするのです。従って、波の喩えが正鵠を得ていると言うのであれば、波の喩えを見る限り、輪廻があるとは思えないのです。

輪廻があると言うなら、輪廻する主体がある筈なのに、ところが「主体はない」というのですから、この二つの概念は、矛盾してると思いませんか?

お礼日時:2015/01/04 11:18

No.24です。



質問者様へ

要約すると、やらないと理解には届きませんよ。
グルグル回っている自分である時、達する事は無いってことを
仏教では教えているってことです。

やって抜けた時に、理解もやってきます。
それが「どのように理解」の答えってことですね。

表面的に理解したいと言う質問かもしれませんが
そこに本来の意味は為さないってことで。

この回答への補足

>要約すると、やらないと理解には届きませんよ。
⇒「やる」と言うのは、何をどのようにやる、のですか?それを教えて欲しいです。
  例えば、スッタニパータ779を実践すると言う事ですか?

「やって抜けた時に、理解もやってきます。」という言葉は、貴方様ご自身の経験に基づく言葉だと拝察致しますので、貴方様はきっと既にやって抜けられたのだろうと思います。
だとしたら、やって抜けた後においては、私の疑問に対する答えは得られた筈だと思いますので、その答えをお教えいただけませんか?
既に、会得されておられるのでしょうから、回答はお出来になると思いますので。
よろしくお願い致します。

P/S
もし、出来ないのなら、貴方様の回答は、少なくとも私の疑問に対する回答にはなっていない、ということだろうと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

補足日時:2015/01/04 10:41
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 こんにちは。



 回答への返答がある場合とない場合とがあります。

 どうしてですか?

この回答への補足

bragelonne様からは、No.4のご回答を頂きました。
しかし、仰っている内容が私には分かり難くて、なにを仰っているか理解できません。
しかも、私の質問に対する答えにはなっていないと思われますので、返答の仕様もありません。

ご理解頂けると幸いです。

補足日時:2015/01/03 13:11
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明けましておめでとうございます。



baka-hageさんが、いろいろ上げてくれてあるので
私なりに展開してみます。

>779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

思考する思いの方ではなく「想い」である方ですね。
自身の想いを知り尽くしていれば、煩悩も見分けがつきますから
その矢を抜くことが必要だと解ります。

自分と向き合うというのは、人間にとっては非常に苦しみを伴うものですから
抜くに至る行為は誰しもかなりの痛みを伴うのではないかと思います。
抜かないでいれば本物の矢と同じく痛みは増していきますので、抜いたほうが結果として楽になります。

さすれば、この世もかの世も望む必要がありません。
それは、やった人しか理解できない。
人はそこから新たにスタートします。


生きながらにして六道輪廻をさまよい苦しむことから抜け出し
自身の想いを知り無我になることが、生きながらにして六道に生まれ変わる
「変化的生存」つまり六道に転生し続ける必要がない者になります。

自身がそうなった時に、仏教の経典はずっと簡単に読めるようになります。

理解は実際にやってみることだと思います。
見えない人に見せることはできず、聞こえない人に聞かせることもできず
自らで見ること聞くことなどを手にしていく者だけが変化しない存在
つまり周りや事象に悩まされ続けない者となります。


今の日本で、仏教だけを頼りにそこまで到達できるかは
個人的には甚だ疑問ではありますが、西洋哲学や心理学や
他の学問などの情報も、領域に囚われず学ぶことをやっていけば
不可能ではないと思います。


久しぶりに縁起説に触れて、縁によって識は生じるが
そのままを書いてあり、言ってることってそうだったんだと
知ることができました。

以前読んだ時は、全く意味が分からなかったですが。
想いに対応していくと、自身の中で変化が起きますが
それによってしかできない理解っていうのを体験していくしかないようです。
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仏教は哲学もありますが 一応宗教ですから



完全で有り得ないものを「完全だ 悟った」と人々がみなしているので

矛盾するのが当たり前です。

お釈迦様は 悟ることもないと言っています。

我というものが確かでないのも言えています。貴方(の我)は確かですか?

輪廻転生はないです。在り得ません。

物質やエネルギー、精神も一瞬も止まらずに変わり続けています。

お釈迦様はその様な事が言いたかったのではないでしょうか?

輪廻転生って 本当に仏教?
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[生まれ変わる]者に実態がないという意味は、『沸き上がる自分の心』には実態が無いという意味です。

我と思っている自分の感情には実態がないという意味です。

ところが生きている実感を感じている『自分』は現実に今此処で生きています。この矛盾が理解し難いところと思います。

沸き上がる感情や考えに付いて云うなら、その時々の感情なり考えとは、『感じさせている者』が内在しているからです。この感じさせている者は、生まれて来た訳ではなくて、死んだからと言っても無くなる者では在りません。

この者は『不生不滅』の存在です。此処の関係性が大変分り難くなっています。

精神疾患等では、その精神疾患を起させているものの事です。うつなどの症状も同じです。寒い時には『暖かいところを探す事を命じながら、身体的には血管を収縮させている者の事です。


高所恐怖症の人では、高いと教えている者の事です。閉所恐怖症も同じです、広場恐怖症も同じです。

人間の心も行動も何時も二つの意識が交代制を維持する事で、正常な毎日が保たれています。この二つの意識の交代性が、ギクシャクし始める時、精神疾患や自律神経失調症や感情障害等のきっかけが始まっています。

詰まり悩みや障害と感じる場合では、その契機となっています、つまり『自分自身の心に矛盾が生じるきっかけになる。』と言う意味になります。詰まり交替制に齟齬が生じると言う意味になります。

眠れないと言う場合を例に取ります、眠る場合では『意識している自分』の意識が朦朧となって、意識が無くなってゆきます、そうして意識が無くなった時には『無意識の自分』が身体と心の支配権を譲られています。朝が来た時『ぐっすりと眠った、爽快感で目覚めます。』自分の心(自意識や自我意識)は全てを『無意識の自分に預けたために』本当に休んでいたからです。

不眠症と言われる状態では、自我意識が、支配権を『無意識の自分に預ける事が出来なくなっています。』是が不眠症の実態です。無意識の自分との交替制がうまく行かなくなった事を意味するからです。

仏教などで悟りを開く体験が語られる事が在りますが、この自分自身と出会う体験の事を言っています。

この体験は『脳の回路構成の発達』を意味する事から、一回での悟りで『一生涯この回路構成が切れる事がなくなります。』この体験を体得と表現する理由が此処にあります。

自我意識は左脳に存在する意識です。感情や考えを湧き上がらせる機能を持っている脳は右脳の機能です。赤ん坊が生まれながら不安や安心を『教えられなくとも知っている事実が在ります。』この機能が『命そのものの働きです。』この命そのものの働きを仏教では『命の働き=仏性』と言っています。

キリスト教なら『神』と呼んでいます。

神や仏とは『内在する右脳の働き=自分自身の命を働かせている機能』の事です。

出会うと分る事ですが、永遠の命、或は永遠の存在、が実感出来ます。自分自身の中に永遠性の存在を実感出来る体験です。この体験以後では、生まれ変わる自分の肉体とか、お金とか、名誉や見得などの価値が色褪せてしまいます。

こう云った現世的なものの価値が 大事と考えてきて迷いの世界に、悩みや苦しみが展開して来た事を実感します。こう云ったものに価値観を見出せなくなってきます。すなわち、在りもしない期待感や、自分の思い込みから成り立っていた、架空の幸福感、或は虚の世界のベールがすっかりと剥がされてしまいます。

嘘で出来ていた世界観のお陰で、悩みや苦しみが始まっていた事が分かる様になります。真実の世界と虚の世界を見分ける第三の目が開けてくる事が分ります。

世の中は真実の世界と虚の世界が同じ空間上に置いて交差しています、こう云った実態が見える時、もう一人の自分が関与しています。

もう一人の自分との対話が、悩みや心の闇や希望となっています、付き合い方の違いです。先程上げた不眠症の例で云うなら、交替制が崩れた事を意味します。

簡潔な書き方をするなら、不眠症とは『無意識の自分』に交替出来なくなった事を意味します。不眠症が治った例え話をするなら、『自分ではもう解決出来なくなってしまったから、全てを諦めて、全てをもう一人の自分に預けてしまおう』という事です。

意識する自分(左脳に存在する自我意識)には出来ない事が分かったから、無意識の自分(右脳の意識=無意識の自分=仏性)に任せよう。となっています。

キリスト教における『神の僕になる』と言う意味です。不眠症の時は、『神をそっちのけにして自分で全てをやろうとしています。』詰まり交替制を拒んでいた事を意味します。

分り難い話になりましたので、或る動画を紹介します。この中で全て語られています。


もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

永遠の生命が私たち一人ひとりの内にあって、それが自分と言うものを感じさせているだけだから、永遠の生命とは別の自分があるわけではない、と仰りたいと理解しましたが、それで正しいですか?

ジルボルト・テイラー氏の「奇跡の脳」は読んだことがあります。
不思議な世界ですね。

お礼日時:2015/01/03 12:54

toto77japa さん こんばんは。

あけましておめでとうございます。

私は、お経は読めず、仏教の知識はほとんどない門外漢ですが、情報提供として、回答します。情報提供といっても、私が図書館の書庫をあさり、膨大な時間をかけた情報ということを簡単にネットで手に入れるということをお忘れなく。

仏教に無知とは言え、哲学者の西田幾多郎の理解や趣味の茶の湯のため、仏教の禅宗の考えには興味を持ってます。

さて、情報ですが、明治26年にヘーゲルの「歴史哲学の講義」が日本に入ってきて、邦訳として「歴史研究法」という名前で歴史研究者の指南車として紹介されたそうです。

この明治26年、論理学第二期前期において、面白いことに、ヘーゲルの論理学が仏教僧侶から宗教哲学的な意味で採用されたそうです。

これは仏教再組織の気運(おそらく廃仏毀釈)によるものでなく、「哲学的」もしくは「宗教的」要求から論理学が問題にされ、形式論理学は、その際は不問に付けられていることを語っているものと解すべきと思う。と横浜市立大学を創設した、三枝博音という哲学者は見解を述べてます。

余談ですが論理学第二期後期には、日清戦争の戦勝と日露戦争の戦勝をその半ばに持っている時期で、日本人は、世界5大強国に列するという国民意識の旺盛な時代であって、学者もまた、この意識の上に立ち、日本における哲学的諸学科を樹立しようという志向を持っていたそうです。

現在は哲学など、もうやり尽して目新しさはないと、この哲学カテでは回答されていますが、日本の明治時代はそうではなく、私からすれば、うらやましいくらい盛んであったようです。
この時代を生きた田辺元や西田幾多郎も仏教の思想が基盤ですが、西洋哲学の影響を受け、自身の哲学に取り込もうとしたことは推察できます。

書庫で、昭和初期に発刊された、田辺元の本を読みましたが、膨大な時間がかかりました。なにしろ、旧字体なので、漢和辞典(小学校のとき画数をちゃんと習って覚えていて良かった)や旧仮名遣い辞典を引き引き。

さらに、「これは、まさに廬山煙雨浙江潮である。」などと、あたりまえのように書いている。調べたら、蘇東坡の詩で、禅の「悟了同未悟」という悟りの世界に繋がるとやっとわかりました。昔の人は漢文が必須で、解説など要らないのでしょう。

さて、仏教素人の私の見解を書くのは、おこがましいですが、禅宗には、

不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずにして、涅槃を得)
「本当に心のそこから仏心に近づこうと信心するならば、罪のままの身にも、仏の深い加護によって、涅槃の世界に生まれかわる事が許されるのだ。」

という言葉があります。キリスト教の思想にも繋がる考えかと私は思います。

また涅槃ですが、有余涅槃・無余涅槃という言葉があります。つまりこの世で「我」を捨てて悟りを開き「無」や「空」の境地に達し、あの世でも「無」や「空」でいるための修行?

少なくとも「無」とは「形が無い」訳ではないので、輪廻転生という「形(五蘊の色か?)が、あるのかもしれませんが、あの世にいかなければ分かりません。

生きている現世において不断煩悩得涅槃を目指すのが大事と私は思いますが、仏教の素人なので、お礼にて間違った解釈をしていたら、指摘してください。
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この回答へのお礼

大変勉強をされているのですね。敬服致します。
今後色々考えて行く上で参考にさせて頂きます。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:22

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<経量部の「単層の」識の流れ>という
概念への疑問(V) 原田和宗

http://www.jits-ryukoku.net/data/05/ick05_harada …

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因果論[編集]

また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。

輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続,चित्त संतान citta-saṃtāna)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。

仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

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Mindstream (citta-santāna) in Buddhist philosophy is the moment-to-moment continuum (Sanskrit: saṃtāna) of awareness which provides a continuity from one life to another. The concept developed in later Yogacara, to avoid reification of the ālaya-vijñāna.

Mindstream
http://en.wikipedia.org/wiki/Mindstream

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とりあえず、心相続のパーリ語での表記がわかったので
追加です。


心相続
citta santāna


サンスクリットだと
citta saṃtāna


ウィキペディアの仏教の項目で心相続が説明されていたのに気がつきませんでした。
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この回答へのお礼

いろいろ教えて頂きありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:16

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