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付け焼き刃と余裕の違いはどこに見て取れる?

A 回答 (27件中1~10件)

理を見る眼を備えた人は、感動とか感心とか言った情動に基づく心的挙動によって、言動や物事を判断しない。

その判断は静かな、理を見る眼差しによって行われる。
こいつはハッタリだとか、まやかしだとか、そのようなものを見抜くことに腐心するのではなく、本質を見据えている事によって、それらに左右されない。
その言葉が本物か偽物かを見分けようとするのではなく、ただ、本物を求めていて、本物がある時にだけそれを取る。このようにして、本物を知る人は騙されない。造花からは香らないようなものである。
歴史があっても本物ではないこともある。限りなく本物のようでいて、それでもやはり決定的に違うものもある。まるで目立たないのに本物の場合もある。
そらを見いだせるかどうかのすべては、その人が本物の本物を求めているかどうかにかかっている。
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この回答へのお礼

心的挙動によって、てはなく、理を見る眼差し、
この部分に惹きつけられました。

見る側の本質を見抜く目が非常に重要ということでしょうか。

どうもありがとうございました!

お礼日時:2018/11/13 14:04

ブラジュロンヌさん、これでおしまいにしましょう。


お付き合い有り難うございました。

それからd-y-nさん、好き勝手に使わせてくれて有り難うございました。
いつも質問を楽しんでいます。
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この回答へのお礼

こちらこそありがとうございました

お礼日時:2018/11/13 17:15

◆ ☆ 月の様(さま)を付け焼き刃とするのは頂けません。


☆ でも ウソの光ですよ。パチもんです。


◆ また、アン-アートマン(無我)は霊我を覆う自我の事でしょう。
☆ この無我(つまり梵我一如ではなく 無梵無我一如としての《無
い神》)を 文字通り《神は無い》というふうに解釈して そこに文
字通り《おのれの我執――その意味での自我――》を置き換えるなら 
おっしゃるとおりの意味になります。

ただし 《無い神》を普遍神のひとつの呼び名として捉えるぶんには
れっきとした信仰です。つまり 咎められる筋合いではないと言うで
しょう。

月は いかに付け焼き刃であるからと言って ことさら自己を誇った
り何かをひけらかすこともありません。


◆ 自我をなくす事で真の我、霊的な我、いわゆる仏性(霊性)が現
れてくる、との事だと思います。
☆ 我執という意味での自我などというのは もともと無いのです。
自性清浄心。

無いところにおのれの自己をほこるかのようにそのシルシを据え 目
立たせる。

だから 神は無いが それでも《何かはある》と言い張って そこに
考えられるかぎりの《かざり》をつけ添えます。(はやく言えば 自
己の神格化です。アマアガリ・シンドロームと言います)。

これが 《修行を積んだ品行方正なる秀才》の像です。《洗練され優
雅さをただよわせ余裕に満ちた〈クリスマスツリー人間〉》です。

良し悪しです。でも 原石ではあるはずです。
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この回答へのお礼

うーん、だんだん私の理解の範疇を超えてきました。
私にもっと教養があれば読み解けたのでしょうけど

お礼日時:2018/11/13 17:15

洗練や優雅に呼応する付け焼き刃と余裕に付いて。



付け焼き刃とは、辞書にあるような意味で良いと思います。
良い意味ではないですね。

余裕と云う言葉には、解釈に幅があるように思います。
ここでは洗練や優雅に含まれる《余裕》の事のはずで、付け焼き刃的な余裕とは違うわけですから、混同する使い方は、議論の内容が定まらなくなるのではないでしょうか。

☆ 月の様(さま)を付け焼き刃とするのは頂けません。

また、アン-アートマン(無我)は霊我を覆う自我の事でしょう。自我をなくす事で真の我、霊的な我、いわゆる仏性(霊性)が現れてくる、との事だと思います。
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この回答へのお礼

そうですね、やはり質問の題意に合っているのは汽笛さんのようです。
ほんと私の思考力もどうなってるのやら。
ありがとうございました。

アン-アートマン(無我)
仏性(霊性)、霊我
このような言葉は初めて知りました

お礼日時:2018/11/13 17:13

◆ 月の優雅さ


☆ って言うよりは 月夜の雰囲気でしょう。

ほかに他人(ひと)がいてもよいし いなくてもよい。

なにしろ月は 光としては 太陽の付け焼き刃なのに
それでも じゅうぶんその独自の世界を奏でています。


或る意味 荒涼とした世界でもあるんですが それも
侘び寂びとして愛(め)でるところがあります。



△ こころなき身にも
あはれは 知られけり
鴫立つ沢の 
秋の ゆふぐれ

☆ さびしさに浸ろうにもそこから逃れようにも も
うどうすることも出来ないところに来てしまった。

誰かに詫びようにも相手もいなければ 詫びるわけも
じつは 見出せない。

ただただ わが思いは侘びしく わが心は あたかも
錆びついてしまったかのようだ。

――という地点から こころにちからが湧きおこって
来た。・・・

これが ほんとうのゆとりでは?
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この回答へのお礼

教養がないと読み取りにくいですねブラジェさんの回答は。
私にはムズカシー

お礼日時:2018/11/13 17:04

皓々として夜空に輝く月はいいですね。

心がシャキッとします。
月の光をこのように感じられるのは、人としての心が成長したからです。

自然は美を作り出しましたが、それを感じるのは人の心です。

ただ、月を綺麗だ、心が洗われるようだとしか感じない私は、月の優雅さが分からず残念です。感性の能力が足りないからでしょう。

だから、日本人の情的感性の働きに依って観る侘び寂びは、優雅と云う感覚以上に分からなく、それ故に優れた感性の持ち主がとても羨ましいです。
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この回答へのお礼

楽しそうに回答しているようで何よりです

お礼日時:2018/11/13 17:03

月も きれいですよ。

優雅ですよ。
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この回答へのお礼

なるほど

お礼日時:2018/11/13 17:02

使い倒して欠けたお椀がピカピカなのは、努力(精進)の賜物です。



その、痩せてくすんだ裸体の根隗?にある光が輝くのは、生を全うしようという努力に依るのです。

“その平面上の立ち位置”のままでは進歩はありません。
でも、多くの人は無意識のうちにも、その立ち位置の上を目指していて、それが生きると云う事になっていると云えるのです。

そのままでいいのは人間以外の動物です。
その動物は、人間を作り出す為の過程の存在なのです。
進化という必須の存在なのです。

地球に現れた生命、微生物から続いてきた命の進化の結果が現在の人間です。
未来の事は分かりません。
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この回答へのお礼

私の質問に関連して何か発見があったのなら光栄です

お礼日時:2018/11/13 17:02

質問文の「余裕」というのが、「余裕」のない私も引っかかったのだけど、


「付け焼き刃」に対してるんだから、
昨日今日さらったうわべの浅い知識ではなくて、
長年よく究めて精通した知識ぐらいの意味なんでしょう。

しかしそのどちらにしろ知識は知識で、かりそめの装いにすぎない。
オートクチュールもパチもんも衣装は衣装。
その下の痩せてくすんだ裸体こそが人間の正体なのだから、
その平面上に立ち位置を占めなきゃ。
ーーということを、ブラ御仁はのたまうのではないかしら。
(全然違ってたら突っ込まずにスルーでw)
ただ、付け焼き刃の人間からすれば、
博学な人の余裕しゃくしゃくぶりは、思わず見上げちゃいますよね(汗)

汽笛さんが用いた「光」や「輝き」や「垢」といった言い回しは、
面白い議論を生んだ鍵語かもしれないですね。
私の使い倒して欠けたお椀もなぜかピカピカなんだけどね。

汽笛さんから引き合いに出されたので、お邪魔しました。
今、ホテルなんですよ(*^_^*)
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この回答へのお礼

もともと具体的に答えるのが難しい質問だったかもしれません
ありがとうございました

お礼日時:2018/11/13 17:00

もし《原石》が ブッダター(仏性)のことを言っているとしたら?




つまり 微妙なお話になるのだと思いますが 仏性として原石は
自分が(つまり 人間が)――もちろん思考し日常の生活をよくし
ようと努力はするのですが―― 磨いてどうなるというものでもな
い。・・・という見方もあるのです。


その意味は むしろ――神が或る人をえらびほかの或る人をえらば
ないといったように えこひいきがあってのごとく―― 或る日或
る時 われのむしろ知らないところで何かのチカラがはたらく・・
・というものだという見方です。


その瞬間〔のみ〕原石が突然みごとな宝石となってかがやきわたる
・・・というような事態です。

ふだんは なまくらなままでもある。





言いかえると ブッダターなるハタラキは 必要な時に必要なだけ
発揮されるようになる・・・かも知れないのです。




▲ 念仏は 非行非善なり。
☆ つまり 修行ではなく善行につとめるといったことでもない。
――修行や善行がわるいことだという意味ではありませんが その
ような人間の努力や知性をも超えて 必要なときに・知らないとこ
ろから ハタラキが(むろんその人の内からですが)現われる。

・・・といったおとぎ話のほうが 原石の話としては 妥当である
と考えられます。



ゴータマ・ブッダは ブッダターを知らなかったのです。

なにしろ 仏性にあたるアートマン(霊我)を完全に否定したので
すから。=アン-アートマン(無我)の説。
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この回答へのお礼

ほんとみなさん深く考えてらっしゃいますね
私は十分に読み取れていなくて申し訳ない感じです

お礼日時:2018/11/13 16:37

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