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生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき

至道無難禅師の言葉とのことですが、今朝NHK教育テレビで鈴木大拙を紹介する中で出て来ました。

私は昨年末に妻を亡くし、この世の無常を感じ、"後追い願望"に支配される毎日です。
そして、伊丹十三さんの「楽しいうちに死にたい」とか、「自死という生き方」を著して自死を決行された哲学者、須原一秀氏の主張に気持ちがぴったり合い、彼らに従いたいという気持ちで生きていますが、

この至道無難禅師の言葉は、死の捉え方がちょっと違うように思えました。

生きながら死人となりてなりはてているのに、思いのままにするわざにするワザなんて有り得るのだろうか? しかも、それが「良い」と言ってる。

私は俗人の一般人ですので、成るだけ平易に抽象的な言葉を使わないで、前述の禅師の言葉をもう少し詳しく説明していただけないでしょうか? もう少し考えるきっかけにしたいと思います。

宜しくお願い致します。

A 回答 (8件)

鈴木大拙博士は25歳で見性した経験があります。

見性するための条件は『苦』或いは深刻な悩みを心のどこかで持ち続けている事が上げられます。『一切皆苦』という心の状態です。一種のノイローゼの状態と思われます。

そうして自分自身の『内部に於いての変化によって』その苦しみの元は自分自身の世の中の見方、或いは自我という心の偏った思考方法に原因がある事に気が付く事をお、釈迦は『発見したものと思われます。』それが『悟り』と云われている『自分自身を知る=見性』の効果ですが、言葉で表現する事が難しいものと思われます。

その難しいために仏典が沢山あって、聖書も長ったらしくなっていると思われますが、自分自身が救われる体験を、自分自身が脳卒中という体験を通して、更に運良く生還出来た事によって語っている動画を紹介します。

キーワードは『自分を棄てる』或いは、一回自我が死ぬ『大死一番』です。こう言った『我を去れ』という事が釈迦の言う『魂の救い』ですが、体験の世界ですので、
言葉での説明では分り難いようです。

URL:

もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

死に望まない場合でも、一回自分の自我が『全てを諦める時』成就される体験です。必ずしも死に臨まなくとも、体験出来る事を『禅』は教えています、が『禅は何も教える教えなどを持っていない、只内面の自己に気が付くだけという事を教えています。』、
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ご紹介の動画、興味深く見させて戴きました。

右脳が幸福を与え、左脳が苦を与えるということになるようですね。

私が幸福を感じないのは、諦めていない、からなんでしょうかね?

お礼日時:2013/12/02 12:11

>生きながら死人となりてなりはてているのに、思いのままにするわざにするワザなんて有り得るのだろうか? 


○これ言葉通りの意味ですね。死人というのは人間的肉体が死んでいるのですから、戸籍もありませんし、法律も適用されませんね。当然生きるためにあくせくする必要もないし、家族もないし、地位や名誉やお金を気にすることもない、いわんや隣人にあいさつする必要もないですね。でも自分という心は存在しますから、死んだとしてこの世を心のままに生きてみようという心境ですね。こういう人いますね。山の中で一人で自給自足生活してみたり、浮浪者として生きてみたり、要は世俗のくびきから離れて生きることですね。禅宗のお坊さんは世間を離れた生き方の方がおおいですね。
でも、社会生活の中で普通に暮らしているように見えて肉体や世俗のくびきから離れて生きることは難しいのですね。難しいんですが、肉体の自分は死んだと思って心のままに生きることができれば楽しいですね。ただね、勘違いして、世間に害を及ぼだけの人になってはいけないんですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は、俗世間の執着(名誉・権力・お金)は離れている人間だと思っているのですが、精神的な執着からはなかなか離れられないですね。

例えば、愛する人とは永久に別れたくないとずっと苦しんで来ましたし、愛する人と別れた後は今度は生への執着がなくなり、反対に死にたいという死への執着に苦しむことになりました。

精神的な執着に関しては、禅の坊さんは指針を示してくれているのでしょうか?

お礼日時:2013/12/02 12:05

 縄跳びにあとから入る者です。



 ◆ 生きながら仏となりて、なり尽くして
 ☆ というのは
 ◆ 我欲
 ☆ ですよ。正真正銘の人間の欲望です。

 
 人間の現実をきちんと見つめるのでなければ。見つめ続けるところから得られる答えでなければ。・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考にさせて戴きます。

お礼日時:2013/12/02 12:06

こんばんは



>生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき
私には到底辿りつけなさそうな境地ですね(^^)

人は 子供の時 無心に遊び 何でも楽しくてしょうがなくて 大人になったら何でもできると思っている

ある時 もしかしたら 将来 ふと何時かは 一人になるんじゃないかという不安に囚われる

将来の不安を打ち消すために 自分の好きな事を無我夢中で始める

すると 自分が考えた事は出来ているんだ 何でも手に入れたと安心する

でも やがてそれが全て幻であったことに気がつき 絶望感に囚われる

人間は誰もが一生懸命生きていることに気がつく

人間は生まれる時と死ぬ時が一人であるように 一人で自らの人生を歩いていることに気がつく

人間はこの世界を 僅かな認識で生きていることが分かる まるで 暗闇を行燈の明かりで歩いているようなもの

そして 自分にあるのは過去の記憶と未来の想像を信じているんだと思える

ソクラテス「無知の知」風に云えば 
自分だけが 何時かは全てが無くなることを知ってしまった 恵まれた者は気づくことが無いのかもしれない
諸行無常なこの世界を(真善美)の心で観れば 何と美しいことか

それならば 子供の時のように 世界をあるがままに観て思いのままに生きていくのもよいだろう
お釈迦様がおっしゃったように「犀の角のように独り歩め」なのかも知れない
また みんなと仲良く過ごしましょうなのかも知れない

たぶん 自由であるということでしょう(子供の時のように無我夢中になって好きな事をしている気持ち)
世間のしがらみに囚われない(世間的には一度は死んでいる) 一人だからです(心の中は)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき
私には到底辿りつけなさそうな境地ですね(^^)

インドの哲人ラマ・クリシュナも鈴木大拙も偉大な宗教家は辿り着いたと言ってますが、本当にそういう世界があるのでしょうか?一抹の疑問があります。

お礼日時:2013/12/02 12:14

>生きながら死人となりてなりはてて



とは

生きながら仏となりて、なり尽くして

と読めるかもしれません。

我欲を捨てたところに道がある・・

と言いたかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

死ぬと喜びも悲しみもない世界に入りますから、我欲もない世界ですね。

しかし、「わざぞよき」ということは、良い悪いの判断が出来るということは、まだ、完全に死人にはなっていないということですね。

だとすると「死人となりてなりはてて」というのとは、矛盾しますね。

死人と成り果てた自分を、生きている自分が「良き」と判断するのでしょうか?
どうも分かりにくいです。

お礼日時:2013/12/02 12:22

私も俗人で、禅もよく判らないけど、感じた事を。



この死って自分の殻を剥いでいったって事かなぁ?と。
もろもろの自分の囚われているものを一つずつ無くし、その度に自分というものはその過去において死んでいく。過去のかかわっていた世界に置いて死んでいく。その部分では自分はすでに死人になっている。

なりはてるのは、もっとも純粋な自分自身なのか、神仏とも融合した境地の自分なのかは判りませんが・・・すでに俗世のすべての係り、欲が無くなったという状態なのかなぁ?

その後がよくわかんないです。

自由になったよ。なのか いつでもそういう心境になれるワザを得られるのが良い。なのか、そこまで行けば、自然のままにあるままにあるので心の揺れ動くままに、世界が揺れ動くままに生きる事が出来るなのか、もう何も悩まない、恐れないって境地なのか・・・・もっともっといろいろ考えられそう・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

何となく解りました。

そういう境地になれば、「死にたい」という「死への執着」からもきっと解放されるんでしょうね。

お礼日時:2013/12/01 18:15

死んだつもり、または死人同様のような価値観で物事を捉えると、そこには今までと違ったものの見方や思考が生まれて面白い、というような意味かも知れませんね。



活き活きと生きようとしてきた、従来の固定観念からは考えも及ばないような。

全ての価値観を失ってこそ見えてくる、失うものはもう何も無いという心境でこそ見えてくる何か。

何も無いから何も感じず何も考えないところにある穏やかさのようなもの。

その境地を知ることが「わざ」で、それを楽しんでいるのでしょうか?

生きながら死にんとなりはてた者にしか、到達できない世界観なのかもですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

解釈自体は何となく解ったような気がしますが、その境地がどんなものかは、さっぱり感じることが出来ません。

数十年の座禅が必要なんでしょうかね?

お礼日時:2013/12/01 18:12

 こんにちは。



 他人を抹殺することはむろんのこと おのれを自死にみちびくことも ひとごろしです。

 ひとごろし・あるいは一般に無効の意志行為となる暴力行為は 社会にともに生きるほかの人のことをないがしろにするという意味で アホとバカとから成る思想です。

 身近な人たちに限っても その人たちとの関係性をころすわけです。平気でそれが出来るというのは 狂気の沙汰です。

 何の顧慮をも払う必要のない問題です。


 その余は 文学のあやの問題です。

この回答への補足

須原一秀氏の「自死という生き方」をどのように批判出来ますか?かなりの思想がないと非難は出来ても、批判論破は難しいと思いますが。

少なくとも貴方の主張では、私には露ほどの救いももたらしません。

補足日時:2013/12/01 11:56
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