
初めて質問させてもらいます。よろしくお願いします。
結構有名な禅問答で、こういうのがありますね。
僧「祖師西来の意は?」
師「庭の柏の樹」
僧「物で答えないで下さい」
師「物で答えてはいないよ」
僧「祖師西来の意とは何ですか?」
師「庭の柏の樹。」
一度は分かったつもりでいたのですが、最近やっぱり何だかわからなくなってきて、どうも気持ちが落ちつかなくなってきました。
今回一応、昔読んだ禅問答の本を読み直してみたり、趙州、無門関などの言葉でgoogle検索できるページは大体のぞいて見たりもしたのですが、どうも自分で納得ができません。
とてもモヤモヤとして鬱陶しく、是非皆さんに教えてもらいたいと思うのです。
質問:結局、師(趙州禅師)の答えはどう解釈すればいいのでしょうか!?
納得できるまで閉めずにおくつもりでいます。
どうか是非是非よろしくお願いします!
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
まず言葉の意味ですが、「祖師西来意」とは文字通りには「達磨大師が西(インド)から(中国へ)やって来たその理由」ということになりますが、古来禅門ではこれを「第一義」すなわち「仏教の根本の教え」の謂いで使うのが通例です。
従って、僧の質問は「仏教の根本とは何か」ということになります。これに対する趙州禅師の答え「庭前栢樹子」は論理的には意味が通らないようですが、ひとつの解釈として、「仏性」と答えた、とみることができます。つまり「庭の柏の樹」という姿をとって現れているところの「仏性」を感得することが仏教の根本義である、という解釈です。
仏性は世界に遍満しているのであって、どのような存在も仏性の顕現である、その意味で仏法の視点からすれば問う人間も庭の樹も同じ価値を有しているということを知らねばならない、という意味のことを、インパクトをもって答えた結果が「庭前栢樹子」なのです。逆に言えば、桜の木でも柳の木でも何でも良かったということになります。
これには少し「仏性」のことを解説しないといけません。
仏性とは、古くは如来蔵と称し、「宝性論」や「如来蔵経」といった仏典に登場する考え方で、もともとは文字通り「仏となる素因」のようなものとして想定されたものでした。
これが後に仏性と名づけられ、「大般涅槃経」という大経典を経て一躍大乗仏教の重要な思想となりました。涅槃経の中の「一切衆生 悉有仏性」、つまり「全ての生き物にはことごとく仏性がある」という句は大変によく知られています。
この仏性は、時代を経るうちに、無我説、つまり一切空を説く教義との齟齬から、「存在」としての側面よりも「働き」の側面が強調されるようになります。つまり、“ある・ない”という議論を止揚して、人々を仏にならしめる可能性、働きそのものを仏性というようになるわけです。
この仏性をさらに掘り下げたのが中国における禅です。詳しく書くときりがないので詳述しませんが、最終的に仏性は法というものに極限まで近づき、「人や物ごとをこのようにあらしめるところの働き」という風に突き詰められていきました。
世界の全てがこのようであることは、仏性の働きであり、仏性がそれぞれの形をとってこのように現れているのだ、という理解がされるようになったのです。
中国禅六代目にあたる慧能禅師の言葉「無常者仏性也(無常は仏性である)」という言葉は、このような禅の仏性観をよく表しています。移ろっていく姿そのものが仏性の働きであり、仏性の表れなのだ、というわけです。
このような視点に立てば、庭の樹も流れる川も山々も、問う僧も答える師も、すべて仏性の表れなのであって、本来どれをとりあげてもそれぞれの姿そのままに仏性が充満していることになります。そのことを趙州禅師は「庭前の栢樹子」と答えたのでしょう。
脇にそれますが、これは決してことさらに奇異をてらったわけではありませんし、ましてや論理をはずれた答えをしたのでもありません。十分に僧の力量を見たうえでの答えだと言えます。
僧の「物で答えないで下さい」という言葉は、人境一如、つまり人も物もないはずだ、ということを頭で踏まえたうえでの言葉と見受けられるので、趙州禅師はさらに一歩を進めて、「だから、栢樹子はものじゃないという道理を知りなさい」と答えたのです。
道元禅師はこのような中国禅の仏性観を独自にさらに深めたことで知られていますが、師の正法眼蔵「栢樹子」の巻には問題のこの問答が引用されています。
そこではまさに、「全てのものは達磨がやって来た意味そのものであって、それ以外ではない」、「栢の樹がものでない道理を知らねばならない」と記されています。
また、この問者である僧も「問取」、すなわち問いの中に道理が踏まえられていて、言わばひとかどの問いであることは評価されています。
結局、仏教の根本義はこの「仏性」を体得することであって、この仏性という面を見ればあらゆるものがそのままで本当の姿を表していること、従って人境一如、つまり問う側も眼の前の樹も本来分け隔てようがない絶対の存在であることを知りなさい、というのが趙州禅師の答えだということになるでしょう。
丁寧なご回答をありがとうございました。
仏性ということ、勉強になりました。
私なりですがまとめてみますと、「あらゆるものは仏性から成るものだ」ということが仏教の根本で、それを仮りに目の前の樹で表した…ということでよろしいでしょうか。
ひとつ疑問ができたのですが、仏性はものをこのような姿にする働きだということですが、素材としてはどうなのでしょうか。素材(要素)は別で、それを動かす機能として仏性があるというわけなのでしょうか。
よろしければまた教えて頂けませんでしょうか。
No.8
- 回答日時:
vaporさん、はじめまして。
スットコドッコイの回答になりましたらご容赦ください。
二日前ほどにTVで、「セブン・イヤ-ズ・イン・チベット」の映画を観おえて
すこし「?」とハテナとおもうところがありました。
チベットの現地の女性と外国からこの地に訪れた男性との会話がありまして
異文化交流の場面です
何も欲しない民族であることを主張する女性、外国から訪れた男性の民族との違いを語ります。外国から訪れた男性の民族もしくは異文化のようなエゴは持ち合わせていないかのように...(映画の中の台詞を正確に覚えてないので記せませんご容赦ください)この場面を観ていて、何も欲しないとすることもこれまた、何も欲しないというある種のエゴではないかと。
こころに何かおもった瞬間に自我が芽生えるのではないでしょうか?
こころを無にすることなどほんとうにできることなのでしょうか?
何もおもわないとおもうこと自体すでにおもっているのではないでしょうか?
人は何もおもわずに生きれるのでしょうか?
生まれ出たころの記憶は覚えていません、なぜ、声をあげ泣いていたのかさえ記憶にはありません。おもっていたのかおもっていなかったのかと聞かれてもそれに答えられるたしかな言葉は持ち合わせてはいません。
宗教・民族・文化・歴史.男女....諸々の表層の違いこそあったとしても人と人としてみれば差ほど違いなどないのでは?見た目の形、考え方、捉え方、ありよう、異なっているかのようで、何も異なっていないのではないだろうか?
異なる存在を欲しているエゴがそこにあるだけではなかろうか?
「無」ってなんだろうね。
あるのかな「無」って?
あるとしたらそれは「無」ではなくなるのでは?
まだまだわかんないこといっぱい。
どうもありがとうございました。
率直でさわやかな涼風(?)のごとき回答に感じました。
>何も欲しないというある種のエゴ
そうですね。どこまで行っても自分ですよね…
自分のなかに何か神秘的なものがあるように考えるのも、それ自体エゴのなかの話ですよね(そういう意味ではなかったのでしょうか・・・!?)
ともかく一応の自分なりの成果を得て、晴れて閉めさせてもらいます。
どうもありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
さらに回答することは、よそうと思ったのですが、neil_2112さんが、こんぴどく批判されておられますので少しだけ補足させていただきます。
1.わたしは、師から受け継いだ「方法」でもって語ろうとしていますが、本職の宗教家ではありません。ただ、これらを言葉で説明することは厳しく戒められたものです。本悟りと偽悟りがあるとすれば、偽悟りで満足してしまうおそれがあるからです。では、悟りの前後では、何かが違うのでないかと思われるでしょうが、実際には、何も変わりません。ただ、時間的経過を伴わない「一瞬」があるのは事実です。実際の効果としては、悩み続けてきたすべての疑問が不要になると言うか、疑問があっても、それと無関係に仏の道に邁進できるようになります。これを神秘主義と結びつけるのはダメでないかと批判されるのですが、「華厳経」のなかで文殊菩薩のお見舞いの言葉が無言無説であったように、それについては語らないのが本義なのです。これは、流派の違いであって、本来、臨済宗系のやり方を、曹洞宗系から批判されるようなものです。もっとも、道元は、道元であっていいのです。
2.禅をやってみようと言う人は、人生に迷いがあったりとか、たとえば、私は色盲のために好きな学科に進めなかったとか、さらに、好きな仕事への就職は無理だったので、その悩みの解決をその禅寺に求めたのです。ですから、私の理解は、実践的な性格をもつものであり、私なりに正しいと思うことを、うけついだ「方法」により述べているわけです。
neil_2112さんは、多くの文献を読まれた方なのだろうと思います。ナーガールジュナの「中論」なども読んだことはありませんが、「中論」と無関係に、「悟り」がある限り、読んでもいいけれど、必ず、よって立つべきものではないと思います。しかも、このような学問的な説明が成り立つことを否定しませんが、理屈で理解できるのなら、そこまでの機能しか持ち得ないのです。実際、neil_2112さんの説明は分かりやすいと思います。そのような理解を望んでおられるのなら、それはわたしにとって無理です。ただ、「悟り」は、ユングが言うアーキタイパルな世界の一部で絶対一言で表現できない未分化な集合体なのだろうと思っています。しかし、言葉で表現できないと言いながら、禅問答集は、数え切れないほどあります。これも不思議なことです。
ただ、この禅問答のような論理矛盾は、こころに対して不安定な気分を呼び起こします。こういう矛盾を抱えつつも一つの自我として確かに存在することを、西田幾多郎は、「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表現しようと試みました。
3.最後になりましたが、臨済宗系でやっていくというのでなければ、どのように解釈し納得されても、それはそれで全く問題がないと思えます。わたしは、おそらく、vaporさんが何かに悩んでおられて、その解決に役立てようとされてのことかと勝手に考えました。そのため、vaporさんにはご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。
最初のご回答から何度も読み返してみました。
率直な疑問です。
jun95さんはneil_2112さんの言う体験主義をとっておられていて、「やってみなければわからない」派ですが、中論については「読んでいないが必ずしも読む必要はない」と言う立場なのは矛盾ではないのでしょうか。
jun95さんの中では多分矛盾ではないのでしょうけど、失礼ですが、正直なところ、私はやっぱりそこに偏りを感じます。
私には中論の内容はかなり高度で正直難しそうですが、せめて読んでからでないと反論しないのは礼儀でもあるとは思いますが。
何度も有難うございました。これにて閉めさせてもらいます。
No.6
- 回答日時:
質問と関連する範囲で補足に回答します。
仏性の解釈は多岐にわたっていろいろ細かにありますが、一般には素材ではありません。素材ならば、仏教はあらゆるものの構成要素として四大や五蘊といった考え方をとります。「仏性」は、四大五蘊という要素が組み合わされて仮に人間や樹や石ころといった姿をとり、またいずれ散じて形がなくなっていくという、変化の基底にある働きを指すわけです。
私たち自身を含め、全てのものは今ある姿をとって存在するのですが、それはやがて変化していきますし、その姿には恒常不変の実体はありません。つまり全ての存在は「無常」であり「無我」であることは仏教が根本原理とするところですが、無常であり無我である全存在を動かす根底的な原理、この世の実体をそのままそうあらしめる働きを仮に名づけて「仏性」と呼んでいるのです。
ただ、この考え方が突き詰められてくると、仏性は存在そのものも指すようになります。先に書いた涅槃経の一節、「悉有仏性(ことごとく仏性あり)」という言葉が、道元禅師によって「悉有は仏性なり(全ての存在は仏性そのものである)」と読み換えられたように、存在そのものがそのまま仏性である、とされるようになってくるのです。
誤解されやすいのですが、これは素材としての仏性が積みあがって人や物それぞれの存在を構成している、というわけではありません。あくまで、流転する存在の根本を素材に還元せずにそのまま表現しようとしたものです。
先の回答にも書きましたが、仏性は当初の「仏になれる素因、種」のようなものから段々と「法」の意味に近づいてきました。「法」は梵語でダルマ(dharma)ですが、その意味には「真理」「何かを背後で支える力や原理」というニュアンスがある一方で、その原理によって支えられる存在そのものも指します(一切の存在という意味で「諸法」「万法」などと言うのがその用法です)。
この「法」の意味に「仏性」は限りなく近づいたと言えるでしょう。仏性は全てを支える原理であり、同時にその原理によって存在する全てのものを指すわけです。俗な譬えを拝借すれば、「人でも馬でもどこを切っても仏性だらけ」ということです。
このような意味にたって先の問答はなされています。
全てが仏性の表れであってみれば、自他を分ける境界も本来ないことがわかります。「物で答えないでくれ」と言った僧は人境一致、つまり人と物の隔てがないことは頭でわかっていたのですが、趙州禅師はさらに進んで法を示したのです。
つまり、法のうえの自他不ニを観じなさい、人境どころか柏の木を柏の木と見たてて漫然としている当のお前は一体何なのか参究しなさい、柏の木なら柏の木で遍法界すべてがいっぱいになる境涯を体得なさいよ、というのが禅師の示すところです。
無常、無我という仏教の基本を踏まえたうえで庭の木も何も全て同じ仏性の表れであると体得することこそが、祖師西来意であり、悟りだと言えるでしょう。
もちろん、仏性や法というのは単なる言葉で、その言葉が大事だと言うのではないことはもちろんです。あくまで“そのようなあり方をしている世界”を体得することが重要であることは言を待ちません。
以下は余談です。
禅は言葉を超える真理を標榜するように思われますし、現に言葉を放棄する意味で「言語道断」などと言ったりもします。
しかし、このことは別に禅の専売特許でも何でもないことです。仏教において、言葉に限界があること、言葉が本来的に持つ限定性については、既に1800年前にナーガールジュナが「中論」を著した時から精緻に分析されていたのです。
(「中論」については過去に回答したことがありますので、興味があれば参照して下さい:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=281928、「中論の解釈について」)
そのようなことも知らない人々が、なぜだか禅を賞揚してきました。彼らは決まって「体験主義」と「神秘主義」を持ち出します。曰く、禅は体験しないとわからない、悟りは論理を超えているので語れない、というのです。特に安っぽいお師家さんほどこれを持ち出して煙幕を張りたがります。
体験主義は至極もっともなことではありますが、これはひとり禅に限った話ではありません。頭だけでは理解できないこと、理解しても実践しなければ意味のないことは心身の相関に関することであれば当然のことで、自転車の運転ですらそうでしょう。今や体験主義は、禅に関する説明を放棄するためのてっとり早い煙幕になり下がっています。
神秘主義についても同様です。
論理を超えた事柄があるのは事実ですが、それを突き詰めるためには、言葉以外の手段を持たない人間はとことんまで論理を用いざるを得ないはずです。中論の立場がそうであるように、極限まで決して安易にこれを手放してはならないのです。しかし限界を知らない人ほど、すぐに「限界」を口にしたがります。
「禅の問答は論理を超えている」などという言葉を弄ぶ輩に対し、道元禅師が厳しい鉄槌を下したことがありますのでご紹介しておきましょう。
正法眼蔵「山水経」の中の一節を私なりの言葉で引用します。
「禅問答や祖師の言葉を、無理会話(理を超えた言葉)といって殊更に持ち上げる輩がいる。
彼らいわく、祖師の言葉は論理を超えていて理解できないところに意味がある。論理を超えているので個人の小さな思考を離れ、吾我を忘れて悟るきっかけになるのだという。
こんなことは馬鹿げている。彼らが理解できないからといって、祖師の言葉を理解できないものなどというのはとんでもないことだ。彼らは正しい師を知りもしないし、眼も開けていないというべきだ。外道や畜生にも劣る愚かさだ。
自分たちが理解できないだけのくせに、祖師の言葉を“論理を超えた言葉”などと言っていては、大道がすたれるばかりだ」
この短い文章を見ても、禅問答を“論理を超えたもの”などといって平然としていることがいかにくだらないことか、よくわかるのではないでしょうか。
何度もありがとうございました。
補足の件は一応、お蔭様でクリアーしたつもりです。
自分の当初の目的であるモヤモヤの整理はなんとかできたように思います。(わかったように思っているだけ、かも知れませんけど。。。)
晴れて閉じさせて頂きます。
何度も丁寧な回答をしていただき御礼申し上げます。
No.5
- 回答日時:
実際に、僧の役と師の役を演じてみると分かるのですが、僧の「祖師西来の意は?」と問うときの背景は、縁側に腰をおろして庭を見ながら話しているのでなく、たまたま通りかかった師をつかまえた僧が、ずっと考えていることをまっすぐに聞いているようなシーンを想像してもらえるといいかと思います。
ここで、なぜ、即座に師の口から「庭の柏の樹」 という回答がでてくるかが問題です。たとえば、「いかなるか、これ、仏?」という問いに対して「麻三斤さ」と答えるのも即答です。(禅寺などには、「麻三斤」とかかれた掛け軸などが飾ってあったりします)
おそらく、vaporさんの疑問は、「麻三斤」と交換しうるのでないかというものだと思われます。もし、この質問の問答のとき、僧のかたわらに「麻」が山積みされておれば、師は「麻三斤」と答えたかもしれません。
いずれにしても、僧が師の回答である「庭の柏の樹」なり、「麻三斤」なりという言葉を聞いたとたんに悟りが得られることが重要なのです。
つまり、質問の回答として、「庭の柏の樹」という言葉を聞いたとき、悟り体験としては「あっ、庭の柏の樹だ」と
納得できるものなのです。これは、僧の見える位置にある柏の樹という具象性と関係ある場合があります。
しかし、この僧は、悟れなくて「物で答えないで下さい」というお願いをしてしまいます。
実際に、禅を体験的に知ろうとすれば、実際に禅寺で禅問答を試みないことには、その本質は理解できません。
neil_2112さんは、うまく説明されていますが、しかし、論理的な問題は何もないという解説などは、残念ながら間違っていると思います。問答の最中に、それぞれの言葉を解釈していては、禅問答にならないからです。お互いの真意を探り合うものではないからです。
何度も答えて頂きましたが、どうも質問と回答がかみ合っていないことがわかってきました。残念ですが私には理解できません。というより求めているポイントが違うようです。
>悟り体験としては「あっ、庭の柏の樹だ」と納得できるもの
と書かれてありますが、どうしてそうなのか、というのがもともと私の質問だったのですし、ではその僧は結局何がわかったのでしょうか。悟りは言葉にならないのなら、せめてその僧はそれを聞いた前後で考え方や感じ方がどう変わったのか、全くわかりません。
>言葉を解釈していては、禅問答にならない
のは確かにそうでしょうが、悟りの内容はともかく、どうして禅問答にならないのか、その理由は言葉で説明できるのではないか…と思うのです。
結局jun95さんの結論としては、
「禅問答は論理を超えているので、言葉を解釈してはいけない。禅を知ろうとすれば、実際に禅寺で禅問答を試みないと本質は理解できない」ということですね。
何度もありがとうございました。御礼申し上げます。
No.3
- 回答日時:
1.ここで、ことばを利用しているという意味は、質問することと回答を聞くことに主眼があります。
僧は、悟りを得たいために、禅師に質問をします。禅師は、悟りを開かせるため回答をします。ここは、真剣勝負で、何とかして聞きたいという全身全霊での質問と何とかして悟らせたいという全身全霊での回答があるのみです。具体的に言うと、僧「悟りとはどういうことですか」という問いに対して師「聞こえているかね」僧「はい」師「よろしい」といって去っていくのと構造的には同じなのです。これの難しいバージョンが、この問答と考えられたらどうでしょう。けっして「荒唐無稽と見える答え」を述べることでなく、ここでは、「庭の柏の樹」のみが正解なのです。
2.禅問答というのは、病気の人を見舞うときとよく似ています。たとえば、もう不治の病の人に対するとき、まだ、若い人であるとき、ご両親がそばにおられるとき、そのときどきで、最適なるお見舞いの言葉をかけないといけません。そういうものなのです。その一例として、「維摩経」をあげました。
3.また、分かりにくければ、たずねてみてください。
補足への対応ありがとうございます。何度も恐縮です。
残念ながらちょっと理解できない部分があるというか、最初の疑問に戻るのですが、jun95さんが
>ここでは、「庭の柏の樹」のみが正解
とおっしゃるのはどうしてなのでしょう?
私にはそのままでは荒唐無稽にしか思えません…
言葉を使う意味を問題にしているのではなくて、どうして「柏の樹」が答えになるのかがわからないのです。
「柏の樹」が何を象徴?しているのか、ということを知りたいというのが質問の趣旨なのですが。。。
No.2
- 回答日時:
自信ないんですが。
。。確か、これって「意味がない!」がご質問の答えだったような。。。
ある僧が、禅の奥義を知りたくて、趙州のもとを訪れて
達磨大師は、何を求めてインドに行ったのですか?とたずねたら、
師:「柏の木!」と答えた
僧:「柏の木????」なんですと???
僧:「訳の分からんこと言わんと、意味を教えてください!」
師:「だからぁ。。。柏の木!」
その後に、「まぁまぁ、お茶でも飲まんか」って趙州が言ったと思うんですが。。。
だいたいなぁ。。。禅の奥義を、一言の質問で理解しようなんて
なめんじゃねぇよ。。。オマエの質問自体意味ねぇんだよ。。。
だからぁ。。。柏の木!(←意味のない回答)
って意味だったと思うのですが。。。
自信有りませんが、たしかこんな話しだったと記憶しています。
ご回答、どうもありがとうございました。
まとめてみると、
「禅の奥義について言葉で回答を求めることを戒めるために、わざと意味のない答えをした!」
ということになるのでしょうか。
(もし間違ってたら指摘してください…)
お世話になりました。
No.1
- 回答日時:
禅問答というのは、言語を用いた「悟り」のための手段なので理解することは不要なのです。
つまり、解釈したりとか、理解したりとかいう一切のことをしないことができると、ある意味で「わかり」ます。たとえば、維摩経に菩薩が維摩詰の病気のお見舞いに行く記述があります。
この回答への補足
早速のご回答ありがとうございます。
>「悟り」のための手段なので理解することは不要
確かにこのようによく言われているようですが、手段である以上は意味があると思うのですが。意味がないこと=「理解できない」ことが「悟り」に何らかの意味がある、ということでしょうか。
また、そうだとすると「柏の樹」じゃなくて「宇宙船」でも「札束」でも、脈絡から逸脱していれば何でも良かったのでしょうか?
>たとえば、維摩経に菩薩が維摩詰の病気のお見舞いに行く記述
ちょっとよくわからないのですが、これはどういう意味で例なのでしょうか。そのお経の中身をよく知らないものですから…
大変お手数ですけれど、よろしければ再度ご教示ください。
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