プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 おしえを乞うにあたり 次の論考を出発点として踏まえたいと考えます。

 ▲ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか
 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles …

 ☆ そこでは 
 ▲ さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見した。
 ☆ と言います。では 
 ○ さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?
 ○ 無明としての《根本的な生存欲》とは 何であって どうせよと言うのでしょう?

 納得のいくまで尋ねつづけますので よろしくお願いします。

A 回答 (38件中1~10件)

ぽこぺろぽです。

ご無沙汰しておりました。浅学の身の私としましては、これまでのご質問には回答が難しかったので、遠慮をさせていただいておりました。

 さて、煩悩とは私自身を示しているようにも感じます。特に欲するところもないのですが、《根本的な生存欲》には、抗えずにいます。ゴータマ君は、生存欲を棄てろと言っているのではなく、これを横に置いておけと言っているのではないでしょうか?こう申しますのも、生理的欲求は棄てるべきものではなく、中庸に抑制すべきものだと考えるからです。生き長らえる義務はないとしても、いつ死んでいいというわけではない、すなわち天寿があるのです。

 拙答における曖昧性や錯誤をご指摘願うとともに、考察を深めてまいりたいと存じます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 わたしの考えを述べて お礼に代えます。

 ★ 生存欲を棄てろと言っているのではなく、これを横に置いておけと言っている
 ☆ 《横においておけ》とは
 ★ 中庸に抑制すべきものだと考えるから
 ☆ ですか。この質問の前身である【Q:ブッダの性愛観は間違っていませんか】でも論点と見たのですが 
 ★ 中庸
 ☆ という徳は・つまりその説は ふつうに世間の人びとの知恵のひとつである。こう考えるのです。
 ○ さとり
 ☆ の中に含まれるとしても そのまま等しいものとして置き換えてもいいのだろうか。置き換えただけでいいのだろうか。こういう疑問が残ります。
 
 それに
 ★ 生き長らえる義務はないとしても、いつ死んでいいというわけではない、すなわち天寿があるのです。
 ☆ ということであれば 
 ○ 根本的な生存欲:とは それを失くすとわれわれ人間は生きていないというもの
 ☆ ということになりますが そういう解釈なのでしょうか? つまりそれだったら この生存欲としての《無明》を 《明知》に転換するという空観も縁起共生の説も さとりとしては 無駄であり無益であり絵に画いた餅となります。
 わたしが分かっていてこう言っているのではなく いったい無明とはどういうことであり そこからのさとりとは何を言っているのか。探究せねばならない。こう真剣に考えます。

 このように考えます。

お礼日時:2009/07/31 23:34

オコリザルです。


それでは ブッダのさとりとは何だったのか
こちらに参加しそこなったので輪廻についての考えです。
前世、現世、、来世、「世」が問われていますね。
この異なる世の行き来に、死は仲介しません。
死を仲介するならばそれらは前生、現生、来生、と表現するのがしかるべき言葉です。
洋の東西を問わないで、ありがたいお坊さんの説法でも実際には「世」でなく「生」を問うています。解釈違いでなく聖典が所詮その程度だからです。
世は心とかかわりがあります。
唯脳的表現から抜け出していませんが、たたき台として以下の論理を提示します。
個人的に写真が趣味なんで、見るという行いを接点にして「世」に関する認識まで発展させた論理です。

眼球の構造は医学的に解明されています。
眼球から脳につながる神経は約200万本。
多いようですが200万画素のチョー古臭いデジカメと同じ粗い情報しか伝達していないことを意味します。
人間は色を認識していることが生命として自慢なのですが、神経組織として色を認識する範疇は極めて狭いです。ところが視野いっぱいに色が付いています。このオールカラーは神経構造に基づくと脳に情報として伝達されていません。したがって脳の空間を認識する能力と視野を認識する能力は密接にかかわっています。以前は唯脳的認識により脳にコンピューターグラフィックのような演算能力により脳内に構成された世界こそが「この世」であると表明しましたが、実際は世という言葉を離れた「現実」たる表現と重なっているのがこの世です。

その「現実」「実在」は愛ですね。それはさておき、、、。

世の行き来にわざわざ命がけの往来はありません。
現実イコールこの世、またはズバリ世界であれば、時系列的に存在する現在を離れた過去は前世です。将来展望は来世です。存在に備わる脳の能力に認識できる範疇はそんな感じです。わざわざ世になぞらえて問うのは大袈裟すぎるかもしれませんが、「縁起」かかわりであれば過去を我と言う一つの個のみで問うても仕方ないので、過去なり将来なりを問うに当たって「世」を含めて占うのはごく自然です。あくまでも孤独な「個」としてそれをしても意味がありません。
現実がシャバ世界に見えていたお釈迦様は真実をつかみ損ねたのかもしれませんね。
その程度のかつては偉人であっても大袈裟に騒ぐほどではない哲学者です。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】
 ☆ これは 二つの主題があって 論点が分散するようだと思いました。一つひとつ掲げるのがよいと。

 さて どうなんでしょう
 ・ 現実を見よ。
 ・ いま・ここに立て。
 ・ 過去を必要に応じて現在に寄せ集めて。
 ・ いまその現在において・この現在のもとに 未来を捉えよ。
 ・ わたしとして。
 ・ そしてそれだけではなく わたしが世界としても 世界に向かえ。
 ・ 過去を集めて未来に向かう現在の世界と向き合え。
 
 ★ 現実がシャバ世界に見えていたお釈迦様は真実をつかみ損ねたのかもしれませんね。
 ▲ (仏教辞典:娑婆=しゃば) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 サンスクリット語 Sahaa に相当する音写。
 われわれが住んでいる世界のこと。
 sahaa は《忍耐》と意味する。西方極楽世界や東方浄瑠璃世界と違って 娑婆世界は汚辱と苦しみに満ちた穢土であるとされたため 《忍土》などとも漢訳されている。
 なお 仏滅から弥勒菩薩の56億7千万年後の下生(げしょう)に至るまで 娑婆世界は無仏で 地蔵菩薩などがその間の導師であるとされる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようでしたら
 ★ その程度のかつては偉人であっても大袈裟に騒ぐほどではない哲学者です。
 ☆ と言われますが 果たして
 ★ かつては偉人で・・・哲学者で
 ☆ あったのでしょうか? 
 いったい無明とはどういうことで そこからのさとりとは何だったのでしょう?

お礼日時:2009/08/01 00:03

オコリザルです。


No2のご返事をまたづに息抜き回答です。
疑うべきもない実存の起点たる現在と、過去や将来を展望するに当たって私は輪廻の概念を応用しません。
ESP用語として未来予知は私にとって普通のことです。
輪廻でなくこれは「時わたり」と表現します。
人知の怠慢によりそこには往来する感覚が必要なので、この「時わたり」は聖霊魔法です。
ポケモンになぞらえるとゼッケン251番セレビィの得意技です。
現実を超越するには聖霊の力をかります。
ポケモンには1番から番号が振ってありますが0番のポケモンを表明したいところです。

個人的な話でした。
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この回答へのお礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 昨夜は久しぶりに二時を過ぎて起きていたわけで このご回答を残しつつも睡眠のほうへ靡きました。

 ううーん。
 ★ 「時わたり」
 ☆ これは どうでしょう どこまでも煮詰めて捉えようとすれば どうでしょう その未来なり過去なりのことがらを見とおすこと つまりは 行動を伴なわない認識の問題に帰着しませんか?
 どうもけちをつけるようでいけませんが 
 ○ わが《根本的な生存欲》の過去から未来への遍歴を見とおすと言いましょうか そういう認識ではなく 現在のおこないにとってどういう意義があるか これが分かればしめたものなのですが どうでしょう?
 ★ ポケモン
 ☆ につきましては 相変わらず知らないので残念です。
 ★ 個人的な話でした。
 ☆ なのにこのように楯ついたのは そこから突破口が開かれるかも分からないからです。どうですかねぇ。ま 気長にまいりましょうか。

お礼日時:2009/08/01 09:30

無明( 煩悩 )とは業と云うものかと思います。

それは人間の営みそのものを言っていると思います。人間の営みそのものが業であり、罪であり、或いは悩みと云う事になります。

それは自分自身と環境との対立と矛盾と云う事になります。何故ならば自分自身の中に、環境と一つになっているものが存在しているからです。まさに厳然たる事実と一つになっている真人が自分の心に存在しているという事です。それが仏性と云うものですが、自分にはつかみにくく出来ています。

人間の心には動物と同じに今まで生きてきた歴史や感覚や感情などが、生まれた時から誰にも教えられなくとも備わっています。あの小さな蜘蛛や、蟻でさえ学校に行かなくても巣を作る事が出来ます。力学的には完璧と言うほどのものを作る能力が有ります。まして人間にはそれ以上の能力が備わっています。体の細胞の数も格段と多くまた複雑になっています。

命を長らえる、或いは保ってゆく事は、又その保つための機構が備わっています。その命そのものにも意思が有ります。その意志の事を「仏性」と言っています。その意志は自我意識には分からないように作られています。その意志が強くて、自我意識が強い事が人間の業と悩みと罪を作っています。

それが、どうして悩みになるかと云うと、矛盾が在るからです。二つの関係がどうしても両立していかない処に人間は悩みを覚えます。仏性は永遠そのもので出来ているからです。自我意識は有限しか理解出来ないからです。その有限と永遠の対立が人間の心に悩みと苦しみを作り出しています。

その解決が悟りと云う事になります。自我意識は説明する必要はないと思います。仏性は無意識界を司っています。人間の悩みとは意識と無意識との考え方の相違の事です。心の矛盾と云う事になります。心の矛盾の解決が悟りと云う事です。

自分自身を悩ませていたものが自分自身の心で在ったという事を知る事が悟り、という事になります。神に会って和解が成立した、という言い方でも良いかと思います。心自身の争いが集結するという意味になります。是が絶対の安心「涅槃」と云う事です。

その為には心が動き出す以前、心が発動する瞬間、つまり、意識と無意識が分かれる瞬間に、二つの心が出会う時が有ります。是が悟りと云う事です。どんな書物からでも教えてもらえ無いものです。心の秘密が分かる瞬間の事です。

この回答への補足

 tumaritou1 さん ご回答をありがとうございます。

 率直にわるくちを並べますので よろしければお答えください。
 ★ 無明( 煩悩 )とは業と云うものかと思います。それは人間の営みそのものを言っていると思います。
 ☆ 《業》は 《おこない》のことですよね。《根本的な生存欲にもとづくおこない》 これが無明である。という意味ですよね。
 あっ わづかにこの《おこない》が積み重なりその後のおこないの原因となるといった見方が そこに伴なわれているということでしょうか?
 ★ それは人間の営みそのものを言っていると思います。
 ☆ まづはこの見解そのものですね。
 
 一気に飛びますが
 ★ 人間の悩みとは意識と無意識との考え方の相違の事です。心の矛盾と云う事になります。心の矛盾の解決が悟りと云う事です。
 ☆ としますと
 ○ 根本的な生存欲とは 何なのでしょう?
 (1) それが無明すなわち煩悩だというのであれば ここに言う《心の矛盾》のことでしょうか?
 (2) すなわち 《根本的な》と言っても それがそのまま《無意識》のことではなく また《意識》だけのことでもない。となりましょうか?
 (3) あるいは ひょっとすると 《無意識》裡において 意識になって現われる無明としての生存欲もあれば つねに無意識にとどまって意識活動に対してその無明つまり煩悩を明知へと転換させるはたらきとしての仏性もある。のでしょうか?

 ★ その為には心が動き出す以前、心が発動する瞬間、つまり、意識と無意識が分かれる瞬間に、二つの心が出会う時が有ります。是が悟りと云う事です。
 ☆ おそらく もしこの《悟り》が経験現実であるとすれば それはひとりの他者に伝わるということだとわたしは考えます。社会性があって初めて 明知だと考えます。
 (4) 仏性は 無意識にとどまりつづけるけれども 意識活動に対して働きかけ その作用が心において有効であり実現するときがある。《心の秘密が分かる瞬間》である。という実体験は どのように他人に伝えられるか?
 (5) 《神に会って和解が成立した》ことは どのようにして人びとに伝えられるか?
 (6) どうも心の奥のことを究めることは どのように社会の中での行ないとつながっているのかが 分かりにくい。こういう印象を持ちますが どう解き明かしますか?
 (7) つまりそういう心理分析や精神の分析であれば ひとは仏性があり神のもとにあるから だいじょうぶですよと言っているのとほとんど変わりありません。この悪口をどう破りますか?

 どうでしょう?

補足日時:2009/08/01 09:58
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ブッダは、生存欲が無明だとは言ってません。

生存欲だと、動物も該当しますが、動物は自我は無く、元元無我です。ブッダは、自我意識が無明で、悟りの妨げだと言ってます。そして脳の自我を、休ませて、無我になれば救われると言ってます。仏教で、瞑想や座禅として実行されてます。人の心は、不調和世界の脳と、調和世界の自然の心、仏の心が、合体して出来ています。しかし現代人は、脳の思考である自我が、自分だと錯覚しています。脳は不調和な存在だから、科学は自然を破壊し、自我は対立と争いばかりで、また宇宙の主役ではないので迷いばかりです。他方、調和世界の自然の情緒は、人を育て、心を癒し、社会を調和へ導きます。昔の日本人は、生活に脳を休めて、間や情緒を入れる方法を考案してきました。だから本当の自分は、脳の思考が休んだ時現われる、仏の心です。脳の思考が休んだ時や、心が中庸、中道の時、脳波がアルファ波になると、人の心が仏の心、自然の心と交流して癒されます。だから脳の思考を休める事が、無明を無くし、悟りを開く道になります。幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。仏教では、座禅、瞑想、伝統文化では、雅楽、文楽、能、歌舞伎、日舞、演歌、民謡、落語、茶道、華道、浮世絵、和歌など、編み物や職人芸など、手先の仕事は、脳が休みます。

この回答への補足

 eyasi2012 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 正直に申せば 今回のご回答に不満です。
 まるで縄文時代のさとりなら かくもあらんと思うのですが たとえば
 ★ 脳は不調和な存在だから、科学は自然を破壊し、自我は対立と争いばかりで、また宇宙の主役ではないので迷いばかりです。
 ☆ と言っても いまこのようにインターネットで対話をしているのも 《脳と科学とそれなりの自我》によって出来ている部分が大きいのではないですか?
 ★ ブッダは、自我意識が無明で、悟りの妨げだと言ってます。そして脳の自我を、休ませて、無我になれば救われると言ってます。
 ☆ だそうですが 《無我になれば》は 《なろうとする》のかそれとも放っておけばそのようになる時が来るのか どちらでしょう? eyasi2012 さんは
 ★ 脳の自我を、休ませて、無我になれ
 ☆ ましたか? つねに なれていますか? 悟りを得たのですか?
 あるいはこれまでに一体何人のひとが悟りを得ましたか? どういうふうに伝えられていますか? eyasi2012 さん あなたはその伝承に納得がいきましたか? 
 ★ 昔の日本人は、生活に脳を休めて、間や情緒を入れる方法を考案してきました。 / 幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。・・・伝統文化では、雅楽、文楽、能、歌舞伎、日舞、演歌、民謡、落語、茶道、華道、浮世絵、和歌など、編み物や職人芸など、手先の仕事は、脳が休みます。
 ☆ さぞ多くの人びとが悟りを得たことでしょうね。こうであるなら 何も仏教という方法は要らないのではないでしょうか? 何でわざわざ修行をしなければならないのでしょう? なぜブッダのおしえが消えないのでしょう? 
 けっきょく気休めか金儲けだけなのではないですか?
 なんでいつまでも月並みの文句をならべて ブッダださとりだと言い続けるでしょう?
 eyasi2012 さんは 無我になったのですか? 無我とは一体何であるのか知っているのですか? ただただそういう文句があるから これを鸚鵡返しにしゃべっているだけなのではないですか?
 こうやって 人生の大半を使い尽くすのでしょうか? 人びとをもその《修行》に巻き込むのでしょうか? 
 日本人はもっと賢いのではないでしょうか? ブッダという名前に頭がやられているだけではないでしょうか? 少なくとも ブッダなどの言うことは分からんとまでは はっきりと言うべきではないでしょうか? 何で遠慮しなければならないのでしょう? 要らんものは葬ってしまったほうがいいでしょう。

 と考えているのですが まちがっているでしょうか?

補足日時:2009/08/01 16:17
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出来る事にはお答えします。

 ○ 根本的な生存欲とは 何なのでしょう?>>「命そのものです」
(1) それが無明すなわち煩悩だというのであれば ここに言う《心の矛盾》のことでしょうか?>>無明とは「自分自身が分からない」と云う事にあたります。煩悩とは「自我意識の悶え」と思います。人間の苦しみ、或いは悩みとは「心の矛盾の又の名です」

(2) すなわち 《根本的な》と言っても それがそのまま《無意識》のことではなく また《意識》だけのことでもない。となりましょうか?>>意識をするか?しないのかにもかかわらず人間には根本的な求めているものが有ります。或いは希求するものが有ります、或いは漠然としたあ憧れと云うものが有ります。云い方を替えたなら素朴な疑問、或いは大いなる疑問と言っても良いかも知れませんが、心の奥底から湧き上がってくる疑問が有ります。「自分は誰なのか?」その答えが自我意識に問いかけている問いです。

疑問も悩みも全ては「無意識の根底から湧き上がってくる感情です」自覚できない処から湧き上がってくるものですから、深刻な問題とも云えます。

(3) あるいは ひょっとすると 《無意識》裡において 意識になって現われる無明としての生存欲もあれば つねに無意識にとどまって意識活動に対してその無明つまり煩悩を明知へと転換させるはたらきとしての仏性もある。のでしょうか?>>パス

(4) 仏性は 無意識にとどまりつづけるけれども 意識活動に対して働きかけ その作用が心において有効であり実現するときがある。《心の秘密が分かる瞬間》である。という実体験は どのように他人に伝えられるか?>>仏性は言葉を持っていません。従って書いたもので表す事は出来ません。強いて言うならば「仏心宗」「教外別伝」「禅問答」等で伝わっています。誰にもわかりやすくと云うと聖書や仏典となるかも知れません。

説明すればするほど分かりにくくなって、返って長い説明のための説明が必要となっていると思います。伝えられないといった方が「話が早いかも知れません。」

(5) 《神に会って和解が成立した》ことは どのようにして人びとに伝えられるか?>>(4)と同じです。

(6) どうも心の奥のことを究めることは どのように社会の中での行ないとつながっているのかが 分かりにくい。こういう印象を持ちますが どう解き明かしますか?>>見て明らか、聞いて明らかです。

7) つまりそういう心理分析や精神の分析であれば ひとは仏性があり神のもとにあるから だいじょうぶですよと言っているのとほとんど変わりありません。この悪口をどう破りますか?

 どうでしょう?>>ほとんどの人は大丈夫と言えます。それが健常者と言う人達です。命そのものの意思と仲たがいした人には「神経症、自律神経失調症、精神疾患」と言うふうになります。是は心の矛盾の別名です。もっとひどい仲たがいになった場合には、心は背中合わせになっています。心が分裂してしまったと云う事です。「自分が何者か?」が本当に分からなくなってしまう事です。

この回答への補足

 tumaritou1 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 根本的な生存欲とは 何なのでしょう?
    >>「命そのものです」
 (1) それが無明すなわち煩悩だというのであれば ここに言う《心の矛盾》のことでしょうか?
    >>無明とは「自分自身が分からない」と云う事にあたります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは基本的な問題点でしょうね。
 (あ) 《根本的な生存欲》とは 「命そのものです」か?
 つまり 《欲》と言うのであれば ひとの意志が何らかのかたちでかかわっていると思われます。そうではなく この意志を超えた《命》が問題になっているのでしょうか? なぜなら
 (い) ★ 無明とは「自分自身が分からない」と云う事にあたります。
 ☆ というところを そのように解釈したのですが? つまりは 《根本的な生存欲》と《無明》とをつなげる見解に立つと見なしてのことですが? もしそれでよければ
 (う) 無明とは 命にかんして それが自分の意志のあり方をも超えていて その力のあり方や働きが分からない。みづからの命について分からないし その限りで《自分のことなのに自分自身が分からない》という見解でしょうか?
 もしそうであるならば 特にブッダのおしえというほどのことでもないと考えます。

 (え) ★ 煩悩とは「自我意識の悶え」と思います。人間の苦しみ、或いは悩みとは「心の矛盾の又の名です」
 ☆ この部分につきましては 取り立てて ブッダが説いたかどうかなどは関係ないと考えます。きわめて普通のことです。

 (お) ★ 「自分は誰なのか?」
 ☆ が根本的な問いなのですか? 誰なのか・何なのかが分からなくても けっこう幸せに一生を送る人びともいると思いますが どうでしょう? ブッダはそんなことを問題にしたのですか? つまり そもそも《自分自身が分からない》ところの無明が その問い求めだったのですか?
 (か) でもその答えは 《いのち》なのでしょう? と言いますか これくらいのことは ひとは誰でも分かっているのではありませんか?

 (き) ★ 疑問も悩みも全ては「無意識の根底から湧き上がってくる感情です」自覚できない処から湧き上がってくるものですから・・・
 ☆ でもわたしの感覚では 悩みませんが・つまり解決へ向けて考えることを悩みと言いますが 疑問は つねに《話しが通じない》ということです。これは あくまで社会性つまり人間どうしの交通関係において起きてくる問題なのですが それが《「無意識の根底から湧き上がってくる感情です」》か? どうもことをむつかしくしようとしていませんか?

 (く) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >>仏性は言葉を持っていません。従って書いたもので表す事は出来ません。強いて言うならば「仏心宗」「教外別伝」「禅問答」等で伝わっています。誰にもわかりやすくと云うと聖書や仏典となるかも知れません。

 説明すればするほど分かりにくくなって、返って長い説明のための説明が必要となっていると思います。伝えられないといった方が「話が早いかも知れません。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 明確に述べています。それならすべては 直接の人間どうしの交通にゆだねられるのだし そこでしか伝わらない。これが明らかになりました。あいまいな答えを与えるひとが多いのです。

 (け) ★ >>ほとんどの人は大丈夫と言えます。それが健常者と言う人達です。
 ☆ これは わたしのブッダ観とは違います。《健常者》についてもとうぜん 《無明》がある。《無明》の中にある。と言ったのではないですか? その後 大乗仏教とやらが すべての人には この無明を明知に転換することのできる仏性があるとも言ったのではないですか?
 精神疾患は別の問題だと考えますが どうでしょう?

補足日時:2009/08/01 22:01
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相も変わらず屁理屈ばっかり言ってるね。



>無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

理屈を捏ねること、理屈を捏ねなければ只それだけの事(さとり)

 
>さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?

生存欲は人間に備わった事実、どうもこうも出来ないだろ、事実の徹底、理屈を捏ねない。理屈を捏ねなくなったら、無明(迷い)から悟へ
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この回答へのお礼

 ご投稿に感謝します。
 
 ★ 相も変わらず屁理屈ばっかり言ってるね。
 ☆ たぶんわたしの透き通ったものの見方に向き合って ご自分のこころの中をそのように見たのでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?

 理屈を捏ねること、理屈を捏ねなければ只それだけの事(さとり)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぢゃあ そもそも誰かさんがいちいち《煩悩》と言わなければ それなりにすんなりとその――たとえ負の状態であったとしても その――煩悩と呼ぶ前の煩悩の状態をひとは 難なくつねにときの経つとともに切り抜けることができているでしょう。 
 ★ 理屈を捏ね
 ☆ たのは誰でしょう?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >さとりとは この生存欲をどうせよと言っているのでしょうか?

 生存欲は人間に備わった事実、どうもこうも出来ないだろ、事実の徹底、理屈を捏ねない。理屈を捏ねなくなったら、無明(迷い)から悟へ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だから《理屈を捏ねたのは誰でしょう?》
 その問題にまで触れているなら いい回答だったのではないでしょうか?
 というよりも
 ★ 理屈を捏ねなくなったら、無明(迷い)から悟へ
 ☆ というように《無明》と《明知》とをわざわざ分けてしまうという考え方が人びとに影響を与えているので 世の中はその歩みが滞ってしまうのでしょう。
 おそらく
 ★ 理屈をこね
 ☆ ても捏ねなくても もともと心はやすらかであると言っていればよかった。
 そういうことを言いたいのではないですか?

お礼日時:2009/08/02 08:07

 とりあえず、一点のみ。



 回答No.6・tumaritou1さんへの補足返答、「煩悩とは‘自我意識の悶え’」・・・これくらいのことはひとは誰でも分かっているのでは?

 というコメントについて。

 「無明」

 ‘誰しもが分かっている’とは思えません。

 ‘ブッダ’が衆生に教えたから。

 我々が、‘ブッダ’から学んだから。

 分かったような気になっているのではないでしょうか。

 ‘ブッダ’に言われなければ、我々凡夫は‘煩悩の池’でもがいていることに気づかなかったのではないでしょうか。

この回答への補足

 yy8yy8az さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 まづ細かいところですが 事実問題として誤解が生じないようにとの確認です。
 ★ 回答No.6・tumaritou1さんへの補足返答、「煩悩とは‘自我意識の悶え’」・・・これくらいのことはひとは誰でも分かっているのでは?
 ☆ これは 《・・・》の箇所に中略がありますので 次のように二つの小主題に分けて捉える必要があります。
 順序を逆にして
 (1) ☆☆ (No.6補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (お) ★ 「自分は誰なのか?」
  ・・・(わたし= bragelonnne も途中を略しますが)・・・
 (か) でもその答えは 《いのち》なのでしょう? と言いますか これくらいのことは ひとは誰でも分かっているのではありませんか?

 (2) ☆☆ (No.6補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (え) ★ 煩悩とは「自我意識の悶え」と思います。人間の苦しみ、或いは悩みとは「心の矛盾の又の名です」
 ☆ ・・・この部分につきましては 取り立てて ブッダが説いたかどうかなどは関係ないと考えます。きわめて普通のことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そうしてお応えも別の意味でふたつに分けて述べるのがいいと考えます。
 ( a ) まづ《我々凡夫》にでも《分かっている》もしくは《善い悪いにかかわらず よくあるふつうのことだと捉えている》ことのほうからです。
 ・ いのちをさづかって生まれて来ているし 生きている。
 ・ 悩んだり 人といさかいを起こしたりもして しかも人生をまとめて捉えるなら 面白可笑しく過ごす。
 ・ わたしが何であるかといった問題も問題ではあるが それが分からないからと言って それほどの差し支えがあるとは思わないと人びとは思っている。
 ・ むしろ誰かが《無我》と言ってしまったから あとの人びとはこれをめぐってああぢゃこうぢゃと 延々と語り続けているという一面もあるのではないか。
 ・ ちなみに 無我説を唱えながら その正反対の《梵我一如》説をも自分の考えとして引き合いに出す場合さえあるようです。
 ☆ これらのむしろわるい影響は
 ★ 「無明」〔なる煩悩のことを〕‘ブッダ’が衆生に教えたから。
 ☆ 出て来たと考えられませんか? つまりそれだけでは詰まらないしいけないと考えたので のちにやっと
 ○ 仏性
 ☆ という切り札が人びとにとって説かれて来るように成ったのではないですか? でも《無明・煩悩》の前に・それに先行して 《仏性》があるとはっきりきちんと何が何でも徹底的にやかましく言っていなければならない。それでようやく ふつうの思想(生活態度)になる。こう考えますよ。

 ( b ) ★ ‘ブッダ’に言われなければ、我々凡夫は‘煩悩の池’でもがいていることに気づかなかったのではないでしょうか。
 ☆ をめぐってです。これが別様の主題になるのは ( a )のふつうの生活態度においても 《悩みや諍い》が起こることは誰もが承知しており そのことの解決に腐心しているのも実際だからです。まただから《ブッダのおしえ》が 中身はともあれありがたがられるというものだと考えるからです。
 ただしこの問題は 質問が問うそのものでもあります。わたしは 《根本的な生存欲》という解釈を引き合いに出して踏み出そうとしたのですが これについてはあまり進展は見られないようです。
 そのつてで述べるなら このやはり無明とは何ぞやの問いとそのブッダの答えについてこそ わたしたちは
 ★ 分かったような気になっているのではないでしょうか。
 ☆ 二千年もそのような雰囲気に酔っていただけなのではないでしょうか? 今もそうではないでしょうか?

 ちなみにたとえば 《原罪》は――と言ってもわたしはこれを死語と認定していますが それでも意味について言うとすれば―― 基本的に《うそ》の問題です。《心のへそ曲がり》です。《自由意志の片寄り》でありその偏りは うそでありへそ曲がりであるなら 《意志による意志みづからへの偽り》ということになります。
 すなわち 原罪は死語ですが その生活経験としては続いていると見られます。

補足日時:2009/08/02 08:54
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この回答へのお礼

 では
 ○ 無明とは何なのでしょう?
 ☆ 分かれば
 ★ ‘煩悩の池’でもがいている
 ☆ こともなくなるのか。それとも 無明をそもそも初めに立てるから話はややこしくなるし その煩悩の池も底無しだと見られてしまうのか。あるいは三つ目の見方があるのか。
 さてどうでしょう?

 * ちなみにわたしは 親鸞は その絶対他力の信仰形態論をもって 答えを与えていると考えています。そのほかの論客は ただ世間の知恵や知識の活用といったところであるように捉えられます。このあたりについて さらにご教授をお願いしたい欲望があります。

お礼日時:2009/08/02 08:57

精神疾患は別の問題だと考えますが どうでしょう?


>>>一切皆苦と言う言葉が「精神疾患」を顕わしています。健常者はこんな事は言いません。一切皆苦と云う事は、今の生活に満足できなくて「出家」したというのではなくて、「精神疾患」のために今の生活が出来なくなって、医療機関に入院したという風に考えられます。

「精神疾患」と言う事は現在の営みを放棄している=出家に当たると思えるからです。言い方を替えたなら今の生活が出来なくなったという事です。それほど自我意識には「一切皆苦」が意識をされて意識地獄をさまよったと思えます。bragelonneさんには精神疾患の経験が無いために、苦しさが分からないようですので話はかみ合いませんので、話はここまでといたします。

この回答への補足

 tumaritou1 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。何度もわずらわせもうしましたね。

 ですが 今回のお答えは どえらい問題発言になるのではないでしょうか? ブッディストの側から見ての話ですが。
 ○(α) ゴータマ・ブッダは 精神疾患をわずらう病者であった。ただしその疾患を克服した。完全な治癒を得た。
 ☆ とおっしゃっていると受け取るのがふつうになりませんか?
 いわく。
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 >>>《一切皆苦》と言う言葉が「精神疾患」を顕わしています。健常者はこんな事は言いません。
 一切皆苦と云う事は、今の生活に満足できなくて「出家」したというのではなくて、「精神疾患」のために今の生活が出来なくなって、医療機関に入院したという風に考えられます。
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 ☆ おそらく 《生老病死の四苦》というように中でも《生の苦》を言うところからでしょうか?
 上の(α)で ブッダは――成道したというからには―― 完治したと言ってわたしはおべんちゃらを垂れましたが 実際にはおそらくその後 大乗仏教と呼ばれる運動が起こって 《一切衆生 悉有仏性》と唱えられてからだったのではないでしょうか? 
 無明=煩悩といういわば《原苦》に代えて(もしくは それと同等のものとして並べるべく) この《仏性》を立てたところからやっと完全治癒が見とおせたのではないでしょうか?

 ☆☆ 精神疾患は別の問題だと考えますが どうでしょう?
 ☆ という意味は このような《原苦をつねに突き抜けるちからとしての仏性》の問題が・つまり解決法があれば そのあとの別の問題として捉えられるのではないか 精神疾患はという意味ですよ。

 案外 話は噛み合っているようですよ。

 無理に引きとめるわけではありませんが と言いますか 無理にでも次のようにあなたには考えていただきたいという煩悩の発露としてぎらぎらした欲望を表明するのですが 
 ○ 精神疾患は 精神のそしてなかんづく意志の未達成の積み重なりとしてその生の時間が停滞している。これをめぐっての心理的な時間複合(コンプレックス)である。(ほかに器質のよる問題があるかも知れません)。
 ○ ところが 精神はつねにみどりである。わづかに その心の海の面(おもて)に立つ波風としての心理が灰色である。
 ○ ゆえに精神分析は 入門がそのまま卒業なのである。
 ○ さもなければ いにしえの人びとは何故わざわざブッダにさからってでも 《仏性》をあらためて説いたのか?

 さて 無明とは何なのでしょう?

補足日時:2009/08/02 09:24
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こんばんは、bragelonneさん。



『宇治拾遺物語』
吾妻人生贄をとゞむる事[巻一〇・六]
今は昔、山陽道美作國に、中山、高野と申神おはします。高野はきちなは、中山は猿丸にてなんおはする。その神、年ごとの姿に、かならず生贄を奉る。人のむすめのかたちよく、髪がながく、色しろく、身なりをかしげに、姿らうたげなるをぞ、えらびもとめて、奉りける。昔より今にいたるまで、その祭おこたり侍らず。
それに、ある人の女、生贄にさしあてられにけり。親ども泣きかなしむこと限なし。人の親子となることは、さきの世の契りなりければ、あやしきをだにも、おろかにやは思ふ。まして、よろづにめでたければ、身にもまさ増りておろかならず思へども、さりとて、のがるべかなれば、なげきながら月日を過すほどに、やうやう命つゞまるを、親子とあひ見んこと、いまいくばくならずと思ふにつけて、日をかぞへて、明暮は、たゞねをのみ泣く。かゝるほどにあづまの人の、狩といふ事をのみ役として、猪のしゝとおいふものの、腹だちしかりたるは、いとおそろしきものなり、それをだに、なにとも思たらず、心にまかせて、殺とりくふことを役とする者の、いみじう身の力つよく、心たけく、むくつけき荒武者の、おのづから出できて、そのわたりにたちめぐるほどに、この女の父母のもとにき來にけり。

物語するついでに、女の父のいふやう、「おのれ、女のたゞひとり侍をなん、かうかうの生贄にさしあてられ侍けり。さきの世にいかなる罪をつくりて、この國に生まれてかゝる目をみ侍るらん。かの女子も、「心にもあらず、あさましき死をし侍りなんずるかな」と申。いとあはれにかなしう侍る也。さるは、おのれが女とも申さじ、いみじううつくしげに侍なり」といへば、あづまの人「さてその人は、今は死たまひなんずる人にこそはおはすれ。人は命にまさることなし。身のためにこそ、神もおそろしけれ。この度の生贄を出さずして、その女君を、みづからにあづけ給ふべし。死給はんことにこそおはすれ。いかでか、たゞひとりもち奉り給へらん御女を、目の前に、いきながらなますにつくり、きりひろげさせては見給はん。ゆゝしかるべき事也。さるめ見給はんもおなじ事なり。たゞその君を我にあづけ給へ」とて、とらせつ。かくて、あづま人、この女のもとに行てみれば、かたち、すがた、をかしげなり。愛敬めでたし。物思たるすがたにて、よりふして、手習をするに、なみだの、袖のうへにかゝりてぬれたり。かゝる程に、人のけはひのすれば、髪を顏にふりかくるを見れば、髪もぬれ、顏もなみだにあらはれて、思いりたるさまなるに、人の來たれば、いとゞつゝましげに思たるけはひして、すこしそばむきたるすがた、まことにらうたげなり。およそ、けだかく、しなじなしう、をかしげなること、田舎人の子といふべからず。あづま人、これをみるに、かなしきこと、いはんかたなし。されば、いかにもいかにも我身なくならばなれ。たゞこれにかはりなんと思て、此女の父母にいふやう、「思かまふ事こそ侍れ。もしこの君の御事によりてほろびなどし給はば、苦しとやおぼさるべき」と問へば、このために、みづ
からは、いたづらにもならばなれ。更に苦しからず。生きても、なににかはし侍らんずる。この御祭の御きよめするなりとて、四目引めぐらして、いかにもいかにも、人なよせ給そ。また、これにみづから侍と、な人にゆめゆめしらせ給そといふ。さて日比こもりゐて、此女房と思ひすむこといみじ。かゝる程に、年比山につかひならはしたる犬の、いみじき中にかしこきを、ふたつえりて、それに、いきたる猿丸をとらへて、明暮は、やくやくと食ころさせてならはす。さらぬだに、猿丸と犬とはかたきなるに、いとかうのみならはせば、猿をみては躍りかゝりて、くひ殺す事限なし。さて明暮は、いらなき太刀えおみがき、刀をとぎ、つるぎをまうけつゝ、たゞこの女の君とことぐさにするやう、「あはれ、先の世にいかなる契をして、御命にかはりて、いたづらになり侍なんとすらん。されど、御かはりと思へば、命は更に惜しからず。
たゞ別きこえなんずと思ひ給ふるが、いと心ぼそく、あはれなる」などいへば、女も「まことに、いかなる人のかくおはして、思ものし給にか」と、いひつゞけそのしゝむらを食などする物は、かくぞある。おのづから、うけたまはれ。たしかにしやくび切りて、犬にかひてん」といへば、顏を赤くなして、目をしばたゝきて、歯をま白にくひ出して、目より血の涙をながして、まことにあさましき顏つきして、手をすりかなしめども、さらにゆるさずして、「おのれが、そこばくのおほくの年比(としごろ)、人の子どもをくひ、人の種を絶つかはりに、しや頭きりて捨てん事、唯今にこそあれ。おのれが身、さらば、我をころせ。更に苦しからず」といひながら、さすがに、首をばとみに切りやらず。さるほどに、この二の犬どもに追はれて、おほくの猿ども、みな木のうへに逃のぼり、まどひだわぎ、さけびのゝしるに、山もひゞきて、地もかへりぬべし。かゝるほどに、一人の神主の神つきて、いふやう、「けふより後、更にさらにこの
生贄をせじ。長くとゞめてん。人をころすこと、こりともこりぬ。命を絶つ事、今よりながくし侍らじ。又
我をかくしつとて、此男とかくし、又けふの生贄にあたりつるの人ゆかりを、れうじはづらはすべからず。あやまりて、その人の子孫のすゑずゑにいたるまで、我、まもりとならん。たゞとくとく、こ
のたびの我命を乞ひうけよ。いとかなし。われをたすけよ」とのたまへば、宮司、神主よりはじめて、おほくの人ども、おどろくをなして、みな社のうちに入たちて、さわぐあわてて、手をすりて、「ことわりおのづからさぞ侍る。たゞ御神にゆるし給へ。御神もよくぞ仰らるゝ」といへども、このあづま人、「さな
ゆるされそ。人のいのちをたちころす物なれば、きやつに、もののわびしさ知らさんと思ふ也。わが身こそあなれ。たゞ殺されん、くるしからず」といひて、更にゆるさず。かゝるほどに、この猿の首は、きりはなたれぬと見ゆれば、宮司も手もどひして、まことにすべき
方なければ、いみじき誓言どもをたてて、祈申て、「今よりのちは、かゝること、更に更にすべからず」など、神もいへば、「さらばよしよし。いまより後は、かゝることなせそ」と、いひふくめて
ゆるしつ。さてそれより後は、すべて、人を
生贄にせずなりにけり。さてその男、家にかへりて、いみじう男女あひ思ひて、年ごろの
妻夫になりて、すぐしけり。男はもとより故ありける人の末んありければ、口惜しからぬ
さまにて侍りけり。其後は、その國に、猪、鹿をなん生贄にし
侍けるとぞ。


【副詞的な「あやまりて」についての補足】
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstr …
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この回答へのお礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 むつかしかったです。
 ★ 【副詞的な「あやまりて」についての補足】
 ☆ これは辞書にも載っていないですね。なんとなくそういう意味に この語は採れましたけれど。原義からどういうふうに派生したのかとなるとわかりづらいようですが どうでしょう。

 本文について 全部は理解が行き届きませんでした。あなたは 読み慣れていらっしゃるのですか? 
 めでたし めでたしで良かったですね。

 あれでしょ? つまり そのさらに昔のこと 弥生時代を終えて古墳時代に入ったころ とうとき人の死に際しては 仕える人びとの多くが殉死したと言います。それで このお話のように生け贄を嫌って その後 墳墓に例の埴輪をつくりこれを飾って 殉死に代えたと聞きます。

 この美作の生け贄を捧げさせる神々とは その正体は何だったのでしょう? おそらく人間でしょうね。ではなんでそれだけの力を持って人びとに言うことを聞かせていたのでしょう?
 何なんですかねぇ。たとえば天狗といった異者の崇拝が 慣習となっていたのでしょうか? 異者は 神としてあがめたてまつられたでしょうか? わざわいを免れるための御まじないのような習慣でしょうか。
 犠牲がひとりだけ出れば あとは息災であるといった思い込みなのか。犠牲を一人だけでいいから出しておけば あとの人びとは気が休まるとでも思いこんだのでしょうか。

 そう言えば ブッダは いいこともしていますね。失敗に終わったけれど インドは階級社会だったから このカーストを失くそうとしたのではなかったでしょうか。
 犠牲と言えば このような階級の問題ともからむように思われたので。
 ▲ 人のむすめのかたちよく、髪がながく、色しろく、身なりをかしげに、姿らうたげなるをぞ、えらびもとめて、奉りける。昔より今にいたるまで、その祭おこたり侍らず。
 ☆ 西松建設の献金問題の解決で このような生け贄の祭りもおしまいになるでしょうか。でも国道建設をめぐって どうも裏があるように におうのではないでしょうか。

 * 長野県に川上村があるそうです。元気なムラとして。レタス村だとか。

お礼日時:2009/08/02 22:56
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