

No.5ベストアンサー
- 回答日時:
確かに乱暴ですね(^_^;)
私も禅門の人間じゃありませんから、この世界にはついていけないというのが、正直な感想ですけどね^^
憶測で良ければ、こんな感じのことではないでしょうかね。
>修行中の身で、師に対して「一喝した」り、「棒で打った」り、「平手打ち」したり、今では考えられないような場面ですよね。
その今では「考えられない」部分を飛び越えた瞬間なのでしょうかね。こういう制約や道徳は、社会では大切なものでしょうが、どこかで越えられない制約を感じませんか? そういうものをふっと越え出た瞬間に、上下も礼儀もぱーんと突き抜けて、人と人とが、真理の体得という平等な場面で、全身全霊でぶつかり合うときに、その「乱暴な」行為になるのではないでしょうか。
だから、ただ殴ってもダメだろうし、まねして殴るのは倍返しにぶっ飛ばされると思いますよ^^。まねということには、ことさら厳しいですね。
師弟の信用や、通りすがりでも、真理の局面では丁々発止の互いの信用があるということでしょうか。
いずれにしても、軟弱者には大変なことでございます^^
道場によっても違うでしょうから、昔ながらのところもあるかもしれませんが、私が聞いたところでは、そのまま殴っているということではないようでしたね。
回答ありがとうございました。
>上下も礼儀もぱーんと突き抜けて・・・
>真理の局面では丁々発止の互いの信用・・・
なるほど、何か本質に近づいてきた感じです。
いわゆる真剣勝負という感覚ですね。
虚実が問題ではない、ということもうっすら感じられてきました。
深いですね。
感謝です。
No.6
- 回答日時:
文字通りぶん殴ったり、平手打ちしたりしてます。
イメージとしては体育会系の部活とか旧日本軍ですね。「貴様それでも軍人か!気合いを入れろ!」とか言って殴るアレです。
そもそも旧日本軍は明治になって軍を作るときに集団生活のノウハウを禅寺から取り入れてます。んで、体育会系は旧日本軍のメンタリティが色濃く流れてます(精神主義・非合理主義など)
なお、現在の禅寺では暴力行為は禁止されてるそうです。
回答ありがとうございました。
確かに体育会や旧日本軍という感じ納得ですね。
ただ、どちらも先輩や上官をいきなり棒で打ったり、
平手打ちを食らわしたりはしませんよね。
臨済録の驚きは、目下の人が目上の人に
突然暴力行為をする点なのです。
その点、体育会や軍隊はまだ秩序?があるように
感じます。
No.4
- 回答日時:
行がダブっているので、コピーしてみました。
【1554年、スペインのテレサはアヴィラのご託身修道院で、「一致の念祷」に到達してよろこんだ。喜んだのだが、この体験がはたして宗教者の求める「聖霊」であるかどうか、自信がもてなかった。誰かに裏書をしてほしかったのである。
同じように、白隠も西暦1708年の春、高田の英巌寺で「氷盤擲砕」に到達した。そして彼もまた、自分の体験を誰かに裏書してほしいと考えた。そこで白隠は行動にでる。
白 隠 の 慢 心 と 宗 覚 の 出 現 この部分が『白隠年譜』では次のようになっている。独悟の後、直に走って性徹の処へ行き所見を呈したが、性徹の対応が俊敏でないので一掌(平手打ち一つ)をくらわせて出て来た。さらに仏燈及び長首座の処へ行き、所見を呈したところ、いずれの対応にも白隠は納得せず、袖を払って出て来た。そしてこれから、自分の所見は最高であると自任して、まわりの人々をばかにしてしまった。「三百年来自分のように痛快に悟ったものはない。世界中に自分のするどいはたらきに応対できるものはない」と思うようになった。
(中村博二『正受老人とその周辺』信濃教育会)】
【『白隠年譜』というのは、白隠の弟子であった東嶺が著した白隠の伝記であり、正式には『白隠禅師年譜』という。平手打ちを一つくらわせる、などと表現が穏当ではないが、これは禅の世界で使われる誇張表現であり、実際に白隠が性徹和尚を平手打ちしたことを意味しない。性徹和尚を軽蔑して出てきた、くらいの意味である。】
慢心し驕り高ぶってしまった師匠を軽蔑し離れ学ぶものは無いとして去ったという意味じゃないでしょうか。
ということは・・・
平手打ちや棒で殴るという表現は
実行したというより、そのくらいの気持ちになった、
という程度のことと解釈するのでしょうか?
これまでの回答とどちらが・・・
悩み深くなりました。
No.2
- 回答日時:
面白いですよね、臨在録。
昔の修行僧は、それこそ命がけで「悟り」に向かっていたのですね。仏典の世界では、例え年少のものであっても、目下のものであっても悟りを得たものに対しては即時立場が逆転します。今よりも上下関係が厳しいけれど、ある意味、上下関係は曖昧なものであると思います。
そもそも禅では、日常生活を大切にしつつも、固定した概念を破壊することにその醍醐味があります。言葉で説明できない時はぶん殴るしかないのでしょうね。
まあ、現代社会なら、社会から永久追放されますけどね。
回答ありがとうございました。
やはり・・・師でもぶん殴っていたのでしょうね。
今では考えられない破壊的世界が展開されていたのですね。
驚きでした。
No.1
- 回答日時:
禅のことはさっぱり分かりませんので真正面からお答えできませんが、
最近読んだエッセイで禅問答にちょっと関係ありそうな話なのでご紹介します。
文芸春秋社発行『05年度版ベストエッセイ・片手の音』です。
片手の音とは、有名な禅宗の公案「隻手の音声」のことで、僧侶である作者・玄侑宗久氏が読者に分かりやすくするために易しい表現にされたと思います。
うろ覚えの話をここに書くわけにはいきませんので、Webをさがしてみると作者の公式サイトにそっくり載っていました。
http://genyu-sokyu.com/ichiran/ichiran_sairoku/i …
エッセイ2004年1月にあります。
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