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 ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)は いくら梵我一如と言っても そのオシエにおける概念としてのみ持たれているに過ぎないのか?  

 つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。

 つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか?



 次のようなご見解に接してこの問いを取り上げるものです。

 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~
 梵我一如については仏教でも説かれていますが、バラモン教のものとは一線を画します。

 前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。

 詳しくは西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」という二本の論文を参照してください。

 (☆ これは 出所をあきらかにしても差し支えないものと思います。

  【Q:空海と景教の関係】回答No.8
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8697822.html
 
 ご文章は 取り急ぎの作成になったもので それを引用するのはかえってこの引用者の落ち度になるのですが つかわせていただきました)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 参考:
 ■ 西昭嘉:「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」~~~~~

  http://ci.nii.ac.jp/els/110002912913.pdf?id=ART0 …

 (§ 4 結語 pp.34-35)

 原 始仏 教 聖 典 に 説 か れ る ウ パ ニ シ ャ ッ ド的 表現 に つい て , 中村氏は

    「最初期 の 仏 教 はバ ラ モ ン 教の 優勢な
   雰 囲気 の な か で は こ よ うな 説 き か た を
   しな けれ ば な ら な か っ た 。
    しか し仏 教 が ひ ろ が り さ か ん にな る に
   つ れ て こ の よ うな 配慮は 無用 に な っ た 。
   だ か ら聖 典 の 散 文 に お い て は〈ブ ラ フ
  マ ン へ の 乗物〉とい うよ うな 語は 現 れ な く
  な っ た 」(17 )
  
   (17):『中村 元選 集 』 〔決 定版 〕第 15巻
    「原 始 仏教 の 思 想 1 」 (春秋 社 , 1993年 )P.68.

 と主 張 して い るが ,む しろ 散文 に な る と attan と brahman の 関係が 定型 句 に な る ほ ど繰 り返 し説か れ る よ うに な っ た と考え る べ きで あ り, 我々 は 原始仏教の 悟 りの 境地 がウ パ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 と類似 して い る こ とを認 め ざ る を 得な い 。

  け れど も原 始仏教 が 説 く悟 りへ の 道 は 実践 道で あ り, BRhadaraanyaka-UpaniSad に おい て ,Yaajnavalkya が USasta-caakraayana た ち に 対 す る atman の 説明 (18)の よ うに ,

    (18) BRhad Up .III, 4.i,2,

 形 而上 学的考察 に 基 づ い て 悟 りを 求 め る も の で は な い の で あ る か ら, た と え原 始仏教の 悟 りの 境 地 とウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 が 同一 で あっ た と し ても, 悟 りに 到 る道を 区別 して 理 解す べ き で あ ろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (18件中1~10件)

 お返事遅くて済みません。



>>そうですね。依然としてわたしは経文そのものに従っているわけではないのに それでもデカイ口をたたいているのですが これは――必ずしも ブディズム内部の教理に限った議論なのではなく そうではなく―― 宗派やそのひとつの宗教を超えてひとえに広く
>>《神および信仰 ならびに〔信仰のオシエ化された(つまり それはオシエを信じるとなるとマチガイである)〕宗教にかんする一般理論》
>>の問題ではないかと考えて来ましたし ご議論に接してもその考えを持ち続けます。
 この辺は、立場の違いなんでしょうが、私は各宗教を総合的に解釈するという視点においては、副次的な専門である認知科学の視点で研究はしています。けれども、認知心理学者パスカル・ボイヤー氏なんかは「宗教を一つのものとして扱って説明しようとするのは間違いである」っておっしゃっててたはずですが、私もこちらの立場によります。ある意味、人間個人の信仰心は認知能力のもっているバグだったりして、そのバグを役に立つ形にまとめたのが集団としての宗教であって、まとめるもののチョイスの違いがそれぞれの宗教には違いがあると思っています。最初の回答の中で私が答えたことはあくまで、瞑想体験や祈りによる体験みたいなものは同じような認知機能のバグが下地にあると思っているという事にすぎず、それをほかのものとまとめて出来上がった集団としての宗教の教義が同じという事ではないんですよね。

>>☆ そういった全体観からおおざっぱに見た場合には No.5のぼんぬふじさんとのやり取りで提出した構図は かなりその事情を明らかにしうるでしょうか?
 (略)
 今申し上げたように、実は私の視点は全体観といえるようなものではなく、瞑想体験や祈り体験という狭い範囲の中で見ることができる共通性という大変狭い範囲なんですよ。まぁ、自他不二と、梵我一如にかんしては文献学的な経典とサマタ・ヴィッパサナーという瞑想方法の整合性(パーリ聖典のなかでビパッサナー単独で説かれているのは確か『相応部』の一か所のみです)の問題を加味してはいますが。
 こういった細かい差異はさておいて、先に示された図は、確かに仏教やキリスト教やその他の宗教の共通点としてこのようなブラ氏のいうような構図をつくることは可能でしょうが、それに漏れる宗教も存在すると思うんですよね。
 例えば、確かアフリカだったかなファン族って人たちがいるんですが、彼らの宗教の中には自然的なものの創造主と文化的なものをつくった創造主がいるんですが、だれもこの神を気にしませんでした。ファン族は神よりも、実際に私たちに危害を加える死者の悪霊を避けるための儀礼や何やはするんですが、神には無関心だったようです。この時、ブラ氏の構図は当てはまるのか?私も宗教学の古典といわれる海外研究をいくつか目を通しましたが、民族宗教の中には上の構図に当てはまらないものもあるんじゃないかと思うんですよね。どうなんでしょう?
 私としては全体論というのであればやっぱり個別性の重視になるんですよね。こういう立場の違いはありますよね?

>>高崎直道監修・桂紹隆/斉藤明/下田正弘/末木文士編:シリーズ大乗仏教 第八巻 如来蔵と仏性 2014
>>・松本史朗:第六章 如来蔵と空
 私は松本先生の基体説といいますか「仏性や如来蔵思想は仏教じゃない」って視点には反対です。松本先生は無我がバラマン教的なアートマンへのアンチテーゼと考えていますが、私はそうは思っていません。あくまで、『六方礼経』ののように、バラモン教的なアートマンに仏教的な意味を付加して仏教的なアートマン説を打ち立て、その中における無我説と考えています。それが、先の回答で挙げた金東華氏や西昭嘉氏の言う説だと思っています。
 仏教以前のウパニシャッド文献『ブリハット・アーランニャカ・ウパニシャッド』では、この世を構成する要素の根源はアートマンでありと説かれていて、そもそもすべての要素にはアートマンがあるとあります。また、同時期の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にはサンプラサーダ(肉体と魂が分離し純粋に魂になった状態)のアートマンがブラフマンであるとあって、もともと存在しているアートマンが昇華してブラフマンに至ると考えられています。(記憶便りなんで、あくまでそういう趣旨の意見だってぐらいに思ってください)この、そもそも存在しているアートマンてのが、私の言葉では「教理の中に存在するアートマン」です。
 そして、仏教において金東華氏や西昭嘉氏の言うような、中村元氏の『スッタニパータ』では「自我の安立」という、仏教の実践の中において「アートマンを確立する」という考えがうまれます。これが「実践の中に存在するアートマン」です。
 その考えは仏教のみならずウパニシャッドのなかにも逆輸入され、大乗が大乗として自覚を持ち始めるのと同じぐらいの一世紀前後に成立した『マンドィーキヤ・ウパニシャッド』にも、化論寂滅になったものをアートマンと呼ぶというような、「実践の中にあるアートマン」の考えが比較的広く広がりを見せたころ、仏性説が仏教の中にあらわれます。
 で、いまブラ氏が読んでおられる本に幅田裕美氏の論考がると思うのですが、私の読んだ印象ですが『涅槃経』に説かれる仏性は、如来常住とともに説かれ、「常住」はそもそも時間的永続性ではなく「いまここに」という空間的な連続性を表す語のようです。この文脈に立ったとき「一切衆生悉有仏性」の訳語はチベット語やサンスクリットの断片との比較の中で原意としては「如来が『すべての衆生に仏性があるという』時は正しく今ここにという実践がある」という意味ではないかという趣旨ことがあると思います。(私はそれが『スッタニパータ』では1146に出てきたお釈迦様の事ではないかと思うわけです)つまり、『涅槃経』なんかにある仏性説は「実践の中にある仏性」であって、決して「教理の中にある仏性」ではなかったはずです。こののち、『宝性論』なんかでは、そんな感じで解釈されていると思います。同書第五章「宝性論の展開」を参照して。
 けれども、仏性という訳語は性はもともと持っているって意味ですから、おいおい教理に存在しているアートマンによっていってしまった。ってことになるんじゃないかと。
 結果だけを見れば、教理のアートマンの根強さは感じますね。けれども、上に書いたような展開を十分に検討せず、基体説という単純化(仏性=バラモン教のアートマン)は、案外仏教理解を遅らせる結果になるんじゃないかと思うんですよね。

 すんません。ちゃんとお答えになってないかもですが、すいません。後引用等も記憶便りなんで、あいまいなので申し訳ないです。誤字脱字乱文ご容赦を
合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

 おいそがしいところを ご回答をよせてくださってありがとうござました。




 信仰の普遍的な類型とそしてその個別のあり方 この関係具合いなどをめぐりさらに問い求めてまいりたいと考えます。みなさん よろしくどうぞ。

補足日時:2014/08/15 09:30
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この回答へのお礼

 ばか-はげさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 認知科学の視点
 ☆ ですか。これは 言語学でも始まっているようですね。言葉の発生・語や文の生成などについてあらたな視点や認識が得られるのでしょうか。

 わたしは お手並み拝見という・やや冷めた見方をしていますが。

 ★ 最初の回答の中で私が答えたことはあくまで、瞑想体験や祈りによる体験みたいなものは同じような認知機能のバグが下地にあると思っているという事にすぎず、それをほかのものとまとめて出来上がった集団としての宗教の教義が同じという事ではないんですよね。
 ☆ これはですね。むしろ基本として同じ理解に立っていると思います。

 なぜなら 《信仰――個人の心の内面にとどまる非思考の庭――》のかたちとしては 梵我一如が一般的な類型になると見ていますが
 ★ 宗教の教義が同じという事ではないんですよね。
 ☆ ともまったくそのとおりに見ていますから。

 なぜって そもそも個別には《神》の名前からしてそれぞれ違っているのですから。信仰の成果が何らかの言葉化されオシエとなった場合には それとして違いが出て来るのは 否めないと考えるからです。

 梵我一如は 神と我れとの関係についてのかたちを示すものです。その信仰の成果が オシエとされたときには 人間観や世界観としてその思想は違って来るものと考えます。

 《認知科学》が 信仰の形態としてもその初源の生成にまで認識をおよぼすことが出来るなら まづはそのときの結果を俟つことになると思われます。




 ★ 実は私の視点は全体観といえるようなものではなく、瞑想体験や祈り体験という狭い範囲の中で見ることができる共通性という大変狭い範囲なんですよ。
 ☆ こまかい事柄にかかわると見ます。
  
 たとえば《祈り》は 《神と我れとのあいだの関係》について 経験行為として人間が持つ心的現象でしょうね。そのように基本の理解は やはり共通の内容として捉えることが出来る。
 
 ただしその《祈り体験》とそこから得たことがらを表現した内容については 宗教によって違うのはおろか 個人ごとに違うのではないでしょうか。組織宗教としてそのような個人差をまとめて 一定のオシエとして掲げるというのは さらにそのあとの問題ですから。

 《瞑想体験》も 特にそれが《修行》にかかわるのなら 個人差の問題であり そのあと宗教のオシエとしてのまとめの問題が来ます。

 《全体観》というのは それでも(つまり そのような個人差や宗派の差があっても) 原点とも言うべき信仰の生成なるかたち これは 梵我一如なる類型として 例外なく共通である。こういう見解です。





 ★ ・・・このようなブラ氏のいうような構図をつくることは可能でしょうが、それに漏れる宗教も存在すると思うんですよね。
 ☆ これにつきましては 二点あらかじめ添え書きを持っています。

 ひとつは イスラームです。これについては いわゆる唯一神のもとにありますから 簡単に梵我一如の構図をあてはめてもよいかと思うのですが わたしには 実際に・生活感覚として 《アッラーフ 対 われの関係のあり方》についてよく分からないのです。よって保留としてあります。

 あとは いわゆる原始心性にもとづくアニミズムなどの宗教としては すでに触れないという方針を採っています。詳しい分析をしようと思えば そのつど当の宗教を取り上げて 把握すれば足りる。こう考えています。



 ★ 例えば、確かアフリカだったかなファン族って人たちがいるんですが、彼らの宗教の中には自然的なものの創造主と文化的なものをつくった創造主がいるんですが、だれもこの神を気にしませんでした。・・・
 ☆ かんたんです。その《創造主》にしろ《神》にしろ 《非知――非経験の場――》であるか無いかで判定すれば済みます。

 もしたとえば八百万の神々は どう扱うのか? と問われれば それは 《非知なるひとつの神》の分身だと言っておけば済みます。

 ★ 個別性の重視
 ☆ と梵我一如なる普遍的な類型を打ち出す全体観とは 無理なく両立します。

 




 ★ 松本先生は無我がバラマン教的なアートマンへのアンチテーゼと考えていますが、私はそうは思っていません。
 ☆ これにつきましては すでにほかのやり取りにて私見を述べています。

 梵我一如なる信仰のかたちは その梵も我もあくまで非思考の庭なる想定のうえでの《議論》なのですから この世の経験世界における《有る無し》や因果関係を超えたところの問題です。

 言いかえると アートマンが有ると言っても無いと言っても その霊我なるアートマン(ないしブラフマン神の霊)には 何の変化も影響もありません。有神論か無神論か いづれか好きなほうで人間は 神とあい対すればよい。となっています。

 人間の思考の領域における《テーゼやアンチテーゼ》の問題ではあり得ないのですから。つまり 仮りにアートマンと言い あるいはアン‐アートマンと返し さらには いやいやブッダダーツだとひるがえす。いづれも 一般類型としての《アートマン》のことです。名前が違うだけです。そういうお約束で成り立っています。



 ★ 同時期の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にはサンプラサーダ(肉体と魂が分離し純粋に魂になった状態)のアートマンがブラフマンであるとあって、もともと存在しているアートマンが昇華してブラフマンに至ると考えられています。
 ☆ それは すでに触れて来ましたとおり 信仰の体験をめぐるその成果については 個人差や宗派の差があるといった問題だと考えます。
 そしてそのような成果は すでに言葉で表現されているのなら すでに哲学思想の問題となっていますから 大いに経験思考にもとづき互いに自由な批判をしあえばよい。こういう見方です。普遍性に欠けるオシエは 淘汰されて行くでしょう。

 ★ この、そもそも存在しているアートマンてのが、私の言葉では「教理の中に存在するアートマン」です。
 ☆ 《非知》だと言っているのに オシエないし《人間の思考》の中におさめられる(そして あたかも操作されうる)というのなら それは 信仰の理論に反しています。


 言いかえると――文献や信仰の歴史を措いて捉えるのですが―― 梵我一如なる信仰論を持ったなら それだけで《実践》に入り得る。と見て 差し支えないと考えます。《オシエ》に還元しないなら そのまま実践の問題に成り得ます。

 ★ そして、仏教において金東華氏や西昭嘉氏の言うような、中村元氏の『スッタニパータ』では「自我の安立」という、仏教の実践の中において「アートマンを確立する」という考えがうまれます。これが「実践の中に存在するアートマン」です。
 ☆ ブラフマ二ズムの中でも 《オシエになる前のアートマンとしての直感》とそのあと《オシエとなったアートマン説》とがあるのではないでしょうか? 

 そして 梵我一如なる《信仰の生成》が先であってそこから《アートマン》を取り出しこれを理論化し そのあと《アートマンを確立する》という考えが生まれたとしても その考えじたいが 思考の問題であり思考の領域に神ブラフマンをすでに降ろして来ている。それを 修行をとおして実現するといった考えは 二番煎じなのです。

 神は 息(風・霊 すなわち=アートマン)なり。と捉えたその初源の生成が 信仰としてすべてなわけです。オシエ化は・つまり宗教は やはり二番煎じです。

 梵我一如なる普遍性(全体観)のもとに そのオシエをもともなった信仰や瞑想や修行の体験の成果にかんする宗派・宗教は なるほど個別性を重んじなければなりませんが 全体観を破るものではない。こういう認識であり 理論です。



 ★ (私はそれが『スッタニパータ』では1146に出てきたお釈迦様の事ではないかと思うわけです)つまり、『涅槃経』なんかにある仏性説は「実践の中にある仏性」であって、決して「教理の中にある仏性」ではなかったはずです。
 ☆ もし仮りに大幅にゆづりまして このとおりだったとしましょう。ゴータマこそが アートマンについての実践を見出しとなえた最初の人間だとしましょう。

 だとしても 梵我一如は 《神および信仰》の理論として 普遍性を持つ。こう言えるはずなのです。
 
 要は 《唯我独尊》なる立ち場は 成り立たない。誰もが いまだ目に見えぬ・人類にとって一つなる神のもとに生まれ生きているというサンガなる共生の理論が 大事です。

 クリスチアニズムは 旧約からの神ヤハヱ―を揚げて棄てました。《ひとつの神》のもとに揚げて そこでユダヤ民族なる選良のための神であることを棄てました。
 そういう革命が ブディズムにもおとづれる。のではないでしょうか。


 こういうあらたな道が待っているのではないでしょうか? つつしんで申し上げます。


 



 

お礼日時:2014/08/06 13:20

仏教的には唯識の話だと思うのですが


アートマンは心の深層にある阿頼耶識より深層にあるといわれる識と同一のものだと私は理解しています。
その実在については実際に修行して悟りを得ることでしか確かめることはできないのではないでしょうか。
質問の意図を外していたら申し訳ありません。
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この回答へのお礼

 ううーん。
 ★ 唯識
 ☆ ですか。


 さる_くさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 唯識は 苦手です。おしえてください。

 ただし 《アーラヤ識》は 説得力のある説明を聞かないと 納得しません。とお伝えせねばならないほど 疑問を持ちます。


 ★ 阿頼耶識より深層にあるといわれる識
 ☆ アマラ識でしょうか? これについては ちょうどいま質問が出されています。

 【Q:九識論】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8701646.html

 これにつきましては ねむねこさんの解説(回答No.2)に依拠したいと思うのですが まづブディズムではないという認識なのではないでしょうか?



 もっとも・ただしですね。次のような図解の中で《非思考の庭》に相当する場なのだと言うことでしたら・つまり 名前が違うだけということでしたら いまのところ理解できるとは思っていますが どうでしょう?

 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
  ○ (わが心なる非思考の庭)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ____________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
  ___________________________
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 上と下とを逆にするとよかったかも知れませんが
 ★ アートマンは心の深層にある阿頼耶識より深層にあるといわれる識と同一のものだと私は理解しています。
 ☆ というときの《アートマン》は まさしく《非思考の庭》なるチカラ・場・ハタラキであるとして想定しているものです。むろん ブッダ・ダーツ(ブッダター・仏性)も同じくです。


 
 ★ その実在については実際に修行して悟りを得ることでしか確かめることはできないのではないでしょうか。
 ☆ これについての質問者としての考えをしるします。

 おそらく《実在》かどうかは――非思考のナゾであるからには―― 確かめようがなく ただそのアートマンのはたらきが ヒラメキとして成ったならその主観にとっては ひとまづ現実だと捉えると思います。

 そして アートマンの実在性が問われるというよりは そのハタラキとして得られたヒラメキから さらに概念が直観されてひとつの思想ないし世界観として表わされたなら・そしてそれが 哲学的に見て有効であるなら よしとする。こう見ています。

 つまり 世界観となったかたちにおいて アートマンの実在性をそれとして確認する。といった恰好です。

 世界観が有効であるというのは 一般に《共生》にとってどれだけ有益であるかにかかっているのではないか。と考えております。


 
 ストレートに反応し応答しました。あしからずお受け取りくださいませ。




 これからの展開としましては:

 ・ 信仰――非思考の庭――のはたらきにかんするそれぞれの人の 動態の実際 これを探究して行きたいと考えます。《信仰の個別性》ですね。

 ・ もうひとつは さきほど挙げた主題として《共生》です。ブディズムとしては 出家に限らないかたちの《サンガ》という或る種の共生のかたちが模索されているかと思います。

 ・ あるいは 娑婆即浄土というような理念も出されています。王法(つまり 政治ないし共同自治)をどう扱うか。にもかかわって来るのではないでしょうか?


 これらが 考えられると思います。むろん これらに限られるということではありません。よい展望や案をつのりたいと思います。

お礼日時:2014/08/08 20:58

スッタニパータの「自我の安立」がどこにでてくるのかわからなくて


困っています。

それでとりあえずスッタニパータの154を見ていました。

それで

心というか意というか mano
が使われていました。

困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く
http://76263383.at.webry.info/201308/article_17. …



Paramatthajotika II
(Pali Commentary)
PTS Version (Smith): 1 2

http://www.shemtaia.com/BU/DL/suttanipata.shtml


~~~~~~~~~~~~~~

su-paṇihita a. pp. <paṇidahati < pra-ni-dhā

よく向けられた,よく志向した,

supaṇihito ti suṭṭhu ṭhapito acalo asaṃpave-dhī

II.200^31

<よく向けられています>とは、よく確立した,不動である,揺るがない

パーリ仏教辞典 仏のことば註―パラマッタ・ジョーティカー―付篇 パーリ聖典スッタ・ニパータ註 索引・辞典
村上真完 / 及川真介著
春秋社

2090ページ


~~~~~~~~~~~~~~~~

パラマッタ・ジョーティカーIIの200ページ。
上に掲載したサイトだと
PTS Version (Smith): 1

pdf 204/383

~~~~~~~~~~~~~~~~

辞書を引用するのが大変だったので誤字脱字があるかもしれません。


スッタニパータの詩句をパラマッタジョーティカーが註釈して
安立という訳になるのではないでしょうか。

とはいえ、ほかにも安立と日本語訳されている箇所がスッタニパータにあって
それがどうなっているかまでは調べていません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~


START BrhUp 4,3.7

katama ātmeti -- yo 'yaṃ vijñānamayaḥ prāṇeṣu hṛdy antarjyotiḥ puruṣaḥ |
sa samānaḥ sann ubhau lokāv anusaṃcarati dhyāyatīva lelāyatīva |
sa hi svapno bhūtvemaṃ lokam atikrāmati add. mṛtyo rūpāṇi || BrhUp_4,3.7 ||

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_san …

「どの自己であるか?」
「もろもろの生気において認識から成り、心臓の内部にある光としてのこの人間
――彼は[二つの世界に]共通しているので、二つの世界の間を行ったり来たり動く。
彼は、時には熟慮し、時には揺らめく。
なぜなら、彼は夢になって、この世界および死の諸形態を超えるからである。」

ウパニシャッド ―翻訳および解説―
湯田豊 大東出版社
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド

第4章3・7

107ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~

心臓の中の人間がプルシャであり、アートマンのようです。

それでこういうのも、どうかと思うのですが、
眠って夢を見ることが、実践ではないでしょうか?

そう考えるとウパニシャッドは眠りで、仏教は目覚めになるのだろうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 心臓の中の人間がプルシャであり、アートマンのようです。

 それでこういうのも、どうかと思うのですが、
 眠って夢を見ることが、実践ではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうであるかも知れません。そうでないかも知れません。



 引用が大変なほどなら もう頼みません。

 どうぞご自由に。

お礼日時:2014/08/08 14:16

文字の誤字がありました。



mahā

ですね。あとで気がつきました。

mahā purisa

と、わけて考えてしまって、プルシャを調べてめんどうだったのですが


mahāpurisa

だと、偉大な人で、それでいいのですが

なにがわけがわからなかったかと言うと
偉人の相の話になるからでした。

スッタニパータの第三章大いなる章 七、セーラにも出てくるようです。

http://suttacentral.net/pi/snp3.7

質問とあまり関係ない話になってしまいました。

以下はついでです。



purisa m.(S) puruṣa 人,人間,男,男性,霊魂,家来.

パーリ仏教辞典 仏のことば註―パラマッタ・ジョーティカー―付篇 パーリ聖典スッタ・ニパータ註 索引・辞典
村上真完 / 及川真介著
1318ページ

~~~~~~~~~~~~~

puruṣa[プルシア] サーンキヤの体系においてプラクリティに対立する原理であり、絶対精神ないし純粋精神ないし
純粋意識。プラクリティが絶えず転変するのに、プルシアは全く活動せず、ただプラクリティの活動を眺めるだけ
[プルシアは、元来、男ないし原人を意味した。それは万物に宿る精神]→prakṛti

ウパニシャッド ―翻訳および解説―
湯田豊 大東出版社

703ページ

~~~~~~~~~~~~~~

不滅なのは、まことに人間(puruṣa)である。なぜなら、彼は食物を再三再四、生み出すからである。
「まことに、それが尽きないことを知っている人」と。不滅なのは、まことに人間である。

ウパニシャッでド ―翻訳および解説―
湯田豊 大東出版社
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド

第1章5・2

28ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~~

プルシャ(原人)の歌(一○・九○)

本篇は他の創造讃歌と異なり、巨大なプルシャ「(原人)」から宇宙が展開した経路を説明する。
すでに一○・七二・四三(三一五頁)で見たように、ここでも循環発生により、プルシャからヴィラージュが生まれ、
ヴィラージュからプルシャが生まれる(第五詩節)。神々はこのプルシャを犠牲獣として祭式を行ない、その各部分から
世界の構成要素が出現する。巨人解体を主題とする創造神話の一種であるが、これをインド的に祭祀と結合したところに
特徴がある。後世への影響も大きく、インド社会の四階級の名が始めて列挙されている点も注目に値する。

リグ・ヴェーダ讃歌
辻直四郎訳
岩波文庫

318ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

 ウパニシャドにおいて アートマンが 実践の中で捉えられている。といった資料があるとさいわいに思います。

 あるいは 今回との関連で言えば アートマンと〔精神原理としての〕プルシャとの関係がどうであるか。になると思います。




 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/08/08 11:38

《それぞれの宗教の個別性》に入ったようですね。



私見を述べさせていただくとすると、言葉にする、表現する、その時点で個別性が入ってくる。そこには、自然環境・生活環境の違いもはいってくるでしょう。

ただし、非思考の庭、直観の世界を、科学でとらえようとしても、言葉にする、表現することですから、非思考の庭、直観の世界から脱落すると考えています。つまり、いくら科学的分析といえども、このことに関しては、科学自体が宗教の一つの教義に脱落すると考えています。

非思考の庭、直観の世界を、適切にとらえるのは、言語表現を極力少なくしたという意味で、瞑想が最適であると考えます。もちろん、それは経験でのことではありますが。

また、瞑想こそ最適の立場は、宗教に関する学問という視点ではないことは百も承知しています。ただ、瞑想や信仰対象との遭遇体験によって、日常生活にもたらされた恩恵・知恵は巨大なものです。例えば、シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンなどは、何十年もたって初めて別の人に証明されたような、数々の数学公式を、女神が教えてくれたと主張しています。また、東洋医学の基本的な考えは、瞑想からうまれたと言われています。直観の世界、それにもっとも近つきえる瞑想が、完全な誤りならこういう現象は起こり得ないと、私は考えます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 まづ:
 ★ 例えば、シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンなどは、何十年もたって初めて別の人に証明されたような、数々の数学公式を、女神が教えてくれたと主張しています。
 ☆ このご指摘がおもしろかったので 触れます。すなわち二週間ほど前に おそわりました。
 
 ○ 【Q:日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8690362.html

 (その回答No.6)◇ ~~~~~~~~~~~~
 ちょいと余談。 / インドには「魔術師」と形容された、ラマヌジャンという数学者がいたんですよ。
 ・・・
 大学で系統的な数学教育を受けなかったため、彼は「証明」という概念を持っておらず、得た「定理」に関して彼なりの理由付けをするに留まっていた(寝ている間にナマギーリ女神が教えてくれた、など)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《論理もしくは 論理的なこと》と《ヒラメキ・直観》とのつながりですね。




 ★ ただし、非思考の庭、直観の世界を、科学でとらえようとしても、言葉にする、表現することですから、非思考の庭、直観の世界から脱落すると考えています。
 ☆ この点は 大事だと思います。

 ここまで来れば もう大丈夫 てっぺんに行き着いたと思ってしまうのでしょうか。たとえば《天上天下唯我独尊》と言いたい気持ちになっちゃんでしょうか。
 ★ ただし、非思考の庭、直観の世界を、科学でとらえようとしても、言葉にする、表現することですから、非思考の庭、直観の世界から脱落すると考えています。
 ☆ ですから この《脱落》が分からないようになってしまうと この辺でよしとしようと考え その地点での知恵および知識が いわば偶像の神となってしまう。


 偶像視・偶像化だけでは いかんせん 《個別性》の問題にはなりません。個人的なバイアスになります。
 ★ 私見を述べさせていただくとすると、言葉にする、表現する、その時点で個別性が入ってくる。そこには、自然環境・生活環境の違いもはいってくるでしょう。
 ☆ ですから このバイアスは じつはわたしのバイアスなんですと言う風に あけっぴろげに言えるならまだしもなんです。そうではないと もう偶像の神に首ったけになってしまう。

 個別性は その人の置かれた自然や社会生活の環境全般が いい意味でもバイアスとして入り込むでしょうし その人の母語も或る程度 かかわって来るのでしょうね。



 非思考の庭――この磁場のような庭――を活かして 心の深さやまた高さを示すようなヒラメキ直観の成果を 個別性において 表現しあって行くことが これからの活動のひとつでしょうね。

お礼日時:2014/08/07 15:12

あれこれ調べているうちに


わけがわからなくなったので、これだけ書きます。

スッタニパータ

三、学生ティッサ・メッティヤの質問

1042

So ubhantamabhiññāya,
Majjhe mantā na lippati;
Taṃ brūmi mahāpurisoti,
So idha sibbinimaccagā”ti.

http://suttacentral.net/pi/snp5.3

~~~~~~~~~~~~

わたしは<偉大な人>と呼ぶ。


偉大な人

maha purisa

purisaはサンスクリットだとpuruṣaです。
プルシャはサーンキヤ学派では精神原理になるようです。

なぜ精神原理になってしまうのかは、
その場合、プルシャは霊魂の意味なのでしょうが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ▲ (スッタニパータ 1042) ~~~~~~~
 <3、学生ティッサ・メッテイヤの質問>

 1040  ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、

 「この世で満足している人は誰ですか? 
  動揺することがないのは誰ですか? 
  両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか?   あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? 
  この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

 1041  師(ブッダ)は答えた、

  「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──かれには動揺は存在しない。
 1042  かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。
  かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。
  かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 偉大な人

 maha purisa

 purisaはサンスクリットだとpuruṣaです。
 プルシャはサーンキヤ学派では精神原理になるようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《精神原理》というと 精神は 理性ないし思考の領域ですから 経験事象です。
 でもたぶん 《たましい》といった意味において 《非思考の庭》のことを言っているのかも知れません。つまりそうなると 

  プルシャ= 精神原理= アートマン

 が成り立つかも知れません。

 ▲ 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない
 ☆ という状態が アートマンのはたらきを得た存在者であるとすれば おおむね 《実践じょうのアートマン》となるとは思われます。

 ウパニシャドの頃にもすでに この実践じょうのアートマンは 持たれていたのか? と問うことになりましょうか。

お礼日時:2014/08/06 21:19

No11へのお礼、ありがとうございました。



非思考の庭は、思考や感性として経験に結びつきうるけれども、非思考の庭は信仰対象との関わりに発するものであるから、一般的な思考や感性とは区別しておこうというお考えと理解しました。

非思考の庭が、思考や感性として経験に結びつきうるものとしては、例えば、《ひとは 非思考の庭にあって神の心のもとにやすらぎ〈わたしがわたしである〉ならば 自分をも他人をもひとはころさない》ことを実際に経験したということが一つと思いますが、例えばどうすればそのような経験ができるのかの教えがあってもいいと思います。修行方法や祈りの方法を教えるとか、、、そういう意味では「見える」集まりも有効ではないかと思いますが、、、。

すみません、本題への回答ではなくて、、、。

《梵我一如》で遠くまでいけるはずだ(bragelonneさん)、、、自分も以前それを思い描いていました。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 《梵我一如》で遠くまでいけるはずだ(bragelonneさん)、、、自分も以前それを思い描いていました。
 ☆ そうですか。それは それは。
 
 汎用性があるだけではなく 神がいかに名が違っても けっきょく同じひとつの神であるというところについても しっかりと見通せるだけの信仰のかたちを語っている。こう思っています。




 ★ 非思考の庭は、思考や感性として経験に結びつきうるけれども、非思考の庭は信仰対象との関わりに発するものであるから、一般的な思考や感性とは区別しておこうというお考えと理解しました。
 ☆ ありがとうございます。そうしたいと思っています。



 ★ 非思考の庭が、思考や感性として経験に結びつきうるものとしては、例えば、《ひとは 非思考の庭にあって神の心のもとにやすらぎ〈わたしがわたしである〉ならば 自分をも他人をもひとはころさない》ことを実際に経験したということが一つと思いますが、例えばどうすればそのような経験ができるのかの教えがあってもいいと思います。修行方法や祈りの方法を教えるとか、、、そういう意味では「見える」集まりも有効ではないかと思いますが、、、。
 ☆ いえいえ 《本題》にかかわっています。《アートマン=つまり 聖書に言う聖霊・神の霊》がどのように非思考の庭で 一般に経験世界のことがらと関係しているかの問題だと考えます。

 ★ ・・・例えばどうすればそのような経験ができるのかの教えがあってもいいと思います。
 ☆ 信仰によって得た成果――つまり アートマンのハタラキとしてのヒラメキにおいて得られたイメージや直感――を《オシエ》として言葉化することまでは ふつうにおこなわれると思います。

 アブラハムの知恵と信仰命題が 人びとに こんどは思考の問題として表現されて来て 持たれる。ここまでは ふつうにおこなわれると思います。《ころすなかれ。むさぼるなかれ。・・・》。


 そのあとです 問題は。
 モーセの場合は――自分自身は アブラハムと同じように個人としての内面における信仰にもとづき生きていますが―― 集団としての民族にとっての秩序をもとめたときに 《オシエ》を必要としたのでしょう。これが シュウキョウとなりました。

 問題は そのあとです。
 すべてを端折って結論に走りますが このオシエは 次のようなかたち・またはそれらとしての扱いになる。こう考えます。つまり シュウキョウとしては 要らなくなり 消えるという見通しです。

  オシエ
  ⇒ひとつに ナラハシ・慣習・民俗
  ⇒ 法律
  ⇒ 思想
  ⇒ (過去の歴史としての宗教)


 ・ じっさいに聖書においても エレミヤ書(31:31以降)で 二点すなわち 神は人びとの罪をすでに覚えない・忘れる および 神を知れと言っておしえることはなくなる と言っています。これは 新約でもへブル書(8章)で取り上げられています。

 ・ つまり ヤハヱ―は みづからをこのように揚棄したと捉えられます。高いところにみづからを揚げ そこですでにみづからを棄てた。《神は 人間にとって ひとつである。名が違っても・また〈無い神〉であっても 互いに違いはない。》という神へとみづからを変革した。と捉えます。

 ・ そのとき――つまり イエス・キリストの歴史への登場のあとは―― 罪の問題は解決され 神を知れとうったえるオシエは 要らなくなり シュウキョウは影形もなくなるようになる。と捉えます。



 ★ 修行方法や祈りの方法を教えるとか、、、そういう意味では「見える」集まりも有効ではないかと思いますが、、、。
 ☆ 《「見える」集まり》は コミュニティにおいていくらでもいやと言うほどにも いろんな形で持って活用すればよいと思います。宗教は要りません。と思います。

 この質疑応答の場も そのひとつですね。

 《修行》も要らないと考えます。と言いますか 自由だと思います。やりたい人がやればよいと。

 《祈りの方法》は 聖書なら聖書にちゃんと書いてあります。それについての研究や批評も いくらでも著わされています。

 つまり 信教・良心の自由はもとより 一般に自己表現(生活)全般にわたる表現の自由も 公理であるのですから たとえば〔過去の〕宗教にかんする研究もありましょうし 現在にもおける信仰についての議論 これも 表現されてくると考えられます。むろん みんなで話し合ってもいいわけです。

 おそらくこれらは 《見えざる〔広義の〕教会》のもとにこそ自由におこなって行けるのではないか。とも思います。

 《聖》職者についての《ヒエラルキア(聖なる支配秩序)》 またその組織 これは 要りません。そんなものを持ち続けるのは アホか! とさえ感じられます。《内面を外の人間関係・権限関係でしばっている》だけだからです。

 いまだに 誰かさんはみづからを《神の地上における代理人》だと言っています。《無謬性を帯びている》と。これらは 屁の河童です。自己解体を勧めて行きたいと思います。(韓国に行くそうですね)。

お礼日時:2014/08/05 06:51

こんにちは。



宗教を統一的に整理しようとされていて、なかなか面白い視点だと思います。

ただ、

非思考の庭(直観・ヒラメキ)
---------------------
思考の緑野:思考・認識
感性の原野:直感・知覚

の、この------の分断については、どうだろうかと感じます。

各宗教において、それぞれの経験や感じたことがあって、非思考の庭での「信仰内容」にいきついているはずなのです。
厳密に論理的には想定かもれないけれども、各宗教においては、ある程度、場合によってはかなりの程度、経験によって裏つけられているのではないかと思うのです。

この------の分断という枠組みを儲けることによって、単なる想定なんだというところが、始めから意図されているのではないか、そこに恣意的なものがないでしょうか。

あと、《それぞれの宗教の個別性》の問題については、是非質問者さんや他の方々の洞察をおうかがいしたいところです。
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この回答へのお礼

 すーぱーけろよんさん こんばんは。ほとんど 初めましてでしょうか。ご回答をありがとうございます。


 ★ あと、《それぞれの宗教の個別性》の問題については、是非質問者さんや他の方々の洞察をおうかがいしたいところです。
 ☆ これは ぜひわたしもお伺いしたいですね。たぶんそれらを交えて 一般的な信仰の類型が 現実的になるかと思います。





 ★ この------の分断については、どうだろうかと感じます。
 ☆ つまり ほかのところでは 実線(_______)で隔ててしまっています。

 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
  ○ (わが心なる非思考の庭)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ____________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
  ___________________________
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ そうですね。それほど意識していなかったと言えば ぐうたらになりますが つまり実際の気持ちは 区切っておくという感覚があったといったところです。

 それは 何故かと言えば はっきりしています。

 《非思考の庭》は 特殊な場(庭)です。非知なる神(その名)を受け容れそれによって成った状態が推移する庭です。

 つまり 受け容れる対象は じつは《非知 つまり 非経験の場》です。受け容れるというのは 経験行為です。
 むろん 思考の緑野と感性の原野とは すべて経験行為の世界です。


 そうですね
 ★ 各宗教において、それぞれの経験や感じたことがあって、非思考の庭での「信仰内容」にいきついているはずなのです。
 ☆ 《宗教》は 信仰によって具体的にはヒラメキをつうじて得た直観が すでに或る種の世界観を形作るまでの知恵や思想を提供しているので その思想が オシエとして表現されたところから始まるとわたしは見ています。

 アブラハムは 長男を神にいけにえとして捧げるという事態に直面して 悩みに悩んだ結果得た結論が 《ひとは 非思考の庭にあって神の心のもとにやすらぎ〈わたしがわたしである〉ならば 自分をも他人をもひとはころさない》という直観を得た。

 これは 信仰のたまものであり その成果です。

 この信仰の実りをさらに 倫理的な規範と為して《なんぢ ころすなかれ》としたのが 《おしえ》であり宗教の始まりです。
 
 ひとつに 個人の境地としての信仰による心の状態とそして そこから出たところの事態として すでに集団における或る種の秩序をもとめてのごとく規範を必要としてこれを律法(法律)としてかかげ人びとのあいだの取り決めとしたことと。


 すなわちおっしゃるように シュウキョウと信仰とはつながってはいます。いますが 大きな違いもあります。
 すでにオシエとなったときには その内容は 信じることではなくなっていることです。《なんぢ ころすなかれ》は 考えることであって 信じることではありません。

 言いかえると 律法(法律)は 神ではないからです。

 しばしば 人びとは 《宗教を信じる》というワケの分からないことを言います。これは あり得ません。そう表現していても そんなことは出来っこありません。せいぜい強く思うとか思い込むとか念じるとかであって 決して信じるではあり得ません。




 ★ 厳密に論理的には想定かもしれないけれども、各宗教においては、ある程度、場合によってはかなりの程度、経験によって裏つけられているのではないかと思うのです。
 ☆ ということなのですが そうなのですが そのとき同時に 《考える》と《信じる(心に受け容れる)》とは 決してまぜこぜにはならない区別があります。考えるのは 経験事象についてです。経験事物を信じるということは ほんとうにはありません。(強調や修辞学的なアヤとして言うかも知れませんが)。


 という意味合いで いちおう区別のために 線を引っ張って分断していますが まぁ どうでしょうか。理屈は合っていると思うのですが。



 お分かりのようにわたしは シュウキョウをこころよく思っていません。二人や三人があつまって いざセイノでみんなで一緒に 神を信じましょうというようなことはあり得ないからです。

 学習会とか聖書研究会とかあるいは生活協同組合のような社会運動体であるとかあるいは修道院だとか そういった集まりや活動であれば ふつうであると思いますが 信仰を看板にかかげてオシエを《信じよ》という組織宗教は あり得ないことだと思っています。

 すみやかに自己解体すべしと言って来ています。

 信じる者であるならば 見えざる教会や見えない集まりとして 互いに力を合わせて行けばよい。こう考えます。

 マルティン・ルーターは 万人司祭を言いましたが そもそも《司祭》という聖職者じたいが要らないのだと考えます。オシエは いまではふつうに哲学思想として吟味検証すればよいものと考えます。

 ですから 勉強会はあり得ると思います。けれども 《信仰》にかんして 誰かが誰かをみちびくといったことは すでにフザケタお遊びになっているのではないかと考えます。




 例によって 言いたい放題になりました。皆さんにも ツッコミのほうをよろしくどうぞ。

お礼日時:2014/08/04 22:00

このものを、バラモンはヴェーダの読誦によって、祭祀によって、布施によって、禁欲によって、断食によって


知ることを欲する。まさに、このものを知り、彼は沈黙する隠者になる。まさに、このものを世界として求めながら、
放浪の禁欲主義者たちは放浪する。


ウパニシャッド ―翻訳および解説―
湯田豊 大東出版社
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド
122ページから124ページ
第4章4・22


~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.20
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8685175.html

kurinalさんの質問に長々と引用した文章のその部分は実践といえないのでしょうか。


それからついでに、


START BrhUp 4,4.22

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_san …


これが、そうではない、そうではない、と言われる自己である。それは把握され得ない。なぜならそれは把握され得ない
からである。それは破壊され得ない。なぜなら、それは破壊され得ないからである。それは無執着である。
なぜなら、それは執着しないからである。それは繋縛されず、揺らめかない。それは傷つけられない。

ウパニシャッド ―翻訳および解説―
湯田豊 大東出版社
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド
122ページから124ページ
第4章4・22



~~~~~~~~~~~~~~~~~



これが、そうではない、そうではない(63)、と言われる自己(ātman)である。それは把握され得ない。
なぜなら、それは把握され得ないからである。それは破壊され得ない。なぜなら、それは破壊され得ないからである。
それは無執着である。なぜなら、それは執着しないからである。それは繋縛されず、揺らめかず、傷つけられない。

ウパニシャッド ―翻訳および解説―
湯田豊 大東出版社
ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド
129ページ
第4章 5・15



(63)ブレレトン[一九八六年、一○六頁]によれば、ネーティ・ネーティという言い回しは
「たとい、それがテーマ的に関連しているとしてもパッセージの自然の結論を妨げる」のである。
要するに、ネーティ・ネーティという文句で始まり、「傷つけられない」という言葉で終わるこのパラグラフは
後世の人の編集によってここに挿入されたと言えるのである。ネーティ・ネーティという言い回しは、
同じウパニシャッドの2・4[およびマーディヤンディナ版、2・4]には存在しない。

632ページ


~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ごちゃごちゃしています。
省いても良かったのですが。


なんだかよくわかりませんが
START BrhUp 4,4.22

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_san …

START BrhUp 4,4.22に、sa eṣa neti nety ātmāが無いようなんです。
たまたま途中で途切れているのかなんなのかわかりませんが。

でも、こちらのウパニシャッドにはあるようです。
http://titus.uni-frankfurt.de/texte/etcs/ind/ain …


しかもBrhUp 4,5.15のも後世の編集らしい。
後世の編集による挿入がいつなのか、特に仏教より以前なのか以後なのかわかりませんが
注釈では2・4もそうみたいですね。

ウパニシャッドについての考え方も変わったりするのかな。

それから
把握され得ないなら無我なのでは?
でもウパニシャッドからすればアートマンはあるから、仏教からすればやはり無いということなのだろうか。
非我とかいいたくもなります。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ kurinalさんの質問に長々と引用した文章のその部分は実践といえないのでしょうか。

 ● ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド ~~~~~
 (回答No.20)

 第4章 4・23 ・・・
 まさに自己自身(ātman)の中に(ātman)を見る。彼は一切を自己として見る。
 悪は彼を超えない。彼は一切の悪を越える。
 悪は彼を焼かない。彼は一切の悪を焼く。
 悪を離れ、塵を離れ、疑惑を離れ、彼はバラモンになる。

 「これが、ブラフマンの世界である、大王よ!お前は、この世界に到達せしめられた」とヤージュニャヴァルキヤは言った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言えるでしょうね。


 ○ わが《身と心》の成り立ち ~~~~~

  アートマン:非思考の庭:ヒラメキ
  ----------------
  コギト:思考の緑野:理性・認識・意志
  センスス:感性の原野:直感・知覚

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ といった構造が成ることを言い そのアートマンへの目覚め(ブッダ)があらたな出発点になることを言うのでしょうね。この構造を離れないでわが存在を捉えることが 《バラモンに成る》ことだと受け取ります。天なるバラモンの国に行ってしまったというわけではない。


 ▲ (START BrhUp 4,4.22) ~~~~~

 sa vā eṣa mahān aja ātmā yo 'yaṃ vijñānamayaḥ prāṇeṣu |
 ya eṣo 'ntar hṛdaya ākāśas tasmiñ chete |
 sarvasya vaśī |
 sarvasyeśānaḥ |
 sarvasyādhipatiḥ |
 sa na sādhunā karmaṇā bhūyān |
 no evāsādhunā kanīyān |
 eṣa sarveśvaraḥ |
 eṣa bhūtādhipatiḥ |
 eṣa bhūtapālaḥ |
 eṣa setur vidharaṇa eṣāṃ lokānām asaṃbhedāya |
 tam etaṃ vedānuvacanena brāhmaṇā vividiṣanti yajñena dānena tapasānāśakena |
 etam eva viditvā munir bhavati |
 etam eva pravrājino lokam icchantaḥ pravrajanti || BrhUp_4,4.22 ||
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ きちんと意味を取るまでに読み解いてはいませんが かかげておきます。


 
 ▲ (ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド) ~~~~
  第4章 5・15
 これが、そうではない、そうではない(63)、と言われる自己(ātman)である。
 それは把握され得ない。
 なぜなら、それは把握され得ないからである。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いささか幼稚な論理による議論であるようですが アートマンは けっきょく《非知》なのであり ナゾとしてわが心なる《非思考の庭》にやどる。といった想定としての仮説を語っているように捉えられます。



 ★ START BrhUp 4,4.22に、sa eṣa neti nety ātmāが無いようなんです。
 ☆ START BrhUp 4,5.15にありました。



 ★ 把握され得ないなら無我なのでは?・・・非我とかいいたくもなります。
 ☆ 《非知》なる庭における無我(アン‐アートマン)とそして有る我(アートマン)とではないでしょうか。



 ウパニシャドが ゴータマの言うように単なる《実在》だとか《実体》だとかと言いこれをしりぞけるという議論は 浅はかであるように見られます。ひとつの例証をありがとうございます。

お礼日時:2014/08/04 17:25

こんにちは。




松本《dhatu》説ですか。
松本説は、
「如来蔵、仏性は、バラモン教などにある基体説に基づくものであり、無我を説く仏教から逸脱したものである。これは、仏説とは言えない」
というものですよね。
阿頼耶識は最終的に消えちゃうから、阿頼耶識説は《dhatu》説とはいえないけれど、《dhatu》説の一種だ、
とも言っていような。


以下のサイトに、この松本説に基づく如来蔵、仏性批判があるので、よろしかったら御覧になってください。
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/le …

そして、
「言葉を生かして、霊を殺している」
と言ってやってください(ニコニコ)。

「川を渡って向う岸に着いたら、渡るのに使った筏(オシエ)は捨てろ!!」と、
誰かさんはパーリ経典で言っていたような気が(笑い)。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ 松本《dhatu》説ですか。
 ☆ 《如来蔵思想は 仏教ではない》という内容をとなえる《批判仏教》という説のようです。袴谷憲昭氏とともに《一派を成す》? (袴谷氏とは 手紙のやり取りをしたことがあります)。

 
 ▼ 「近代仏教学から真宗を問う」 -7:如来蔵・仏性思想の問題点
 ☆ をめぐって 大胆にわたしの見解を推し出して 批評を加えてみます。

 ▼ (§ 心性本浄説) ~~~~~~~~~~~~
 ・・・
 ( a ) 如来蔵・仏性思想は

  中期大乗経典に表れ、
  初期大乗経典(般若経、法華経、阿弥陀経、宝積経など)には見られない

 ことは注意されねばならない。
 ( b ) このことの意味は、やはり初期大乗から中期大乗に思想的変化があったということであり、
 ( c ) 縁起・無我と如来蔵・仏性思想との間には連続性ではなく差異をみるべきであろう。
 ( d ) すなわち、空から有へと軸足をずらしたのである。そしてこれは中観派と唯識派との差異でもある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ( d )の《中観派と唯識派との差異》をわたしはつまびらかにし得ませんが あとの指摘については すでにゴータマ・ブッダと後世のブディストとの違いとして 無神論と有神論との差であると見て来ています。


 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)
   無梵:空(シューニャター・ゼロ)
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如(有神論)
   仏:アミターバ (阿弥陀)/ マハーワイローチャナ(大日)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)



 すなわち この B と C とのあいだにたとえば《一切衆生 悉有仏性》なる見解への《革命》が起きたという単純な見方です。

 それでも 両者はまったく同じひとつの類型のもとにあるというのは その一般類型としての梵我一如なる信仰形態は あくまで《非思考の庭》にあって起きるものだという想定であるからです。

 そもそも ブラフマン神も想定であり その神の霊として《霊我》と呼ぶべきアートマンも 想定です。 

 ゴータマ氏は アン‐アートマン説を打ち出したとき その意味をたぶん分かっていなかったものと考えられます。じっさいは 《想定》の中で 否定したに過ぎないのですから 《有るアートマン》と言おうと《無いアートマン》と定義しようと 両者は 《非知なるナゾ》として同一でしかありません。

 よって B から C への革命は やはり非思考の庭にあって互いにとって変種への移行であり その C (仏仏一如)への変革は けっきょく A (梵我一如)への返り咲きでしかない。こう見られます。

 したがって 
 ▼ ( c ) 縁起・無我と如来蔵・仏性思想との間には連続性ではなく差異をみるべきであろう。
 ☆ というのは 《非思考の庭》にあっては 有ると無いとの差異はあるが 互いに信仰としては同一である。《連続性》などという問題ではない。なぜなら 経験世界における話ではないのだから。

 すべては 想定だからです。本体――すなわち神の本体――は知り得るか知り得ないかが知り得ないのですから あくまでいろんな方法によるいくつかの補助線を引いて 何とか理解に供するというその想定としての説明であるに過ぎない。

 これが ぶらじゅろんぬの神学定理として《神および信仰ならびに〔マチガイたる〕宗教にかんする一般理論》です。(デカイ口を利くようになりました)。




 ▼ (§ 如来蔵・仏性思想は異端か) ~~~~~~
 ( e ) 仏教は無我説〔である〕、すなわち、唯一の根源的実在を認めない。
 ( f ) しかるに、"dhātu"なる語は、根源的実在・諸法の発生根拠という意味をもち、そのようなものを認めることは無我説に反する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《唯一の根源的実在》あるいは《諸法の発生根拠》というのは 非知なるナゾであり神のことを言おうとしたものです。

 ところが 神は 非知であるからには そのような理解のための説明は 想定の上に成り立つ仮りの表現です。(《去る者は 去らない》)。言いかえると 《無我》も その場合には 《根源的実在》であり神のことだと捉えるしかないはずなのです。経験じょうの事象や事物のことを言っているわけではないからです。


 ▼ ( f ) "dhātu"なる語
 ☆ は 《界》とも訳される《基体》のことであるようですが 単純にいま《庭》として受け留めれば 容易にうなづけるのではないでしょうか。非思考の庭です。

 ただし わたしが松本説について分からないというのは この《基体ないし 非思考の庭》が いっさいの法(つまり現象)の根源であり原因であると見ようとしていることにあります。

 百歩ゆづりつつ辻褄をあわせるなら 《想定のうえで 基体=非思考の庭=如来蔵=仏性=アートマン》が 世界の《第一原因》としての神であるという解釈です。つまり 創造主なるひとつの説明です。

 これは 解釈として捉えるということでしょうか。 
 すなわち 非知なる神の想定が 第一に来て さらにそのあと この神は 絶対であり絶対者であるなら 世界の創造主であるという属性が第二に派生するという見方です。



 ▼ (§ 如来蔵・仏性思想は平等思想か) ~~~~~
 ( g ) ・・・「一闡堤(いっせんだい、icchantika)」・・・と呼ばれるある種の人々は、永久に仏に成ることができない、という差別的な立場が明記されているからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問題の解決法は やはり《想定》という大前提にあると思います。

 ▼ ( g ) 一闡堤の人々は、永久に仏に成ることができない
 ☆ という・第一の想定から第二に派生する――人間による――説明が 付け加えられた。ということであって 何も・誰れも 神じたいが《一闡提》をすくいから排除しているとか・していないとかは 分かったものではないと言わねばならない。これが 答えだと思います。

 神の心を勝手に忖度するなかれと。

 つまり えらそうに言うとすれば ゴータマさんも後世のブディストたちも この《非知ないし 非思考の庭》なる信仰理論が想定であるという視点が分からなかった。よって 困惑をかさねて来ている。ということのはずなのです。


 ▼ (「無常、苦、無我、不浄」か「常、楽、我、浄」か) ~~~
 ( h ) ・・・現象の背後に真実在を想定するのは、仏教以外の諸々の宗教である。
 ( i ) インドにおけるそれらの宗教(外道)を根本否定して仏教は成立したのだから、真実在を認めたら仏教の根底が崩れる(その極致が密教)。
 ( j ) そもそも、釈尊が問題にしたのは「現象世界のみ」であって、それを超えた世界については全く判断停止(無記)したのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも《想定》論によって解決するものと思われます。

 言いかえると 非知なるナゾの神は 有る神と無い神とのいづれの説明方法もがまったく対等にありうるということ。

 《無神論》に立つならば 諸法無我・諸行無常を前面に推し出したいでしょうから 《有神論》に立つ《常、楽、我、浄》を否定しておきたい。よって 《「無常、苦、無我、不浄」》が 旗印に書かれた。けれどもそれは 《非思考の庭》をそのように解釈したに過ぎません。両者が やはり同等にあり得ます。概念化したところでは 相対的な考え方であるに過ぎないのですから。




 いろいろと勝手に述べました。このことが 経文や文献から検証され得ればよいがと思います。どうなんですかねぇ。

お礼日時:2014/08/04 16:54

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