痔になりやすい生活習慣とは?

デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。

何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれないけど、どれだけ疑ったとしても疑っていると思っている事実は動かない・・・ということだと思うのですが、だから何が言えるのか良く分からないです。

また、疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが、どうなんでしょうか?

どなたか分かりやすく説明をお願いします。

A 回答 (8件)

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。



私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読まないといけない、とされてます)。

そこで、そこから出発したら、絶対まちがわん、という一点を必死に探した。あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。

で、感覚的世界も全部私を間違わせるから、全部無視して、自分がどこにいるのかも分からなくなりながら、必死に疑いえない一点を探した。

あらゆる命題を疑い、論破し、苦しんだあげく、最後に「われ思うゆえにわれあり」を見つけた。
これはどんなに疑いの目を向けても、真実だ、とデカルトには思えた。

というわけでここから出発して真理を探究することにした。全ての学問の出発点はここ以外にありえない、と。

そこから哲学について、感情について、いろいろ探求したけれど、一番凄いのは神様の存在証明まで考えたことだと思います。
われ思う、から出発して、神様まで証明しちゃう。
『省察』のその戦いっぷりは偉大です。
全然デカルト主義者じゃないですが、泣けます。

話がそれましたが、「われ思うゆえにわれあり」は、全ての哲学が、全ての学問がそこから出発すべき一点だ、とデカルトは主張します。

感覚的なものは私を間違わすことがあるので、切り捨てます。だからこの「われ」は肉体ではなく精神です。(デカルトは肉体と精神を思いっきり分けて考えます)

夢の中で思っていても精神としての私はある。
ホントは体を全て失っていて、実験室で脳に電極さされて、本当は肉体なんてないのに、あるように思わされていたとしてもかまわない。
究極的には脳なんて物質があろうがなかろうが、どうでもよい。
それでも、もし私が考えてるなら私の精神は存在する。

そんな感じだと思います。
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この回答へのお礼

分かりやすい文章、ありがとうございます。

肉体と精神を思いっきり分けて考える・・・心身二元論ってやつですね!
最近、覚えた言葉なので使ってみたかったんです^^;

お礼日時:2006/08/21 21:40

たとえば「ヘソを切り出してください」という宿題をもらったとします。


腹の真ん中にある”おへそ”です。

「ヘソ」をよくみてみてください。
皮膚に「此処から、此処までがヘソだ」と断言できる境界ってあるでしょうか?
皮膚がそうなら、内側の肉とか脂肪の部分なんて、もっと境界がないと想います。
よく探してみると(懐疑的)、ヘソなんて何処にも無いと気がつくんです。
でも、確かにへそはあります。

同様に、人差し指も探してみてください。
皮膚は全身に繋がっているし、血管も、筋肉も、骨も・・・全てが繋がっていて「此処から、此処までが人差し指だ」と断言できる境界なんてありませんよね。
でも、確かに人差し指はあります。

他にも「日本」を探してみてください。
日本中歩き回っても「これが日本だ」と断言できるものは、何処にもありません。
でも、確実に「日本」はあります。

「私」も探してみると、何処にも「これが私だ」と断言できる「私」なんて存在しません。
鼻が私でしょうか。
眼が私でしょうか。
それら全てが私でしょうか。
じゃあ「ご飯」を食べなかったら私は死んでしまうから、「ご飯」も私の一部と考えられないでしょうか。
「水」もそうです。
「気温」が100度になったら、私は死んでしまうから、太陽と地球の距離も「私」を構成している一部分と考えられないでしょうか・・・。

・・と、「私」なんて何処にもいないんです。
でも、私は、確かに存在します。

その唯一の存在証明が「我思う、故に我あり」です。
これ以外には、「私」は見つからなかったのです。
「ヘソ」も「人差し指」も「日本」も・・・この世の全てのものに、この理屈が当てはまります。


仏教では、これを「縁起」と言います。
私というのは、いろんなものが縁(よ)って起こっているという意味です。
難しくいうと、この世の全てのものは相互依存関係にあるのであって、それ自体が単独で存在している実体を持っているのではないという意味です。

「想う」・・・つまり「認識」が私の存在証明であったというデカルトの結論です。
仏教では認識する働きのことを「心」と言います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

9割ぐらい分かって1割ぐらい分かんない感じです。

お礼日時:2006/08/21 21:46

 自分と自我は同じ意味のものではありません。

ですが、それを一つの言葉で「我」と表したことで、「我思う、ゆえに我あり」となり、意味がわかりずらくなったのだとわかります。本来の書き方としては、「自分を思う、ゆえに自我あり」となります。
 意識において自分を認識することにより、自我は存在します。ですが、そのことを意識しなければ、自分がどこにいるかもはっきりせず、自我は存在しないに等しいものとなります。
 「我思う、ゆえに我あり」とは、自分を客観的に見ることにもなります。

 自分とは肉体ではなく、意識することで自分の存在がわかるのです。意識とは脳の働きでもありますが、脳自体が意識を持つのではありません。生命そのものが自分を存在させるのです。

 「自分を思う、ゆえに自我あり」の「自分」とは生命としての自分であり、「自我」とは肉体としての自分といえます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

伝統的なデカルト解釈からは外れているようですが、参考になりました。

お礼日時:2006/08/21 21:34

さらに突き詰めれば、


「思う」という脳の機能が「自分」そのものなんですね。
「機能」なので局在しないし、脳の中にすら発見できない筈です。
デカルトがそこまで言っているのかどうかはわかりませんが。
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この回答へのお礼

思うこと自体が自分なんですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/21 21:29

たまに、


『自分ってなんなんだろう。本当にいるのかな?』
って、思うことありません?
私はあります。
そんなとときにこの言葉を聞くと
『ああ、そんなこと考えること自体、私が思っていることなのだから存在する証拠だ!』
と、思うのです。

夢の中でも夢ではなくても
そう思うことがそうなのです。

たぶん、そういうことだと思うのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに考えることありますね。というか小学6年生の頃から考え始めてました。思えば、あれから性格も暗くなっていってしまったんだな~・・・。

そんなことを考えているということは存在しているということ・・・なんとなく分かってきた気がします。

お礼日時:2006/08/21 21:27

「疑っていると思っていることも夢かもしれない」と考えているもの(主体)が紛れもなく存在しているということです。

単純に言えば、あなたの精神が存在しているということを指している言葉です。
自分の存在は疑えないので、他の要素を排除して思考することから全てを発展させていくべきだということだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

考えている=精神が存在している、ということでしょうか。

お礼日時:2006/08/21 21:22

俺ってもしかして誰かの夢や想像の中の登場人物なのか?


いやいや、俺が俺のことを考えているんだから俺は存在している筈だ。

確かこんな感じだったと思うのですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

俺が俺のことを考えている→俺は存在している
という論理が良く分からないんですよね~・・・。

お礼日時:2006/08/21 21:21

大前提として問題意識を共有できないテーマというのはその人にとって必要のないことですから、実感としてダカラドウヨというのが共感できなくてもいいのかなと思います。



# 疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが

夢を見ているあなたという主体は確かにいる、ということになるんでしょうね。
我夢見る故に我在り、でもいいです。
私という主体は存在しないかもしれないという不安感を抱く人がいっぱいいるんです。全知全能の絶対神なんてのを信仰している社会では特にそういう不安が出てくると思います。
しかし個性豊かな八百万の神様だとかオリュンポスやヴェーダの神々なんかを信仰している社会では、原始的に個性というものありきですからそんな不安自体が生じ得ないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
分かったような分からなかったような感じです。
せっかく回答していただいたのに申し訳ございません。

お礼日時:2006/08/21 21:19

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Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q「我思う、故に我あり」ってどういう意味でしょうか。

「我思う、故に我あり」ってどういう意味でしょうか。教えていただければ嬉しいです。

Aベストアンサー

過去に哲学カテゴリーで同様の質問がありました。
私も回答しておりますが。
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1403309

ルネ・デカルトの「方法序説」(本当はもう少し長たらしい名前の本ですが)のなかのことばです。
確実なものを求めて、デカルトはとりあえずすべてを疑ってみます。ところが、その疑っているという思考、その思考の実在を疑うと何が何だか解らなくなります。矛盾ですね。というわけで疑っている。それは自分だ。つまり、疑う、という思い(考え、といった方が正確ですが)をもっている自分が実在することもまた疑えない。ということです。
数学的な、公理をまず立て、それから論理的に説明する、という方法を改めて(というのはギリシアの、未熟ではあってもある意味同じような思考があるから)つくりました。ギリシア時代と違い、社会の混乱、宗教の分裂の激しい時代において、生き抜くための思想の再構築、という話ですね。(それをさらに徹底したのがスピノザだといわれていますが)

参考URL:http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1403309

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ルネ・デカルトの「方法序説」(本当はもう少し長たらしい名前の本ですが)のなかのことばです。
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Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Qデカルトの身心二元論、わかりやすく教えて!

デカルトの身心二元論をわかりやすく説明してください。
特にわからないのは、
「物(身体)は延長を本質とし,心(精神)は非延長的な思考を本質とする」
という考え方です。ここでいう「延長」とはなんのことなんですか?
急ぎの用なので本を読む時間がありませんでした・・・
至急お願いします!!!!!m(._.;)m

Aベストアンサー

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広がりとか言ったりしますが、要するに、縦、横、高さ(3次元なので)
があることです。1つでも2つでもいいんですが。
でもどれもないってことは物体である以上ありえないですよね。
どれもないものは、だから精神なわけです。

延長というのは物体が空間の中に存在する以上、必然のことであり、
空間を一定の量占めて、そこにあるという存在の形式でもあります。
デカルトはこれを実体「物質」の属性(本質)とします。
これはスピノザやロックも受け継いでいきます。

分かってしまうと何でもないことなんです。少なくともデカルトにおいてのみ言うなら^^;
ただいかにも専門用語!といった感じなので戸惑われるかもしれません。

「方法序説」なんかは薄いし、肝心のところさえ読めばすぐです。
意外と分かりやすいので、気になるようでしたらご一読を。

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Q「わかりづらい」  と  「わかりずらい」

「わかりづらい」  と  「わかりずらい」
漢字にすると(判り辛い、解り辛い)なのかと思います。

「わかりづらい」が正しいとおもって使っていたのですが、
最近「わかりずらい」もよく目にします。

二者択一だったら皆様はどちらを使うべきですか?

アドバイスを頂きたいと思います。

Aベストアンサー

goo 辞書より

づら・い 【▽辛い】
(接尾)
〔形容詞型活用([文]ク づら・し)〕動詞の連用形に付いて、その動作をすることに困難を感ずる意を表す。…にくい。
「老眼で辞書が見―・い」「読み―・い本」「無愛想で話し―・い」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%C5%A4%E9%A4%A4&jn.x=24&jn.y=14&kind=jn&mode=0

ずらい
検索結果に該当するものが見当たりません。
キーワードを変更して再度検索をしてみてください。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%BA%A4%E9%A4%A4&jn.x=29&jn.y=11&kind=jn&mode=0

私は辛い(つらい)→づらい、と考えて「づらい」を使っています。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%C5%A4%E9%A4%A4&jn.x=24&jn.y=14&kind=jn&mode=0

goo 辞書より

づら・い 【▽辛い】
(接尾)
〔形容詞型活用([文]ク づら・し)〕動詞の連用形に付いて、その動作をすることに困難を感ずる意を表す。…にくい。
「老眼で辞書が見―・い」「読み―・い本」「無愛想で話し―・い」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%C5%A4%E9%A4%A4&jn.x=24&jn.y=14&kind=jn&mode=0

ずらい
検索結果に該当するものが見当たりません。
キーワードを変更して再度検索をしてみてください。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%BA%A4%E9%A4%A4&jn...続きを読む

Q国民の三大義務と三大権利について

むかしむかし中学で習ったのですが忘れてしまいました。三大義務と三大権利教えて下さい。ちなみに選挙権が入っているのはどちらでしたか?

Aベストアンサー

三大義務は勤労、納税、子供に教育を受けさせることで、三大権利は生存権、教育を受ける権利、参政権です。
選挙権は「権利」になります。(義務だったら、投票率があそこまで低くなることはないかと…)。

参考アドレスも掲載しておきます。

参考URL:http://www.city.miura.kanagawa.jp/index/download/007385;000001.pdf


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