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自然である
眼の前の自然である
私である
一切である
宇宙という一切である

だれかこの世界へ飛翔する者はいないか?
宇宙の実在という永遠の世界へ、今すぐ飛翔できる者はいないか?

A 回答 (9件)

 密教は一足飛びに彼の地へ渡ろうという感じがあります。

加持祈祷という手段に依って。
 命とは不思議なもの。aboutoさんも触れていますが、この生命の誕生こそが奇跡と思います。

 人間はなぜか生まれると、他の動物にはない“産声”を上げますね。
 不思議です。
 この産声が私には、この世に生れ出たことへの“恐れ”の声と聞こえます。

 母体にいれば安心だったろうに、無理やり母体から離されて、孤独の状態にされたことへの拒否反応のようです。
 でもじきに観念したように泣き止むところが、哀れでもあります。

 この幼子の求める所は温かな、そしてやさしい母の胸、であることは誰もが知っていると思いますが、人間として飛翔する場所を知る人は意外と少ないのではないでしょうか。

 アビラウンケン バザラ ダトバン

 地球上に現れた生命が、微生物より動植物となり、人間となった事、そして人間としても以前に比べて精神の発達が認められることを思えば、川の流れのように「生命の精神」の流れは、人間を通して精神の大海に向かっているとしか思えません。

 密教では“大日”ですよね。

 

 
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>この生命の誕生こそが奇跡と思います。

そうですね。
宇宙の中の、この地球という星に生れて、今という時を生きている。
案外、気がつかないんですね・・この奇跡を

>「生命の精神」

六大の中の識大が顕れた結果なんでしょう。

因位には識といい、果位には智という
智、即ち、覚なるがゆえに

とあります。
宇宙のすべてにおいて「識」、知る働き、心があるというのは徐々に明らかにされていくような気がします。
また、いつかは、新しい時代に応じた、宇宙レベルというか、新しい観想と真言が整えられる時が訪れるのではないかとも思います。
伝統を踏まえた、新しい密教の誕生です。
私はそういう事を行える人に、会える機会はないと思いますが、
密教の本質は変わらないものだと思いますし、
私自身においては、その一端に触れることができただけで十分だと思っています。

秘鍵に記されている
「去々として原初に帰る」
という、法身への帰結の表現は
いずれ顕れるかもしれない応身の存在を示しているかのようでもあります。
織田隆弘師が受け継いだ「純密」というものは、必ずや受け継がれ、それを説く新しい人が出てくると思います。
法身への参入という成仏法は、一般化されないかもしれないが、
無くなることはない、と思います。
宇宙の実在という永遠、法身という永遠、生きながら速やかにその涅槃の境地に入るという即身成仏の法もまた永遠なのでしょう。
仏教というよりも、宇宙時代に相応しい新しい精神科学が到来するかもしれない・・
そんなふうに夢を持ちましょう。

yy8さん
長い間お付き合いくださいまして、有難うございました。
最後に温かみのある答えを頂いたように思います。
これにて退会させていただくつもりです。
ありがとうございました。
お元気でお過ごしください。

お礼日時:2014/02/01 23:04

>「私という、浅はかな人間が見た、正しい宗教の姿というものを必要があればお伝えしたい


・・と思っています。」

空前絶後

この回答への補足

X 再販
O 再版

補足日時:2014/01/31 22:19
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この回答へのお礼

>空前絶後

そんな事はないですよ。
語らない人が多いだけです。
いわゆる、信仰における「おかげ話」というものは
信仰者自身の自内証に留めるものとして、話さない人が多いと思います。
やたら話たがるのは、どうも信用できない場合が多い、

信仰における決定打ともいうべき、それらの体験は、信仰者自身においては何よりも大切なものだと思います。
その内容は多分に奇蹟的なものを含めたものです。
だから・・話さない
その体験が大切であるという事と、理解されないであろう、という両方の思或がある。
私に限らず、どうしても必要な場合においてしか語られる事はないと思います。

奇蹟というものについては、ごく一般的には、超自然的現象であるとしか考えられていないようです。
一様に現実離れしたものとしか考えられていないと思います。
広義における奇蹟とは、
念力で時計の針を動かしたり、スプーンを曲げたりする事も含まれてしまいます。
しかしながら、それらのいわゆる超能力による奇をてらった現象とは、
奇蹟のレベルというものを考えた場合においては、
そのレベルはかなり低いものであるように思います。

まったく自然なまま、物事が順調に進み成し遂げられる事こそが最もハイレベルな奇蹟のように思います。
ごく何でもないような事の中に奇蹟はある、といってもいいと思います。
奇蹟の中にいながら、それらを奇蹟とは思わない・・
人間とは、そうしたものではないでしようか。

私に許された密教哲理の紹介は、取り敢えずは、しておきたいと思いますが、体験の話はまだ憚られる感じがいたします。




織田隆弘著
誰も書かなかった「密教祈祷の秘密」再販にあたっての巻頭文より

正純密教の即身成仏は、三密加持によって至るのであります。
現身に仏徳を得ることによって、悩める人々の苦厄を抜くべく、大悲の不思議力が因縁に随って速やかに感応する道であります。

(六大一実・アビラウンケンについては本文参照)

お礼日時:2014/01/31 22:01

A.No5です。




>「純粋である事は尊いが、賢くはない・・」

ようやく、「老荘」を少しカジッた者です。
「賢い」なんて、世俗(的、価値観)ではありませんか?


(でも、人権侵害は、しないでね)

この回答への補足

kurinalさん
どうやら、私が体験の全てを話す必要はなさそうです。
この質問を最後に退会するつもりでいましたので
置き土産がわりに少しだけですが話して去りたいと思います。

かいつまんで簡略に記します。
解釈はご自由にどうぞ。



昭和57年1月7日
織田隆弘師に初めて会う。
密教の質疑応答を行う。
希望しないにも関わらず、開運のお祈りをして頂いた。
大日如来の御札も頂いた。

同年2月下旬
結婚

同年3月下旬
離縁

同年4月28日
離縁した女性の開運の祈願を隆弘師に依頼。
(憎しみと愛しさとの複雑な気持ちながらも、責任を取るつもりだった、師に頼めばきっと大丈夫と信じていた、師は私の気持ちを汲み取ってくださった)
心のこもった御祈祷をして頂いた。
御祈祷の真言・アビラウンケン
御祈祷終了後、神籤を引いてくださった。
「観音様がきっとよくしてくれますよ」との言葉を頂く。

同年12月30日
離縁した女性と偶然に再会。
見送りの機会を与えて頂いた。
驚きの表情が印象に残った。

翌、昭和58年
彼女は再婚

同年8月18日
祈願成就のお礼に隆弘師を訪ねる。
薄謝と書いたお礼は、師の希望により大仏造立の奉納金とさせて頂いた。
観音様の真言によるお祈りを受けた後、観音様のみしるしを頂いた。

その後
彼女は3人の子供に恵まれた家庭を持った。
2度、偶然に再会し、元気な姿を確かめる機会を与えて頂いた。
私はそれ以来、観音様を信じて今日に至る。


昭和58年4月28日の御祈祷の中において
隆弘師のアビラウンケンの真言念誦を聞きつつ、心打たれるものを得た。
「金じゃない、金で祈ってんじゃない!」
その時、心の中で大きく叫んだ。

・ ・ ・ ・ ・


師に初めて会った時聞いた言葉
「真心で祈るんですよ」というのは本当でした。
間違いなく本当だった。
振り返ると
この他にも幾度か師と会っているのですが
その中で頂いた言葉を併せて思うに
どうも、私の事は丸見えだったようです。
心も生き様もです。
そうとしか思えない言葉も頂きました。
観音様の信心を頂いた事にしても、私は19の頃から時々観音霊場にお参りしていましたが、その事も分かっておいでだったように思います。
また、彼女と一度だけでしたが、夫婦としての心の通い合った時がありましたが、それも観音様へ一緒にお参りした時の事でした。
そんな事も師は分かっていた、というかお見通しだったのではないかと思います。
まあ、何をおいても、彼女が幸せになれた事が良かったわけで、私も気持ちは複雑だったが、少しは責任が果たせたという救いがありました。
偶然の再会というものは、観音様が与えてくださったものでした。
その出会い方は、そうとしか思えないものでした。
彼女が幸せになれたという大きな奇蹟に付随した、小さな奇蹟だったと思っています。

これ以上の詳細を書く必要はないかと思います。
また、解釈は自由です。
あとは、隆弘師の著作や、師の教えを受け継いで説く人に会えば真言の教えは分かるのではないかと思います。
私の体験は一言でいえば
大悲の有り難さと、不思議さとを知り得た事です。
成仏という境地は分からないが、そこから発せられた大慈悲心を有り難く頂く事ができたと思っています。

織田隆弘師は主に病人の救済に尽くされた立派な真言行者でした。
私のような祈願は他には、或いはなかったかもしれません。
たった一度だけしか会った事のない私の願いを聞いてくださったその態度は、あまりにも尊い感じがします。
生きた仏様だったのでしょう。

以上です。
kurinalさん
皆さんありがとうございました。

補足日時:2014/02/01 22:20
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この回答へのお礼

再度お答えありがとうございます。

>>「純粋である事は尊いが、賢くはない・・」

これは
ざっくばらんに言えば
私自身に対する実感なんですよ。
振り返ってみて
若い頃はそうだった。

昭和50年頃から、織田隆弘師の存在は知っていました。
なぜ知っていたかというと
その頃、全盛であった桐山密教に入り、約3年半ぐらいは、その教えが正しいと信じて、せっせと学んでいた。
桐山密教に峻烈な批判を浴びせていた織田隆弘師こそはデタラメな存在だと思い込んでいた。
浅はかなもんです。
桐山密教は、宗門内の密教学者や行者を巻き込んで、飾りをつけていたので、多くの人が正しいと信じてしまった。
巧妙な手口だったと思いますよ。
そのせいで、今でも、密教という言葉に嫌気がさす人がかなりいると思います。
まあ、その事にはこれ以上ふれない事にします。

このカテは、哲学を論ずる場所であり
個人的な宗教体験を語る場所ではない事は分かっているつもりです。
下手な身の上話を、ただそれだけを言っただけでは何にもならない、
あ-そうか・・それでどうした
と言われるのがオチでしょう。
織田隆弘師が受け継いだ密教哲理と、その実践が、私自身の体験よって明らかにされたという事実をお伝えしなければ、何の意味もない。
宗教とは、つまりは感情論である、という事になってしまう。
私という、浅はかな人間が見た、正しい宗教の姿というものを必要があればお伝えしたい・・と思っています。

お礼日時:2014/01/30 22:35

自然は美しい。

遠くから見る限りでは。実には厳しく、我々はそれから逃れるために人工の城を作ってその猛威から逃れて来た。星空はうつくしい。地上から見る限りでは。実際には、宇宙はとても冷たい世界だという。
星を見て、大海原を渡ってみたい。祖先たちのように。そう思うこともあるが、それは夢のような話だ。

悟りとは目覚めるということです。仏とはやさしいということです。
法とは正しいということです。
自然に頼ることが悟りではなく、人智に浸かることが悟りでもない。
おそらく悟りはとても難しいことで、誰もが達する境地ではない。
しかしながら、いつかは誰もが達する境地であるとも言う。
遠い未来に生まれ変わることに期待せず、しかし現世に失望することなく、悟りたいという願いにとらわれることなく、しかしこころに誓戒を保って明るく静かに歩む人が、そこに近づくのではないだろうか。
容易ではないが。
先達が歴史に残る偉人であるかどうかは関係なく、自分自身はどうなのかが全ての道であるように思う。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>こころに誓戒を保って明るく静かに歩む人が、そこに近づくのではないだろうか。

とてもいい言葉、表現であるように思います。
この姿勢は、信仰における信心の歩みというものでしょう。

信心とは、意における行

上り坂の静かな歩みに違いない、と思います。
その積み重ねは、いつかは確かなものに辿り着くのでしょう。
それだけで終わってもいいし、終わらなくてもいい。
そういったものだと思います。

観誦すれば無明を除く・・という世界に入ってもいい
飛躍してもいい、しなくてもいい・・というわきまえ、
人それぞれなんでしょうね。
決まりは無い
自由に選べばいい。
それだけの懐の大きい教えがあるという事だと思います。

>仏とはやさしいということです。

まちがいないですね。
私が織田隆弘師に加持ということを、私見を述べた上で尋ねたところ、
私の身近に起きた現象や考えに対して
「あなたのは業だ、自分の播いたものは自分に還ってくるんです、加持は分からないでしょう。」
と言われた。
さらに続けて
「真心で祈るんですよ」
と言われた。

この「真心で祈るんですよ」という言葉は大変に印象に残った言葉でした。
人の言う「やさしさ」である事は分かった、
けれどもまだその時には、その実際が分からなかった。
それを了解したのは、その言葉を聞いてから三月余り先に行ってからの事です。

「真心」という言葉は、そうは使わない言葉です。
その言葉を、さらっと、諭すように仰られた。
その態度にも、やさしさがあったと思います。


仏のやさしさ、というもの
それが信じられるだけでも、いい事だと思います。
すこし、ぶっきらぼうな言い方ですが、そんなところです。

a_honaさん、ありがとう。

お礼日時:2014/01/29 23:07

about72様、こんばんは。




誰も、この世界へ飛翔する者、ではないのですか。
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この回答へのお礼

そうですね・・
すこし皮肉じみたものを感じてしまいますが・・

知るという事は誰にでもできる
できそうだけれども、知りたくないという思いが先にあれば、知ろうともしない
宗教というものを知ろうともしない
せいぜい教養の足しになる範囲で概略の知識を知っておけばよい・・という人が多いと思います。
それほどまでに宗教は毛嫌いされてしまっている、
そんな風潮を感じますね。

ましてや、線香臭い仏教は暗い・・
どうせなら、神の愛のほうが明るくて好感が持てる、
そんなところですよね。


でもどうなんでしょうね・・
人間ギリギリのところでどうなのか・・
どうなってしまうのか
無力という実感の中で何を支えにするのか
そうゆう、誤魔化しのきかない状況の中に立たされてしまう時があるような気がします。
今まで信じなかったものを信じる・・というような信仰における入信の機会というのは、そうしたところに起きてくるのだと思います。

その機会を得た者は、無宗教の立場から見れば、不幸のようであり、
信仰に入った者の立場から見れば、幸せになれる機会を得た・・というように思えるのでしょう。
総じて言えば
宗教を信じている人は全て不幸な人である・・というのが無宗教の立場における大方の見方でしょうし、
逆に
宗教を信じていない人は全て不幸な人である・・というのが信仰者の立場における見方でしょう。

まあ、単純な見方のようでもありますけれども
案外この辺のところが本当というか、本音なんだろうと思います。


純粋である事は尊いが、賢くはない・・
こ-ゆう素晴らしいバカである事が、宗教を知る上においては必要なのかもしれない
私なんかはそうだったような気がしますね。
そうだった、というよりは間違いなくという感じだった。
お恥ずかしいですが・・
ギリギリの中で知識以上のものに触れる事ができたように思います。
まあ、こうゆう事を話すのも自慢にはならない
バカであった事を話すのは自慢にはならない
でも、一度だけは話しておきたいんですね
言葉が浮かぶうちに話しておきたい
一人か二人ぐらいには役に立つかもしれない
そんなところですよ。


kurinalさん、ありがとう。

お礼日時:2014/01/29 22:04

あらゆるものが存在し、あらゆるものが存在しない。


すべてが関係し、関係しない。
誰でもあり、誰でもない。
あるけど、ない。

どこかで聞いたような話だし
意味もわからないが

そんな話ではなかろうか。

宗教の研究なんかやらないほうがよかったなあ。

この回答への補足

かざみどりさん。
大丈夫ですよ。
伝えられるべき事は伝えられてゆくと思います。
思う存分研究なさってください。

道元の「法が仏を行ずる」というように
伝えられるべき事は、伝える人が必ず現れて伝えてゆく
そんなふうに思いますよ。
私は、そういった人に御縁を頂いて、伝えられたものの一端に触れる事ができた。
それは幸せな事であったと思いますが
何もそれだけが幸せだとは限らないでしょう。
論の世界だけで終わっても後悔しない生き方・・というのもあるはずです。
頂点に登りつめなくてもいい・・そういう生き方もあっていいはずです。
私だって頂点になど登れるはずもない。
それは分かっているつもりです。
ただ、私には学よりも行の方が合っている。
それだけです。
もし
仏の大慈悲心に見守られている・・というお気持ちがお在りなのでしたら、そのお気持ちだけはお忘れにならずに、
思う存分研究なさってみてください。

私は昭和57年1月7日に、織田隆弘という人に会いました。
その時に
「私には自分の教えはないんだ、ただ受け継いだだけなんだ」
という言葉を聞きました。
その言葉がどれほど重いものなのか、後になって分かりました。
伝えられるべきものは伝えられてゆく。
受け継がれるべきものは受け継がれてゆく。
そういう人、担い手はいつの世にもいるのではないでしょうか。
もちろん私じゃないですよ。
隆弘師のその、さりげない言葉には自負心が満ち溢れていた。
正しい教えを受け継いだという謙虚さと自負心があったと思います。
血脈というものなんでしょう。

私は初めて会ったにもかかわらず、面と向かってそうした言葉を聞く事ができました。
その事実は今も忘れない。
その時に、たくさんあった事実の一つです。

補足日時:2014/01/28 07:17
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/27 16:57

#2の者です。


宗教がお好きなようで‥‥それなら私に質問しない方が
良いですよ。

宗教は、肉体に付属した感覚器官によって生じるゆえに
自己中心的に流されがちな意識を、社会性に従わせる
(か、死や災害といった人力の及ばないものを、それ
でも何とか(祈り)したくて)ための枷である。
ブータンの人は輪廻転生を信じており、手に止まった
蚊も吹いて飛ばす。
だから、来世を幸福なものにすべく、庶民は助け合い、
政治家は善政を布く。
悟りも何も、お寺で六道輪廻図の恐ろしい地獄絵図を
見せられ、僕も設計図に止まったハエを叩き殺して部下
に『サー、その罪で百回ハエに生まれ変わります』と
真顔で同情され、病院勤務の隊員はプレパラートに
たかろうとするハエにスプレーしようとして「病院に
来るハエは患者の家族(亡くなられた)が心配で見に
来ているのかも知れないから」と止められたし、偉い
人が亡くなると山の上の岩の上で遺体を切り刻んで
鳥に食べていただき天に還るが、我々庶民は川原で
焼かれて灰を小さい仏塔にして川に流して魚に食べて
いただく。
魂は転生しているから遺体は抜け殻であり、墓もない。
(その代わり仏壇に金を掛けるどころか仏間が家で
一番豪華)

私もブータンでは五体投地で祈り、虫も殺さなかった。
宗教は、「飛躍する」ためのものではなく、地面を這い
ずったまま空を飛んだ気になるための方便だ。
日本人は、輪廻を信じる彼らを笑い、僕は(内心)日本
人を笑う(自分達の信仰(他律的生)の深さを知らない)、
ていう。
宗教も哲学も、そんな分野分けはこの世界のどこにも
ない‥‥1つの世界のありのままを知るのに、そんな
色眼鏡は有害だ。

この回答への補足

最初のお礼の中で、psytexの滞在されていた土地をブータンではなくネパールと勘違いしていました。
大変失礼いたしました。
ご容赦ください。
幾度もお答え有難うございました。

補足日時:2014/01/29 23:16
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この回答へのお礼

ブータンでの体験のお話ありがとうございました。
やはりブータンでは、現在も仏教が生活に根付いているのでしょうね。
そうした精神的風土の中で過ごされた体験というものは、中々得難い貴重なものと思います。
お答えの冒頭の言葉と末尾の言葉が一つに読み取れるのですが
そうしますと、拝察するに、Pさんの立場というものは、やはり無宗教であるように思われます。
以前からの様々なご回答を拝読させて頂いておりますが、
何よりも科学的な客観性を重視し、そこから発した仮定をも含めて、事象の分析なり位置づけをなさっておられるように思われます。
そういった非常に理知的と感じさせられる考察の姿勢は敬服に値するものです。
無宗教の立場に於ける、感情的或いは感覚的透明性といった、いわば理性のあるべき一つの立場を示しているようでもあります。
>色眼鏡は有害だ。
という言葉にそれは表されているようです。
Pさんなりの、そうした客観的且つ論理的な姿勢を、私はPさんの持つ個性として尊重し受け止めさせて頂くことにします。

今回、私が提示した内容は
一種の喩えをもって、密教の本質である即身成仏というものを取り上げてみたものです。
それは論でもなければ、空想でもない
私が実に30年以上も前に体験した事に基づいています。
子細は、お寄せ頂くお答えの内容に応じて、必要な事を記して行きたいと思っています。
一人のバカな人間が、どこまで宗教を理解できたか・・という実験はまだ終わっていない
その報告書を読むも読まぬもPさんの自由です。
それでいいと思っています。
悪しからずご了承ください。

お礼日時:2014/01/27 16:57

自分の中に「飛翔」するバカはいない。


カッコつけて飛ぶから、足が地につかない。

この回答への補足

密教思想の中核を占める即身成仏というものは、無宗教主流の現代社会においては完全に埋没してしまっている、と思います。
また、それは仏教の到達した教えの頂点であることは、仏教学においても否定されてはいない事実だと思いますが、一般的にそれが取り上げられる事は全くないと言っていいと思います。
pさんが長く滞在されていたネパールでは、後期密教が伝えられ、今もそれが残っている貴重な国です。
できればその辺の感想をお聞きしたかったのですが・・
無理でしょうかね・・
宗教は、いずれもその外側、外面だけでは分からないものですが、
とくに密教思想は余りにも煩瑣な面があり理解しにくく敬遠され気味です。
それでも、思想の中核とされる即身成仏は、容易な解釈が可能とされるように教えが示されてきたと思います。
それが「六大一実」というものです。
音声では「アビラウンケン」という真言です。
これが密教の教えに一番入りやすいのではないかと思います。
宇宙時代に入った現代において、宇宙的な思想を求めるとすれば、やはり密教であるような感じもします。
今一度、そのへんを確かめてみたい・・と思います。
理解のある方のご一報をお待ちしています。

補足日時:2014/01/26 23:52
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この回答へのお礼

おやおや・・pさんにしては珍しく感情的なお言葉です。
まあ、私はそのバカという事でお許し願いましょう。
六大一実という宇宙に向かって飛んでみたい。
失速して落ちても・・もういいんですよ。
ご忠告をありがとう。

お礼日時:2014/01/26 22:22

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

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この回答へのお礼

むかし・・真魚という一人の少年がいた。
24才の時にその世界に飛び立った。
それ以後、名を沙門・空海と改める。
海の向こうに、その世界の真実を伝える人を求めて、唐に渡る。
「虚しく行きて、満ちて帰る」

「蒼生の福を増せ」という師の言葉は、空海にとって鴻鵠の志となった・・。

お礼日時:2014/01/26 21:02

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