牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

原罪や無明は本当に存在するのでしょうか

原罪や無明の存在を規程し 人間一般を聖人よりも低い位置に置き ダメな存在であるとする構図がこれらの宗教にはありますが その構図は現実の観察に基づいた妥当なものでしょうか?

A 回答 (4件)

キランダーバーさんおはようございます。


 杉浦銀策『J.D.サリンジャーと東洋思想の諸相 - 短篇「テディ」をめぐって』https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564288184238208のp.16に「
その講演会で次のように語ったと紹介されている。

 米国の大学で、(鈴木大拙)先生が「人間はエデンの園で知恵の
 リンゴを食べたため、分別という二元論の世界に生きることに
 なった」と話したことがある。聞いていた学生がすかさず「で
 は、どうすればいいのか」と尋ねると、先生もすかさず 「もう
 一度、リンゴを食べることだ」と答えました。
」とありました。原罪と無明の順番があります。原罪がなくて無明がありました。知恵の実を食べました。原罪があって無明がなくなりました。人類の性質として原罪も無明もある状態をどのように整合させるのかが面白いです。原罪を負った理由があります。無明であることに理由がありません。
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この回答へのお礼

おもしろいご回答でした
最後はなるほどと思いましたね
ありがとうございます

お礼日時:2024/05/19 00:19

> 原罪や無明の存在を規程し



熟語の使用法がちょっと不適切に感じます。
「規程」と「規定」は類似語であり、混同して使用されている事例も存在しますが、両者は、本来別の概念です。
1)「規程」とは、一定の目的(例えば、事務の内容、その手続など)のために設けられた複数の規定を体系的にまとめた総体を意味します。
2)「規定」とは、事務処理の内容や手順などを定めた「規程」や「規則」などの中の個々の条項(条文)のことです。 手順や処理方法について定めたものを「規定」ということもあります。 『存在を規定する』という表現は「存在が意識を規定する」「理性が意志を不可避的に規定する」「富は人々の行動を根本から規定する」のようにも使用しますが、『経典・教則が、原罪や無明の存在を規定する』などは見かけたこともないです。

> 人間一般を聖人よりも低い位置に置き ダメな存在であるとする構図がこれらの宗教にはあります

熟語として「宗教:宗の教え」のように考え、信仰の体系を共有する集団構成員が「教え・教理」を重視している場合、A「教え・教理」を説いた人々と B「教え・教理」を受け入れ従った人々 がいるのが普通です。 この場合、Bの人々は受け入れ側・被指導・従う側です。 Aの人々が尊大あるいは傲慢でもなく優しい人であったとしても、Bの人々はAの人々を指導者・教える者・リーダと扱い、BよりAを高い位置にあるものと認知します。 そのように認知しなければ認知が不安定になって、宗教行為を行えない状態になって、その宗教集団から抜けるか、宗教集団を崩壊に導くかになってしまいます。
宗教集団として継続している集団の内部では、Aの人々を指導者・教える者・リーダと扱い、BよりAを高い位置にあるものと認知します。 Bを《聖人》の扱いをするとは限らないです。 
Bに属する者が自らをダメな存在と認識するような例もあるのでしょうが、多くの場合、Bはそのような自己認識はしないし、AもBをダメな存在とするよりは、可能性を持つ存在として扱っているケースが多いでしょう。 (ダメ駄目)は、(見込みがない、絶望的、諦めろ)のような意味合いをもっていますが、信仰上で(ダメ駄目)(見込みなし、絶望的、諦めろ)と、AがBに接することもないし、Bが一時的に自らを(ダメ駄目、絶望的)と思ったとしても、信仰を強くすること、行いを正すことで救われると自らを啓発するので、宗教集団は連綿と存続し続けているのです。

> 原罪や無明の存在を規程し 人間一般を聖人よりも低い位置に置き ダメな存在であるとする構図がこれらの宗教にはあります

そんな構図はありません。

> 現実の観察に基づいた妥当なものでしょうか?

現実を調べるなり、現実が不明であっても、そこらにある図書や文献、ネット情報でも調べて、考察してください。
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この回答へのお礼

規程については変換ミスの誤字でした

宗教では高い人と低い人が生まれるのが必定というご意見ですね

お礼日時:2024/05/14 01:21

存在しますよ、しかし、


「原罪」と「救済」の原理について理解しなければ、語れませんね
悪の根源である「無明」がどこから来るのか、「貪・瞋・癡・慢・疑」などの、生命哲学の探求なしには語れません

妥当かどうかなど、私のようなドン素人が決めるのは
図々しいと思いますが、そんな構図にはなっていません。
質問者さんのように、神以外、仏以外、皆ダメと言う発想はありません。

東方正教会は、同じキリスト教であっても、「原罪」や堕落をそれほど強調していません。人間は、その本来の姿である神の似姿へとよみがえり得ることの方を強調しています

優れる宗教に
低い位置にある者をダメと一言でいう構図などありません、
皆、珠玉の宝石を抱く、尊い存在であることを説いていています
聖書にも、仏典にも、比喩としてあります。

私は、存在の根底にある根本的な「無知」とは
「責任転嫁」であり「傍観」である、と思いますが
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この回答へのお礼

これはなかなか救いのあるご回答ですね ありがとうございます

お礼日時:2024/05/13 13:24

○原罪



キリスト教では、全知全能の神がいる
ことになっています。

しかし、それだと、この世の矛盾が
説明出来ません。
全知全能なのに、どうして矛盾に満ちて
いるんだよ。

それを説明するために、原罪という概念を
持ってきたのです。

矛盾に満ちているのは、人間には
原罪があるからだ。

こういうように、つじつまを合わせる
ための概念を「道具概念」といいます。



○無明

物事の正しい道理を知らないこと。

正しい道理てのは何か、といえば
お釈迦様が説いた道のことです。

どうして、これが正しいのか、
その根拠については説明がありません。

お釈迦様は絶対ですから、問答無用で
何しろ正しいのです。
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この回答へのお礼

説得力がありますね 強い自分をお持ちのようです

お礼日時:2024/05/13 13:24

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